Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

スズメのパン屋さん

2014-06-01 23:22:10 | ローカルな話題

 

今度のはメロンパンだぜ、最初から出せよな~ チィチィチィ
だよね、さっきのは、食パンの耳だったわね
はさみで切ったみたい、食べにくいよ、ここの奥様のやりかただよ
でもね、イギリス食パンとかいう、ちっとおいしいやつだったわ
「石窯パン工房パンセ」のかな?サービスのコーヒー飲むため、要らぬパン買ってるようだぜ
ま、いいじゃない、それで、お下がりくるんだから 生協のとこの30分フィットネスに通ってるようね
そ、そ、でも隣がパンセなんで、せっかく消費したカロリー以上のパンで、モトのモクアミね、
ま、あのひと、思い込みハゲシイからな・・・ピュアピュアピュア(笑)
自家製カレーの牛肉ゴロゴロカレーパン、あんなの来たらドーする、レーゾーコに余ってるみたい・・フルーツサンドの耳もよ・・・

ねえキミ、ごはんとパンとどっちが好き?
ぼくは、「ばーすでい」のクロワッサンだけど、きみは和食派のようだね
そうね、やっぱ五穀米かな、色がすこし赤っぽいのがいいわ・・・ごはんつぶでも和食の世界遺産なの? 
あれにラジウム卵かけて食ベてたわ、この家、わかんない人たちね・・・
どっちにしろ、残り物には福が!僕らには。ま、いいか、チュンチュン

お~い、今度はイチジクとクルミのパイをもみほぐしたやつだぜ、チィチィチィ
イチジクのとこネチャネチャ食べづらいけど、これって、なかなかイケルわ・・・
僕はいいや、じゃ、イチジクの木から見てるよ
おっと、カメラ撮ってるぜ、みんな近づかないで・・・

へたなカメラマンいなくなったようだな、どれ、ゆっくり食べようか、チィチィチィ
あなたたちは、地面におりちゃだめ、ラティスの上にいなさい
アイ、ママ、チィチィ、ピーチク、パーチク
アーンは? はいッ

犬はあぶなくないの?
あたしたちには興味ないみたい、ドッグフードチョロマカしても彼なんにも云わないのよ、紐もここまで届かないし・・・
あたしは冬の抜け毛ひろって、あかちゃんのふかふかベッドつくったわ・・・
それはよかったね、柴いぬのくせに芝をあらすので、人工芝にされちゃったようだなあ

さあ、顔ぐらいのでかいパン、テイクアウト、お持ち帰りね・・・パタパタパタ、フルパワーだ、それッ
ん? マヨネーズつきのこれ、モスの照り焼きチキンバーガーの残り?、 じゃフライ・スルー、タッチ&ゴー
(んなことあるわけないじゃない・・・、ヒマ人ウォッチャーめ、こっちはイッショケンメイなのよ・・・)

   

 

(ここのジジイ、きまぐれだけど、さいきんは毎朝パンとか、あまったもの小さくちぎっていっぱい撒いてくれるよ、3年経ってジジイもゲンちゃんも、ちょっとフケたわね。。。ブログの写真もすこし大きくなったみたいよ。。。

時々は、チャーハンの残りとか、おとといなんかヒジキ入ったお稲荷さん。それと、ごごみ、しどけ、コシアブラの天ぷらじゃない、やっぱ、春は山菜がいいよね、こっちは天かすみたいだけどね。でも、いつもパンばかりよりいいわ。ピッツア・マリゲリータやグラタン、スクランブルエッグなんかもいいわね、おやつにはバームクーヘンとか、ジジイ覚えといてね。なあに?きょうのこれって柏餅じゃない。それに秋保の「サイチ」のおはぎだわ、ネチネチでも食感がよろしゅうございますわね。ショーミ・キゲン大丈夫かしら?まあ、若い子は気にしすぎよ、何千年と、あたしたち、だいじょーぶだったんだから。ここのおにいちゃん、ジジイが南米チリだったかの何万年前の岩塩を自慢してたら「賞味期限切れじゃん」などと、言い放ったらしいわ。和食(?)系は、口元っていうかクチバシべとべとになっちゃうけど。そうそう、わかい子は店内っていうかお庭でお召しあがりみたいけど、顔ぐらいの大きなパンお持ち帰りのかたもいるわね。きっと、扶養家族が多いんだわさ、タイヘンね。せっかくのお持ち帰り、となりのサッカー場あたりで落としちゃったりしないでね。それより3年も経つと、あたしたち、孫の代に替っちゃったかしら??ヒヨドリさんやセキレイくんは許せるけど、超デカのカラスのやつ、あっちの屋根の上でねらてるの、こわいわ。ジジイ、追っ払ってよね。でも、ジジイ、ゲンちゃん、どっちもあてになんないなあ、ったく、もう。青葉まつりのすずめ踊り見に行くなら、こっちはほんまもん、ピョンピョンならいくらでも見せたげるわよ。 2017.5.19〜26 追記)

  

 

 

 

 

 

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仙台七夕図屏風

2013-08-07 22:25:56 | ローカルな話題

仙台の七夕は8月。あさ、仕事に向かう途中ついでに見物。人もまばらだから、この飾りはいいじゃないかと立ち止まってみることができるが、人もいないしあまり感興もわかないなあ・・・今日はドトールなどで道草を食わずに、JR仙台駅から青葉通りに出て、アーケードのある商店街パピナから、クリスロードを通ってみよう。東二番町大通りを渡ってマーブルロードまでいくと遅刻するから、ここで、やめ。県庁から上杉あたり、「大きな青い馬」ここは猫ちゃんグッズだね、このあたりには昔ながらの竹飾りが見えた。で、ここまでの竹飾りをクリスロード中心に、アップロードしよう。

七夕なぞあまりじっくり観たこともなかったから、絵葉書ふうに、七夕図屏風としてならべてみるか。アーケード街では太い孟宗竹が見当たらないな、張ったロープから申し訳程度の竹筒をくっつけてぶら下げている。平和への祈り、震災復興への願い、はなァ~は花は・・・、昔の由緒ある町名をかいたもの、和紙で芸術表現・これはマキコ風・・・、眼鏡屋さんのは視力検査表ついてたり、見えるかな?・・・いろいろあるものだ。久しぶりに読み始めた朝日新聞もだいぶカラフルになったようだが、他の記事のはカラーなのに、なんと七夕の写真だけはモノクロ、バカじゃないか「いぐねッ!」と思ったのでこちらはカラフルにしてみた、「いいっちゃ!」

                                           

 

 

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マーブルロード、一番町も通らないと、どうも申し訳ない気がして8日は東二番町大通りを渡った。こちらは、少し白っぽい飾りが多い、赤も疲れたので青や緑を選んで見た。オールグリーン何本かの森の精みたいなのが、デパート藤崎前の角。60年近く前ここでアイスを食べた、この場所だ。「仙台七夕の青空」もういい、あんな青空はこない・・・(2013.8.8) 

                    

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立春大吉

2013-02-03 20:22:52 | ローカルな話題

 

今日は節分、明日2月4日は立春。そろそろ冬眠から覚めるか。「立春大吉」、母方のお爺さんの名は春吉。鉄砲、菊作り、椎茸づくり、将棋、競馬にパチンコ・・・小学1年のときの遠足の付き添いはこのおじいちゃんだった。初めて見たアメリカのキャラメル。急に現れた孫なのに、ずいぶんと面倒をみて可愛がってもらった。五右衛門風呂や熊の敷物もあったなあ。もう半世紀もたったかと、紫モクレンの木を眺めながら思う、枝には小鳥に呉れてやる干し柿だらけ、ツグミやメジロ、雀達、豪快に食べる奴はヒヨドリ。まあ小鳥さんに喜んでもらえれば、それでいいんだ。
   

女房はまたもいない、おばあちゃんは先週再々入院、小脳に転移、足腰立たず、この数ヶ月はドキドキの日々、ねこのたすけも大晦日などは大ピンチ。みな、心まではガンにならないよーとがんばってくれているのだが・・・

そして先週、びっくりしたのが、高校バレーの監督だった邦坊こと、早坂邦三郎先生のことであった。ここにアップしておくのはさしさわりも多いのだろうが、仲間うちのメール、どこまで行ったか・・・。体育会系でもこういう監督も居るのだなあ・・・と。尻位はたたかれたかもという主将だった佐々木といっしょに先生の病室でなんと16歳の僕等に再会したのだ。ほんの気持ちのお見舞いを手に握らせたら、すっかり小さくなった体でも先生の手は大きかった。食べられれば、大丈夫なのに。その後に行った2級下の優勝世代の櫻田には、「治って退院するんだ」と云っていたということで・・・、立春大吉だよ、せんせい。

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みなさまへ

佐竹でした。うかつにも早坂先生のご不調気づかず、本日御見舞いに行って参りました。

「先週、陳に定期で診て貰った時、邦坊はもう2ヶ月もXX病院に入院、あす療養病棟のあるXXX病院に転院すると聞かされた。・・・」
「年賀状の返事ないし、どうしたかと思ってたよ、あそこはウチで工事(内装)したから、場所も解ってる」

ということで、(1月)29日午後は休みを取り、佐々木支店長殿は外廻り営業なので彼の伝票でたらふく食べたあと、早坂先生の見舞いに行きました。加賀谷がXXの方に行ったときは、こっからは歩いても帰れるよなどと言ってまだまだ元気だったらしいのですが。

宮城県K郡XXX、XXX病院XX号室。

「せんせい、ぐーぐう寝てるぜ。こまったなあ、すこし待ってるか・・・」
「午餐の後は、患者は昼寝だよ・・・」
「おい、2ヶ月食べてないんだぜ・・。」
ちょうどよいぐあいに、看護師がシモの世話に出入りした。
「せんせーっ!」
「佐々木と来ました、成広さんのときは、あんなにげんきだったのに、食べれるといいのにね」(11月17日夜、成広さんが来仙され吉野さんの肝煎りで懇親会。早坂先生は特に成広さんに久しぶりに会った喜びを帰宅後午前2時過ぎまで奥様に話をされていたとか。吉野さんからいただいた写真も貼付しときます)
先生、入れ歯はずして、鼻あたりに管も付いてるから、眼でうなずくばかり。
「・・・」

おっと、サイドテーブルにりっぱな写真入れが2枚立てかけてある。裏には陳の署名入り。
「総体優勝のあとでの記念写真だ、郡山、都竹までいるなあ・・」と佐々木。
「せんせい、本郷さんが優勝カップかかえてますね、エンジ色のユニフォーム、4番水戸さん、あっ、水戸さんも心配してましたよ。5番、星、1番樋渡さん・・・陳だけがエンジ色で17番、佐々木以下、白い一高の体操着じゃねーか、」
「これ金子、駒板これだよ」

先生はどこに誰が写ってるか、ぜんぶわかっているようでした。もう1枚は40数年後の秋保、僕等の還暦祝いにきてくれたときのもので本日の二人はこの時さぼったので写っていません、すみませぬ。
「ぼくらで、さいしょのレギュラーは陳だったのかな」
「んだ・・・」先生、少し声が出た。

「むすこさんたちも立派になられて・・・」
「まさし、は・・、一週、間ごとに、来んの・・・」
「受験期だから暇か忙しいのか、ぼくら大学教授なんて誰もなれなかったから・・・」
「ん~ん、あんだ、だぢの、おかげ、だ・・・」
先生は、16、7歳の僕等も、還暦後の皆も来て呉れてるかというふうに、写真に向かっていいました。

もう。書けません。

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ずっとお世話をしている吉野さんや、陳には「誰にも云うな」と先生は口止めしてたらしいが、このところメールが行き交ってそろそろ皆さん、様子を見に行っている様だ。去年のあの日、平成24年11月17日夜は、ニコニコして何十年振りかであった成広先輩を囲む会にきてくれたのだ。先生、いつものようにすぐメモしておかないですみません、こんな感じだったね・・・あれっ、写ってるひとたち、先生含めてみなドクター江川(陳)の患者じゃないか!隣の調剤薬局で見せたら、奥さん、あれまっ!言っちゃいけないんだけど、大内先生は?ムスメ、一女だったの。早坂先生の奥様はこの前いらしたとき元気なかったわよ・・・

