Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

百人一首の年頭所感

2024-01-12 23:02:56 | 音楽・芸術・文学

 一昨年、百人一首などを手がかりに親しんできた「やまと歌」鑑賞などを集め「Storia異人列伝(Ⅵ)ーやまと歌・百人一首ー」をAMAZONから出版し、和歌、俳句、川柳、狂歌まで好きな日本の歌500ぐらいを記録と記憶にとどめたはずだった。正岡子規、白洲正子、井上靖、丸谷才一、田辺聖子、辻邦生、堀田善衛・・・和歌の造詣深き先達に道案内をお願いしての「やまと歌の旅」だから内容は確かなのだが、読んでくれるのは自分だけ!?それにもめげずにその後も堀田善衛「明月記私抄」や、織田小吉「絢爛たる暗号」村井康彦「藤原定家明月記の世界」などを読み返している。文学と人間、人生への深い洞察、そして何より歌の心がわかるおひとは堀田善衛先生であろうか。

ただ、「絢爛たる暗号 ー 百人一首の謎解き」で知った織田さんの推理と探求は、これまた学者にはない大胆かつ鋭利な掘り下げであった。百人一首すらうろ覚え、どんどん忘れるばかりのわが記憶の島の助けにすべく、織田さんの解析した「小倉山荘色紙和歌」関連復元図をカルタの絵札を使って大きくした。この半年、ムスメが(息抜きで?)競技かるたに関心があるようなので対戦してみれば、いつも完敗。あんなものは歌の世界ではなくいわば体育会系の遊びじゃないか。。。でも悔しいのでこれではならじとわが庵の襖にかけて眺めている。わが文字の不味さは別にして、あらためて、定家という歌人はタダモノではないなと感心することしきり。

このお正月、YAHOOニュースで見れば箱根駅伝の勢いのせいか青学の院生が競技かるたのクイーン位を獲ったようだ。ついでに目に止まってびっくりした記事が貴乃花、「再婚相手は初恋の人です」のお話だ。文春オンラインを辿ればいいが、あの時の拾い読みだけでも素晴らしいドラマであった。彼はなんと純真で素直な男なのだろう。ひさしぶりのいい笑顔だなあ。そっとしておいてあげればいい。

ああいうこともあるんだ。ぼくの図屏風から拾ってみれば、こんなかなあ。おひめさまの歌が好きだよとLIINEでいったら、ふみえちゃんからはおとこのもいいよと、数秒後?に返ってきた。こういうひと、いいね。

あらざらむこの世のほかの思ひでに 今ひとたびの逢ふこともがな(和泉式部)

君がため惜しからざりし命さへ 長くもながと思ひけるかな(藤原義孝)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二百十日に寄せて

2023-09-02 08:30:36 | 音楽・芸術・文学
もう9月1日か、それにしてもなんとも暑い今年だなあ。ねれ縁の上は、足の裏が火傷しそう。青空、陽射しはカンカン、なのに、そろそろ肉体労働のアルバイトに行く時間だ。
9月1日といえば1923年の関東大震災、これは大正12年。夭折した親父は生きてれば今年で100歳。
さらでだに、二百十日といえば正岡子規がとっさに詠んだ戯れ句が思い浮かぶ。少し長いが、「日本」新聞社に入ったころの逸話を引いてみる。
 
《『子規全集〈別巻 2〉回想の子規 (講談社) 』ー『日本新聞に於ける正岡子規君』 古島一念 より
。。。
 君が入社して先づ筆を執つたのが例の有名なる獺祭書屋俳話の一篇で、君が俳句上の所論を公けにした言はゞ俳句界革新の暁鐘であつた、僕は成程一寸變つた議論だとは思つたが、なに高が十七字のチョンノマ文學だ、善いも悪いもあつたものかと高をくゝつて居つた、
 すると間もなく岐蘇三十首なる漢詩が出て來た、漢詩の方は多少の趣味を以て居つたから其善悪位は分る、分る丈に是には痛く其腕前に驚いた、併し君は純粋なる文學者であつて新聞記者としては成功するや否やは尚ほ疑問を存して居つた、夫れだから或日の事であつた、新聞社の歸へり路に僕は君を引張つて、とある鳥屋に這入込んだ、そして僕は先輩然として俳句を新聞の上に應用する事に就ての工夫やら新聞文學なるものは一種の技倆を有する事などを説いた、君はそんな事は言はずとも知て居ると云ふ様な顔付で聞いて居つたが別に何にも言はなかつた、僕は其時の君の顔が何となく癪に障つてコイツ生意氣な奴だと思ふて居つた、それから一月も立つて丁度其年の二百十日であつた、日本新聞は發行停止を命ぜられた、僕は多少試験の氣味で君何か一句ないかと言つたら言下筆を把つて、
    君が代も二百十日は荒れにけり
とやつた、こいつはなかなか喰へぬ代物だ、よくもコンナに十七字の中にこなしつける事の出來るものだと只だもう譯けもなく矢鱈無性に感服して仕舞つた、君は大方腹の中でこいつも矢張り話せない月並連中だと笑つて居つたろう。
 併し予は此の一句を得てから自分の所論が成功したかの如く嬉しかつた、即ち青崖の評林と共に俳句の時事評を以て紙面を飾る事が出來ると思つたから今度は更らに時事を詠じて呉れと頼んだ、今となつて見るとコンナ事に君を煩したのは氣の毒であつたと後悔するが負ける事の嫌な君は快く此の注文を引受けて是より日々紙上君が俳文若しくは俳句を見ざるの日はなかつた、試みに其の二三の例を紹介しよう。(以下略)
。。。。》
 
さてと、ひと仕事終わって。。。。今夜の僕の二百十日は、昨日、子母澤寛の「勝海舟」を読み終えたから「海舟記念日」としておこう。高校のバレー部の2年上の主将だった成広先輩に勧められたのが今年2023年の節分のころ。半世紀前の出版の全6巻をタダ同然で手に入れれば、箱入り、セロファン紙カバーまでつく見事な本であった。だが、いかんせん、当方の気づく時期が半世紀遅れた。虫眼鏡まで使ってやっと読み終えた「勝海舟」これは、素晴らしい小説であった。僕も「Storia異人列伝(Ⅳ)ー明治維新ー」という稚拙な本をまとめたが、これも読んでいればまたまた内容が発散(深化ではなく!?)するところであったかもしれぬ。西郷と勝の合作の若者だった山本権兵衛が海軍大臣になったのを見届けての翌年明治32年1月、伯爵の勝海舟は亡くなった。最後に残した言葉は「コレデオシマイ」。100年前の二百十日、関東大震災時の首相は山本権兵衛であった。
 
勝麟太郎は、周りの人たちにべらんめえ調の江戸言葉で思いや、ぼやきやらを撒き散らす。むろん、しゃべりなど会話は、歴史小説作家の腕の見せ所、嘘八百も混じったものではあろう。しかしその内容と雰囲気がまさに本当のことに思えてしまう。話の中身と時間の流れは維新のころの史実を丹念に追いかけて書いたものだからだ。
このころのもう一人の人物西郷隆盛には、海音寺潮五郎が西郷への想いを通して見事な維新史を遺してくれた。倒れゆく徳川幕藩体制の側にも、子母澤寛が勝海舟という醒めた理性が存在していたことを書いて示してくれたのだった。新聞小説としての初出は太平洋戦争中の昭和16年から21年のころである。小説は、徳川家の駿府転封のごたごたあたりで突然に終わりを告げる。
 
戦後だいぶ経ってNHK大河ドラマにもなったようだ。この小説のままで、壮大なドラマになりその場の情景までが目に浮かぶのだ。麟太郎の口からは、行く末もわからぬ時勢の動きから様々な人物たちの生き様、死に様、江戸や大坂、京、長崎まで地理や四季折々の風物も、日々の小さな花々と雨風までを添えて詳しく語られる。このまま映像化すればドラマになるのだ。この小説家の力量である。
麟太郎を取り巻く人間模様、親父の小吉に始まり父母、愛妻、愛妾たち、義弟の佐久間象山、彼を慕う若き坂本龍馬ら。。。
子母澤寛の筆の下には、この時代の精密な調査と考察が潜む。封建時代の江戸幕府の役職の名称、位階、俸禄。。。若き麟太郎、壮年の勝安房守が動き回る江戸の町は江戸切絵図を横に置かないといけない。だが彼が動き回るのは狭い江戸だけではない。京、大坂、神戸、長崎、サンフランシスコ、ハワイ、広島、駿府。。。勝海舟という男は徳川家とその時代に最善の幕引きをしてくれた。「勝海舟」は、出処進退も潔い、素晴らしい人物の良き人生の物語であった。
 

(1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影、ja.wikipedia.org/wiki/勝海舟)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Storia異人列伝の全集本(!?)出版のお知らせ

2023-02-07 13:52:18 | 音楽・芸術・文学

当ブログにて公開してきた記事を集成したKindle電子本を順次ご紹介してきましたが、この度併せて全て印刷本としても出版しました。

,「Amazon」サイトにて(著者名)「佐竹則和」で検索すれば、全11冊の情報が表示されます。

まずは各本ごとの個別画面にて<試し読み>をご覧いただけければ幸いです。

 

著者:佐竹則和   2023.2.7

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Storia 異人列伝(Ⅶ)ーサムライと大和魂ー

2022-09-13 10:14:28 | 音楽・芸術・文学

標記タイトルの電子本は、十数年来当ブログにて公開してきた室町末期から江戸開闢まで戦国時代の傑物、織田信長、徳川家康。。。、文化人たちなどの記事を推敲・集成したものです。電子本化にあたっては残念ながら当ブログ上の関連記事、書籍紹介記事などは重複になるため非公開化または削除しています。これまで記事引用やリンク参照されている方にはお詫び申し上げます。以下にて、まとめてご覧いただければ幸いです。

著者:佐竹則和   2022.9,13

Storia 異人列伝(Ⅶ)ーサムライと大和魂ー

Amazon Services International, Inc.による

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「Storia 異人列伝(Ⅵ)ーやまと歌・百人一首ー」

2021-07-13 02:49:55 | 音楽・芸術・文学

標記タイトルの電子本は、十数年来当ブログにて公開してきた西行、定家、実朝などの歌人、和歌・川柳・俳句・狂歌・百人一首などの記事を推敲・集成したものです。電子本化にあたっては残念ながら当ブログ上の関連記事、書籍紹介記事などは重複することになるため非公開化または削除しています。これまで記事引用やリンク参照されている方にはお詫び申し上げます。以下にて、まとめてご覧いただければ幸いです。

著者:佐竹則和   2021.7.13

「Storia 異人列伝(Ⅵ)ーやまと歌・百人一首ー」

Amazon Services International, Inc.による

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

図書館の魔女 / 髙田大介

2020-03-17 22:22:59 | 音楽・芸術・文学

    図書館の魔女 (上・下)  /  髙田大介著 講談社

 高田大介さんを知ったのは、元はと言えば将棋の世界からの辿り着きである。ここ数年でネットでの動画配信、テレビ映像も急速に進歩・変貌し、将棋の対局番組でも持ち時間6時間さらには二日がかりのタイトル戦まで実況中継される素晴らしい環境になった。おかげで数十年ぶりで「将棋の世界」に触れ「観る将棋」としてハマって、現役棋士の人となり、声まで、ほとんど頭に入ってしまった。もっとも対局中継でも、1時間以上の長考に沈んで・・・となれば、番組制作側としては困るし僕みたいなミーハーなファンは飽きてしまうので、対局者の昼食、晩飯、おやつの紹介までにも工夫を凝らしているようだ。棋士たちはヒフミン以外は千円札でお釣りがくるような店屋物食べてる、お気の毒にと思っていたら、高田さんのMARGES DE LA LINGUISTIQUE  ⇨ 将棋指しが飯を食うに、遭遇した。

 高田さんのこの研究手控えブログに載っていた戯れ文は無論遊びだが、しかしかなりの将棋愛好家でないと書けないし、何より面白い多才なかたとお見受けした。さて、なにをしてるヒトだろう?言語学者であり小説も書くということでどちらが本業かは図りかねたが、まずは目についた「図書館の魔女」という小説、これが全くもって素晴らしい。続編の「烏の伝言」まで、単行本それぞれ厚さ3センチづつもある長編なのでツンドク状態だったが没入したら一気通貫に楽しませてもらった。学者の論文なら世間一般の目には触れず、その知見に触れることは難しい。最近の小説といえば空想妄想ファンタジーが多くあまり読む気が起きなかった。ところが、高田さんの小説、これは、違った。

