Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

チャレンジャー・イチロー

2008-01-03 01:48:51 | テレビ・インターネット
新年、いいテレビを観た。NHK総合1月2日21:00~「プロフェッショナル」の<イチロー・スペシャル、メジャー舞台裏の密着>。
2007年シーズンは、記録や期待・周囲のものすごいプレッシャから追われるのではなく、自ら迎え撃ちにいった、という。
以前に観たドキュメンタリでも感じたが、彼はすでに技術的にはあることを掴みきって開眼していたようなのだ。そのうえで昨シーズンからは、つぎのなにかを追いかけている。

器用過ぎて反応がよすぎるのか、ストライクゾーン以外にも手が出てしまう。これがなければ、もっといけるという。
本塁打は狙って打つ、かれはいつでも打てるのだ。本当はだれよりも長距離飛ばすのもうまい。打撃練習では殆どがスタンド入り。では、なぜコツコツのヒットメーカをつづけるのかは、僕には分からない。

イチローのまわりは、もはや記録の山だ。結果は数字が最大の表現だし、楽しめる記録ではあるのだが、プロスポーツを楽しむならば瞬間の芸が好きだ。
プロ野球に興味がなくなって久しい。テレビ中継の数時間が無駄なのだ。それでもMLBはタマに観る。ゲームのスピード感と映像の迫力が、こちらとは、まるで違うからだ。日本の映像が面白くないのは、対象に思い入れもないヒトが会社の仕事としてギリでやっているからだろう。ネット裏からのバッテリの画像が大半では、野村スコープで工夫してもプロ意識不足の選手も含めて退屈テレビ。

かつて安打製造機といわれた張本勲は、スタンスをピタっと定めるや下半身はぶれず九十度全方位に打ち返した。4番サード長島、ピッチャが投球動作に入るたびに獲物を狙う姿勢に伏せ、軽快なフットワークとサイドスローでベースに足が着いてたのかわからないファーストの王に送る。長島のフィールディングは、なんでもないゴロでもいかにも難しそうに、でも華麗に捌いたようにみせるのであった。
ああいう動きがプロフェッショナルのしごとであった。記録ではなく映像の、それも記憶の島の中だけにある。

シーズン最後の打席後にセンタの守備に着いたイチローの目が潤んでいた。何度も後ろを向いて、目をぬぐっている。こんな一瞬の映像は何より雄弁だ。
毎朝カレーライスを食べながら、ことしはいったいどんなすごいプレーをやってくれるのだろう。
いいなあ、いつまでもかれはチャレンジャーだ。そして、いい顔になってきた。

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ラデツキー行進曲

2008-01-01 23:48:50 | 音楽・芸術・文学

新年おめでとうございます。

ウィーン Wienからはじめますか、ウィーン・フィル Wiener Philharmoniker のニューイヤーコンサート Das Neujahrskonzert der Wiener Philharmoniker 
今年は、ジョルジョ・プレートル Georges Prêtre 指揮、ウィーンでサッカーのFIFAヨーロッパ選手権もあるとかで、ボールやらイエロー・レッドカードまで飛び出して面白い遊びごころ。オーストリアは、サッカーもはてな?むかしも軍隊のカッコは勇ましそうだったが、実戦となるとそんなに...行進曲だけはいかにも軽快。

ダタダン・ダタダン・ダタダンダンダン...ラデツキー行進曲 Radetzkymarchは、親父の方・ヨハン・シュトラウス1世 Johann Baptist Strauss の作曲した行進曲。これやらない年あったがどうも最後盛りあがんない。

「青き美しきドナウ」の息子ヨハン・シュトラウス2世、彼からなら曾祖父ミヒャエルはハンガリー出身のユダヤ人でキリスト教に改宗し、ドイツ名のシュトラウスを名乗った。この曾祖父はユダヤ人出自を隠し、祖父はせっかく始めた居酒屋が倒産、ドナウ川に身を投げた。

十九世紀初頭、酒場や料理店で演奏する無数の楽士がいた。リンツ Linzの楽士たちは三拍子の曲、田舎風の素朴なワルツを弾いていた。ヨハンは奉公先の製本屋を飛び出して、流しの楽士をするかたわらワルツの作曲も始め自分の楽団を作って独立、宮廷舞踏会の音楽監督までになった。息子が音楽家になるのはヨハンは反対で無理やり工科学校に入れる。それでも息子は密かに音楽を志し、そんな息子を母が援護した。ヨハンは父と同様自らの楽団を作ってデヴュー、ヴァイオリン片手に指揮を取る新しいスタイルで大成功、次々と新作のワルツを繰り出し、父のライバルになり、最後には父を超えた。

さて、父シュトラウスのほう1846年宮廷舞踏会指揮者になった。シュトラウス親子はそれぞれ市民連隊の軍楽隊長として行進曲を指揮、そこに三月革命勃発、新たに結成された国民軍で父は革命に協力、あとで息子も政治的計算をしながら加わる。しかし父が革命から離れていく、彼は、市民・ブルジョア側だったのだ。


ワルツ一家にすまぬがラデツキー行進曲にもどれば、これは1848年の作。この年5月にラデツキー Joseph Radetzky von Radetz将軍がサルディニア軍のイタリア戦に勝利している。しかし父ヨハンがこの行進曲で讃えたのはこの年の活躍ではなく、1813年にナポレオンを破ったライプチッヒ会戦 Battle of Leipzigでのラデツキーである。8月に初演したが、革命派からは裏切り者呼ばわりをされた。....父ヨハン、翌年1849年、愛人宅で亡くなった。




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画像; Wikipedia Johann Strauss (padre)
本文の内容は以下を参照、一部引用によります。 
「ハプスブルク文化紀行 倉田稔 NHKブックス ISBN4-14-091058-5」
ハプスブルク文化紀行 (NHKブックス)クリエーター情報なし日本放送出版協会

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