・・・
「成広さんは、どんなことされてたの?」
「くるまのフロントガラスには薄い膜が入ってるのよ、あれにかかわったり・・・、くるまといえば先生黄色いミニカに乗っておられましたね。」
 「うんうん・・・」
「僕は、あれとか、マツダのキャロルとかをずいぶん磨かされました~」(のり坊、余計な事ばかり言う・・・)
何十年とやって来た専門の仕事というものは、人には、とくにネットなんかでは言えないことばかり。

「岡山の後楽園での成広さんの結婚式に、先生と行ったのよ」と星さん。「東北の民謡を一つと請われて、先生おれに振って寄越すんだっちゃ、冷や汗かいて、さんさ時雨うたった」
星さんは関西に居た玉造さんのとこか二人で成広さんのとこか、居候したこともあったらしい。「行ってらっしゃーい、とか云って、こっちは京都で遊んでんのよ。・・・」
いつだったかも、陶器にはまった邦坊先生は常滑か瀬戸の粘土を求めて名古屋に現れ玉造さんがお出迎え、このときはおみやげを山ほど持っていったようだ。「一高前の佐々源せんべいだ、なつかしいべ、食え・・・」みな割れている?、・・・お気持ちだけでも。

この日の主賓は、成広先輩だったから、先生は始終ニコニコ、口数は少ない。それでも、
「成広は、栄養失調かと思ってな・・・」
「寮にいたから、あまりいいもの喰ってなかったかも」と、成広さん。
お父上が当時宮城県北の細倉鉱山にいらしたから、成広さんは、仙台の寮から一高に通われていた。当時の寮の仲間の集まりがあって来仙され、それで今日の集まりとなったのだが、こちらの皆にも京名物を持って来てくれる律義な方だ。バレーは高校からはじめあんなに小さい体で一生懸命、主将もつとめられベスト4。同期には電気自動車の権威清水さん、いま、郡山の大学で先生している壮吉つぁん。
「ぼくは、55できっぱり仕事やめました・・・』
「あれっ?、せんぱい、わし、ってもう言わないの?」
中国地方のうまれの成広さんは、わかきころの言葉では自分のことを「わしは・・・」だったのだ。
「成広さん、仙台に会社のチーム連れて来られた時ありましたね、大学病院の向いの旅館にレモンかなんか差し入れにいったなあ」
「実業団の9人制の大会だったよ、よくおぼえているね」
あの旅館は、( × )⇨⇨ )×(  ユニクロのXLも着れる様になったわと大はしゃぎの森公美子嬢のご実家だったはず。
「さたけクン、専門はなんだっけ?」
「専門と云っても、親爺死んで大学行けなかったし・・・、ソフトウエアなんかやってました・・・」
「ソフトねえ、なんか難しそうだが、結局は、読み/書き/そろばんだよ。いま、ぼく、もういちど、それやってる・・・」
成広さん、追いまくられる気がするとケータイも持たないので、この夜も一球会会長吉野先輩が連絡役。バイタリティの権化みたいな白髪会長は先生の入転院もずっと世話されている。

さて、会長の一級下の成広先輩、高校大学と仙台ですごされたので(幸か不幸か!?)始終邦坊先生と顔をつきあわて、たまには飯も食わせてもらったはず。ぼくらの代には、コーチとして来てくれていた。
「佐々木がブロック飛んだ時、腕が顔にぶつかって白い玉がポロッと出たから、目玉飛び出したかとびっくりしたよ」
「あはは、痰だったんですね、まあ、大事とって阿部前監督のいた安田病院にかつぎこんで、一晩入院させたっけ・・・」
先生のお宅に挨拶して旅立ち、その後40数年、立派なお顔(吉野会長の報告メールへの清水教授感想 RE:成広君とは長い間会っていませんでしたが、立派な紳士の風貌ですね・・・)で、いま再会できた。男の顔は履歴書。

先生は二次会の後帰宅されてから奥様に成広さんのことをえんえんと・・・朝方トイレで頭を少し打って、どうも肺炎気味と入院・・・ぶりかえし一進一退・・・これは、ずっと先生を支えている吉野さんが皆にメールしてくれた情報。吉野さんは成広さんの同期の壮吉つぁんにも、来れないかとお声をかけていたようで、ポパイみたいな体格に似合わず実に配慮が細やか、OB一球会会長。
「ジャンプの筋力付ける為に、卓球台や体育館の舞台にまで飛び乗る練習してたのよ、そしたら山形も何を思ったか真似して、失敗して弁慶の泣き所をしたたか打って皮がベロリ、泣いてたよ・・・肩の上に相手を乗せてスクワットをするのもやってたが、荒井さんの同期の小柄な高倉さんと組むとシメタと思った、たいへんだったはずの高倉先輩のほうは弱音を吐かなかったですね・・・」

(そういえば、一年生は冬直前のころ、邦坊に黒松か北根あたりの<俺のシャデコーのとこだという>鉄工場に連れて行かれ、エンジンオイルの缶にコンクリを詰めて鉄棒を入れてバーベルを作らされたっけ。缶の大きさがまちまちなので、大きなのが出来たときは、これをかつぐのに当たればたいへんだなあ~と思った。さだげ、バレーボール誌の全日本女子の体力測定のデータとウチのメンバーのと比べろとも仰せつかった。このヒョージュン・ヘンサ、つうのまでちゃんと出せえと言うから、せんせ、わかんのかいなとナマイキにも思ったことを白状しておく。速攻のためのボール廻しやポジション取りの絵は、監督ともども、どれほど書いたり皆で検討したことか、いまにして思えば、どれもこれもよかったことだった・・・ただ練習時間だけは、やたらと長過ぎたかなあ!?これは理不尽、これじゃ勉強出来ないなどとどの年代でも半分以上は退部してしまった。これもいまにして思えば、行き来も途絶えた彼等といまだに半世紀前の悪友と遊んで居る我々と、どれほどの差がついたのだろうか?やめていった連中のほうに運動能力の高いのが多かった。さだげ、引き止める子の順番が違うだろ、監督に言われたこともある。だが、2年下櫻田の代は他に行けば球拾いレベルの体格で優勝したのだ、彼等の努力を伝え聞けばあれは奇跡でもなんでもなかったろう・・・邦坊は確信していたのか想定外だったのか・・・誰か答えよ)

成広先輩、恐縮されているようですがそうではないですよ~、元気なときお会いできてほんとによかった。春が来たから、せんせい持ち直すことを祈る。だいだいが、そーっといなくなるような人じゃないんだ、あのひとは・・・ひたむきなレギュラーだった吉野会長、ホームドクタ両氏は「誰にも云うな」を素直に受け止めたようだが、マネージャだったのり坊氏の解釈では「たいくつだし淋しいから、みんなに早くうまく云ってくれや・・・」だなあ。

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(2013.2.4追記:おおっと、同期の早坂栄ちゃんからも先生の様子が来てたので、かってに転記させてもらうよ~)

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【早坂です】
土曜日のお昼、先生のお見舞いに行ってきました。
部屋はYYY号に変わりました。
お休みのところでしたがやはり「センセーーエ」と起こしてしまいました。
 
考えてみると先生には、お世話になりましたね、と話しかけると、しばしのあと、
「・・・勝手に、一人で、走ってきたような気がしてます」
「??!!。そんなことないすよ。いやそうかもしれないけど、みんなついて行ったし、みんな今、感謝してるしー」
ちょっと,あせりました。
 
この冬は寒くて雪もおおいけれど、今日は暖かくて、春が近いかなあ、とつぶやいたら、
「春まで、頑張ります。また、”復活”します」
そうあってほしい、と本当に思いました。
 
帰りに寄った近くのビュッフェスタイル「千萩庵」では、「食えることのしあわせ」を思い、先生には申し訳ないと感じました。
( もしかしたら佐々木と佐竹、先週あそこによったんじゃないの。) 

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(2013.3、29追記:2月下旬2.24、こまいた君が東京から見舞いに来たが、同期の連中で先生の枕元で遊んでいた、としか思われない光景。このころは、せんせい、もう3ヶ月も飲まず喰わずだったというのに。)

  2013.2.24
 
 
 
それが、先生の決意表明どおり、櫻の花とともにみごとよくなって来たのだ! 3セット目、マッチポイントを握られてから粘ってヂュースに持ち込んだ、これは逆転勝ちだね~。一球会吉野会長からのメールをかってに記録にとどめて置こう。
 
   2013.3.28
 
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件名: Fw: 邦坊復活か!
皆様へ

昨年11月18日に早坂先生が誤嚥性肺炎を患い緊急入院して以来、肺炎が治まったのちに経口摂食が困難となり
消化臓器に管を挿入して直接栄養摂取による入院闘病中で、経口摂取までの回復が困難な状況と思われておりました。
しかし約1ヶ月ほど前から驚異的な回復をされて、経口の栄養補給が可能となり、今後は介護付きの老人ホームに
転院も検討されているようです。
このような回復を御家族が何よりも喜ばれて、多くの一高OBの見舞いに感謝されまして快気祝い(?)として
皆様個々にお礼される代わりに一球会宛に五万円の御寄付を頂きました。
お見舞いに行っていただきました皆様には私から御寄付の報告と佐竹さんからの近況報告を転送させて頂きました。

  吉野より

-----Original Message----- From: 佐竹 則和

みなさまへ

さたけでした。昨日義母の納骨済ませてぐったりしたので本日は会社をさぼっていたところ、早坂先生奥様名義の病状報告お手紙が頂
き、見れば、
おおっ、先生、食べれるじゃないかと、いろいろ食べ物かきあつめて様子窺いに行って参りました。
フルーツゼリー等はいいようだが、気仙沼のさんまかんづめや海苔の佃煮などはまだちと無理か。生ものは置いてっちゃ駄目よ(看護
婦の言)。
三食おかゆらしいけど、昨日の食事状況、早坂邦三郎=<全><全><全>となっていたから、こりゃ完食ということですな、たいし
たもんだ。
数時間毎に、右横臥、左横臥、座位・・・と体位?を変えて、リハビリ中でもありました。
食事復活だからか、表情も良化、顔色もつやつやして来られたようでした。たいしたものですねえ・・・

「おお、いいカメラだな、いぐらだ?」
「2万ちょっとで手に入れました。ちょっと重いかな、軽いレンズつければね・・・」
「おれも、欲しいなあ・・・」
「せんせいは、仙高バスケでは、何回優勝したの?」
「10回!」
「コーチは、あれ、松島町長の・・・」
「おおはしツ!」
頭も、クリーンになっておりまするぞ、奥様からのお手紙読んでさしあげましたが、
「おい、疲れた・・・」
このあとは、おねえさん看護婦にすごいかっこうで抱かれてともにベッドに倒れ込みました!!
(2013/3/28記)
 
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お魚を釣ればぁ・・・

2012-07-16 10:15:02 | ローカルな話題

おや、明るい、もう朝の5時じゃないか。夕飯も食わずに寝てしまった12時間。ちょっとひと眠りのはずだったんだがなあ。風呂にもはいっていない、さかな臭いぜ。釣った魚さばいて、何匹かは一夜干し、刺身はすこしだけ残してあとは全部おじいちゃんに持ってけ、とか言ったまでは覚えているが・・・

女川湾北のほう出島廻りは岬と島に囲まれている内湾だから静かな海。だが、すぐ3、40Mの深さになる好漁場だからアイナメやカレイの大物ばかりで6月末は40、50センチがぞろぞろだったとか。佐藤先輩連れてってよと頼んで、きのう15日の船釣りとなった。先輩というのは、高校/元茶畑の2年上。センパイ前日はKOグリークラブ同窓会で銀座で飲んで、石巻を見たいと云う仲間を仙台に連れて来て家に泊まらせたとか・・・まだ酒臭い・・・よくやるよ。

 

最初は小物ちょぼちょぼ、片天一本じゃな、コレやるから、と船頭見かねて・・・このへんは両天秤で14号針の仕掛け。どれ先輩の後ろ姿も撮っておくか、と竿を置いて遊んでいたらボクにも大きいのが釣れていた