 小説の読書感想など興ざめであるから、この小説の中で勉強になった箇所を数カ所引用させていただき、認知症寸前の我が頭脳のサポートにしたいと考えた。それが、以下の数カ所の引用である。
 「図書館」というもの、「書物」というもの、それらがかたち作る世界、「言葉」というもの、さらには「手話」、それらに触れた箇所だ。そして、図書館は人類の知の集積として、無害な読書人のためではなく、現実世界を動かす司令塔にもなりうる、という箇所だ 。

さて、図書館の魔女とはいったい何者なのか????ここからは、小説だから「検索」ではなく、自分で買って読むという知的で地味で、楽しい作業が待っている。こういう本がもっと世の中には知られて売れて、それこそ図書館でも目につくようになって欲しいと、心から思う。

>>>> (以下、「図書館の魔女 (上・下)  /  髙田大介著 講談社 」より引用 。。。。。部は中略)

>>>>。。。。

 キリヒトの方へ向き直ったマツリカは、厳しい視線で彼を射すくめるとますますぞんざいに右手を振るって言葉を継いだ。

ーーそんなわけで私が欲していたのは、ハルカゼに代わってハルカゼ並の仕事のできるものだった。ちょうど心当てに出来る人物が見当たらないので、顔が広いのが取り柄の爺に推挙を依頼したわけ。さて、そこでだがお前に務まるだろうか、キリヒト。

 キリヒトはどう応えていいものか判らなかった。自信がないといえば簡単だったかもしれないが、それでは自分の師匠をはじめ、自分を推挙した人々の期待に背くことになりかねない。返答に窮しているキリヒトに向かってマツリカはなおも言葉を重ねる。
ーー字も読めずに図書館の司書が務まるはずもないのはわかるね?しかし、そもそも字の読める読めないの問題ではない。司書というのが単にあっちの本棚に行き、こっちの本棚に戻りと、本を入れたり出したりするのが仕事だと思ったら大間違いだよ。

 こう言ってマツリカはこれから大事なことを言おうとする者が必ずそうするように息をすっと深くすった。もっとも、ふつうの人がするように、ここで声音を高めたのではない。マツリカはその代わりに、左手をキリヒトの目の前に突き出すと素早い手の動きで語り始めた。

ーー科学者でもいい、博物学の徒でも文献に沈くものでも構わないが、人がこの世界について何か新たに余人の知りえぬことを見いだしたと思ったとき、必ずや人は書物を著す。そのようにこの世界の森羅万象を明らめ、究めようと一冊の書物が生まれ、類書に並んでいく。こうして世界のありとあらゆる事どもを細大漏らさず記すべく数限りない書物が書架に背を並べ、やがては書物の詰まった棚の数々がそれじたい一つの世界をなして、網の目のように絡まりあって世界の全体を搦めとっていこうとする。これが図書館だよ。キリヒト。

 キリヒトには聞きなれぬ難しい言葉が、肘から先を鞭のようにふるうマツリカの手の動きに伴って次々と紡ぎ出されていく。ひらめく指先を目で追っているうちになんだか気が遠くなるようなきもちになってくる。図書館の書架の数々が自分の周りをめぐり出し、マツリカの指揮のままに渦を巻いて自分を翻弄しているかのように感じられてくる。キリヒトの目の前でまさにこの図書館が、そして螺旋をなしてどこまでも続いていく書架の列が、さらには一つひとつの書物が動き出してキリヒトの今まで知っていた世界を覆い尽くそうとしているようだ。なんだか本当に目まいがしてくる。

ーー図書館にある書物は、すべてが互いに関連しあって一つの稠密な世界を形づくっている。一冊いっさつの書物がそれぞれ世界に対する一片の知見を切り取り、それが嵌め絵のように集まって、大きな図を描いている。未だ知り得ぬ世界の全体を何とか窺おうとする者の前には、自分が自ら手にした心覚えと、人から学んだ世界の見かたとがせめぎ合い領分を争ってやまない。そしておのれ自身の認識と余人から預かる知見が、ほかのどこにも増して火花を散らしてせめぎ合うのが、ここ図書館だ。図書館は人の知りうる世界の縮図なんだ。図書館に携わるものの驕りを込めて言わせてもらえば、図書館こそ世界なんだよ。

。。。。。

ーーそれではキリヒト、お前は言葉のもう一つの基本的な性質のことを覚えているかな?

 キリヒトは思わず頷いたが、それは何だったか言ってみろと言われたら困ってしまったところだ。幸いマツリカ自身が答えを先に言ってくれた。
ーー言葉は小から大へ階層構造をもって組み上がっているといくということだ。有限の記号がこうして漸次複雑さの度合いを増して、世界そのものの複雑さに拮抗しようとする。それではキリヒト、書物は何で出来ている?

「・・・言葉で・・・でしょうか」
ーーよかろう。言葉を集めて、一つの書物が織りなされる。この書物が言葉の性質をそっくり受け継ぐだろうことは理解できるね?
「はい」正直に言えば理解してしているかどうかは判らないが、それは質問ではなかった。

ーーだとすると書物もまた時の進行に従い、一方通行の一条の線を成していることは明白だね?
「はい」自信に欠けた返答に、マツリカが助け船をだす。

ーー何も難しい話じゃない。本を逆に読んでいく人はいないでしょう。逆から書いていく人はいないでしょう。そういうことよ。
なるほど、それなら判るとキリヒトの目が明るくなる。

ーーそれではキリヒト、最後の質問、図書館は何で出来ている?
 キリヒトにも今度の質問の意味は明らかだった。削りだした岩盤やら、材木、漆喰、鋳鉄、そういうことを聞いているのではない。図書館を構成するもの、図書館が図書館であるためにそこになければならないもの、それは書物にほかならない。果たしてマツリカはキリヒトの答えを待たず、あとを続けた。

ーーもうすでに判っているだろう。図書館は書物の集積から織りなされた膨大な言葉の殿堂であり、いわば図書館そのものが、一冊の巨大な書物。そして収蔵される一冊いっさつの書物はそれぞれ、この世界をそのまま写しとろうとする巨大な書物の一頁をなしている。ではキリヒト、図書館もまた一冊の書物であるとすれば、その図書館の書物の性質をそっくり受け継ぐだろうことは理解できるね?したがってまた図書館が言葉の性質をそっくり受け継いでいることも理解できよう。言葉が互いに結びつきあい、階層を成して単位を大きくしていく、そのまっすぐ延長線上に図書館があり、世界の全体すらもまた同じ線上にある。無論この巨大な書物はどの頁を最初に取りあげてもよく、どの頁を読まなくて差し支えない。開くべき最初の頁、辿り着くべき最後の頁がどこにあるかも判らない。読み進むべき方向も明らかではない。にもかかわらず任意にいかなる頁を繙いても、そこには一条の不可逆の線が刻まれているだろう。

 縦に続くものもあれば横に続くものもある。左から右に並べられる言葉があり、右から左へくりひろげられる言葉があり、中には一行ごとに進む向きを変え「黎耕」する言葉もある。それなのにありとある言葉がただ一つの規則のみは遵守している。そこには必ず順序を持ち、前後の列を保つ、後戻りすることのない一本の線を成した言葉が刻まれているということ。図書館が一冊の書物である限り、図書館は言葉が享受する様々な力をひとしく持ちあわせるし、言葉が出て縛られるありとある桎梏をひとしく課せられている。なかんずく図書館の中の図書館と世界に謳われ、自らもまたそう嘯くこの「高い塔」が、言葉がそのものから立ちあがり、書物そのものから織りなされてある以上、その基本的な性質を曲げず受け継ぐのは理の当然だろう?
 故に、キリヒト、この図書館がまた一冊の書物である以上、順路は一方向にして不可逆、それに何の不思議があろう?

。。。。。

 しばしば勘違いされていることだが、手話というものは本来「声の代替物」ではない。つまり一般には、ある国語がまずあって、それを声で表すことも、手話で表わすことも出来ると誤解されがちなのであるが、これは手話の本質を突いてはいない。手話はそれ自体で独立した一つの言語なのであり、既存の音声言語に依存する代替的表現手段などではない。キリヒトもかつては、ここを誤解していた。手話は何かの、たとえば声の代理を果たすものだと何となく理解していたのだった。

 当たり前のことだが通常の音声言語は発声を前提とする。だから発声を前提とした構造化があって規則がある。手話という全く前提を異にする表現手段を。いつまでもこの音声言語の鋳型に無理に嵌めこんで、あたら矯めてしまうのは不合理なことで、植木鉢に魚を育てようとするような話である。

 手話は手指の動作ばかりではなく首の振り、眉や頰や口角や顎の様子、表情から視線すらをも動員して、空間的・多面的に展開される、音声言語とはまた別個の言語であって、手話ならではの文法規則や文の構造化要素の多くが、こうした全身的な挙措の総体として織りなされている。

 もともと聴覚や発声に障害を持つ者は家ごとに、それぞれ独自の「家庭内手話」とでもいうべきものをほとんど自発的に発達させるが、これがある程度の規模と歴史をもつ社会集団の中で自然、擦り合わされ、調整され、長い彫琢と練磨を経て、自分たちの要請に特化した一つの言語を結実させてきたのであった。

 イラムやマツリカの手話には、必ずしも音声言語にそのまま対応しない、独自の秩序、独自の構成原理のようなものがあり、それが彼女らの手話の表現力と発話速度を支えている。実際キリヒトは、ただ指を鳴らしただけ、ただ人を指差しただけに見えるしぐさで、マツリカがいかに雄弁に、傲然と命令を下すかを見てきた。

 もっともキリヒトもすぐに気付いたが、ひとくちに手話は別個の言語をなしているといっても、特にマツリカの手話は、いわば幾つものが重ね合わせられており、その内実は単純ではなかった。全てが純粋な手話の論理に従って組み立てられているわけではない。
 まず最初の層としては右に強調してきた純粋手話の層がある。これは音声言語の秩序化としばしば全く別個の構造規則を持つ層である。
 しかし聾者、唖者は数の上でまさる周囲の音声言語の話者と意思疎通することも避けるわけにはいかないから、音声言語を敷き写し出来る表現手段だって、どうしても必要になる。その極端な方法として、音声を全て手指で「書く」という方法、当該の言語の音を字母に「書く」のと同じように、手指の形と動きに変換する手段が考えられる。いわゆる「指文字」である。指文字は原理的には音声言語の全てを敷き写しにすることが出来る。

 だがもちろん指文字はけっして効率的な方法とは言い難い。指文字は発声に比べても手話に比べても、致命的に遅く、著しく誤認が多く、手話本来の表現資産を欠いた極めて不合理にして不便な手段なのである。
 それでも指文字がどうしても必要になる場面はある。例えばマツリカがキリヒトの名前を確かめたときのように人や土地のを発話したい時、あるいはとある「語」そのもの、綴りそのものが話題になっている時には、その「言葉」を書いて見せないわけにはいかなくなる。
 またマツリカがこととする文献学や書誌学、はたまた言語や文字の歴史が話題となるなら、事細かに音や文字を指定して話を進めなければならない。とりわけ写本の比較にことが及べば、誤記や綴りの変異がそのまま枢要な着眼点になるのだからことは一層繊細になる。

。。。。。。

 用兵と戦地の管理といった実学の粋を学んできたキリンには、古代の埒もない戯言が書かれた文献を再構したり、夢物語と区別も付かない偽の歴史書を発掘したりといった図書館の仕事が、虚しい虚学のように思われてならなかった。例えば架空の生き物を列挙した文献を収集、整理することにどんな意味があるというのだろう?

 それなのに高い塔は長らく一ノ谷の軍略の最終拠点と見なされてきているのである。キリンには無駄と思える本を山と集めた図書館が、時に王宮で具体的な戦術の拠りどころとなる理由がさっぱり判らなかった。キリンにとっては、必要な資料はぎりぎりまで絞り込んで、無駄なく漏れなく全ての手筋を眼前に晒したうえで、適切な一手を選ぶというのが最良で効率も良い方法に思われた。図書館はあまりにも不透明で、無秩序で、規模が大きすぎ、限られた時間の中で限られた情報を持って決断しなければならない現実での方針決定に対して有効なものとは思われない。

 ところがそれでありながら、自分のお家芸である読みの深さと、情報を絞り込んだところから下す即断の勝負において、実際にキリンは図書館の後塵を拝していた。つまりキリンは図書館に将棋で連敗を続けていたのであった。

 ことの起こりはこうである。キリンがカリームのもとに身を寄せるようになって、ひとつ思いがけず有り難かったのは、カリームが一ノ谷との連絡に毎日伝令を一組往来させていたことである。キリンにとってこれが特別意味を持ったのは、一ノ谷の古書店組合の重鎮のひとりと通信で対局を進めていたからであった。すでに西方ではキリンは手合わせをする棋士に事欠いていたのである。

 この対局相手の紹介で、キリンは海峡向こうの一ノ谷本土に、未だ顔も見ぬ強敵を何人か知ることになった。カリームは自分の抱えている軍師の一人が、その知略を穏当な形で世間に知らしむるのをむしろ好ましいことだと考え、自ら身元の紹介先を引き受けてキリンの将棋による外交を支援した。実際の用兵と抽象的な知的遊戯ではもちろんことの本質は異なる。それでももっぱら同じ条件で純粋な知力を競うこの遊戯に人がとりわけの関心を持っていたのは、当代でもっとも強い将棋指しと名指しされている一群の一劃に、長らく高い塔の先代タイキが君臨していたという理由があった。それで人は誰も、この策略と知謀をめぐる洗練された遊戯を単なる卓上の手遊び、有閑階級の余技とは考えず、あたかも軍略に長けた者達が脳髄を持って鎬を削る模擬戦のごときものと考えていたのであった。

 。。。。

<<<<

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初手 将棋の子/大崎善生

2019-03-27 18:49:23 | 音楽・芸術・文学

  

 まだまだ寒いし、生活習慣(病?)がマズイせいで血糖値がオカシイ。などとツマンナイことばかりでコタツに潜り込んで観るはAbemaTV将棋チャンネル。ある日ムスメが現れPC画面をちらり、ボーッとしてんじゃねえよ~という感じで、文庫本をよこした。それが、「将棋の子」。数日して次が飛んできて「しょったんの奇跡」。なぜにムスメが、こんな将棋の世界の本、こういう世界を見ているかはイマイチ判然としないが、まあ、いいのではないかい。どれも読んでいなかったし、どれもすばらしかったからだ。こうなると気になっていた「聖の青春」も一気読み、これは逆にムスメに貸してやった。エネルギーが多少湧いてきたので、初手から三手目まで三作をメモしておくことにした。連日、半ボラお仕事も年度末、総会準備で綱渡りの日々、こんなことやってていいのか、1分将棋みたいな今週であった。。。よんじゅうびょう、ごじゅうびょう、いちっ、にい、さん、しい、、まあ、いそがしいほど、冴えってものは出てくるのだ。。。

 藤井聡太クンが現れ「将棋世界」表紙を飾っているのを見て、何十年ぶりかで毎月買っていた。この新人、むむ、これは、何十年に一人の逸材だ。こちとら今さらリアルにヘボ将棋をやる気も起きないから、もっぱら図上演習というか研究と鑑賞。棋譜をならべても時間ばかりかかって途中図とも合わず、どっか抜けたかな!?で、将棋盤はただのサイドテーブルに。今の時代の環境ならPCのヴァーチャル画面の方が。。。だいたい猫パンチが飛んで来たら盤面はぐちゃぐちゃ、それこそ「矢倉は終わった~」

 将棋の世界というのは、実業ではなく虚業の世界(?)なので、ときに将棋そのものよりその周辺も楽しめるものだ。大好きだった米長さんいなくなって寂しいが(そういえば今の僕の歳で亡くなられたのだ)、最近は若くて元気なのがいっぱい出てきて何より。対局中バナナとフィナンシェのテンコ盛りの永瀬、努力家とか皆がいうが、あれじゃあ血糖値ダイジョーブかね?
 そのむかし子供の頃、雨が降ると菅野さんちの食堂で皆で「待った」ばっかしの将棋あそびしてたっけ。将棋指しになるという一手もあったのかなあ???いやいや、棋士なんか、運も含め本当にほんの一握りの人しか成れないものなんやろ。将棋で感想戦というのがあるが、あれはやだね。人生の感想戦なんかも、みんなやりたいもんかね?!

******************

<<以下  「将棋の子」 大崎善生 講談社文庫  より引用>>

。。。

時計は午前一時を指していた。
成田は明日午前6時には起きてご飯と納豆をかきこみ、叩きとして走り回る一日が待っている。私は東京へ帰らなければならない。
別れる時間が確実に近づいていた。
「将棋界のこと知っているの?」と私は聞いた。
「いや、まったく何も知らない」と成田は答えた。
「いまの名人は?」
「いや、知らない。こっち、雑誌も新聞も見ないから」
「丸山忠久」と私は言った。
「丸山?そんなのいたっけ」
「奨励会、いっしょだったはずだよ」
「ああ、じゃあおとなしい子だったんだ。名前はなんとなく覚えている。そう言われてみれば」
「羽生さんが七冠王になったのは?」
「それは知っている。テレビでもやっていたもん。こっちが栗山に戻ったころかなあ」
「驚いた?」
「そりゃ、驚いたさ。だって、こっち奨励会でやってたころは、羽生君まだ子供だったもん。可愛い子だった。あの子が七冠を全部とるとはすごいよねえ」
「羽生善治はすごい」と私は言った。
「うん。ハブゼンはすごい」と成田は言った。
それはずいぶんと久しぶりに聞く奨励会時代の羽生のニックネームだった。羽生が頂点へぐいぐいと駆け上がっていくにつれてそう呼ぶものはだれもいなくなっていった。しかし、成田の時計はそこで、その時代のまま止まっているのである。
「奨励会時代の対羽生戦は、何勝何敗?」と私は聞いた。
「0勝4敗」と成田は間髪を入れずにそう答えた。
「全然勝てなかったの、子供に」
「ああ、こっち一回も勝てなかった」と言って成田は嬉しそうに笑った。
「羽生善治、好きか?」と私は聞いた。
「好きだよ」と成田は言った。
「一回も勝てなくても」
「ああ、こっちの、なんていうか誇りだ」
「誇り?」
「そう、一回も勝てなくたってハブゼンはこっちの人生の誇りだよ」と成田は顔を輝かせた。
「明日早いんだろ?」と私は言った。
「うん、いつも通りだよ」と成田は答えた。
「じゃあ、そろそろ帰らなきゃな」
「うん」
「悪かったな遅くまで」と私が言うと成田は引き止めるように言った。
「こっち、奨励会時代からずっと持っているものがあるんだ。見る?」
「なんだ?」と私が聞くと成田はニコニコしながら財布を取り出し、その中から一枚のカードのようなものを大切そうに抜き取った。
「なんだと思う?」と成田は言う。
なんだろうなと私は考えた。母の写真はもう一枚も持っていないと言っていた。佐知子との写真だろうか。あるいは、どこかの道場の棋力認定証、または指導棋士の証明証。私はそれをつぎつぎに言ってみたけれど、成田はことごとく首を振った。
「いいでしょう、これ」と言って成田はテーブルの上にそれをもったいつけながら置いた。
森昌子のブロマイドだった。
「はは」それを見て私は思わず吹き出してしまった。決して美人とは言えない森昌子が、パンダのような化粧をして演歌を熱唱している写真だった。彼女の人のよさと心の純粋さと、歌を信じる心の強さのようなものがそこには映しだされていた。
「いいでしょう、森昌子」と成田は言った。
「ああ、いいね。確かにいい写真だ」
「駒とこれ。それだけさ。こっちに残ったものは。この二つだけは肌身離さずもって歩いているんだ、こっち」
その成田の言葉を聞きながら、私は思った。では自分はいったい何を大切にして、なにを肌身離さず持ち歩いているというのだろうか。どんなに苦しいときにも、少しだけでも成田の心を一瞬解放してくれた、一組の駒と一枚の写真。それにまさる宝物を私は何一つ持っていない。 

 棋士になっても不幸になっていく人間を私は千駄ヶ谷にいて何人も見てきた。どんな名声や勝利を勝ち得ても、人を信じることも優しくすることもできない棋士もいた。ただ生活のためにわずか150人の競争にあけくれ、人を追い落とすことだけに長けていく棋士もいた。そういう人間たちを私はすぐそばでそしてこの目ではっきりと見てきた。もちろんそうではない棋士も大勢いる。しかし、確実にそうである棋士がいることもまた事実である。
 将棋に利ばかりを追い求め、自分が将棋に施された優しさに気づこうともしない棋士と比べて、ここにいる成田は何と幸せなのだろうと私は思う。

 奨励会という制度が棋士になり勝つことによって金を得、生活権を得るための、ただそれだけものだとしたら、それだけのための競争だとしたら何というむなしいものだろうか。
将棋は厳しくはない。
本当は優しいものなのである。
もちろん制度は厳しくて、そして競争は激しい。しかし、結局のところ将棋は人間に何かを与え続けるだけで決して何も奪いはしない。
それを教えるための、そのことを知るための奨励会であってほしいと私は願う。

 店内に「蛍の光」が流れ始めていた。ウエイトレスたちは客がいなくなったテーブルをきれいに拭き清めていた。
「またしばらく会えないな」と私は言った。
「そうかあ」と成田は寂しそうにつぶやき、そして続けた。
「大崎さん、こっち時々大崎さんに電話してもいいかなあ」
「そりゃいいよ」
「でも、こっち長距離電話かけるお金ないんだよね。だから、本当に時々さ」
「コレクトコールにすればいい」
「何それ?」
「まあ、いいから。俺のところに電話をかけたくなったら公衆電話に十円玉入れて、それから106と押す。そうすればお金はかからないから」
「本当?106だね」
「ああ、本当。ちゃんと覚えておけよ」
店内の明かりが急に明るくなった。
「負けるなよ」と私は成田に言った。
「ああ、こっち負けないよ」
「英二。すこしでいいから、目線を上げろよ」
「目線?」
「そう、名人を目指せとは言わないけれど、すこしは上を向かなきゃ。英二だって昔は夢を目指して頑張っていたんだろ。それが君の誇りなんだから。僕なんかが逆立ちしたって立てない場所に立っていたんだから」
「奨励会のこと?」
「ああ、そうだ」
「逆立ちしたって立てない場所?」
「ああ、英二はそこにいた。それは事実なんだから」
「わかった」
「何もしてやれないけど、東京に友達がいる」
「友達?」
「そう。英二がそう言ったじゃないか」
「大崎さんのことかい」
そういう成田の目に涙がにじんでいた。
「だったら、こっち電話かけてもいいでしょ」と手で涙をぬぐいながら成田は言った。
「いいよ」
たとえ夢にいつかたどりつく場所があったとしても、きっとそれはここではないと私は思った。そんなはずはないと。
「寂しくなったら、電話するよ」
「ああ」
「コレクトコールだったね」
「そう、106だ」