竿頭となった浅野さん、ドンドン上げる、おやタナゴだ、アイナメ、マコガレイ、ナメタ、ハモで五目達成!?町内のケーブルテレビ理事長さんなのであった。このボラ/自主運営組合の集まりで先週飲んでいたら、このときも万事セッティングしてくれた佐藤先輩、じゃあ知り合いの船でやるかと、議案はなかなか決まらないが、こういうのは即決になったのだった。もう一人はのこぎり屋さん?あわや徹マン寸前で殆ど寝てないお方、おつきあいもたいへんね~、さらなるもうひとり餌係のはずが日にちを間違えて現われず!、まあ皆年の功で、釣果も含めて帳尻はあうのだ。
 
女川の港町は昨年の大津波で壊滅、港まわりも下の土地はもう何も残っていない。まだがれきがうずたかく積み上げられている。きょうの船頭Kさんも浮きドックに捕まってやっと助かり隣のおばあさんが家ごと流されるの見てもどうしようもなかった、船は1隻だけ残ったと。ホヤ?今年やっとつけれたから来年にならないと・・・、この日は女川の先の浜、尾浦から出た。牡蠣棚廻りは海底を漁師さんたちが奇麗にした様だ、たいへんだったろう。樹木の上の方には黄色やオレンジ色の浮玉がいくつもぶら下がっている・・・。民宿に泊まって5時頃船出、餌はチュープのようなエラコが昔からあのへんでの釣り遊びであった。いま民宿商売どころかご自分の家すら無くなってしまったのだ・・・おお、でもウニ漁の舟が元気よく帰って来た。魚は一杯いるんだから、みんなもっと釣り舟使ってあげて、お魚を釣ればぁ・・・

そうだ、海の日の今日は午後から、第65回塩竈みなと祭 −本祭− 。いい天気だし、神輿海上渡御、陸上パレードやら見に行くか。町内テレビで流してやろう。(と、思ったのに電池の合わない?カメラ、メモリスティック見つからず?撮影はやーめた、マリネットのオネーチャンは来てたなあ、ま、あっちはショーバイ。ついてゆく漁船の数が少なくなった感じ。最後尾から追い上げるヤツなんかが面白かったのだけど・・・夕方/16:15追記)

     

 

 

 

 

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一球会60周年記念祝賀会

2011-10-23 19:37:09 | ローカルな話題

2011年10月22日、一球会60周年記念祝賀会、これが何かというと仙台一高バレー部のOB会であった。旧制中学から続く母校は創立118年、バレー部(排球部ともいった)が出来て75年、OB会が結成されて60年という。後輩バックアップと同窓懇親のOB会も還暦を迎えたわけだ。本日の出席者はゲストの元・現監督4名、会員のOBで総勢60名。OB会どころか出席者の3/4は既に自らも還暦を越えた。

この学校では勉強もしているように見えないのにものすごい秀才もままいたが、学都仙台には東北大はじめ大学も多くあるので悠然と3年間正確には夏の総合体育大会&インターハイまでの2年半は、体育会系部に属してクタクタになるまで運動ばかりしてる生徒も多かった。文武両道の要領がよければ現役、悪くとも鍛えた体力で一(、二..N)浪して晴れて大学生になるや、後輩どもを教え導きしごいて恩返しとの使命感をもってクレーのバレーコート2面、少し後には体育館に現れるのであった。だから最低でも卒業年次の前後、4(先輩がコーチ)+3(在校)+4(後輩をコーチ)=11年間の面々は、その時代の経験を共にして一生の友人になってしまうのだ。

安田病院の阿部監督のころまでは、こういう若き先輩方の熱意溢れすぎる見守りのなか、古川なにするものぞの刷り込みとヘトヘトになるまでの練習の伝統が受け継がれたものだったが、昭和39年に日体大全国レベルの早坂監督・邦坊の出現でバレーの指導はOBたちの手から、彼のいうところの“近代バレー”の実質的君主専制へと様変わりし、優秀な頭脳を持つ子ほど理解しにくいこれまた延々時間をかけた夜中まで練習の日々となったのであった。要するに先輩が見守る排球部でもニチボー貝塚以後の邦坊のいう“近代バレー”ボール部でも、わけがわからぬまま
ヘトヘトになることはなんら変わりがないのであった。のり坊も1年のころまでは、鴫原さんやクレーコートのベンチで後輩を前に堂々パンツを履き替える慶応の義憲さん、碁の名人?峰岸さん、山田さん、丸太ん棒のような腕の千田さん・・・、ときに怖い精神的説諭を長々と聞く(ふりをした?)のであったが、遠慮がちにみえた邦坊監督もよくいえばチャレンジャブル、どうかすればワイルドなその本性を現すや次第に若き先輩方の関わり方も変わっていった。

邦坊の着任と入れ替りに卒業して行った24連勝世代の村田、荒井、太田、高倉、大泉先輩、すぐ下の杉、山形、吉野先輩たちはトンペイならしょっちゅう、或は帰省中なら当然のごとくコーチに来いやとOBチームが作れるほどに、春夏合宿にまでぜひおいでと、こうして自発的な献身をもって(自重献身がわが校訓だから)、あるいは有無を言わせぬ
坊の勅命を受けた佐竹の自宅までの押し掛け呼出しをもって、練習に始終おつきあいしていただくハメになった。そうしてそのおかげでまたまた黄金期はやって来た。しかしここに、OB会の大先輩方と大監督方との微妙な力学というか、せつなくも思想の全き相違があるらしいのだが、あれはあれでよかったかと、あるいはもういいやと納得するのに、皆様方ご一同はそのご数十年を要した。

そしていま、噂に聞く名物先輩の実物までをOB会で知り敬い、コノヤロと思っていた同級生とはヨウ!と時間が吹っ飛び、気になる優秀な後輩たちはやはりみな偉くなったか、と毎年毎年感慨をあらたにするのが習わしとなるのであった。やる時は徹底してやって目標ならば優勝せねばならぬ、同級の加賀谷・高20などは(卒業後40年以上経過しても!)後輩を育て勝たせるために、県庁幹部リタイア後再々度また母校のコーチをはじめたのだ、なんというやつだ。のり坊も疑問を抱きつつもやるだけやった。毎日夜体育館の鍵を締めると学校ではいつも最後に帰る生徒だったのである。思えば同期で入部しても最後までバレー部で卒業したのは半分以下であった。

体格、運動能力ともやめて行った連中の方が上であったろう。でもボクのクラス180センチが誰もいないちびチームで速い球回しのライト攻撃の速攻バレーを陳・江川とみんなで宮城県から切り開いたのだ。

あのときの経験と記憶と人のつながりでその後のそれぞれ全く別の人生ではあったが、やってこれた。仕事上の現役などはあっという間であった、経営者にまでなったひと以外は(!)。大内・高21回などなんと当時あこがれの的の一女高校長までやってのけた。(でももう男の子も在学していて残念でしたね~)しごかれたあの頃の3年間などその後の実社会でいえばわずか一任期の短い時間であったが、若き濃密な日々のことは一生の宝でずっと心の奥にしみつき、何でも突破できるじゃないかという元気のもとになった。バレーばっかり、いつ勉強するのかとどこの親も怒っていたのものだが、学業成績はともかくバレーばっかりで卒業し戦績は残したクラスと人間のほうが、その後の人生の成功というか出世というか収入というか面倒見のよさというのか、ともかくそれらと密接な相関関係があることがわがOB会では証明されている。しかし皆紳士で大人なのでこのような真理は話題になることはなく、過去現在未来と数十年にわたる与太話が続き、時に半世紀たって知るあのひとのあの頑張りに感動を覚えることがいつものことなのだ。



さて本日参集のOB会出場メンバーは現役の頃こんなすばらしい結果を出した時期にいたのであった。宮城県は60校近く、なまじっかなことでは古川勢に勝てない、伝統を汚さないためには準決勝までは負けられない、僕らはそう思ったが、やっぱり一番じゃないとダメなのだ。今年は、「あたまを空っぽにして、ひたすら物事に打ち込む、優勝してこそ価値がある、頭でやるバレーだ・自主性だ!」と当時から健気に思って非力なメンバでよもやの奇跡をやってのけた内海たち昭和44年(高22)が還暦を迎えた。

昭和36年(高14):ベスト4
昭和37年(高15):準優勝、インターハイ出場
昭和38年(高16):優勝、インターハイ出場逃す
昭和39年(高17):ベスト4
昭和40年(高18):ベスト4
昭和41年(高19):優勝、インターハイ出場
昭和42年(高20):ベスト4
昭和43年(高21):準優勝
昭和44年(高22):優勝、インターハイ出場
昭和46年(高24):ベスト4
昭和48(高26)、52(高30)、53年(高31):ベスト4

=========

主審ピー: ゲーム開始(以下、申し訳ない、敬略、記載漏れ多々)

杉下会長・高6回:OB会できて何年かは定かではないのだが、平成12年ゴーインに50周年ということでやった、あれがOB会の再スタート。今回も千田君、阿部元監督はじめ皆さんのお力で60年記念になった。5月の一、二高定期戦後の総会と現役諸君の激励も今年は震災のため本日になった。


大宮・高7回:現役諸君自己紹介せよ~、激励する!

 現役諸君に今年度分のカンパあげるね、ちょっと少ないけどインターハイに行く時はドカーンとあげるからな。
 おお現役は高66回あたりか・・・
 わがバレー部はじまって以来の女子部員3名、たかはし・ゆりさんから、阿部大監督に花束を贈呈!!
 なお君たちには下でホテル特製のカレーライスを用意してあげた・・・では、がんばってくれたまえ~



乾杯!

懇談・放談・雑談・奇談・決断 から 聞き取れたことだけ、一部は想像で、順番、内容は定かでない・・・

玉造・高10回:みなさんに、「一球会60周年記念ー思い出のアルバム」DVDを作ってあげたよ。初の福井インターハイ出場の8ミリ動画から東京一球会の盛況まで、今日は特にお見せしよう。1枚1000円以上いくらでもいいから出してもってゆきなさい。

杉原・高15回 : 今,山口大学にいる。もう一人これなかったから学年ではひとりできりですまない。ちょっと遠かったがいい集まりだなあ。

村田・高16回 : 東京一球会メンバ起立、25、6人きてるかな。東京一球会会長をやっているが、こっちの方も今度は副会長をということなので、これは吉野のために尽くすかと。仙台本部の一球会が東京に負けるようじゃサマにならないよ、東京からも吉野を支えて盛り立てるから仙台もがんばれよ、サポートするから全体で繁栄しよう。私の代のとき9人制から6人制に代わった。最後の9人制でインターハイに行き、初の6人制では総体優勝したこと、ちょっとだけつけくわえておきますね~。

庄子・高14回 :3月の大震災で仙台港近くのわが社は壊滅,頭が真っ白になった。すぐさま(髪の真っ白な)吉野君がガソリン入りの車を持って駆けつけて来てくれた、それで直後はあちこち回ってなんとか対応できた。まだまだ復興は道のりは遠いが俺はやるよ。

阿部元監督 :仙台工専のバレーのクラブチーム、そ、そう、杜友会だっけ、をやってて、バレーコート借りたくて同窓でもない私が一高のバレーとかかわったのだよ。教えてみるとすぐ理解するので感心した、先生と生徒の関係も実にリベラルで、ここにいると居心地もよかった。私は先生と言われたりするけど、先生なんかじゃないんだぜ・・・

早坂邦三郎先生は兄弟子なのだ、じつは。家が隣だった早坂少年は元気すぎて曹洞宗のお寺に修行させられていた事があったよ。お経読まされていたが、口パクばっかりで道元のことなんか・・・しかし彼はガマ女を鍛え(全国ベスト8まで持ってった)、私の後の一高バレー監督やってくれたのだがよく育ててくれた、もっとも私は理論家だったが彼のは見て覚えろだろ、彼も賢夫人あっての・・・(ま、ま、監督、このへんで・・・)

(阿部監督時代にバレー部副部長だった鈴木衛先生は監督に、生徒をいつもかわいがってくれるのが良い、と言われたそうでたいへんに嬉しかったと。我々のころは部長はこれまた優しい飯村先生に代わられていたが、仙南の村田高校での夏の合宿に鈴木衛先生は顔を出され、ニコニコしながら言われた。さっき、フェンシング部がインターハイで全国優勝したよ!こっちはそれどころじゃなかった、みなに便所の水飲ませるな,金子なんか特に見張ってろ!と邦坊の厳命。金子は佐竹の絆創膏でユニフォームに張ったMマーク(マネージャ印)を見ていつも、おいマタンキ!と呼んでくれたものだ、そんな彼も今や東京一球会の幹事長で皆の面倒をこまめに見るというから、大いなる人間的成長を遂げたようで目出度い、いまごろ俺の苦労がわかったか!