ファミリーレストランを出ると、外は季節外れの雪が降っていた。空を見上げると、暗黒の闇の中から魔法のようにふわふわと白い雪が次々と舞い降りてくる。
「まいった、まいった」と成田は言った。
「明日も寒いなあ」と続けた成田の言葉が空気の中で白く煙った。
厳しい寒さの日に、戸を叩き続けると最初は激痛が手のひらから腕の中を走り抜ける。それを繰り返しているうちにやがて自分の手の感覚がなくなり、戸を叩くたびに、もしかしたら氷のように自分の拳は粉々に砕けてしまうのではないかという恐怖に襲われると成田は言っていた。
手袋をとると手が真っ赤に腫れ上がり、フーフーと息を吹きかけて、ひたすら痛みが通り過ぎるのを待つのだと。
「明日も大変だね」と私は言った。
「でも、寒さなんか平気だ」
「そうか」
「ああ、寒さなんか馴れてしまえば平気だよ」
自分に言い聞かせるように成田はそう強がった。
札幌に降る5月の雪のなかで私はタクシーを拾い、乗りこんだ。
「じゃあ、またな」と私は言った。
「うん、大崎さんいろいろとありがとう」と成田は言った。
タクシーが発車し、後ろを振り返るとしんしんと降り続ける雪のなかで成田はいつまでも手を振っている。まるで糸にあやつられた人形のように規則正く手を振り続けている。
 暗闇と白い雪、街灯の光と車のブレーキランプの赤や信号の青、サーチライトのようなさまざまな色に照らされて成田は直立不動で立ちつくしている。
「早く帰れよ」と私は口のなかでつぶやき、そして振り返るのをやめて、おそるおそるタクシーのルームミラーをのぞく。
成田は小さくなって、でも笑いながら手を振っている。
 私はその姿を見ているうちに涙が溢れてどうしようもなくなった。次々と新しい涙が溢れ、そして声を出して泣き出してしまった。
 あそこに、将棋の子が立っている。
 そして懸命に手を振っている。
 ミラーのなかに将棋の子がいる。
 将棋を愛し将棋を信じ、そして今も将棋に何かを与え続けられそのことに感謝している、40歳の元奨励会会員が立っている。
 雪になかにいる成田はニコニコと笑い、暖かいタクシーのなかで私は泣いている。
 まったくどういうことなんだろう。
「早く帰れ」と私はもう一度口のなかでつぶやいた。
「早く帰って布団にくるまって寝ろ」
 涙でゆがんだ景色のなかで、成田はだんだんと豆粒のように小さくなっていく。それでも、機械のように手を振っている。
 その姿は何重もの雪と光の洪水の中にまぎれ、やがてあとかたもなくその深みへと、ネオンの底へと完全に埋没していったのだった。 

 <エピローグ>

北海道からの旅を終え、その半年後の平成13年1月31日に私は日本将棋連盟を退職した。
わずか半年の間にさまざまな出来事が起きた。そのなかのいくつかは、将棋界のバランスがどこかで、しかも確実に崩れていくような出来事だった。
 瀬川晶司という三段で奨励会を退会した青年が、銀河戦という公式棋戦で7連勝という快挙をなしとげた。アマチュアがプロを相手に7人ごぼう抜きしてみせたのだ。。。。

 ******************

 

 うーん、こうなると、次は「しょったん」だね。瀬川さんは昨年の天童の人間将棋の解説で見たよ。現地では「しょったん」がこんど映画になるとの話題が出てたが、こちらは、ほ〜〜お、と思っただけ、ナニも知らなかったのでメンゴ。夢はあきらめずにね、そうすればいいことがあるんだ。藤井クンのあの連勝中に突入した順位戦初戦が、瀬川さんだったもんね〜、いい将棋でしたよ、いい出会いでしたね。瀬川さん、昨期竜王戦では敗者復活で勝ち上がって見事昇級してました、フッカツが得意なんだ、えらいね!!

<<以下 「 泣き虫 しょったんの奇跡」瀬川晶司 講談社文庫 より引用>>

。。。。

 応援の手紙やマスコミの取材は、ますます増える一方だった。将棋の調子も、明らかに落ちていた。奨励会を退会したあと、僕がいちばん大切にしてきた将棋を楽しむ気持ちが消え、年齢制限におびえていたあの頃のような覇気のなさが顔を出しはじめていた。
 これで僕がもし第二局に敗れ、第三局も当然のように一蹴され、立ち直れないまま第四局も負けて一勝もできずに挑戦失敗という結果に終わったら、いったいどうなるだろう。自分の人生がかかっているというプレッシャー以上に、その恐怖が大きかった。しかもいまのままでは、その可能性はかぎりなく高いのだ。
 やっぱり僕には、プロになることなど無理だったのだろうか。 

 試験将棋第一局から一週間ほど経ったある夜。
 会社から帰宅した僕はいつものように、その日に届いた郵便物を母から受け取って自室に入った。いつものように、名前も知らない人からの手紙ばかりに見えた。
 ところが、そのなかに一通、不思議な葉書があった。ドラえもんの絵が大きく印刷された葉書だった。その子どもっぽさに違和感があった。
 誰だろう?
 僕は子どもの頃、ドラえもんが好きだった。そのことを知っている人だろうか。ネクタイをゆるめながら葉書を裏返し、差出人の名を見る。
 あっ。
 その瞬間、僕は声をあげそうになった。
 葉書をもう一度ひっくり返し、ドラえもんの絵の上に書かれた文字を追う。
「だいじょうぶ。きっとよい道が拓かれます」
 いままで心の中で押し殺していたものが、堰を切ったようにこみ上げてくるのを感じた。嗚咽でのどが震え、文面が涙で見えなくなる。それを拭っては何度も読み返す。そのたびにまた、新しい涙があふれてくる。
 そうだった、すべては、このひとのおかげだった。
 何に対しても自信が持てなかった僕が、自分の意志で歩けるようになったのも。ここまでいろいろなことがあったけれどもなんとか生きてきて、いま夢のような大きな舞台に立つことができたのも。
 もとはといえば、すべてこの人のおかげだった。
 この人に教えられたことを、僕はすっかり忘れていた。いつのまにか僕は、僕でなくなっていた。僕は、僕に戻ろう。僕は、僕でいいのだから。
 心の中にできた固い岩をすべて溶かしきるまで、僕は泣きつづけた。


「では、行ってきます」
 八月十三日。部屋のいちばん目立つところに貼ったドラえもんの葉書にそう挨拶して、僕は試験将棋第二局を戦うために大阪に出発した。
 翌十四日、神吉宏充六段を破って試験将棋初勝利をあげた僕が、その後の記者会見で、万感の思いを込めてこう答えた。
「いままでの人生で、いちばんうれしい勝利です」

。。。。 >>>

 

( 「大崎善生 解説 」より)
 奨励会退会後の奨励会会員たちのその後の人生は、本当にさまざまだ。小学生時代から文字通り将棋に明け暮れ、それだけを人生の目標にしてきた彼らが、ある日突然にその自分という人格を形成していたはずの骨格をはがされ、すべての価値観を測っていたメジャーをはずされてしまう。
 。。。。
 二十歳前後の社会的な経験もほとんどない彼らが、いきなり身ぐるみはがされて真冬の路上に放り投げられ、そして決断を迫られる。自分の今までの人生とはなんだったのか、将棋とはなんだったのか。それに挫折した自分はこれから何を指針にして生きていけばいいのか。第一、どこに行って何をすればいいのか。どこに行けるのか。
 本書を読んでいると私の目からはクールでスマートに見えた瀬川さんも、やはり同じような苦しみの中で、タールの海を泳いでいた時期があったのだといまさらながらに気づかせられる。考えてみれば当たり前のことで、誰もが簡単に自分の存在価値を捨てられないように、奨励会員がクールに将棋と訣別などできるわけがないのである。
 身を切り裂くような思いで将棋に対して線を引いたはずの瀬川さんの人生が、やがて微妙な航跡を辿りはじめる。対プロ7連勝や八段や九段への勝利をはじめとして、常識では考えられないような成績を次々と残していくのだ。
 プロをものともしないアマ。
 目の前で起こる実現不可能だったはずの奇跡。
 それを次々とおこしていく瀬川という青年。
 アマチュアはそんな夢のようなスターの出現に胸を熱くして声援を送り、瀬川さんはそれ以上の活躍で応えてみせた。訣別したはずのプロ将棋、線引きが済んだはずの将棋そのものが、まるで陽炎のようにゆらめきながら再び自分の人生に近づいてくることに、果たして彼は喜びと恐怖のそのどちらを感じていたことだろうか。
 世間は動き始めた。
 瀬川さんの意思とは違うところで。彼をこのまま放置することはプロ棋士の存在理由さえも揺るがしかねない。そんなところまできてしまっていたのである。そしてついに提示される、あまりにも大胆で未曾有の決着の仕方。
 それが棋界史に輝くプロ編入試験だ。
。。。
 瀬川さんの人生のみならず将棋の歴史を大きく変えることになった奨励会退会者による編入試験は、施行方法に賛否両論を抱えながらも、大きな世間の注目を浴びながらスタートした。将棋が社会全体から注目されるという意味で羽生善治七冠誕生以来の大ニュースだった。七冠の完全制覇が奇跡の達成を目の当たりにしたいという意味で注目されたとすれば、瀬川さんの編入試験は一度は挫折を味わった経験のある日本中の多くの人間たちから共感を持って注目されることになった。

夢を追う姿。
決して諦めない姿。
それも一度は挫折した夢に再びかじりつくように追う姿。現実的には見られそうでいて滅多に見ることのできない、そのありのままの姿が公開の場にさらされ、一歩一歩もがきながらも瀬川さんは手足をばたつかせ続けた。
そしてついにくる熱狂の日。
タールの海を渡りきった彼を待ち受けていたのは、二度と戻ることのできなかったはずの夢の場所。
プロの四段だったのだ。

。。。。
平成十七年十一月六日深夜。
わたしの携帯が鳴った。ディスプレイを見ると瀬川晶司とある。
。。。。


 **************************

 「将棋世界」の編集長を十年やった大崎善生のデビュー作「聖の青春」が2016年に映画化され、「村山聖は18年ぶりに戻ってきた」という。映像はともかく、話題になるのはいいことだ。日本将棋連盟HPの最近の将棋コラムに、「将棋界の師弟関係の魅力に迫る」という記事がある。2017年に引退された森信雄七段の最初のお弟子さんが村山聖。いまや森一門は西の大所帯、山崎隆之、糸谷哲郎、増田裕司、安用寺孝功、片上大輔、澤田真吾、大石直嗣、千田翔太、竹内雄悟、室谷由紀、山口絵美菜、石本さくら。

<<以下、青色字「聖の青春 (角川文庫) - 大崎 善生」より引用 >>

 <<プロローグより>>
 。。。
 平成10年8月8日、一人の棋士が死んだ。
 村山聖、29歳。将棋界の最高峰であるA級に在籍したままの死であった。
 村山は幼くしてネフローゼを患いその宿命ともいえる疾患とともに成長し、熾烈で純粋な人生をまっとうした。彼の29年は病気との闘いの29年間でもあった。
 村山は多くの愛に支えられて生きた。
 肉親の愛、友人の愛、そして師匠の愛。

 もうひとつ、村山をささえたものがあったとすればそれは将棋だった。
将棋は病院のベッドで生活する少年にとって、限りなく広がる空であった。
少年は大きな夢を思い描き、青空を自由にそして闊達に飛び回った。それははるかな名人につづいている空だった。その空を飛ぶために、少年はありとあらゆる 努力をし全精力を傾け、類まれな集中力と強い意志ではばたきつづけた。
 夢がかなう、もう一歩のところに村山はいた。果てしない競争と淘汰を勝ち抜き、村山は名人への扉の前に立っていた。
 しかし、どんな障害も乗り越えてきた村山に、さらに大きな試練が待ち受ける。
 進行性膀胱癌。

。。。。。。。 

 平成元年の冬、将棋界を揺るがす大事件が起こった。将棋界の最高棋戦、竜王戦で羽生善治が島朗竜王を下し、わずか19歳で将棋界の頂点に立ったのである。
 東京グランドホテルの対局室、ぐるりと取り囲んだ報道陣が間断なく浴びせるフラッシュの光の中で「地位の重さについていけるかどうか心配です」と羽生はかすれた声を振りしぼるように語った。部屋はニュースター誕生の興奮と4勝3敗1持将棋という白熱の大接戦の余韻がさめやらなかった。
 天才棋士出現の報は将棋界をつき破るように日本中を駆け巡り、羽生善治の名は一夜にして広く世間に轟きわたることとなったのである。