さて、さらには、小形昭先生は一高バレー部長としてバレー部と一球会の立上り時期をずっと支えられたという。先生は早坂先生と日体の同期で専門は陸上でバレーはシロートだったが審判資格を取り、我々の試合どころか国際試合の笛も吹かれた。我々の頃は二女高の監督で一高バレー部ですというと何故か優しく、それでなくともあの連坊の校舎に入り込むのはじつに楽しいことであった。: のり坊独り言)


早坂元監督 : 私、まだまだ長生きしますからよろしくね。今日はみなさんありがとう。

星・高19回:こういう会の運営はななかむずかしい、きょうはですねえ、早坂先生にはじめて一球会に参加していただいた、私は幸せものです。み、み、みなさん、飲んでていいから,耳だけはセンパイがたのお話聞いてやってくださいよお~

渡辺剛吉元監督 : 私はみなさんの宿敵、二高の監督からこっちにきてね、でも一高のバレー監督としては一番長く勤めさせていただいた。・・

(坂本・高30回が昨年11月20日に、高30回から39回まで、この間のコーチもふくめ総勢20名「剛吉先生を囲む会」をやってくれていた。エライ!あれっ、坂本はあの辺りの週に、高21回の大内、郡山などの還暦祝いにも来てくれたから、ますます感心。この日は加賀谷も出て、高22回以降はOB会とも疎遠であって、特に30回以後の若者!と縁を繋ぎたい、これからの一球会を支えてくれと言ったようだ。前・後期高齢者中心では先細り、孫のような現役の指導なんかとてもとても、であるから遠藤昇・高28、坂本・高30回よ、自宅に体育館まで建てたという剛吉先生を大事にしながら、がんばっぺ!去年は平成の世になって初めてベスト8までいったようだ、もう一息だ)

水戸,石川、本郷・高19回 :ここで勝ったんだよなあ、あの日。総体は決勝が月曜にずれこんだんだ、だからいっぱいいたのよ(水戸)。紺のセータ胸に赤くMG、いまでもあれか?可愛かったねえ(本郷)なあに俺でなく,水戸を見に来たのよ(石川)。

(家の近くの二高を蹴って連坊/茶畑に通う水戸先輩は端正なマスクで長身のバレー部エース、仙台市電に乗り合わせる宮城学院、一女、二女高生の憧れの的であった。とはいえ先輩は母一人子一人の境遇だからたいへんだったろう。

昭和41年6月6日、東二番町、宮城学院の体育館の2階回廊は、MGの女高生で鈴なりであった。早坂監督、邦坊は試合のベンチではもはや観念してニコニコしかしない不思議な練習だけの鬼だ。のり坊はベンチでスコアブック係だから、いつも本番の試合ばかりだといいなあと思っていた。1セットは失ったが、古高は練習試合でどうしても勝ち越せなかった山形東ほどではなかった、そして優勝、よかった。その後のインターハイ2次予選も全勝で,仮想敵の練習台だった僕ら2年生も報われて八戸のインターハイに連れて行ってもらい、本戦は3回戦まで突破した。この先輩たちはそれ以上勝つ気は無かった、勝てる試合を最後のセットは0点で終わらせた、やるだけやったからだった。2年でコートに入った陳=江川・高20回の驚異的なレシーブなどとバレーボール誌に書かれ、遠征費捻出でOBへ寄付集めに走り回ったというのに。

あの日の宮城学院の体育館のあった場所が、今日の会場/仙台国際ホテルなのだった。)

千田・高12回 : 平成13年宮城国体事務局長のときは一球会先輩、同期からお世話になったりと、公私ともどものおつきあいも多かった。お互い年を重ねても,先輩からは呼び捨て、同期以下はこれまた呼び捨て、という関係に身を置くことの心地よさは何事にもかえられない。

吉野新会長・高17回:いい思い出を持ってる我々の下の後輩が楽しく語れるような集まりにしたいですね。きょうは30~40回生も8名きてくれている。我々の経験を繋いで行く役割がある、一球会そのものも新しい尺度でさらに盛大な組織にしていこうじゃないか。強かったバレーの思い出だけでなく,現役を強くするのがいまの責務だとおもう。キンタマ有りますというだけで使い方わからぬじゃだめなんだ。ならば教えてやらなくちゃ。こっちはケーケン豊富なんだし、まだまだやってあげられる。
さて、この60周年記念祝賀会は3月12日にやるはずだったが、なんと前日にあの3.11の大震災、どうやって皆に延期の連絡取るかもたいへんだった。これからは運営も新しく、連絡や情報発信の新しい仕組みもつくんないといけません、分からぬ人は子どもや孫にでも聞いてや・・・

では一本締めだな、いっぽんだよ、 ヨーオッ、 バシッ!

副審・加賀谷:ピーピー: 校歌歌って、第1セット終わりまーす、第2セットは・・・(明日、西仙台ゴルフもあるんでしょ)

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(カメラも映像もおかしいけど、校歌の2番だけかろうじて・・・トップにあげた)

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こうなると、「一球会60周年記念誌」から吉野先輩の寄稿文の引用をせねばならぬ。この伝説の試合、のり坊は試合会場仙台商業近くの長町中の3年であった。野球をやっていた級友がこの試合を見ていて翌日ぼくにいった。「一高は勉強ばかりだと思ってたけど、バレーもすごかった」このときの言葉と彼の驚きの口調は今も記憶に残る。あのすさまじい試合を見ていたら,自分は、バレー部に入っていたろうか、はて?

吉野さんは合間合間で叫ぶ、「杉ッ、泣ぐなッ!」

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<一高バレーは栄光と挫折の激動だった> 高17回生 吉野俊彦

私がバレーボールを始めたのは、東華中学校で3年生になってから男子バレー部がメンバー不足で低迷していたころで、体育教官でバレー部顧問の先生から入部を強く勧誘されてのことだった。遊び友達の鴫原(一高同期生でバレー部の名マネージャーとして活躍)などを誘って一緒に入部し、中学1年生からバレーをしていた杉(一高同期生で主将を勤めた)と共にレギュラーとなり、市の中体連大会に臨んだのが初めてのバレーボール公式戦だった。
高校入学まではバレーボールよりも圧倒的に野球に費やす時間が多く、一高入学が決まったときは遊び友達の鴫原と共に硬式野球部入部を密かに望んでいた。私が一高バレー部に入部したのは、中学時代に一高から多くのバレ—部員を連れて練習を見て貰った高15回生の佐藤義憲さん、高16回生の峰岸徹夫さん、村田良樹さんなどの多くの先輩の熱い勧誘に感動してしまったからであった。

昭和37年4月にバレーボール部に入部を決めてからの3年間は、栄光と挫折を多く経験することとなった。1~2年生前半(昭和37年~38年夏)の一高バレー部は県下で常に1位を争う強豪チームで昭和37年の総体準優勝、同年インターハイ出場、レギュラーとして参戦した昭和37年秋の新人戦から昭和38年の6人制総体優勝まで1セットも失わず怒濤の24連勝など栄光の数々。連勝記録も、昭和38年7月のインターハイ2次予選で宿敵古川工業に接戦の末敗退で途切れ、この敗戦で2年連続のインターハイ出場が幻となったことが大変残念であった。

2年生後半から3年生時代(昭和38年秋~39年春)は勝利から見放されて、最上級生としての新人戦から総体までの大会は1、2回戦で敗退する弱小チーム。3年生の総体までは、負けるたびに悔しさで前年までの栄光に輝いていた天国から奈落の底に蹴落とされたような、挫折感でもがき苦しんだ。しかし、3年生の総体では決して忘れることのない試合を経験した。

先日、私が3年生になってからバレー部監督に就任された恩師の早坂先生と、バレー部OBの還暦を祝う席でお会いする機会があり、談笑の合間で一高バレー部監督時代に一番嬉しかったことはとの問いに、昭和39年に就任した年の総体で、市工戦に勝ったときだと言われておられた。そういえば、試合後に強気一辺倒の監督の眼に涙があふれていた記憶が蘇って来た。誰が見ても絶対市工有利の試合をフルセットに縺れ込んで破り総体ベスト4の地位を掴んだのだから。我々現役は勿論、応援に馳せ参じた先輩の殆ども市工戦の信じられない勝利に感激で涙を流して下さった。
この試合で勝利したことは、強烈な思い出として残っており当時を思い起こすと今でも目頭が熱くなる。

一高のチーム構成は、3年生3人(杉、山形、吉野)と1年生3人(水戸、星、本郷)の6人を主たるメンバーとして戦った。昭和39年春の市工戦を戦ったメンバーのうち、主将の杉と私は前年まで2年生ながら初めての6人制バレー総体で優勝するまでの24連勝をレギュラーとして試合経験を積ませて貰っていたが、他の4人は昭和39年春からレギュラーに加わり総体は初体験であった。

相手の市工は2年生を中心に国体を経験している若く勢いのあるチームで、試合前の公式練習では全力でアタックする姿を見せつけられていた。私の試合前のアタック練習は決して全力では打たず、体を慣らす程度のものだったから相手からは私のアタックを甘く見られていたようだ。試合前の練習をしながら、力を誇示している2年生主力の相手チームの若さには圧倒されたが経験は自分の方が上回る筈だし、絶対負けたくないと強く沸き上がる気持ちを押し殺して試合に臨んだ。

試合が始まり、最初から拮抗したゲーム運びとなったが,試合前の練習と違って私は勿論、6人全員がそれまでの実力を越える信じられないプレーを連発し、それが最後まで持続したものだから、試合中の勝利に対する意欲では一高が市工を上回って、フルセットの最後の3点では、目の前に見える勝利の瞬間が待てずに主将の杉と私は涙を堪えきれずにプレーをしていた事が一生忘れられない。

市工戦では私自身,不思議な経験をしている。
アタックではミスがたった1回の信じられない打率で相手を圧倒したこと。味方のミスでボールが相手コートに直接返りダイレクトアタックで強烈に打ち返された際、私の体が勝手に反応しスライディングレシーブで好捕した後得点をもぎ取ったこと。半世紀も前のシーンが鮮明に記憶として残っている。(これらのことは、一高の練習を終えた後、自宅で夕食を摂った後に硬式野球のバットを引っ張りだして、自主トレで毎日何十回となくバレーのアタックフォームにあわせ、腹筋と背筋を使いながら素振りをしていたこと、合宿では朝練が始まる前の誰もいないコートでスライディングレシーブの練習を独りで黙々と重ねたこと、などが報われたのだろう。)

他のメンバーも神がかりなプレーを沢山していた。この不思議な経験は、極限まで意識を試合に集中することが出来たからだったと思う。市工戦の前に、応援に駆けつけた先輩達から試合会場に隣接した三女高の雨上がりのぬかるんだ校庭で、試合前としては異例なほど過酷なレシーブ練習をさせられたことで、雑念を払拭し集中心を最高に高められたのだと思っている。

結局3年生の総体はベスト4で終わったが、総体での出来事は前年まで1位を争った強豪チームの栄光よりも、それ以後味わった挫折から這い上がってもぎ取った総体のベスト4が、試合中に感激で涙が溢れるのを抑えられなかったほど何倍も眩しく私の心で輝いている。

厳しいながらも、現役の為に心を鬼にして指導してくれた先生と先輩、一緒に3年間の苦楽を共にした同輩、そして我々上級生に夢中で追いついてきてくれ、試合毎にめざましく上達して市工戦に100%以上の力を発揮して勝利に大きく貢献した後輩諸君に感謝している。
学業の不振で親から退部も迫られながら、それを振り切って3年間バレーボールに熱中出来て本当に良かった。一高のバレー部で経験した栄光と挫折,それを共に味わった仲間はその後の私の人生の宝物としてずっと大切にしている。多分、一高バレーを経験した者それぞれが大切な物を得ている筈で、現役の諸君にもより多く得て貰うために一球会の多くのOBと共に今後も微力を尽くすつもりでいる。

(了)

 

 

 

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平成庚寅

2010-01-01 00:07:17 | ローカルな話題

謹賀新年

このところ、古代のギリシアの人たちに感心することしきりなので、そちらをさまよっていたが、ペルシア戦争のあった紀元前6世紀初頭などというと、これは紀元前590年あたりであって、何ともわかりづらい。あのころの人にとって自分たちの時代が後代にマイナス表示でいわれるなんて、考えもしなかったし失礼ではないか。それに紀元0年がないのだから、通しで今から何年前かを計算すればたぶん間違うはずだ。絶対0年というもの作っておかないと数千年ののちにはまたまた混乱するであろう、などと戯言ばかりでは、いかん。

こちらはオリエントの人種、新年にして、しかも自分の時が区切りなので急に干支というものが気になった。昭和25年生まれでこの5日でちょうど一回り、ひとごとと思っていた還暦ということになるそうだ、人生あっという間だ。60年前は、九星の五黄土星と干支の寅年が重なる「五黄の寅」、五黄土星は本命星の中で一番強烈な星、トラも十二支の中でもっとも強い干支だから、ご宣託通りにいけば本来強烈な人間・高邁な人格者になるはずであった。

であるのだが振り返りツラツラ思うに、強者トラならぬダル猫みたいな半生、カイシャもまた一区切りという本年、難題ばかりで先が見えぬ。さあ、あとひと回り先に、また「五黄の寅」が巡って来るはずなので、そのときまでひと勝負であろう、と。繰り返しを伴う循環というものには、天文学的にもその中で生かされているわけで、何らか自らの運気に確かに良き影響があるのだと思いたい。これでも、無事生まれてきたときは、周りはタイヘンな喜びようだったのだ。トラ、トラ、トラ...
 
写真は、お隣の港町・塩釜の駅前に飾られている塩釜神社の大絵馬。
大絵馬:虎親子、お目見え--JR本塩釜、塩釜駅前 /宮城 
 より。
塩釜市のJR仙石線本塩釜駅と東北本線塩釜駅の駅前に(12月)2日、来年のえとの「庚寅(かのえとら)」にちなんだ塩釜神社の大絵馬が飾られた。東北地方で最多となる約50万の初詣で客らを迎えるためで、「奥州一之宮」の塩釜神社の玄関口は、いち早く華やいだ正月気分に包まれた。
 大絵馬は高さ2・5メートル、幅3・8メートル、重さ300キロで、本塩釜駅前では今年の牛の絵馬を外した後、丁寧に“バトンタッチ”。虎の親子が、国の天然記念物・塩釜桜と盛り塩の前で仲良く遊んでいる絵柄で、「不景気を虎の勢いと勇ましさで吹き飛ばしてほしい、との願いを込めた」と同神社の村上恵一権祢宜(ごんねぎ)(61)。
 本塩釜駅の絵馬は、駅側の要望で通年飾られ、塩釜駅では1月14日の「どんと祭」まで飾り、神社に返納される。



中高年のアイドル・綾小路きみまろ氏は、芸能生活40年、”潜伏期間が30年”とか!、今年”アラ還”のきみまろさんから年頭のごあいさつ。
「全国の中高年の皆さま、新年あけましておめでとうございます。長年生きてこられて今年も生きていかれるわけですね、その顔で。謹んでお喜び申し上げます。...まさか自分が還暦を迎えるなんて…。不安とか何だとか、よくわかりませんよ。初体験だもん、年取るの。...人生いいこと半分悪いこと半分、ならせば同じ。あせらず体に気をつけて、きみまろと同じ時代を生きていきましょうよ。」

「『愛してる?』言ってたでしょ、言ってたんです奥さん、その顔で。愛があったんですよ、ご主人との間で確かな愛が。だって、そばにいるだけでドキドキしたんだもん。今、そばにいるだけで不整脈。」(河北新報2010.1.1:「綾小路きみまろ 還暦トーク」より)

BS2、2010/1/2 13:00-「きみまろフルコース ごきげん歌謡笑劇団」にて、3連発の再放送。

                                   平成22年(2010)・庚寅  元旦  トラ

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仙台一球会スコアブック

2008-11-30 23:40:48 | ローカルな話題
O校長先生、本日も“ゼッコーチョー”とか、俺んとこのバレーも最近いいセンいってるからね~、去年の邦坊喜寿祝いに引き続き、1年上の星先輩、還暦おめでとう~。
高校バレー部の現役時代、その後のコーチ入れてもたった数年の付合いのはずが、邦坊監督共々40年にも渡るクサレエンのOB会なってしまった!?東京一球会の盛況に遠く及ばずすみませぬ。

あんまりナマでも困る立場の人も多くなり、昨今は、漢字が難しすぎてという人と個人が特定されるとユユシキ問題となる古今ミゾウのこの時代、カタカナと略称を多用したのであしからず。もっとも「未曾有」という言葉は古くはミゾウウと言ったようで、かんたんに茶化してはいかんのだ。でも、今日の新聞で面白かったのは、<河北川柳>佳作の「まずリーダどげんかせんと漢字力」であったことを、付け加える。

昔精密なスコアブックつけていたのり坊氏にも、認知症がジワジワ来ているようで、うろ覚えの記録になってしまった。コーユージャンルは「宴会ブログ」とでもいうのであろうか!?この夜、邦坊先生はなんともおしゃれなカレーな姿で登場、デジカメもみずから持込、一人ひとりを撮ってくれていたのであった...

わすれないように、メンバー表ぐらいは提出しておこう。(2008.11.29 勾当台公園近くにて)
櫻田、佐々木、千葉、江川(陳)、郡山、大内
佐竹、加賀谷、早坂邦三郎監督、星


☆(ホシ先輩)
還暦か、俺もう、ユーユージテキ、野菜作って畑仕事よ。お役所、あんまり未練なかったし。
年金とか...少しアレナ話題も出てくる年代になったけどよォ、次はあんたたちの番、これからもこういうの、えんえんやっぺな。
孫メンコイの何のって、ホシ・ヒューマにしようと思ったが<悠飛>にした...ナニ?!、みんな、誰もまだ孫いない...

みんな、一高バレー部に入ってきたときから覚えてっからなあ...
CINなんか、きれいすぎるトレパンにわざと泥つけてやがんの、彼の上のボクの同級ホンゴーも五橋で中学バレーのエリートでスマート。同じセッターだけどなかなかボクに打たせてくんないんだよなあ。(両方おなじことをいうかも、Aクイックどちらも切れ味はよかった!)このふたり1年ですぐコートに入れられた総体準々決勝(無我夢中での奇跡の勝利)、邦坊センセー、あの試合がボクのバレーの原点だっちゃね。
東京オリンピックの年だから国体予選は春やったのよ、その優勝高・市工を、わがほうが気力と粘りで破った...三女高の校庭でへとへとになるまで先輩方にしごかれたあと仙商で、あのものすごい試合。邦坊も来たばっかりでOBがたと指導方針合わず。あのころは「ヨシノ、水飲むな!!」

ボクの代は9人卒業しました。ま、あんまり仲良くなかったのよな。(個性と迫力は皆フツーではなかったからだネ、インターハイにも行き、でもだからみなえらくなり、仙台にいない!)
センセー、キミオには気使いすぎだったかなあ...
辞めらっても、こまっぺ~、んだから主将にしたんだよ...センセーの答(ということは歴代のキャプテンは...)
(愛称ハムオ先輩は、トンペイ首席合格であった、とんでもないひとである...)


◇□?*。。。。(雑談)

・先生には前後のうごきやらされたけど、永年コーチやってボクは左右の動きが大事と思ってるんです。後輩をベスト4に2回も入れたよ、OコーチョーのS商より上だぜ...と、KGY。

・教職員はいっしょで職員室を真ん中において男子校と女子高あわせる手もあるとおもうよ、とCIN。(それじゃ男湯と女湯?、そーいうこと云うからセクハラなのだ!)人生の一時期、男だけの質実剛健というのはいいことだ。画一じゃない選択肢を残すべきだなあ。
いまじゃ二高が当然一番上だろうし、整然とした序列ができるばかり...
・だけどよく練習試合した山形東なんか女子生徒もいたんだよ、山南はおとこばっかだけど...と、KGY(おお~、そうだったかア。)
・女のひとは、やっぱ...同窓会役員なんか、なり手もないし金も集まらんというし...だいたい、こんな集まり40年経っても毎年やるかね??

・KGY君は、昨日もTVに出てたって、ローカルニュース??(会社のほうも監督側も...このなかま?)
・TVといえば、偶然見た画面に邦坊先生が出てきて、なんと凧揚げの話題だったことがあったよ。(野外活動センタのときだろ~な)
・STKはヒワタシに首しめられてたろーが?
・ううん、ビンタはくらったけど、アノ先輩悪く思ったことなかった、だいたい人をその場で叱れるなんてのはたいしたことですよ。
・おれなんか、何回、審判台から叩き落されたことか、邦坊に!とOゼッコーチョー。
(センセイ: ハッハッハッハ...と大笑い、ハンセイの色もなし)
・CIBはひさしぶりだねえ。両親介護で仙台にちょくちょく帰ってきてる。ソフトボールでアキレス腱切ったって?あのフライングレシーブではなあ...ドタッドタッ...
・それでも腕が伸びてスナップで打てるようになった、オマエもたいした努力だったよ、と邦坊。
・YNG―MCO、あの背丈でもネット越えてって向こうのコートの中におちる不思議だよ、東大行ってどーしてる?...

邦坊、この次は工藤、都竹みな来いよ~、金子、駒板もだあ~とか、叫んでおりましたっけ。


(SD市長もMG県知事などもこの気楽な関係者たちにとって、どこかでの後輩にあたる齢となった!?しかし、言っていいこととナマに書くとヤバイことが多くなりすぎる昨今である....)



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吉野先輩2段ロケット点火

2008-02-04 00:18:48 | ローカルな話題
団塊の世代を中心として高校時代の運動部OBの集まりもあっという間に40年。仕事はまだ現役、もう第ニの人生などいろいろあって第ニ段階に。さて、本日は、仙台に戻って次なる夢の仕事をするんだという吉野先輩を囲んで、少し上の先輩がたも交えて、昔話ではなくかえって未来の話になってきました。
こういう話題をリアルに記すのもどうかなとは思うのですが、まあこういう例も実社会にはあるのだなと。あまりにナマな差し支えがありそうな話、本日不在の先輩後輩諸兄の名誉に大きくかかわる部分の記述は多少差し控えました...