 そんな同世代棋士の活躍を横目に見ながら、村山の棋士生活は伏在する体調面の問題との戦いであった。健康状態がすぐれないときは黒星がたまっていく。そしてその黒星がまた体に悪影響をあたえるというどうしようもない悪循環の中でのたうちまわるような日々がつづくのだった。
 体調が戻ればみるみるうちに勝ちはじめる。勝てば体も楽になる、10連勝くらいは何度も記録している。しかし、好不調の波が大きく、なかなか1年間安定した状態でいることはむずかしい。したがって順位戦のリーグでは毎年本命といわれながら、C級1組に3年間足止めを食うことになる。
 その間、結局村山は前田アパートと将棋会館と師匠のマンションのトライアングルの中を行き来する生活パターンをひたすら繰りかえした。羽生がどんなに強くても自分にできることはそう多くはないというのもまた厳然とした事実なのであった。
 そう。村山にできること。それはいままでの反復しかない。毎日将棋会館にいき棋譜を徹底的に調べ上げる。そして、奨励会員をつかまえ、10秒将棋の特訓をする。深夜部屋に戻り、詰将棋を朝まで解く。将棋に勝とうが負けようが村山は、がむしゃらに同じ勉強法を繰りかえし、またそれを信じるしかなかったのである。

 このころ、村山は東京の棋士ともつきあいをはじめた。森雞二、野本虎次、滝誠一郎、先崎学ら、みな麻雀のつきあいである。対局で東京に出てくると必ず麻雀に誘われるようになっていた。
 勝つことに無我夢中で、そのことに全身全霊を傾けているような村山と卓を囲むことが、将棋界でもなうての麻雀の強豪たちに新鮮に映ったのである。まるで真剣勝負のように牌を自摸り投げ捨てる。勝ち負けに徹底的にこだわる村山の麻雀はあっと言う間に東京でも評判になった。
 ある日は早朝の病院での注射の予約を無視して、卓を囲みつづけた。その日の終電で帰るつもりが、翌日の終電になってしまうようなことがしょちゅうだった。もちろん、そんなことが体によくないのは百も承知だったが、しかし限界ぎりぎりまで村山は遊んだ。まるで、夏の光がそう長くはつづかないことを知りつくしている北国の動物たちのように。
 C級1組に停滞した3年間、それは村山にとってある意味では幸せな日々だったといえるのかもしれない。

 そんな村山を森は許していた。深酒をしても、麻雀で徹夜をしても森は決して怒らなかった。それによってしか得ることのできないものがあることを森は知っていたし、そしてそれがどんなに無駄に見えたとしても決してそうではないことも知っていた。少年時代から入院と対局を繰りかえしてきた村山が、それ以外の人生の広がりを模索することはむしろ、ごく自然なことのように森には思えていたのである。
 そんな月日を送りながら、村山は22歳の秋を迎えていた。 

 11月2日、大山康晴十五世名人を準決勝で破った村山は天王戦の決勝に進出した。
体調は最悪だった。そんな中で村山は全棋士参加棋戦の決勝戦まで勝ち進んだのである。
決勝の相手は谷川浩司。幼い日から、夢にまで見た相手との檜舞台である。しかし、村山の気持ちは一向に高ぶらない、どうにも体調が悪すぎるのである。
 天王戦の決勝は静岡県の伊豆が対局場である。立会人がつき、ファンを集めての大盤解説会がおこなわれるなど、タイトル戦同様の規模の一大イベントである。
 その決勝の前々日、村山はある決心をした。
 不戦敗である。前田アパートから、階段を下りて外に出るだけで精いっぱいという状態だった。高熱は少しも容赦してくれない。そんな自分が静岡までいって対局ができるわけがない。
そんなことをしたら取りかえしのつかないことになる、という恐怖心が村山をわしづかみにして離さなかった。
 その旨を村山は大阪の手合係に打診した。そして、その話は森へと伝わった。
 森の判断は速かった。即座に前田アパートにいき、村山に告げた。
「もし、指せなかったら、引退するしかない、それでもええんやな」
汗ばんだ額に手を当ててみるとかわいそうなくらいに熱い。しかし、森は心を鬼にして言った。
「何度か不戦敗しているが、今回はちょっと意味が違う。新聞社の人たちが何ヶ月もかけて対局場を設営して、立会人を依頼して、そしてこの決勝戦のために1年間棋士たちの棋譜を新聞に掲載してきたんや。それを、全部むだにしてしまうということなんやぞ」
 村山は何も言わずに悲しそうな目を虚空に投げかけていた。

「ファンやスポンサーのために棋士は全力で将棋を指す、それが宿命であり責任なんや。もし、それが果たせないのなら残念だけど引退するしかない。それで、ええんやな」
村山は、はいともいいえとも言わなかった。その代わりに高熱で苦しいのか、時々うめき声をあげるのである。
大淀ハイツに戻った森の気持ちはすぐれなかった。村山の体が棋士として無理なのかと思うことが一番つらかった。手には汗ばんだ村山の額の温もりが残っている。その温もりは何も語らない村山の悲しみや悔しさを代弁しているように森には思えた。
 明日、将棋連盟に不戦敗と弟子の引退を申し出ようと陰鬱な気持ちで考えていた。

 そのとき、部屋の電話が鳴った。村山からだった。
「僕、引退しなければいけないんですか」
「ああ、冴えんけどしょうがないなあ」
「僕、静岡に行きます」
村山は電話口で声を振りしぼるように言った。声が涙ぐんでいた。
「将棋を指します。だから、僕を引退させないでください」という声が震えていた。
「そうか。じゃあ、明日一緒に静岡にいこう」
「森先生も行ってくれるんですか?」
「一人じゃむりやろう」
「ありがとうございます」という小さな村山の声で電話は切れた。

 森は大急ぎで、明日の稽古の代役を後輩の棋士に頼み込み、急遽静岡行きを決めた。
二人は新幹線で三島まで行き、そこからタクシーで伊豆に向かった。村山はぐったりと座席にもたれたまま、殆んど口も利かなかった。森は煙草を吸いながらタクシーの中からただ深い暗闇を見つめていた。村山の状態を見ていると、とてもじゃないが、あす対局に臨めるようには思えなかった。このまま対局させれば、本当にこの子は死んでしまうかもしれない。不戦敗の判断は側にいて自分がくだすしかないそれがたとえ棋士村山の終わりを意味することになったとしても。

 寄り添うように二人は伊豆のホテルにたどりついた。
森は村山の額に濡れタオルをあて、一晩中それを交換した。40度近い熱に、替えたばかりの濡れタオルがあっという間に湯気を立てはじめる。何度も何度も同じ作業をくりかえしながら、やがて森は諦めの気持ちを抱きはじめていた。東の空がうっすらと白んでいた。森はいつしかうとうとと村山の傍らでまどろんでいた。はっとわれにかえり、額に手を当ててタオルを替え、またうとうとする。 

 そんな二人に奇跡が起こった。
森は何度目かのまどろみからわれにかえった。部屋はもう完全に明るくなっていた。目をやるとうんうんうなりながら寝ていたはずの村山の目がパッチリとひらいているではないか。森は慌てて村山の額に手を当てた。するとどうだろう、村山の熱が嘘のように引いているではないか。
「大丈夫か」と森が聞くと「はい」と村山は力強く答えた。
「よかったなあ。これで、まだ将棋が指せるなあ」
「はい」
そして、村山は対局に臨んだ。将棋は谷川の攻めが冴えわたり村山のボロ負けに終わった。しかし、村山はなんとか棋士の責任を全うすることができた。勝ち負け以上にそのことが森と村山に与えた喜びは計りしれないものがあった。

。。。

************************

(大崎さんに謝辞)

大崎善生さん、いいお仕事をしてくれました。そして彼は、夢だった小説を書く。。。うーん、なかなかいいね、ハルキ・一門かなあ!?。。。。
パイロットフィッシュ
アジアンタムブルー

こちらも、うるうるだなあ。。。

優しい子よ 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上春樹の単行本はいいね

2017-07-28 00:43:29 | 音楽・芸術・文学
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編
クリエーター情報なし
新潮社

わずか3年前ぐらいなんだなあ、村上春樹さんを読みだしたのは。サリンジャーの「フラニーとズーイ」を読み返していて気づいたんだっけ。そのあとの数か月、単行本コレクションに集中したのだが、オクテにもほどがある、やれやれ。

フラニーとズーイ J.D.サリンジャー/村上春樹訳 -2014.5.5 
ノルウェイの森 ー 村上春樹 ―2014-6-6
「長距離走者の村上春樹」 ―2014-6-30

RE:カンガルー通信―2014-7-22

そして今年だ、「騎士団長殺し」が出た。先を争って買うほどでもなしと思って藤沢周平さんの文庫本に浸っていたが、氣分転換にすこしくコンテンポラリーなのもいいかと手に取れば、そう、とてもよかったぜ。こんどの「僕」は美大は出たけど、ってひとだよ。おいおいムスメよ、これなかなかおもしろいよ。。。ふ~ん、まただれか消えるんでしょ、またパスタ作ってて。出だし、絵の描き方から、なんか、ちょっと違うんだなあ、などと言ってなげだしてる気配。。。

そんなことはともかく、ボクのブログメモにある村上春樹さんの単行本は手元にほとんどそろった。こんなことは多少の意思やらがあって、しかも継続していないと出来にくいのだな。オリジナルの単行本というものは装幀もふくめて楽しめるわけだし、なにより字も大きくてゆったりした感じがいい。最近もこんなのをゲットした。騎士団長は別として、’ THE SCRAP 'が、若々しくてバカバカしくてナマだから、おもろかった。でももう、細かい中身は忘れてしまった。

’ THE SCRAP '  懐かしの一九八〇年代(1987)
村上春樹、河合隼雄に会いにいく(1996)
バースデイ・ストーリーズ(2002)
はじめての文学 村上春樹(2006)
走ることについて語る時に僕の語ること。(2007)
ラオスにいったい何があるというんですか?(2015)
職業としての小説家(2015)
村上さんのところ(2015)
騎士団長殺し(2017)

「騎士団長」をきっかけに、中長編小説もろもろ読み直していた。どんどん読めるのでつぎからつぎへときりがなくなってくる。小説としての物語の展開やディーテイルは覚えていないから、またまた新鮮であって、おおそうだったとだんだん思い出すが、つつぎを忘れているので何度読んでもドキドキしていいね。もろもろ、どんどん、だんだん、またまた、ドキドキだ、やれやれ。。。

書かれた時期が、さかのぼったり行ったり来たりの作品、手当たり次第の再読順はこうなった。騎士団長殺し ⇒ ダンスダンスダンス ⇒ 羊をめぐる冒険 ⇒ 1973年のピンボール ⇒ 風の歌を聴け ⇒ 国境の南、太陽の西 ⇒ ノルウェイの森 
いわゆる「一人称もの」というのかな。語り手の「僕」は、学生に始まり、翻訳請負、フリーのライター、文筆業とか、広告代理店やバーの経営、そして今度は食べるための肖像画家だったりと。それぞれの「僕」がどこか似ているようでもあり、だけど違うヒトなのではあろうが、それでも皆「女のいすぎる男たち」なんだから、まあいいぜよ。いずれ「僕」も悩み多くてタイヘンだろうけど、若いんだし、いろいろ悩んでいろいろ励んでくれたまえ。

こちとらのボクはハルキくんとほぼ同学年であるからして、このわれらの時代と雰囲気もなんとなく共有できるが、かれもそろそろ古希だぜ、ようやるぜ、こういうのは「同時代小説」というのかな。こちとらのボクはといえば、フルタイムで半ボラお仕事しつつ、セパ交流戦始めこれはと思う選手はテレビでみな見ていたこの7月、楽天アマちゃんのサヨナラやだめ押しやら、だれかから一発が出そうな予感はみなあたるようになってきた。これは想定外だったヤクルト10点差をひっくりかえした翌日(則本10勝もあって、ついニッカンスポーツまで買ってしまった)の今夜も東京音頭だったようだ(あれっ、もうまた日付がかわってしまった)。それゆえハルキくんへのお祝いをかねて、いま何してるとFBからシツコク急かされるそのお答えを一週間もかけてここに記すわけだが、変わった出来事っと言えば、我が庭でアブラセミが5匹も孵ったことぐらい。さても、支離滅裂なわが生存実態とその文体、いまだ、テイをなさず。いっそのこと、もろともどこかへ消えてしまった方がいいのかいな。。。

 むうちゃんは、どう思うの?(そこは蕎麦のコネ鉢で、ネコ鉢じゃないんだけど。。。)