(平成20年2月2日土曜の夜・吉野さん歓迎会)
高14回(昭和37年卒):庄子公侑
高15回(昭和38年卒):佐藤智保
高16回(昭和39年卒):荒井富雄
高17回(昭和40年卒):吉野俊彦
高20回(昭和43年卒):加賀谷秀樹、陳(江川)春渕、早坂栄二、佐竹則和
高21回(昭和44年卒):郡山勝英、大内悦夫
高22回(昭和45年卒):櫻田芳宏



(吉野先輩:右)大きな自動車会社(女子高生いすぶとか読むトコ)に三十数年、定年六十歳引きとめられはしたがこのままの延長線でいいのかと。入ってから気がついたが、自分が不得意な緻密なコンピュータのシステム部門。かといって、やめる勇気もなく、バレーでやってきた人の気持ちを大事にしてのチームワークは財産になって役立ったけど...
さて、いったい自分は何がやりたかったかなあと...
そうだ、ほんとは電気自動車だ、あそこではでんき?、電装ならねえだった...
一昨年同期会で仙台にきたとき、バレー時代からの友人下永君が、エコモービルでがんばってた。自分の会社もつくってはいるが彼のトコにも関係させてもらって、仙台に去年の秋にもどった。また、みなさん、よろしく。
住所が元茶畑?ハハハ、昔からオレはあそこよ、地番は入り組んでるが一高の町内だな。


(庄子先輩・14回:中央)
チャバタン(一高付属の補講科)にいったから、バレー部の新入生で馬力あるの入ってきたなと分かった、それが吉野君。
そして茨大でもいっしょ。このひとは自炊で料理もうまくて、よく飯食わせてもらったよ。オクさん、茨城カツラ村の出、田舎だべとからかってたらこれがミスいばらきというか、高島礼子というか...結婚式にもださせていただいて吉野君とは、ずっと長いお付き合いさせてもらっている。
東洋刃物、産業用刃物の会社だ、鋼で鉄を切るような工業用刃物だね。もともと東北大金研の本多光太郎先生の成果を生かしてのモノ作り、極寒のシベリアでも折れない軍刀など!からだ。
だから技術と品質が誇りよ、それにうちは、人を大事にしましてね。家族的でネ。ITなんかのシステム化みたいなわからん案件でも、ひとの繋がりと信頼もだいじなことだな。


(佐藤先輩15回:左端)
おれの15回あたりは、入った時から不作の年だ下手だと先輩がたに言われつづけ、確かにヘタだったよな。エッ、あのモリヤクン?同級だ、彼はボート部だった。なんでああまでね~。
バレーのほうは、あんまりだから杉原なんかは頭にきて、ひとつここは頭と技術でカバーすっかと。(慶応に行った)義憲もバレー誌を読んで、まずは基礎体力つけてと、広い校庭でウサギ跳びを延々と...庄子センパイのころから、バレー界は六人制にかわってきていた。アンダーパスや、ホールディングの厳しさがちがう。日紡貝塚がきて、河西さんなんか見てると、今までのレシーブと全然違う。おっとカッコつけるためにころぶのかな、回転しても拾わなければハナシにならぬ、こっちは屋外コート、土の上だよ。拾い捲って誰か打ってくれ、やっと村田とか後輩にアタッカが入ってきて、インターハイまで行けた。

(荒井先輩16回:右端)
昨年暮れ、主治医の陳のとこで診てもらってたとき、吉野が帰ってきたから歓迎会やるか、あッそッそッ、となってね。あの時、ちょうど加賀谷も診てもらってたっけ。それで今日の集まりになったが、先輩がたにもお声かけました。
わたしのときは最後の学年では総体も優勝したが、二次予選では不覚インタハイはいけなかった。体力あるほうでなかったから、入った時もうすぐやめるかなという気にもなったが、がまんしてやってきた。(荒井く~ん、女にしたらカワイイ子だったなあ、でも、あんた男だったよ、と庄子さん)
(アタッカーなんてわがまま。オレ、オレにあげろなんて、陽もあたるし。でも荒井さんや小さかった高倉さんも、そうでないとこで我慢して鍛錬した人なんですねえ...と吉野さん)
県庁入って衛生看護学院・微生物、検査技師育成など、教育にも携わった。もう今年の学生はみな平成生まれ、さて、ゆとりの教育よかったのだろうかなあ?そうとう学力が落ちてきたな。高校出たはずなのだが、割り算ができない。%というのがわからない。110/100など過分数となると、もうお手上げ。



(下永先輩・17回:左端)
仙台ニ中のバックセンで主将、一高では入ってすぐの1年生の身ででインターハイに出してもらえたが、160㎝じゃ六人制で通用しないと、そうそうに見切りつけてヨット部にいってしまった。ディンギーやスナイプ級でインタハイつかんだけど、こんどは骨折して出らんなかった。みなさんのバレー部は中退しちゃったけど、これを機会に(バレー部OBの)一球会に入れてもらえるかな。
早稲田理工出て紡績会社修行後オヤジのクルマの整備会社大きくして機械メンテなど、ん十億までの規模にしたが、バブルでつぶしてしまった。
でも電波高専との産学連携やエコな電動バイク&トライクの開発販売「イーモービル㈱」会長として、吉野君にも関連のトコの代表者にもなってもらって、新たなチャレンジで頑張ってる。

(吉野さ~ん、電気自動車なら、清水さん? )
・おお、それでね、下永くんといっしょに清水くんのトコにいってELICAに乗っけてもらって。すごかったね。清水さんと呼んだら「吉野さんから、さん、づけでよばれても…」だと。)

(男女別学について)
・イバ大での付合いで水戸一高のバレー部OBとも付き合いがある。アチラは男女共学になって久しいからOB会には、女子マネやったかたまで出てくる。こっちもそうなると、ちょっと「戸惑い」があるなあ...
・今の現役は、女子マネいるトコを羨ましげに見てたりするよ...
・男女別だった宮城県というとこも、そろそろ共学化。でも、学校の個性といろんな選択肢は残すベキだと思うのだけど...
・小子化、統合...共学は流れだよ。ムコウの方がやるべきとの理屈は多い。古きよき伝統を残せのノスタルジーだけではとおらんだろう...
・でも、仙台じゃ北の方が生徒も多いし、二高、一女はこんど宮城一高、いまでも、もう3番目なのか?


(覇気について)
・バレーでも、シード校ぐらいに入ってくれないとなあ...勝てる時でも「お付き合い」して負けてしまう...なにかが足りないんだよなあ。
・吉野さん三年のときは、前年国体・新人戦優勝の優勝候補・仙台工を相手に気力で総体準決勝に勝ちあがった。むこうは実力数枚上だったが二年主体のチーム、オレは3年やってきた、負けられるか。
奇跡の試合だった。身長172㎝のエース吉野は、一本毎のアタックすべてを今でもコースまで思い起こすことができる。オレにもってこいと全部のスパイクを決めた。ミスはたった1本だけだった。相手のブロックは眼の下にしか見えなかった。(中学3年だったボク。仙商体育館でのあの試合は同級生が見て来て、一高はアタマだけじゃなくてバレーもすごかったと。)
・おっと現仙台商校長が東京での校長会終わって駆けつけた。大内先生ひとこと。
「ん、センパイにお世話になってもお返しなんか要らないから、それは後輩に返してやんなくちゃあ」
(若手漫才日本一「サンドウィッチマン」は、仙台商のラグビー部出身。去年までは暇なので母校文化祭でも小遣い程度の謝礼、今年はもはやスケジュールぎっしりとか。若い女のコに媚びないタイドがよいらしい)


吉野さん、加賀谷みたいに58歳のいままでも、茶畑の一高の体育館バレー部の孫みたいな後輩の前に姿を見せましょうか。(ついコートに入ってしまいそうだ、との声)ともあれ、助走をつけた少しブロード気味のジャンプ・第2段ロケットに点火した吉野先輩のご活躍を祈る。


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みちのくYOSAKOI第10回

2007-10-06 20:17:19 | ローカルな話題
杜の都・仙台の街中で「みちのくYOSAKOIまつり」は、今日10月6日(土)、明日7日(日)。今年で第10回という、メデタシ。去年は雨にたたられたが本日は快晴、ムスコは、6年も出てるので、たまにはどれ観てやっかと。

手に「鳴子」を持って踊る、曲には「東北(地元)の民謡の一節」を盛り込む、この2つだけがルール。しかし衣装も凝って踊りのキレもすばらしいチームばかり。舞台の上でミテミテと、まあ、アッケラカンといいのではないだろか。ことしは250チーム8500人も出場ということだ、一億総踊り子の時代も、もうすぐだ!?

先月の定禅寺JAZZーFESも、そうであったが、ボランティア中心の運営、手作りで、出ている人たちも支える人たちも一生懸命、気楽に楽しんでいるところがよい。前日のゴミ拾いや街中の落書き消しなどもやったが、最近は、とんと...

今年のスペシャルゲストは、<YOSAKOIソーラン祭>大賞4連覇の札幌・「新琴似天舞龍神チーム」、秋田大館出身の民謡ROCKのカリスマ!「今Marikoシンドローム進行中」という佐藤真理子さんと、「杜の都が育んだ津軽三味線の天才」全国大会A級優勝者の仙台一高3年浅野祥君。今年メジャーデビューし、アルバム「祥風」もリリースだって。そして来年こそAクラス?、東北楽天応援団のMr,カラスコ&カラスコJAPANと東北ゴールデンエンジェルスの踊りは...

さて、わがムスコといえば、最近ずっと夜中に出てって練習なのかなんなのか朝帰り、どこのチームだっけオマエは?ケータイメールは、「FAI ALL STARS」と出演時間つきで返ってきて、なんだこりゃ?、これじゃ宮城野高校ではないか。
錦町公園に出かけてみれば、なんと80人もいて現役を上回るOB・OGの群れ、差入れの団子やお茶は「足んねェな!」。う~ん、もってきた団子の串の数と舞台の上の子をアタマのなかで数えていたら、演舞はあっという間におわってしまった。パフォーマンスは大体5分、みなさん、あちこちの会場を駆け回るのだ。
こういうのは、ちゃんとした動画像と音質で撮ってyoutube投稿、全世界でみてもらうべきなのだろうなあ...



(ケータイからはこちらで映像と音 「みちのく FOMA タウン」)
 


************
「第10回みちのくYOSAKOIまつり 公式ガイドブック 2007.10 みちのくYOSAKOIまつり実行委員会」
「東北祭りイベントガイド ’07⇒’08 NTT東北電話帳 協賛:東北観光推進機構」

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邦坊の喜寿祝い

2007-09-30 15:54:11 | ローカルな話題

この日2007年9月29日の趣旨は、邦坊こと、もと仙台一高バレー部監督・早坂邦三郎先生の喜寿のお祝い、在仙メンバでささやかに。喜寿祝いウォーミングアップは2年前に。運動部は一年違えば一生の上下関係、違っても一生の友達。
であるからして出席者を上から記せば、以下の通り。本日出ていない方々の話題ポンポン出ていたが、諸兄の名誉のため記述は多少差し控えた...

早坂邦三郎先生:昭和5年9月25日うまれ。長男方志(まさし)氏、当時から特別ゲスト。
ゲスト:昭和44年バスケ卒:大橋氏
昭和42年卒:樋渡、星
昭和43年卒:佐々木、加賀谷、陳(江川)、佐竹
昭和44年卒:郡山、大内
昭和45年卒:櫻田

■大内(邦坊会万年幹事):先生とちょうど20違うから、喜寿だなあと気になってて、在仙メンバにお声かけました。先生からのお声がかりで、バスケット部だった松島町長の大橋健男さんにもおいでいただいております。
さて、私こそは、先生のお蔭で人生も大幅に...バレー指導では超えられなかったけど、先生見向きもしなかった校長やってま~す。いま高体連バレー部長、賞状渡す係なので、テレビ写りどうかなあ。まあ、これ全部、先生のご威光あってのことなのです...え~、ここ(青葉区上杉・「味吉祥」)は私の教え子の店ですから、なんなりと...場所はいつもここにしますか...
■加賀谷(一球会幹事):大学時代母校のコーチにこれなかったので、県庁に入ってから、週4日コーチをずっと続けました。櫻田以後の優勝がなく弱くなってたけど、ベスト4には2回いれた。五年かけてやっとインターハイ行けるチームを育てたのにホイッスルにやられた。こちらのトスは全部ホールディングにとられる、アシを引張る人いるんだよね。
先生が一女高のとき、ココ強くしろと言われ張りきっていったら、自分は仙台高に出ちゃった。コーチ五年やって最後の最後これでどうだとベスト8をかけたのが、一女と大内の多賀城と、先生の仙台高。一年生主体の仙高に負けちゃうんだよなあ。早坂マジックだな。先生のスゴさは先進性でしょ、バックトスや速攻という...
先生、バレーに見切りつけてからは今度はバスケだ。それ以来仙高は大橋コーチのバスケが華やか、全国上位常連に。

先生:コーチングでは加賀谷にかなうの、いねェな。オレのあとのガンコのとこで、よくやってくれたよ。
塩釜女子では退職願ふところに禁止の県外合宿。上もハラハラでとうとう追い出されたんだな。バレーは二度とやるまいとおもったがね...
お迎え来るのも近いから言っとくが、みんなの人生狂わしたのはオレだ。入学早々の六月でバレー部脱走すれば、東大に行けて仙台市長になれただろう。でも、かわいいちゃ、あのこ自分でバラスんだからや~、ハハハ。


■星(ヒゲ):センセーは、よくマサシを学校に連れて来た、センセーにしごかれた分、マサシをかわいがってやったよな、体操マットにくるんで。あれっ、金子だっけ、やったの...
先生が着任された年、バレー部弱くなってドースッペ!?という時に、一高にボクは入った。この年は、二年上の新人戦予選敗退だった吉野さんの代、前年国体出場・新人戦優勝の仙台工に総体の死闘で勝ってベスト4に残った。
先生には、ゴシャガレて、オモシャグねえけどバレーするしかないからや~、先輩やみんなの力で、ボクも最後インターハイにいけた。ボクのその後のバレーの原点は優勝して、しかもインターハイに出たことだな、まあ、飲めや。

櫻田(左4人目):ははっ、ところで、樋渡さんの愛宕中は、金子、駒板、都竹先輩、同期には内海やマーボーこと伊藤君がいて優勝できた。一高バレーへの貢献おおきいですね。あと章は五橋ね、だから工藤史郎さんに似てますね...私の代はぞろぞろやめてしまって背水の陣のチーム、それでもコーチの水戸さんに3年毎に優勝するのだ、とハッパかけられて..
ここじゃ一番わかいのですが今56才、わが人生一番の思い出は、二女高体育館でやった総体決勝、相手は仙台高、あの時だけ自分が急に大バケして!、なんでも決まっちゃったんです!

■星:あのね~みんな、先生も、これから先いくばくもなさそうだしよぉ~、...

先生:なに、いいから星、あとは言わねでケロ。ど~れ、み~んなに一言いっとくか、オレの葬式は、大和田(後輩、東北福祉大教授)が葬儀委員長、教え子代表は大内だな。
星:んじゃ、棺オケかつぐのは、オレと、樋渡、佐々木に陳か?、マサシ、おめェ、なんにもしなくていいからな、やってやっから!
大内:棺おけに入れるものエンジ色の優勝ユニホームやら、もう用意してありますから...
陳:あれれ、喜寿なんて平均寿命だから、センセーまだまだ90,100までネ、仙台市から5千円もらった?ボクの患者さん、皆もらったって言うよ。おめでとうでいこうね~、その前に、星さんこそ、死んでだめよ~


■佐々木(左最前):たしかに早いもので40年ですか。人生一番楽しいのはいつでも今の時ですが、同じ経験をした頃なつかしい。先生は、ボクの代の小型チームを優勝させたかったんだと、ずっと思ってきた。残念、そうはいかなかったけど、金子、陳、加賀谷、千葉、...下の郡山にも助けてもらって、皆、ボクの財産です。先生、長生きしてくださいね。今日も、あったかい雰囲気だなあ~。

先生:このひとは天才だヨ、教えなくともすごいタイミングで出来るセンス持ってた。それからすっと千葉なんか身体障害まがい(の運動神経)、よくもまあ、あの速いバレーにと。もうちょっとだったっけなあ...おまえらも...

郡山(左2人目):親父にバレーやめろといわれて、先生がやりあってくれて続けられたんです。私のときは決勝で負けて、13−15、11−15、ここぞというところで、3連続でサーブをだぶったりして、おまえらホントは勝ってたじゃないか、と先生にボールを顔にぶっつけられた。でも、ああいうのがあって、その後これまで人生乗り越えられました。
■陳(左3人目):(佐々木のチームで)あのときネ、沼倉のいた祇園寺に二高は勝ちそうになった、二高が出てきてくれれば(相性で)勝てる、でもそうはならなかった。
先生と出会って、あんな熱中できるバレーに会うなんて、ハタで見ればクレージー、理不尽な高校生活、今となってみるとホントに財産。
インターハイも羨ましくはないの、優勝できればもっとよかったけど、でも、がんばったことが、僕にとって青春そのもの。いい先輩、友達、後輩にめぐり逢って、人生二度楽しんでいるような感じ、生まれてきてよかった。

先生:オレの主治医だから言うんじゃないけど、この人、いったんジャンプして又さらに上がるバネでのライト攻撃、それでこの身長でブロックアウトもできたんだヨ。
(あれっ、レフトは、いねがったのがや?...星さんのおことば)

佐竹(左最前):卒業間際に親父死んで普通の大学に行けなかったので、ボクの学歴は一高バレー部卒業だろね。先生のクルマ磨きやら、先生入院中の連絡、はては毎日体育教官室の吸殻掃除まで、みなやらされてましたから、先生のやり方と、あっ、世渡りへたなところから糖尿病まで、全部受け継いでこれまで生きてこれました。あの頃エバッテた先生、今にして思えば若手の三十半ばだった、考えられんことですね~


■樋渡(左):オマエら、絶対に勝つためには、7:3の力の差をつけなければ、と先生は言った。先生、塩釜女子高で全国ベスト8の実績だが、ヤリタイホーダイで気仙沼高に出されたらしいよ、こんどは無名高を甲子園に連れていった。そして、おれら入学時に来たんだね。
おれは、マネージャが権限もって練習計画やらみな立てたし、先生の言う事を聞いたけど、みんな文句は態度で、ストライキよ。勝てもしないでと、叱られ役の星がいなければ、あのメンバおわってたな。センセイも上手だから直接叱ってフテルのには、オレに言わせるんだよなあ...
思うに、全国制覇するようなチームは1年生の12月に自覚が出来ればあとは成る。でも、このこと、櫻田のあとは、いえなくなったわけよ、なんせ、ふだん練習で出来なかったことを、あの決勝に限ってできたんだもの。全部オレに持ってこい、なんて、ほんとに全部決めやがった...

先生:ところで、樋渡や。あの八戸インターハイでは3回戦までいってんのに、この辺で負けッかと、おまえら思ってたべェ? 生徒たち早く帰って受験勉強しようってコンタンだ。たいだい、前の日3年生パチンコ行ってんだからな...
樋渡:うーん、先生、目標ちがうわけよ、オレらの頃は3年の自分の代でインターハイに行くことが目標、あとはオマケで勝つ気ねえんだもの、でも、新居浜、高知に勝ってベスト16寸前の3回戦山口防府、2セット目簡単にひっくり返してあの試合も勝てたのに、3セット目おわってみれば0-15...みんな青森ねぶたの宿も取ってたしなあ...

■(きょう、特別参加の大橋氏は、大内、郡山と同級。バレー部の隣のコートでやってた一高バスケ時代は、全国ベスト4。コーチとしても、全国優勝までする仙台高バスケを育てた。)

大橋氏(右):行政の経験生かしてと思ったけど、議会やらのほうはどうも人種人柄、ずいぶん違うのね。最初に出たときは選挙というものもわからず、たいへん。早坂先生からは「必勝」という酒、電話で励ましもいただいた。
こんどは、前のかたの騒動のあとで誰も出ず、「あなた、このままでいいの」という妻のことばで奮起、二度目のチャレンジ、とうとう町長になってしまった。でも、宮仕えを止めて一時は無職、子供は4人、たいへんでしたねえ~
(やったね、おめでとう~、「松島」といえば、宮城県は「世界遺産」候補にと文化庁に提案したよね~、伊達政宗建造の国宝瑞巌寺本堂含む江戸時代の建物群と、貝塚群に見る縄文の原風景)



■方志氏(左):(ズーット、正座もされてましたから。大内校長と、教育界のことでも?)
弟重行を通し大内先生にお誘い受けて東京から飛んできました、一言お礼がいいたくて。もう40年もたってるんですね、私ももう47、皆さんに可愛がってもらったのが6、7歳小学一年のころ。
さて、わが父親は、いい教師だったのか!?
(「ハテ、それは...モンダイ多かったな~...」と、みな一斉に!)
んっ、どんな教師モデルであっても、みなさん、それを糧として吸収して成長されたのが、父親にとってもありがたいことです。私は教育心理学、弟も、ともに教員になりました。バレーには縁がなかったのですが、息子と娘はバレーをやっていて、じいさん孝行になってます。




先生:ハハハッ、ところでおまえら来年から毎年還暦祝い続くんだな、こりゃ当分いっしょに楽しめるな....じゃあな~また来年ッ!!
(ひところ元気なかったが、教え子ドクターの放射セン治療で、喉もすっかりなめらかになり、ついでに毒舌も復活してしまった...)
では、はいッ、一本締め、パ~ン!!

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「七ツ森」の遊び場

2006-12-03 22:14:40 | ローカルな話題

先週の日曜、奥おおえ柳川温泉からの帰り「急いで帰んなきゃないことないでしょ?」と、寄り道したところは宮城県黒川郡の七ツ森、南川ダムの湖畔。
カナダの本物のログハウス、趣味のギャラリ「鍛冶屋」、アメリカンレストラン、あたりはゆったりした田園風景。
昔、力持ちの朝比奈三郎という大男が、弓の稽古の的にする山をつくるため、背負この「たんがら」に土をいれて7往復して的山をつくりましたが、休むたびに、こぼれた土でできたのが「七ツ森」。(「七ツ森のできたわけ

あれっ、顔見知ったかたが現れて、Hさんがここにいる!?
Iさんのお友達で蕎麦うち道具など作ってもらっている木工家。自然の木や枝を活かした椅子や家具も作るひと。ここのオーナとのおつき合いで、週末だけのお手伝い店番とか。ログハウスには彼の作品なども置いてある。
大木の壁には大鹿の剥製のあたま、屋根裏部屋には白い狼の毛皮がぶら下がっている、シッポふさふさ、あのブランカの!?分厚い木のテーブルは6人がかりで運び込んだ重さ。なかなかワイルド。薪ストーブも火が入れば、いい感じだなあ。

ハウスの崖下の傾斜地形を利用して、下が趣味のギャラリ「鍛冶屋」さん。この日は、オーナーの奥様がみずから店番、なかなかお元気。
おおっ、これはニョウボウやムスメが喜びそうなものばかり...
「うわー、、そうか、もうサンタさんですね~、こりゃ、ずいぶんお金使わされそうですね~」
「アーラ、ハハハ、それがこっちのねらいメだわよ~」
「写真?いいわよ、ド~ンド~ン撮ってェ」

あっちのほうはナ~ニ?
「レストランとしてお貸ししてるの、召し上がっていったら...」
ということで、アメリカ家庭料理「MONTANA(モンタナ)」へレン・ママご一家のお店。
軽くサンドイッチでもと思ったら「BIGサンド」、アメリカかあ。Iさんのほうは、かなりカロリーありそう!まあ、スポーツジムに700回行く人だし...
ここはレストラン内装も家具調度も料理もコーヒーも、雰囲気はアメリカン。
小物ギャラリーとこちらレストラン、首都圏方面からの客そしてレピータが多いようでした。

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清水先輩の電気自動車「Eliica」

2006-10-28 14:33:39 | ローカルな話題
高校時代のバレー部の2年先輩清水浩さんが、卒業40年同窓会で里帰りされたので、昨晩在仙の荒井先輩と後輩ども10人が清水さんを囲んであつまった。
バレーやら誰それの消息などのよもやま・あの頃の話、日体大の森田・角田やらが体育館に来て練習した?いつや?俺しゃねなあ、星さん。「生物」の追試で出らんねかったのがや?
最近は追試どころか必修科目未修で卒業させられないと突然大騒ぎ。とくに、世界史なんか敬遠だよネエ。ま、本日は高校の校長先生もいることで!?...

十数年前か県庁の加賀谷クンが環境庁時代の清水さんに環境問題セミナーをお願いしたときボクももぐりこんだが、そのころから車輪にモーターを組み込んだ前後左右に動ける自動車の夢をもたれていた。

いま慶應大環境情報学部教授として、電気とインホイールモータのもつパワーで800馬力で時速370kmの電気自動車「Eliica」を実現。
皇太子さまと雅子さま(ELIICA BLOG)も試乗されたようですね。
開発者の清水さんは、小柄で運動性能イマイチ?バレー部のレギュラーにはなれなかったが、ガソリン車をぶっちぎる「Eliica」によって電気自動車のほうの運動性能を世界に示したのでした。

後輩どものヨタ話はとても公開が憚れるが、この晩清水さんには貴重なお話を聞かせていただいた...