    (おまけ・追記)夏はアナゴの夜釣り、手作りのアナゴ針外しはペンキの成り行きで「ノルウェイの森」ヴァージョンになった。ビール瓶サイズが釣れてもダイジョーブ!?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劇場、またよし

2017-03-18 23:16:33 | 音楽・芸術・文学
新潮 2017年 04月号
クリエーター情報なし
新潮社

又吉くん、これまた、いいね! マッタン、しぬなよ〜
ヒョーロンは、やだから、これでやめようか、、、、
でもな、それじゃ、あんまりだなあ、、、、
きみのパフォーマンスは、ぜんぜんみたことない、メンゴ、、、、
でもな、お笑いゲーニンが芥川賞候補というときから、目にはしてたぜよ、

2月終わりごろのNHKスペシャル「又吉直樹 第二作への苦闘」を観て、これはこれは、と思った、
それでね、いまごろになって、火花、二百何十万人目かで読んでね、えらい感心したやん、
それからや、東京百景、第2図書係補佐、そして、劇場、、、カキフライやら新・四字熟語はまだ来いへん、、、

吉祥寺、三鷹・下連雀、シモキタ、井の頭線、渋谷、、、
うーん、きみの生まれた頃か、、、、井の頭公園、かき揚げ丼のうまいとこあってさ、
吉祥寺じゃ、仙台味噌や、塩鮭のいいものがあったなあ、、、なんだこれは、僕の青春後期は、、、
でもね、あのあたりのあのころ、、、時間が戻せたらなあ、、、、
マッタンの住んでた三鷹台のアパートは、偶然にも太宰の旧居跡だったというではないか、、、
不思議なことだ、、、 

受賞後二作目となると、たいへんだったね、よかったよ、とってもよかった、
さいごは、なみだがでたよ、こんなことは、めったにないんだ、
火花、二百枚、劇場、三百枚だって、ぼく、千枚読んだぜ、二回づつだから、

そうそう、古井由吉さんの「杳子・妻隠」探してもないんだ、
捨てたんだなあ何百冊のなか、去年か、、、古本頼もうとしたら7千円もするんだ!、アホや、ぼくは、、、、
古井さん、まだ死んでないよ、ね、、、、

 
むうちゃんもブログの写真も、いつのまにか、デカっ!!
 
10日前、ニコタマ、取られちゃったか、、、おわびにチュールチュール、、、こっちは小さくね、、、ごめんね、、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

対岸に相槌 ー 佐竹真紀子 展  

2016-05-03 19:50:11 | 音楽・芸術・文学

 

 

佐竹 真紀子 展ー対岸に相槌ーSARP 仙台アーティストランプレイス 

 この若手アーティストは、東北大震災以降何かを思ったらしくテーマをここに収斂させている。もっとハッピーな油絵を描いてもらいたいのだが、それは誰でもやるでしょ、こういうことは私がしなくちゃ、と一蹴されている。であるから余計な口出しはせず、チチハハ共々少しは手助けをしてインスタレーションの映像のなかで共演者の名をもらった。それにしても、これはいったいなんなのか、町が消えた喪失感か、ひとを喪っての鎮魂なのか、過去から未来への時間の停止なのか。。。心を同じくするアーティストたちには、「今、何ができるだろうか」という思いがあっていろんな取り組みもあるようだ。-震災後をみつめる-岡部昌生- 

 

<<あの町の行方>>

    

     

 

<<この町から問いかけて>>映像

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤沢周平と江戸を歩く ー 高橋敏夫/呉光生

2014-12-31 23:27:10 | 音楽・芸術・文学
藤沢周平と江戸を歩く
クリエーター情報なし
光文社

 藤沢周平「橋ものがたり」の解説は井上ひさしさんであった。この解説文の日付は昭和55年4月となっているから、用心棒日月抄、孤剣、立花登シリーズなど、その後繰り出されてくる藤沢作品をまだ目にされていない頃のものだと思われる。だが遅文堂さんについ寄り道させてしまう時代物の面白さだ。「橋ものがたり」では、人の出会いと別れの「橋」への着眼がみごと。

>>>>・・・さて、藤沢周平の小説は、ごぞんじのように大別して五つのジャンルにわけることができます。まず、『一茶』「檻車墨河を渡る』のような史伝もの、第二に直木賞受賞作『暗殺の年輪』のような御家騒動もの、第三が『鱗雲』のような下級武士の恋を描いた青春もの、そして第四が職人人情もの、第五が市井人情もの、おおざっぱですが、とりあえず以上の五つに分けた上で、故植草甚一氏風にいえば「雨の静かに降る日は、藤沢周平の職人人情もの、市井人情ものが一番ぴったりだ」ということになりましょうか。・・・ 「橋ものがたり 」の解説 井上ひさし
<<<<<

大晦日のきょうは雨模様、ニューヨークに行かずともあちこちのジャズクラブや路地裏にまで通じていた植草甚一さんを見習って、日暮れ竹河岸などの「市井人情もの」で、土地勘もない江戸下町あたりをさまよっていた。御用納め翌日、お向かいのご主人が亡くなった。定年直前、律儀な方だった.・・・こういうことばかりだったようなこの年・・・

この年も命ありけり除夜の鐘 紅白もなんだしなあ、あと数時間でことしも終わりだ。百足くんにお世話になって、サインまでいただいた本だから、なんとか年内に(!)書いとこう、間に合うか・・・

「藤沢周平と江戸を歩く」、この本は高橋敏夫先生と企画を持ちかけた呉(百足)光生先生の共著である。高橋先生の前書きにある藤沢さんの言葉によれば、江戸を書くのは、
>>>なぜ江戸時代を小説にするのかと自問しつつ、藤沢周平は書く。「庶民が歴史の表面に生き生きとして登場して来て、それ以前の、いわば支配者の歴史に、新たに被支配者の歴史が公然と加わってくる面白さのためかも知れない」(時雨のあと」のあとがき」<<< ということだ。

生涯で三百を越える作品という藤沢周平、たいへんな数だがいずれとも甲乙付け難い、こうなるとあなたはどれが好きかというところかもしれぬ。この三ヶ月ずっと藤沢さんを読んでいておおよそ8割までいったか。全集は重すぎるので第一巻だけでやめてしまったが文庫本でも60冊となると壮観だ。神谷玄次郎クンのがまだ届かないので今日は三屋清左衛門残日録を、もうボクもそろそろだからなあ・・・
藤沢さんの小説では、地図だけではなく脇道にそれることになる。道草でもなかろうが、今時はインタネットで見ることが出来る。たとえば浮世絵のサイトーアダチ版画。 北斎、広重、歌麿、写楽、国芳、清長、春信・・・一枚ずつ丹念に見てゆくと実にすばらしいものだ。

藤沢周平さんの作品群を場所で分けると北国の小藩ふくむ海坂藩ものと江戸ものとなる。今日のテーマ本は「藤沢周平と江戸を歩く」だから舞台は大江戸だ。高橋先生の藤沢作品の読みとその舞台の街をたどるのは百足氏。小説を読み流すにあたっていちいち地図をたどって読むのももどかしいしテンポと雰囲気優先に地理不案内のまま速読、あとでゆっくり再訪しようと思った。でも本所深川、両国吾妻橋、仙台堀などチンプンカンプンもなんなので、百足氏の真似をして「切絵図・現代図で歩く もち歩き江戸東京散歩」(人文社刊)にて、ホホウこの辺りなのかとやっていたが、登場人物たちにはすぐにマカレてしまった。いまの東京の街を足で丹念にたどって時空を超えて藤沢周平を味わうのもなかなかホネのようだ。まあ、ライター氏は足が百もあるのだからいいのだろうが・・・!?

この本で取り上げてくれた藤沢作品を、目次から辿ってあげておこう。さすがにこれだなという作品ばかり、だけど一度読んだぐらいじゃ、とても江戸を歩けぬよ・・・

1.広重『名所江戸百景』に人の哀歓を読む<市井もの1>
  『日暮れ竹河岸』『飛鳥山』『猿若町月あかり』『桐畑に雨のふる日』
2.絵師たちの江戸<浮世絵絵師他>
  『溟い海』『旅の誘い』『喜多川歌麿女絵双紙』『天保悪党伝』
3.探索のまなざし<捕物>
  『霧の果て 神谷玄次郎捕物控』『愛憎の檻 獄医立花登手控え』『消えた女 彫師伊之助捕物覚』『ささやく河 彫師伊之助捕物覚』
4.出会いと別れと再会と<市井もの2>
  『暁のひかり』『橋ものがたり』の「吹く風は秋」『おつぎ』『海鳴り』
5.もめごとを求めて<浪人もの>
  『用心棒日月抄』『孤剣 用心棒日月抄』『凶刃 用心棒日月抄』『よろずや平四郎活人剣』
6.一瞬の決着にいたるながい彷徨<武家もの>
  『回天の門』『刺客 用心棒日月抄』『漆の実のみのる国』『市塵』

青江又八郎、神名平四郎、彫師伊之助、おこうさん、立花登、牧文四郎・・・みんな、よかったね、いまどうしてますか・・・
・・・藤沢さんの小説にはいい人ばかり、ときに小悪党もいる、
でも・・・いちばんのワルでありんすお武家がた

 =====

おおっと、このままじゃ周平との江戸探訪にならんだろう・・・ちょっとだけ、その雰囲気を書写してみた。藤沢周平さんの言葉で「いちばん忘れがたい小説」という「溟い海」を、百足氏の足と筆で散歩してみよう。(元旦に追記)

<<<< 「藤沢周平と江戸を歩く」 P60「溟い海」を歩く より引用、写真略。

老境に近づいた北斎は、広重という新しい才能の出現におびえ、嫉妬し、広重を暴力的に襲い、「腕の一本もへし折る」ことを企てる。深夜の上野、新黒門町の路地にならず者とともに待ち伏せを続ける。
 新黒門町は、切絵図によれば、上野広小路が、御成街道に入ると急に狭くなる突き当たりにある。現在でいえば、上野松坂屋の南館の近くで、中央通りが緩やかにカーブする辺りということになる。
 広重は、版元である錦樹堂伊勢屋利兵衛のところで接待をうけているはずだ。上野広小路には書籍商が何軒もあったことが知られているが、『江戸買物獨案内』という本によると、新黒門町に伊勢屋利兵衛が実在する。ただし、「諸国銘茶肆」である。

 広重襲撃を諦めた北斎は、ならず者たちにいたぶられた身体で本所原庭町に向かって歩き出す。その道筋は小説では示されていない。そこで、途中に北斎自身のお墓がある誓教寺を経由する道を選ぼう。
 まず、上野駅方向へ向かう。現代の「広小路」は、老若男女で溢れるようだ。一本右に入れば「アメ横」もある。駅前に蜘蛛の足のように歩道橋が走る。これを昇って浅草通りに降りる。すぐ左手に台東区役所が見える。ここはかつて広徳寺という禅宗のお寺だった。「おそれ入谷の鬼子母神」に続いて「びっくり下谷の広徳寺」なる地口があったほど有名なお寺だった。区役所のはずれに小さな公園があり、そこに広徳寺が区の依頼で移転した経緯を記した碑が残されている。禅宗のお寺らしく七言絶句が刻まれてもいる。

 浅草通りに戻ると下谷神社だ。決して広くない境内だが、見るべきものはある。この神社は稲荷社で、明治になってから現在の場所に移転した。元の稲荷社の境内では「咄の会」が催された。これが現在の寄席の始まりとされる。境内の隅にある塚にも目を向けたい。小ぶりの塚だが、明らかに溶岩を積んだもので、富士塚の名残と思われる。
 浅草通りに戻り、浅草方向へ。稲荷町交差点近辺は、仏具屋さんの街だ。そのなかに仏師のお店やすだれの専門店が紛れ込む。そんなお店のウインドウ・ショッピングも楽しい。
 松が谷一丁目の交差点を右折して、道路を一本渡った左手に誓教寺がある。本堂の左手に北斎の胸像があり、その手前には生誕二百年の記念碑が建つ。富士山をかたどったしゃれたデザインだ。墓地は、庫裡の脇を抜けたところにある。「画狂老人卍墓」と刻された墓石の脇には、辞世の句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」も刻まれているが、見るのはちょっと難しい。

 浅草通りにもどって、さらに浅草方向に歩く。菊屋橋の交差点を左折すると、かっぱ橋道具街に入る。あらゆる道具が売られていることで知られる。お店ののれん、看板、値段表、厨房の道具、皿や茶碗、伝票類等々。ずらりと並ぶ店々は、壮観であり、楽しい。
 なかでも食品サンプルのお店は必見。魚の切り身、寿司、青物、ジョッキになみなみと注がれたビール、ケーキもあればパンもある。どれも本物そっくりで、食欲をそそられる。おみやげにはお寿司やケーキの携帯ストラップがお勧めだ。
 この通りの適当な交差点を右折すれば、浅草寺界隈に出る。この周辺の楽しみ方は人それぞれだろう。昼間から営業している居酒屋もあれば、骨董品の店もある。天然温泉の銭湯で疲れを取ることもできる。奥山のかつての猥雑さには及ばないかもしれないが、その雰囲気を味わうことはできる。

 ともかく浅草寺と浅草神社にお参りしたら、本堂裏手の駐車場の一角へ。戯作者・山東京伝の机塚もお参りしておこう。
 いよいよ大川端に向かう。吾妻橋の向こうにはアサヒビールの本社ビルが見える。
 橋を渡ったら、二股に分かれた道を右に。二本目の道を右に行くと霊光寺というお寺がある。この裏側が、北斎が暮らした原庭町ということになる。
 向島まで足を伸ばし、すみだ郷土文化資料館に行くと、北斎縁の展示をみることができる。

<<<<

切絵図・現代図で歩くもち歩き江戸東京散歩 (古地図ライブラリー (別冊))クリエーター情報なし人文社 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸の食文化【和食の発展とその背景】ー 原田信男編

2014-09-06 19:23:25 | 音楽・芸術・文学
江戸の食文化: 和食の発展とその背景 (江戸文化歴史検定)
クリエーター情報なし
小学館

百足光生さんの「大江戸ビジネス社会」で、大江戸の社会の活況を勉強させていただいたので、次なるは百足さんもライターの「江戸の食文化」を眺めていた。2013年12月に、「和食」がユネスコの世界無形文化遺産に登録された。われわれの祖先は、この島国で何をどう食べて、どう生きてきたのか、今の時代につながる食生活、食文化というものは、江戸時代にその原点があり、ある部分ではほぼ完成をみているようだ。減塩も気になる、アレルギー要因も、世界中の食べ物と料理も多く入ってきたこの現代、「おもてなし」はともかく、わが財産の一つは和食。

そもそも「大江戸」とはなんだろう。江戸時代、江戸城築城以来大きく拡大していった江戸の町の広がりと繁栄を示す雅語だという。では、「江戸」の地名で呼ばれる地域とは、いまの丸の内から半径20キロぐらいという。「...一般に江戸御府内は町奉行の支配範囲...寛文2年(1662)に街道筋の代官支配の町や300町が編入され、正徳3年(1713)には町屋が成立した場所259町が編入...延享2年(1745)には寺社門前地440カ所、境内227町が町奉行支配に移管・・・この町奉行の支配範囲とは別に御府内の範囲とされた御構場の範囲、寺社奉行が勧化を許す範囲、塗り高札場の掲示範囲、旗本・御家人が御府外に出るときの範囲などが決められ...文政元年(1818)に絵図面に朱線を引き、御府内の範囲を確定した。・・・Wiki-江戸

徳川時代は、江戸時代だ。「江戸の食文化」は、大江戸のみならず、ひろくこの時代全般にもふれる。人にとって一番大切なのは何かと思うに、愛とか品性とか言う前に、やはり食べなきゃしょうがない。どうせ食べるには、おいしく食べねばならない。であるから、図版、写真とともに、その背景まで描いた、ビジュアルな楽しめる本となるわけだ。「江戸歴史検定」とやらは、まだチャレンジの域にはほど遠いけど、いずれ知識や食文化というものでも捉え方はちゃんとしたほうがよかろう。

江戸食文化紀行 | 歌舞伎座 (松下幸子千葉大学名誉教授 監修・著)というサイトもある。食べ物のある錦絵はほとんど使ったという「芝居と食べ物」、「江戸の美味探訪」300回連載もので、タイヘンな内容と情報量の画面だ。

こちらの本「江戸の食文化【和食の発展とその背景】」は、錦絵や図表なども含めてじっくり見るために虫眼鏡を片手にしても面白い。だからこの本はぜひ手元に置かないといけない。一部だけ引用させていただくと、当然のことながら江戸料理レシピ本ではないから、それを生み出した社会、文化、時代背景というお話となる。

<<<< 以下、「江戸の食文化【和食の発展とその背景】原田信男=編 小学館」 より

「旅の目的にもなったおいしい料理」

寺社めぐりと旅の楽しみがセットに

 江戸時代初期には、五街道を中心に、宿場や一里塚など陸上輸送路の整備が進められた。これらの街道は、幕府の公用と諸大名の参勤交代のために整備されたが、社会が安定してくると、それ以外の商用や物見遊山の旅にも大いに役立った。
 農民の旅は、基本的には幕府や武家権力にとって好ましいものではなかったが、五穀豊穣・村内安全などの祈願という名目がまさった。

 これを助長したのが中世から活動していた御師の存在である。御師は、伊勢神宮・熊野三山・出羽三山・相模大山・富士山・信州善光寺・越中立山・加賀白山・高野山などから全国をめぐり各地に自分が属する社寺参拝のため集団「講」を組織していった。御師は元来、下級の神官で、各地の講を巡回して暦などの土産物を配布し、参詣の際の案内や宿の世話をした。

 そのなかで、江戸時代にもっとも活発に活動したのが伊勢神宮の御師で、18世紀前半には外宮500家(軒)、内宮240家にも達していた。
 講では、くじ引きなどで毎年代表して参宮する人々を選び、伊勢を目指した。その数は、平常年で30~40万人ともいわれている。伊勢山田奉行の幕府への報告によると、お陰参りが流行した享保3年(1718)には、正月から4月の間に42万7500人が参詣したという。参宮が農閑期のこの時期に集中するが、それでも少なく見積もっても年間約50万人という数字は驚異的である。

旅ならではの「ハレ」の饗宴

 伊勢参宮の際の食事は、庶民にとってはたいへん豪華なものだった。文政5年(1822)に金井忠兵衛という人が書き残した「伊勢参宮 並 大社拝礼記行」によれば、「菓子、雑煮、吸い物、肴」に続き、硯蓋には「鮑・鯛・九年母・海老芋・昆布・蒲鉾」が、大鉢には「大鯛」、ここから本膳・二の膳が出され、平には「鮑・青菜・凍み豆腐」、皿には「焼き肴」といった具合である。農村や町場でも地方の人々のふだんの食事からは想像もできない、「ハレ」の饗宴である。

  この料理については、井原西鶴が「西鶴織留」に書いているが、一度に2000~3000人分の調理をするのに台所の働き手は20人ほど。飯は籠に米を入れて熱湯につける「湯取り法」で、焼魚も大きな籠に20枚ほど入れて大釜でゆであげ、長板に並べて片面だけ鏝で焼き目をつけるというものだった。大量の客をさばく便法だったのだろう。

 こうした「情報』は旅行者によって記録され、それぞれの講に持ち帰られて、さらに参宮への憧れを強めていく。それが講に属さない人々までに広がり、村に無断で伊勢神宮を目指す抜け参りのような個人の旅行につながっていった。
 宗教的行為としての旅は、一種の精進だったが、その禁欲からの解放も旅には付きものだった。その意味では、宿場に性を売りものにした飯盛り女(食売女)がいたのは当然だったといえよう。

 いずれにしても旅は日常からの脱出であり、非日常の世界に待っているのは、ふだんとは違う食の世界である。食への願望は、宗教的意味合いよりも強い場合さえあったと考えられる。
 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」がベストセラーになったように、江戸時代後期には庶民の旅に対する憧れも強まる。それにつれて宗教的行為以外の旅も増え、商人や庶民の泊まる旅籠は一汁二菜の夕飯と朝食がセットされ、昼食は付かない現在の旅館の形式が成立していった。一方、下級の「木賃宿」は素泊まりが基本で、燃料代を払い、食料は持ち込みで自分で炊事するのが原則だった。

 また、甲州道中など江戸近郊の街道沿いには、現在のドライブインのように、料理屋や酒楼が立ち並んだという。
【浮世絵画像集】中山道広重美術館「雨の中津川」など展示、9/29まで。

>>>>> 

トップ画像:浮世絵ー太田記念美術館

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記憶する皮膚 ー 真紀子展

2014-07-27 16:44:31 | 音楽・芸術・文学


八重洲南口、なぜか東京まで来て牛タンたべて、出るとモウ~、モワ~、モア~ 35度?すこしはこぎれいになったようだけど、コンクリートジャングル。
(来週、この辺で楡の会・東京でのクラス会やるはずだな、読売巨人軍社長になっちゃったのもいるぜ)
おやじもいけばいいのに
(こっちは、いなかで、その日は徹夜だよ・・・)
・・・・

急に土曜日がいいと言われた、
2014.7.26(土)東京の若手作家の個展に行ってきた。そうか日曜は休みなのだ。

  

京橋あたり、大通りから少し入ると画廊や美術商のお店があちこちにいっぱいあるんだ、はじめて気づいた。
新しいガラスジャングルのビルでは、ずいぶんと緑を植え込んだり見かけはいい。でも外の熱気には、とてもじゃないけどかなわないな・・・

 

 


佐竹真紀子展 「記憶する皮膚」 
SATAKE Makiko 
"Skin Remembering"
2014.7.21(月・祝)‐8.2(土) 日曜日休廊 10:30-19:00(最終日18:00)

この画廊の佃さんが発掘してくれたようだ。ギャルリー東京ユマニテでのすばらしい、あたたかいご紹介を、

>>>
「画廊からの発言 新世代への視点2014」は、銀座・京橋を中心とした12画廊の共同開催による展覧会で、各画廊が推薦する若手作家の個展を同時期に開催する企画です。ギャルリー東京ユマニテは佐竹真紀子(さたけ・まきこ)を紹介いたします。・・・・

佐竹の作品でまず目を引くのは、その鮮やかな色彩です。画面上の一本の線のなかに、実に多くの色がひしめいています。目を凝らすと、それは描かれた線ではなく、削り取られる事であらわになった色の積層の断面である事に気が付きます。支持体全体にアクリル絵具を一色ずつ層になるように塗り重ね、その色層を削りイメージを描き出すユニークな手法で制作されています。
時に色層は切り込みに沿ってめくれ、皮膚のように生々しく支持体から垂れ下がります。本来見る事のない絵具の裏側があらわになり、色層をまとっている隠された内面への興味をかきたてます。あるいは、今まとっている色を脱ぎ捨て、新しい何かへ変化しようとする姿かもしれません。
宮城県出身の佐竹は、東日本大震災を挟んで過去と現在を行き来するように、自身の記憶と体験をもとに制作しています。それは鮮やかな色彩で、悲しみを覆い隠しているだけなのかもしれません。しかし、目をそらさず向き合い続ける姿勢からは、前に進もうというという意思と、未来への希望が感じられるのです。・・・

<作家コメント>
皮膚は誰もが持ち合わせている境界線である。
本当のことが知りたくて手を伸ばしても、それが目に見えているのか、あるいは内包されているのか、所在はわからない。
ただ指先に残る記憶を頼りに探していく。

<<<<

ボクは目立たないように、( )の中にいることにしよう。

(う~ん、へやぜんたいで、なんか表現してるようだな・・・インスタレーションとかいう)
去年亡くなったおばあちゃんの、なんかかな、手触りというのか・・・あっ、触っちゃだめ・・・
 

マフラーもずいぶんあったでしょ・・・
(そうだ、般若もいいな、あったな・・・お棺の中には般若心経も彫ってある・・・
   

(洋服もなんと彫りもの、初めて見た、なんということだろう!割れたら一巻の終わりだ・・・)

ワンピースは一ヶ月ぐらいかかったかな・・・
(去年ロンドンにも行ってきたトルソー、これいいね、題は「彫りもの」。買い手つけばいいけど、なくなるのももったいないなあ・・・小品はそこそこ売れているみたいだ・・・)
  