「時速100kmで自動運転、事故もない、汚染もない、ぶつかることがなければフレームもいらない、駐車場もいらない、レストランに車のまま入れる、こんなクルマとなれば、お酒を飲んでも運転できるでしょ。クルマがあるから酒がダメということがおかしいんだよ。

化石燃料エンジン・メカでなければ車体も人間のサイズですむ、なにより汚染の防止、電気エネルギーは無尽蔵の太陽光から・風力からとれるし、きれい。実用化が近道の電気エネルギーは、燃料電池よりもリチウム充電池かな。
夢の話だろうって?ちょっと前までは、誰もが今のケータイ電話への変化も予想できなかったでしょ。自動車とその制御システム全体の変化は、それよりも劇的なものになるだろうけどね。

ヒトは両手を使えるようになったことで進化したけど、反面二足歩行で唯一失ったものは何か、それは運動性だ。イヌより機敏に走れるヒトがいるかよ、ヒトの運動性と行動を劇的に変えうるものがクルマだ。
それを動かすエネルギー源の実現・供給と、交通などの自動化のシステム制御もいる。

年をとると危ないからといってクルマの運転もしなくなることが多いけど...80歳になったときこそ自分で運転できる車と環境が必要だよ。だからボクは、あと何年か刻みで、それを創りだす。車メーカは、このようなビジョンでの開発には消極的、電気エネルギー関連産業もおなじだなあ。いま 「Eliica」みたいなものは1台数千万かかるが、実用化・生産ベースでは10万台単位でドンドン、コストダウウンできるはずなのだ。

日本人の平均寿命は世界のトップクラス、平均寿命というものはその国の持つ総体的な力の指標だよ。その国の経済力、衣食住環境、衛生、医療、治安、教育、文化...日本人の平均寿命が伸びているというのは、この日本はまだまだ健全な進歩が続いているということだ。
未来を信じて、夢のある創造物を自分たちの世代でなんとか実現したいな..」


「Eliica」の車輪に組み込まれた「インホイールモータ」は100馬力(60kw)、8つで800馬力!!加速度0.7G!0~時速100kmがポルシェ4.2秒・エリカは4.1秒、0~160kmでポルシェ9.2秒・エリカは、7.0秒。
いまの大メーカの手がける電気自動車の大半は既存のくるまに手を入れる発想と取り組み、だから、構造はおんなじで電気はガソリンエンジンの補助程度、トロトロ走って電池が何キロもつかの話ばかり。
最初から新たなものを創造すれば、Eliicaのような、まったく違う移動物体が生まれるんですね。

この試作車をヨーロッパに出した頃、自動車雑誌でシロートの大学の先生に何ができるといったイヤミな記事をみたことがあった。評論家はメーカと仲良くしてないとやりずらいのであろう...思想を持った創造と、革新的な技術での突破、そもそも対象たるクルマへの情熱が大事、ニッポンから次の世代の車を実用化してほしいなあ。
ボクのルノー・トゥインゴちゃんは乗るほどに味のでるクルマ、欧州車には、こうあるべきだというエスプリがある。が、10万キロ間近でときどきご機嫌悪く...一人乗り電気自動車できるまで(家族乗ってくれない)、何とかもってくれよ~!




*************
世界最速 時速370kmの電気自動車 「Eliica」の創造主 清水浩 慶應義塾大学 環境情報学部教授

こうして生まれた高性能電気自動車ルシオール

日刊工業新聞社

このアイテムの詳細を見る

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薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク

2006-09-23 15:31:26 | ローカルな話題
今日9月23日は秋分の日、ローマ帝国のアウグストゥスさまの誕生日。元気だったら2069歳だったと思われる。昼と夜の長さがおんなじ、それで、あの方もバランス感覚がよかったのだ。
今日以降の半年間に生まれた人は夜型人間になるわけで...のり坊も昼アンドン、ボ~っとしていてはいけない。

「実に驚異すべき一大事実ではないか。この神秘はどこから来る。この驚きを驚きとする心からこそ宗教も哲学も詩歌も自然科学も生まれて来るのではないか。この真理。この顕現...」と、北原白秋(1885~1942)。
それが、『薔薇二曲』

  薔薇ノ木ニ
  薔薇ノ花咲ク。
  ナニゴトノ不思議ナケレド。

  薔薇ノ花。
  ナニゴトノ不思議ナケレド。
  照リ極マレバ木ヨリコボルル。
  光リコボルル。

「葉月ゆら」がピアノ弾き語り、iTunesでこの曲だけを買ってみた。
ナニホドノ不思議ナケレド。

うちの蔓薔薇、今頃二度咲き、だから観るほどもこともなく...
それより、ことしは金モクセイがちょっと早いようだ。葡萄の蔓は、(薔薇の蔓とまちがって)切ってしまって、巨峰よ、おまえ、あと10年?...
となりのゴルフ場、宮城テレビ杯女子オープン、宮里藍、横峰さくらちゃん来ている。(いまや、お二人に出ていただくのに主催者はタイヘンらしいのだ!)
荒川静香さんは金メダルのおかげで、通学した(はずの、中学校出席日数?)小道は「SHIZUKAロード」と名前がついた。
我が庭と町内のできごと。(...)は、実に驚異すべき一大事実?

(追記:「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク」=ボーイズラブ18禁PCゲーム。 昭和初期の全寮制の男子校を 舞台に繰り広げられる美少年たちのラブロマンス...とは?、こ、これは、いったい何なのだ?、これこそ驚異すべき...ったく、もう~ 

みな、ナニゴトノ不思議ナケレド...
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ショージ君なまかじり

2006-08-04 23:55:09 | ローカルな話題
茨大、水戸近辺での青春もありの高校時代のバレー部Y先輩がシキって水戸一高バレー部OBとの親睦ゴルフを何十年とやっているらしい。近年はその上の大先輩まで入り込んでますます盛況とか。周りのOB連中に今週メールで知らせてくれたのでラチ外のボクにも懐かしき方々の近況わかってうれしい。イタリア語仲間N女史の元上司は丸タンボー豪腕スパイカーC大先輩であるよ。世の中狭いノウ...
「おーい、出ないのか?」と元主将のSSKの会社に電話して、昼飯をタカルことにした。あいつには昔クラブを貸しっぱなしにしたおかげでシングルレベルになったはず、なのでタップリ貸しはあるのだ!?

今日はギンギン暑いなあ、七夕飾り準備真っ盛りの一番町まで扇子片手に歩く。腰ポケットには東海林さだおさんが入っていた。
これこれ「ブタの丸かじり」よ、「オウ、ショージ君はいい文章書くよなあ。」とのクイックレスポンス。文字のほう読んでるとこ、感心だね。
キャベツとブタの味噌いためなんかイイネエ、と言ってしまったので、かれは嬉しそうに「うなぎの開盛庵」を素通りして、地下のビストロに入ってしまった。シマッタ!

じゃあ、今日は「キャベツのまるかじり」か!“ショージ君”は最近、米原万理さんに教えられて気づいて、読み始めた。最近の?「のほほん行進曲」、昔の「プチプチ日記」「一日入門」など、そうなんだよなあ、ショージ君のこなれた、力みのない文体、好奇心、すごいおじさんですね、繊細なセコさ。僕らのひと周り上のヒトだ。

「ヒョーゲンが似てきたんじゃないのか」。いえいえ到底足元にも及びませぬ。
彼はドックで引っ掛かりゴルフには出ずこれからポリープ取りだとか。ポリープのほうも一泊2日だ。
運動部にいたおかげで、皆、学力はともかく体力で社会の荒波を乗り切っているらしく、誰それが欠けたという話が全くないのがヨイ。
ショージ君から少しく下、戦後のヤワな世代ではあるが、平成も18年まで生きて来た。とくに、経営層の皆さんは体力と運動能力だけであそこまで?...
何で犬の絵か?メシを食いながら「イヌも、タオルやら抱えて自分でバンバン...」という話になった...

話を戻してショージ君大先生の<竹の子かわいや>から、ショージ君の筍を味わってみよう。

...形もいい。
ずんぐりむっくりがかわいい。稚気がある。あの砲弾型には機能美を感じる。
同じ野菜界の重量級、かぼちゃ、スイカなどと比べると、その形のよさがよくわかる。...
彼らとちがって、竹の子には目的がある。竹になろうという目的がある。
その目的が、砲弾型という形をとらせたのだ。
なのに竹の子は切り取られてしまった。
竹の子は無念である。
竹の子を手にとってじっと見てみよう。竹の子の無念がヒシヒシとつたわってくるではないか。
...世が世であれば竹林で立派な竹になったであろうに、こうしてむなしく都会の店頭に転がされている。
その無念さは察するに余りある...「ヨーシヨーシ、ワカッタワカッタ」とほほえましく頭をなでてやりたくなる。
・・・茹でてたべてやりたくなる...


********
「自選 なんたって『ショージ君』東海林さだお 文春文庫 ISBN4-16-717756-0」
「キャベツの丸かじり 東海林さだお 文春文庫 ISBN4-16-717726-9」
「ワニ、タコ、ナマズ、スイカ、ブタの丸かじり 東海林さだお 文春文庫 ISBN略 
「東京ブチブチ日記 東海林さだお 文春文庫 ISBN4-16-717721-8」
「のほほん行進曲 東海林さだお 文春文庫 ISBN4-16-717749-8」
「ショージ君の一日入門 東海林さだお 文春文庫 ISBN4-16-717709-9」
「以下、ボーダイ、これからね~ 
なんたって「ショージ君」 文春文庫

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塩竈みなと祭

2006-07-17 22:48:45 | ローカルな話題
お隣の港町で、第59回塩竈みなと祭
以前は7月10日鹽竈神社御例祭に行われていたが、現在は「海の日」に。
きょうは、あいにくの雨、午後の陸上パレードや踊りは、どしゃぶりの雨の中、子どもたちなど踊り手も見るほうも、ビデオカメラもびしょぬれ。
お隣の夏祭りなので、わが町内ケーブルテレビ番組の映像撮り。編集すれば10分程度の映像でもシナリオやらポイント決めもあって一日がかり。(というわりには、焦点ボケすみませぬ)

ことしは、初詣以来ごぶさた。志波彦神社・鹽竈神社の二基の御神輿が御神輿が202段の表坂を降りるところは帰ってから夕方のホンモノのテレビニュースで見た。装束に身を包んだ16名の輿丁で担ぎ手、なにせ1トン、一歩ずつ慎重。

御神輿と氏子さんの行列は市内を御神幸のあと御座船に奉安され海上を渡御する。鹽竈神社の御神輿が御座船「鳳凰丸」に、志波彦神社は「龍鳳丸」に、日本三景松島湾を渡る神輿の海上渡御は正午出発。

ボクは桟橋・マリンゲート塩釜前で、この御発船から撮影。供奉船のほうは漁船や釣り船だから快速、ブォ~と波を蹴立てて。見物人いるとやりたくなるよなぁ。
神社二つの連合艦隊、出発はマリンゲート塩釜屋上から壮観、だけど今日は霧と雨にかすみ、残念。

13:30松島に寄港し神事のはず、このころ、こちらはイタリアンレストランで昼飯。ピッツァ食べ切れない大きさ、隣のテーブルの3人組に食べてもらった。シャッターもおしてあげて。台湾もデジカメですね!

陸上パレードがハーレー・ダビッドソンおじさん隊!(はれっ~、いっちゃった写真)を皮切りに、59年間も踊っているという塩竃婦人会の「ハットセ踊り」、続いて塩竃の小学校・中学校の殆ど全員参加の「よしこの踊り」。
「よしこの」とは、江戸時代に流行した「よしこの節」という日本独特のリズムでマーチ、サンバと並ぶ世界三大リズムの一つというが!?即興で歌い踊る。衣装や踊りも工夫して練習したのに今日はずぶぬれで皆たいへん、トップバッターS小学校には、そういえばハトコの新米先生いたはず、映像入ってればいいけど...みんな元気いっぱいだったから風邪引かないよな!
    
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