 

                

 

ギャラリーの才媛佃さんに「オチャしてきます」とことわって、いったんそとにでた、うわ~、モワ~モワ~
そそくさと、上島珈琲カフェに飛び込んだ。若手作家は、コーヒーよりも、まだこれであった。


特待生受かったよ、ほらケータイへ通知、こんだけもらえる・・・
(えらい、オヤが甲斐性ないからなあ・・・)
兄貴、タスケは元気?
(水晶体入れ直すまで見えないようだけど、友達とどっかいったりしてるよ、ずっと病院よりはいいかもな・・・)
(タスケはたいしたもんだ、真紀子が3年生ぐらいまでもつかと思ってたんだけど・・・と、ネコパンチ画像をみせた、春樹さんに捧げたおまけ画像だ。)

かわいい、たすけちゃん・・・けど、春樹?ふるいわ、海辺のカフカ、スプートニクの恋人・・・あの人のは、さいご彼女みな消えちゃうのよね・・・
(あれれ、オレはいまごろよんでるんだけどな・・・(こいつ高校生で読んでたか・・・))

あの画廊は地下2階でガラケー電波こないの、ワイファイならいいけど・・・
(俺なにやってるかというとLTEだぜ、そうか中途半端か、画像ならもっと大きいのだしな・・)

赤べこ、うちにあったはずよ、さがしといて、秋に会津というか喜多方ですこしだけ展示するのよ。
今だと暑~い暑い、とウルサイからお母さんは、そんとき来ればあ、あなたがたどっちもちゃんとやること考えて来なさい、おつきあい疲れるわ・・・

ちょっと寄ってゆく画廊あるのよ・・・
(これはこれは、作家さんはムスメも初対面だがなんと宮城野高校の先輩であった。とっしょりはカバンもそのへんにおいて座ってたら、あとで、ムスメに叱られた。)
ああいうところは、真剣な場所なの、わかった?あたしのとこでも、ズボン下げて直したりして、ったく、もう!・・・

 

(ということで、あすやることも思いつかないし国分寺行くのも仙台帰るのも同じぐらいだろ、とんぼ返りにする。)
八重洲南の近くの福島県のアンテナショップ、彼女は「八重たん」とかなにかを買った。(作家は消費税の端数は払った)
(今晩は隅田川の花火らしい、もう人ごみはいい・・・築地がいいんけどな、駅のどっかで寿司でも食おうや・・・) 

 

ーーー夜中、帰り着いてからーーー
赤べこ、そんなもの、あったかしら・・・と若手作家の古手の母親。え?、こんど会津で?きいてないわ・・・コメオクレっていうから、野菜と一緒に送っといたけど・・・

(打ち出の小槌背負ったゴテゴテ赤べこしか見つからない・・・、まあ、塗られて彫られてしまうのだろうけど・・・)

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Re: カンガルー通信

2014-07-22 23:01:45 | 音楽・芸術・文学

やあ、あまり元気ではないですよ!

長距離走者のことをメモってからひと月、こちらは生産的なことやいろんな事態が良くなることはなにひとつなく・・・むろんやらねばならぬことも多々あり淡々とこなしはするのですが、やれやれ、これが口には出さない口癖になってしまいました。 

そんな梅雨空の日々のなか、おお、これは面白い小説と作家だと、いたく感じ入るところがあったので、村上春樹さんのツンドクの山を切り崩してました。この返信などはまさに雑文でしょうね。

さて、このあいだまでのツンドクの山は、あらかた崩したのに、べつな山ができてしまった。(どんどん増えて・・・あとは翻訳ものかなあ 2014.8.12追記)

1973年のピンボール(1980)
回転木馬のデッド・ヒート(1985)
ダンス・ダンス・ダンス(1988)
遠い太鼓(1990)
雨天炎天(1990)
国境の南、太陽の西(1992)
やがて哀しき外国語(1994)
夜のくもざる(1995)
素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち (村上訳)(1997)
アンダーグラウンド(1997)
辺境・近境 & 写真篇ー松村映三plus 春樹(1998)
象の消滅 短篇選集1980-1991」(2005)
意味がなければスイングはない(2005)
The Catcher in the Rye 村上春樹訳(2006)
ニューヨーク発 24の短編コレクション めくらやなぎと眠る女」(2009)
夢をみるために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2009 (2010)
ねむり イラスト/カット・メンシック(2010)
おおきなかぶ、むずかしいアボガド 村上ラヂオ2(2011)
サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3(2012)
パン屋を襲う イラスト/カット・メンシック(2013)
恋しくて Ten Selected Love Stories 村上春樹編訳(2013)
女のいない男たち(2014) 

こうなると、アソビのない文庫本よりダンゼン単行本がいいね、でもこれじゃ地震来たらまたぐちゃぐちゃだ。短編集、新潮社の米国版逆輸入(?)のペーパーバックもどきの本の作りもいいなあ。それと、カット・メンシックさんのイラスト入りの本も素敵だ。 

短編では、Family affair、とか、A folklore for my generation なんかが印象に残りましたよ。なにかかにかは沈殿するのですが、直前健忘症というのか、あったはずの新鮮な感想はあらかた忘れてしまった、まああとでまた読めばいいや、完走を目指そう。「ノルウェイの森」を書いた頃の海外暮らしのこと、「遠い太鼓」も面白い、これはいまながめてるから書ける。春樹さんは、集中力と目的意識というのか、そうだよなあ、たいしたもんです、40歳を前にしてのあのへんがロングランでのスタートだったのかな・・・手書きで第二稿900枚書き直す、これは精神活動というよりすごい肉体労働だ!敬意を表して「ノルウェイの森」はそのうち単行本に切り替えるので、まあ乱文は許してね。

これは、うちのカンガルーッ子です・・・マタタビなめてソラを飛びます・・・

  

 

============

めくらやなぎと眠る女

クリエーター情報なし
新潮社

 

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991
クリエーター情報なし
新潮社

 

パン屋を襲う
クリエーター情報なし
新潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長距離走者の村上春樹

2014-06-30 22:11:30 | 音楽・芸術・文学
1Q84 BOOK 1
クリエーター情報なし
新潮社

 「ノルウェイの森」から村上春樹さんを読み始めたのがひと月ほどまえのようだ。同年代、同時代のすばらしい書き手、いままで知らなかったのがなんとも不思議だな。で、この6月は、ずっと彼の作品をながめていたが、速読か読み飛ばしか、なにしろ春樹さんの文章は読みやすいので長かろうが短かろうがあっという間だ。でもさいごの50ページ残り厚さ3ミリまで結末がどうなるのか分からない、こんなところにも読者を引っ張る力が現れる。さて、少し長めの小説では、どれが印象に残って、良かったかとなると、

みな、それぞれに・・・、ああ、王族ではないんだからそんなに気をつかわずに言ってごらんなさい・・・やっぱり、わかんないなあ、春樹のワンダーランドというのは・・・年代ごとに深まりもでてくるようだ。双曲線のように複線の物語が交差するでもしないようでもあって、そしてぐるぐると渦巻き始め、スパイラル。いつも、文字の向こうには音楽の旋律とリズムが流れている。

手に取った順はいい加減、長編の作品を年代順にならべてみれば、
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(1985)、これ、チトばかり薄暗いかなあ...
ノルウェイの森(1987)、短編「」が膨らんで・・・初めて読んだものだったから印象深いな、いいね!
ねじまき鳥クロニクル(1994−95)、救いがあったのか、なかったのか、はて・・・
海辺のカフカ(2002)、カフカ君、若くてたいへんだろうけど元気でな・・・
1Q84(2009-2010)、迷宮は抜け出さなくちゃ、ここで、終われよ青豆・・・

短かそうなところでも机の周りにうずたかく50センチ、崩れ落ちないようにしないと・・・
風の歌を聴け(1979)羊をめぐる冒険(1982)めくらやなぎと眠る女(1996)、スプートニクの恋人(1999)、神の子どもたちはみな踊る(2000)、アフターダーク(2004)、東京奇譚集(2007)村上春樹 雑文集(2011)、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(2013)これは「」つけないと句読点がどうにも・・・、NHKラジオでは英語で読む村上春樹(2014)というのもやっているが土日のお昼頃、こんな時間でだれが聴けるのかしら、NHKの集金人は今もいるのかいな?

摩訶不思議な世界を物語る作家の精神状態が6月の梅雨みたいなものかといえばさにあらず、全く正反対の早寝早起き、ボストンマラソンも数回完走というエネルギッシュな生活タイドの上にあるようだ。朝早くおきて真っ昼間に不思議なものがたりをネチネチ書いて午後から頭すっきりランニングに筋トレ、「雑文」を書き、料理を作るというような日々らしい、すばらしい、こうでなくちゃ!長距離走者の孤独も、解放感も共にあって・・・
創作や創造という行為の裏側には、とくにこの作家には、なんとも窺い知れぬものがひそんでいるようだ。長距離走の純文学と異なる側面(不純文学の短距離走!?)は、狐狸庵先生みたいに、村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた(1996)などで、ねこのようにねころんで、画像とともに楽しめる。

ワールドカップのニッポンはどうも世界一流どころとは迫力が違いすぎてヤワすぎた。ひまなので、ワールドワイドに春樹さん翻訳の「グレート・ギャツビー」も読んでしまった。春樹さん若き頃からのお気に入り、でもなんとも切ないお話だなあ。これは男子の物語。映画ではロバート・レッドフォード、最近はレオナルド・ディカプリオらしいが・・・ま、フィッツジェラルド短編集が日焼けして転がっているから、これを機になんとかかたづけないと・・・もうナイトか、春樹さんに、我が家のネコたすけちゃんから、「おやすみなさい」

 

(P.S. ころんころんしている、うずまき猫タスケちゃんに、村上春樹をどう思うと訊いたら、こんな答えが返ってきた。)
>>>

この世に生を受けた時から死すべき存在たる君たち人間、あたえられた短き一生の時間ではあるが、その存在での深層的な心理と行動のありようを、村上春樹は現代という時代の観察を背景に鋭い切り口でかつ持続的に描きつづけてきた。

かれの文学の主題は人間存在と精神活動の探求と洞察であろうが、ときに幽玄な世界へ読者を誘い、しばし困惑のなかに招き寄せ、あるいは読者にその解釈と解決をも問いかける。かくも複雑化し個別に多くの悩みを抱える現代人の孤独な心の奥底に肉薄し、魂の救済がいかにしてなしうるか否かを問いつめる。この作家が数十年の歳月を費やし、初期の作品からゆるぎなく求めつづけているもの、それは、ゆるぎない愛への憧憬と信頼、善へのあくなき希求であって、けっして諦観や絶望や曖昧模糊とした遊戯の世界ではない。ごく身近な人間や多くの人たちへの親密な愛情をもってする豊かな生の実現の期待なのだ。

彼の創出する物語では時間軸上で並列に現れる人物と出来事とを巧みに同期させる表現手法が特徴的である。それが長編の膨大な語数を前にする読者にとって重いテーマを咀嚼しつつも楽しんで一気に読み通す助けにもなる。創造のありようからみれば、旧世代の作家とはその知的好奇心の広がりや行動様式は大きく異なり、精神と時間の集中の必要と世界中をとびまわる生活の中で、長編のいくつかは日本国外の地で書かれてきた。言語プロセッサも活用する超現代的な作家だが、その言語は極東に孤立する日本語ではある。だがこの作家は洗練された隠喩の効果とさらにはシャープな文体によって欧米はじめ多くの言語にも移植しうる氾世界的な創造物にまで昇華させた。作品群はいまや実に数十ヵ国、数十の言語にておそらく数億人規模の読者と共感の獲得という結実をみた。

この作家はこの時代のジャズ、ロックなどポップな音楽やクラシックへの愛おしみを通して、活字を超えた芸術全般の表現と感受性とを文学の世界に陰に陽に埋め込むことにも成功した。読者は彼の文学の森を漂うなかで芳醇な音のながれる世界にも迷い込み、いっそうの余韻を味わうことになろう。

やれやれ! 人間であることもタイヘンそうだニャ~ <<<

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする