Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

A Sideman's Journey

2010-01-16 00:52:31 | 音楽・芸術・文学
A Sideman's Journey

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この正月2日のNHK-BS「サイドマン - ビートルズに愛された男」を観てとてもよかったので、文字として記録しておいた。このブログの本文は1万字が限度で、なんども書き直し。もっとも、ボクのブログのかなりがギリギリきわどい編集ばかり。で、コメント欄を利用してアルバム「A Sideman's Journey」の印象を「付録」として追加した。われながらスバラシイ思いつきだとジャケットの細かい字をたどってたら真夜中になり、めったにない本物のコメントまで見つけたりして尻切れトンボになってしまった。

これでは、クラウス Klaus Voormann さんに失礼なので、ここにリライトした(こーいうの、アナグロ・リマスター版という!?)。彼はことしで72歳だって。知る人ぞ知る幻の名ベースシスト、脇役に徹した”サイドマン”。その、クラウス・フォアマンが、お友だちにかこまれて、とうとう初主役として2009年3月にリリースしたアルバム。あのビデオのなかでも、いろんなセッション・シーンが映像ストーリーの中に組み込まれていた。このようなドキュメンタリはシナリオもしっかりしているはずで、アルバム・テイクと並行だろう。

ベルリンのプールつきの立派な生家再訪を振り出しに、イギリス、アメリカ東部、西部、あちこちをめぐりながら旧友との再会、仲間との楽しい演奏、...しかし音楽の世界に戻ることがこんなにタイヘンだとは・・・と、彼は映像の中で述懐していた。そして70歳の誕生日を期してクラウスは”サイドマン”から、”フロントマン”になった、と奥様のクリスチーナはライナーノーツのトップに誇らしく記す。むろん彼のデザインしたジャケットだし、本人と奥様の言葉と写真、余分な解説者なしのセルフノーツ。これで主役かいな?クラウスは横向き、ひとりベースをひいている。こういう絵の雰囲気が彼の奥ゆかしさだ。ポールだけはちょっとスマシテいるけど、みんな笑顔、ずっとお世話になってきたクラウスに心から感謝。彼はすべてのサイドマン・バイプレーヤーたちに、このアルバムをささげたのだ、クリスチーナは感じている。

クラウスの記すところによれば、彼は曲目を何週間も決めかねていたようだ。大アーティストたちのヒット作を演奏するとなると、ずいぶんと気が引ける。彼にとって、Johnの"Imagine"は神聖そのものだし、Nilsonの"Without You"もそうだ。それで選曲のほとんどは演奏者・演出にお任せにしたと...
Don Prestonがやろうといった"Blue Suede Shoes"には、ジョンのハンブルク時代、最初で最後のプラスティックオノバンドのトロント・コンサートでの思い出も・・・。よき友だったHarry Nilsonを偲んで、大好きな"He Needs Me"を彼は選んでみた。Van Dyke Parksが作曲に絡み自分も、ロバート・アルトマンの映像”ポパイ”の製作でサントラにつかったもの。でも、ビデオではセッションの情景が楽しめたが、このアルバムには、なぜか入っていない。第2弾に期待しよう、こんどは東海岸がいいか、カーリーサイモンのYou're So Vainはぜひ入れようね。

☆"I'M IN LOVE AGAIN" Piano,ElectricGuitar,Acoustic Guitar,Organ&Drums,Vocal ;Paul McCartney ,Bass Guitar;Klaus Voormann , Drums;Ringo Starr ...これでとうとう、クラウスは、ビートルズになった!
☆"YOU'RE SIXTEEN"、 いいことだ、Ringoもまた元気になって。でも、みんな、You're around sixties or seventies . (?)
☆これもいい、"SHORT PEOPLE",Don Preston もシブイし、花やいだギターはJoe Walsh、いつまでも達者だなあ...
☆それに、Bonnie Bramlett、 "MY SWEET LOAD"、時にハスキーに、アラ還でこの迫力はどうだ。Gerge Harrisonの傑作だからなあ、このプレイではオルガンがいい、ジョージは天国で・・・。彼女がシャウトするもう1曲"SO FAR"は、クラウスの作。
☆Mike D'Abo のヴォーカル、メンバーそろってくれて、"MIGHTY QUINN"。ダボも、クラウスのせいでクビにならなくてよかったね...
☆YUSUF ISLAMの "ALL THINGS MUST PASS"、 "THE DAY THE WORLD GETS ROUND"、やさしいいい声だなあ、Gerge Harrisonにぴったりと思った。最近、”road singer"というアルバム出したよ、と、クラウスはジャケットまで載せて紹介してくれている。よく見れば、彼はなんとCat Stevensじゃないか!何十年ぶりで再会、名前まで変えたんだ...彼のLP!が、さがせば出てくる...

クラウスのボーカルはMIGHTY QUINNのバックコーラスで聴いてね!?そして、ヘッドフォン使ってベースの響きをジーと気にかけるんだ。う~ん、こうなると控えめなベースマンは、ずーとSIDEMANかなあ...
でも、曲目やドクタージョンなどお友だちの出し方やら環境PJへのチャリティなど、彼の人柄がアルバムのつくりいたるところに感じられる秀作だよ。
昔から聴いてた古希・アラ還、団塊の世代にかぎらず若い人も、テレビ映像観て通り過ぎるより、ちゃんと買って手もとにおくべきだろね、このCDは。レンタルもいけない、紙ジャケットも彼のアートだからだ。

映像やDVDというものは、それはそれでいいのだが気が散るナガラ族には、ときにちょっとつらい。ビートルズの再々・リマスター版とやら、ボクの記憶の島までリミックスできないだろう?いまさら音質を聴き比べたいわけじゃないんだ・・・・。それに、モノラル版一そろいでは高すぎ手が出ない。
こういうスバラシイアルバムが、テレビで陽があたるまで誰も知らないからか50%OFF、得したよ。だけどMedia Playerに取り込もうとしたらJONEYなんとかというアルバム名とジャケットに化けてしまう、イヤになるなあ。ミュージシャンはいっしょうけんめいなのに、音楽ギョーカイやそのサイトの情報はイイカゲン、目先の売れ筋だけ・権利ばかり主張して・・・ ヒョーロン家含め皆フマジメだ、ずーっと感じてきたことである。 




Roadsinger: To Warm You Through the Night

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サイドマン - ビートルズに愛された男

2010-01-04 00:05:05 | 音楽・芸術・文学
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2010.1.2にNHK−BS2で放映された「サイドマン—ビートルズに愛された男—」というドイツで作られたドキュメンタリーは、出色の出来であった。クラウス・フォアマンKlaus Voormann、1938年生まれだからボクのひと回り上の寅年だ。彼は、あのビートルズ「リボルバー」のジャケットのイラストの作者だったといえば、わかってもらえるのだろうか。
やさしかったジョージ・ハリスンの髪の毛の端っこに彼は隠れている。

この純粋すぎるアーティストの、いわば、”世界・わが心の旅”は、ボクにとって貴重なお宝映像となった。2009年は71歳にして、ポール、リンゴ、マンフレッドなど友だちとともに初の主役で"A Sideman's Journey"をリリース、やるなあ。
放映ビデオから、彼の言葉を>>印で、登場人物の言葉は名前つきで、印象的な個所を拾っておいた。 (2010.1.9 13:10ー 再放映あり)


=========
( All You Need is KLAUS  A journey into the life of Klaus Voormann  / ドイツKick Film作品・ 2009 より  )

===スタジオ「ブルーパーム」(L.A.)
>>思い出の場所や旧友を訪ねて人生を振り返るとどうなるかなあ。見当もつかない。誰が来てくれるかは当日までわかりませんでした。
(ヴァン・ダイク・パークス)あの時代を代表するベーシストだね、一番人気があったよ。
...なるほど、できるはずだろう? ダイジョーブ、ソロの前を聴かせて...
♪♪ Blue Suede Shoes
1に金で、2にショーだ、3で準備できたら、よし行こう、僕の青いスエード靴には触らないで...

===Paul McCartney のスタジオ(イギリス・サセックス)
(ポール)
クラウスの絵はいつもみていた。あの画風が好きだったんだ。彼が『リボルバー』のジャケットを手がけた経緯は覚えてないけど・・・あの絵には、おどろいたなあ、傑作だ。

>>ジョンにアイディアを求められたのでスタジオに行き、曲を聴きました。みな美しく圧倒されました。ビートルズの新境地でした。本当に衝撃的でその上独創的、その感覚を表現したかった。描き終わるとスタジオに行きました。もってきた絵を棚の上に置くと、部屋は静まり返りました。不評なのかと思い震えました。...ポールが口火を切り...彼らは細部まで見てくれました...とても嬉しかった。

(ポール)
ビートルズが有名になり多忙を極めたボクらにとって、昔からの仲間は特別な存在だった。...めったに会えなかったけれど、クラウスも親友さ。いっしょに過ごすときは楽しかった。クラウスはボクらと同じタイプの人間だ。国籍は違うけど、彼の中にはリバプールで育ったような魂を感じるよ。...時々何時間も電話で話した。彼のお気に入りの曲がテープで届くこともあったね。ストラビンスキー、R&B、ジャズなんかだ。ずっといい関係が続いているよ。

===ハンブルク時代
♪♪ I'm in Love Again
♪♪ Ain't She Sweet

>>ハンブルク時代は大きな節目でした。”カイザーケラー”で出合った頃はビートルズは無一文のただの若造でした。...でもポールにはカリスマ性があり、ジョンの歌もすごかった。ジョージの繊細な音と相まって実に見事なものでした。リンゴも加わりました。

(アストリット・キルヒヘル/かつての恋人)
クラウスは熱を上げていました。すばらしい演奏を見に行こうと誘われました。一度いっしょに聴いてほしいというのです。...その日から毎晩通いました。

(ポール)
クラウスたちは、ふらっときては音楽を聴いていたんだ。とてもかっこよかったよ、謎めいていてね。芸術家気取りの彼らは最高だった。ジョンもボクも芸術には興味があったから親しみやすかったんだ、そこが魅力だったね。

>>長くて黒い手編みのマフラーとスウェードのジャケット、まるで前衛芸術家みたいでした。長い指の風変わりな人物像を描き始め独自の画風を磨きました。絵に関しては少しづつ自分自身の方向性を見つけていきましたが、音楽も好きでした...レイチャールズやマイルスデイビスを、ロックはまったく別物でした。

(アストリット)
クラウスはうらやむような目でステージの上の人たちを見ていました。ある時、トップテンクラブでステュワートに代わりクラウスがベースを弾きました。が、ステージで演奏する度胸はなく客席のイスで弾いてました。

>>手前の右の黒い影が私です。ポールがピアノ、ピートがドラムでした。...でもステュワートの心は美術にありました。...ポールが怒るとジョンが言いました。「ルックスだけで十分さ」。ステュワートは意思を貫きバンドを辞めました。...彼からベースを買い、「ボクがバンドに参加するのは?」とジョンに言いましたが、「ごめん、ベースはポールがやる」と断られました。

>>休暇に入ったとポールから手紙が来ました。「LPを作り終え、あれこれ楽しく過ごしている、遊びに行っていい?」...メンバーが着いたのは深夜でした。...山登りしたり、ビーチに出かけてみんな日に焼けて鼻が真っ赤でした。...彼らは感じが良く、この上なく気さくで、初めて会うタイプでした。

>>音楽の道は厳しいので美術を学ぶことにしました。音楽と美術の間で揺れる気持ちは今でも続いています・・・
自分たちやドイツ人のことなど何でも笑い飛ばしてしまう幸せな彼らを見て、人生はかくあるべき、と感じました。私も幸せな人生を送ろうと決心し、ドイツを離れることにしたのです。

===ロンドン、アビイロード
>>商業デザイナーになりたくてロンドンに移ると、いっしょに住もうとジョージが言ってくれました。...駅から直接EMIスタジオに行きました。スタジオは人気スポットでした。...若者たちは悲鳴を上げ道が開けたので、なかに入れました。すぐにジョージが出迎えてくれました。
今でもメンバに会うと何となく気後れがします・・・。そう感じさせなかったのが、ジョージです。

>>彼らは大物で、自分は凡人だといつも感じます。私は彼らのことをずっと尊敬してきました。すばらしい人たちです。...私がクラシックギターを弾くと、ジョージはそれを見ていました。私が弾いたのはタレガ、バッハ、ロドリゲスでした。

>>...就職した私は商業デザインの分野でキャリアの階段を上っていきました。出世を続け仕事も能力も認められました。自分が有能だという自覚もありました。

===
>>『リボルバー』の原画がどこにあるか訊かれたんだ。...

(ジョー・ウォルシュ/イーグルス)
あの絵に少し手を加えた! ああ、色も塗ってみた。カラーでもすてきだよ、デジタル化もした。...ハッハッハ、ぜーんぶ、ウソだよ~
ジャケットの作者にずっと興味があった。『リボルバー』の原画は、ある時ロスで見つけたんだ。じっくり鑑賞すると今でも新しい発見がある。絵だけでなくクラウスは音楽のキャリアもすごい、デスコグラフィーを見なよ、彼が参加した作品は傑作ばかりだ。

===
♪♪Short People

>>美術と音楽はまったく別のものです。音を描くのは不可能です。「リボルバー」の時のように、特定の時代の感覚やミュージシャンのイメージなら表現できます。でも音楽そのものの映像化は無理、不可能だと思います。
グラミー賞の候補になったときは本当に驚きました。...誇りに思いました。

>>(リボルバーのジャケットを指して)
ここに、私がいます。悪趣味ですね。すぐにジョンに見つかり、からかわれました。
これはビージーズのもの。...これはジミ・ヘンドリックス、スクラッチボードを使いました。黒い表面を削って暗いところから光の中へ白い線で出てくる感じ、この画材の持ち味ですね。...仕事は仕事、趣味は関係ありません。お金をもらうからには、依頼人から求められた世界観を表現しなければなりません。ニーズとターゲットを真剣に考えるのが仕事です、明快でしょ。

>>不思議と楽しい思い出ばかりです。本当はそうでもなかったはずなのに・・・
人はたいがい、そう感じるんですかね、40年代や50年代は、大人になるのがあこがれだった、でも60年代には逆に若さが魅力になった。

(ツイッギー)若者たちは世界を変えようとしたわ。ビートルズやストーンズに共鳴したのよ。ロンドンはファッションから芸術音楽まで流行の発信地として注目を集めてパワフルだった。

オジーのドレスね、すてきだわ
    >>髪をここにつなげたんだ
光の入り方から何もかもがイメージどおりなのね。
    >>長い影を作るためにライトと風向きを調整した、絶妙だった
これは傑作よ、ああ~、何の雑誌?
     >>ヴォーグ。カラーで掲載された、でも白黒の方がいい
私の顔だけが写真、他の部分は描き加えたのね・・・当時、ジョージの妻だったパティを通じてクラウスと知り合ったと思う。クラウスとは気が合いすぐ友達になって、仲間たちとよく出かけたの・・・

>>少人数のグループでいろんな場所へ出かけました。ジミ・ヘンやザ・フーを観て、クラブをハシゴして、そんな毎日を送りました。

===
(アストリット)夫から、バンドを組もうという話がありましたが、クラウスは参加したくないと、とにかく自分では力不足だと。...「難しく考えずにやればいいの」、クラウスは初めのうち観客に背を向け演奏してました。
  
>>自信のあるなしは、人さまざま...その後もバンドから誘われ戸惑いながらも私が選んだのは、マンフレッド・マンでした。

♪♪Mighty Quinn(1968)
Come all without, come all within, You'll not see nothing like the mighty Quinn.

>>サインを頼まれるのは恥ずかしかった...ただ好きなことをしていたかっただけです、自分の気の向くままにね。「こうすれば受ける」という声は無視、それよりも自分がどう感じるかが大事...

(マイク・ダボ)マンフレッドの家に行くと、すごくハンサムな若者がいた。身なりが優雅で、新しいボーカルだと思った。こいつには勝てないと感じ、クビを覚悟した、新しいベーシストだといわれ、ほっとした、覚えているか?ハッハッハ
(トム・マッギネス)...Mighty Quinn、アレは危うくお蔵入りになりかけた。レコーディングはしたものの半年もほったらかしだったな...

===
>>・・・どうしてもイギリスに住み続けたくて結婚、組合に入って労働許可が得られました。音楽の仕事と並行して絵も少しやっていました。
そんなとき、突然セッションに呼ばれて、ジョンとトロントで演奏しました。それからジョージのアルバムに参加して、またジョンやリンゴと仕事を...そしてカーリ・サイモンやニルソンのアルバムなど音楽の仕事ばかりが続くようになったのです。まったく予想しなかった展開です。

>>プラスティック・オノ・バンドを結成しない?とジョンが私に声をかけてきました。...
「とにかく演奏をしたいんだ」と強引な物言いでした、「エリック・クラプトンも参加する。君はどうするんだ」と、いらだってました。参加すると答えたら、明日空港で会おうといわれ戸惑いました。トロントに飛び、翌々日が本番だというのです。移動中の機内で私たちはリハーサルを始めたけどエンジンのすぐ隣で騒音がすごくて、アンプも使えないしエレキベースも音など聞こえません。...

(ジョン・レノン)こんばんは。ぶっつけ本番だから馴染みの曲をやろうよ。
♪♪ Blue Suede Shoes

>>ジョンはスタジオ作業を早く終わらせるタイプ、「さっさとやろう」とみんなをせかしていました。対照的なのが周囲を和ませていたジョージです。彼がいると、どんな現場でもいい雰囲気になりました。「All Things Must Pass」に私は参加しました。ビートルズのどのLPより売れたと思います。

===
>>当時私はハムステッドに住んでいました。クリスティンとの離婚が決まったとき、ジョージは自分の邸宅に誘ってくれました。そこで暮せたのは本当に幸いでした、離婚はつらかった。...ジョージの曲作りにも関わりました。朝から晩まで彼と音楽や生活を共にしていたのです。

(ジョージ・ハリスン)幻のベーシストを紹介しましょう。 クラウス・フォアマン !!
♪♪ コンサート・バングラディッシュ(1971)

>>ジョージは人に対してとても親身になる男でした。相手の気持ちを大事にします。彼は自分の人生や考え方について話をしてくれました。逆に私にとても個人的なことを聞いてきたこともあります。ジョージのことを特に大切に思うのは自然なことでした・・・・

(オリビア・ハリスン)
クラウスはジョージをいろんな形で支えました。時には絵を描き、庭仕事もしました。ジョージに刺激を与えてくれ、魅力にあふれた友人でした。芸術の旅路を行く仲間でした・・・

>>精神世界に傾倒していたジョージですが、多くの悩みを抱えていて、でもそれを人には言いませんでした。ジョージの悩みや苦しみが私にはよくわかりました。だから彼を支えました。彼は病気を気にしませんでした。「クラウス、肉体は単なる殻にすぎないんだ」、「心配はいらないよ」、私への気遣いです・・・

>>私はジョージの夢をよく見ます。違う年齢のジョージが、いろんな場所に出てきます。
彼は、今でも、私と共にいます・・・
  — 彼女といっしょに庭で植樹をする —、いい感じね、うまくできたわ・・・

===ロサンゼルス
(リチャード・ペリー/プロデューサ)
久しぶり、クラウス。信じられないよ、君に会うのをずっと待ってた。見せたいものがある、さあ、入ってくれ。見覚えあるかい?君が参加した作品ばかりだ・・・
楽しかった?ほんとにそうだね、「私を愛したスパイ」もある・・・・・あれはリンゴの「ユーア・シックスティーン」と「想い出のフォトグラフ」

(ペリー)
初めてクラウスに会ったのは1971年6月でした。「ニルソン・シュミルソン」を手がけ始めたころです。初セッションのあとで、すごいものを作っていると思い始めました。「ウィズアウト・ユー」は世界中で1位になりました。次はカーリー・サイモンのアルバムでした。

>>彼の電話「ニルソンのアルバムのために演奏してくれないか?」に、私は黙っていました。間を置くのは私の癖なのですが、ペリーはギャラを倍にしてきました。...いつの間にか有名になっていたことに気づいていなかったのです。

===アメリカ東部・マーサズ・ヴィニヤード島
♪Back the Way
— それは遠い昔の話なの、扉が開かれるよりも前の話、氷が割れるよりも前の話、みんな私を道化と思っていた、誰一人聞いてこなかった、サンドイッチを部屋に持っていこうかなんて、私はいつも待っていたわ、まあまあだと思われていた私が、今や まばゆく輝いている・・・ それは遠い昔の話なの、私をきれいだと思う人もいた — 

>>70年代以来カーリーには会っていません。彼女に会うのは実に久しぶりでした。...

(カーリー・サイモン) ああ、クラウス、クラウス・・・かっこよくて全然変わらない~
連絡を取らなくなっても、どこかでつながっていたと思うわ。人生には特別な出会いがあるの。出合った瞬間から心が通じ合うのよ。セッション初日にクラウスを見て、圧倒されたわ。びっくりするほど美形だったんですもの。その上信じられないほど控えめで謙虚だったわ。伏目勝ち、突然顔を上げて、またすぐ視線を落とすの。

手慣らしをするかのようにこんな感じでベースを弾き始めたわ。ベッベッロベッベッロベッ・・・
サン・オブ・ア・ガン!彼の演奏を聴いて反射的に出た言葉よ。内容とは無関係。彼の演奏に驚いて、思わず出たのが、あのフレーズよ。

(ペリー) ベッベッロベッベッロベッ・・・、ポップスの歴史に残るベース演奏のイントロだ。
(カーリー) あの曲の産声、それがベースの演奏よ。
♪You're So Vain
You walked into the party like you were walking onto a yacht ...

(カーリー)ほら、見て。低い道も高い道も同じ場所に続いている。
スコットランド民謡よ、— 君は高い道を行き、僕は低い道を行く、一足先にスコットランドの土となろう。悲哀を胸に抱え再会するその日まで。美しき岸辺、美しき丘、そしてローモンド湖 —

(ペリー)録音技術はアメリカよりロンドンの方が上でした。レコードの音が良く、技師の腕も確か、編曲者たちもクラシックで鍛えられていました。
(カーリー)
「うつろな愛」ではミックジャガーが、「ナイトアウル」ではマッカートニー夫妻がコーラスで参加しました。録音の時、ミックがこう言ったわ「ポールに会うから緊張している」。実はポールたちも緊張してたのよ。...あの頃はみんなまだまだ未熟だったので、トップ争いもあったわ。だけどクラウスは誰とも競争しなかった。彼はバンドリーダではなく正真正銘のアーティストだったの、とても多彩なアーティスト。

>>再会に心が揺れました。私は長年音楽から離れていました。もう音楽はたくさんと思ったからです。それが突然思い出をたどって旧友と会うことになりました。...みんな集まって演奏し、いい雰囲気でした。

昔の出来事や古い友人たちのことが、よみがえりました。
ジョンとジョージは亡くなりました・・・・
カーリーに再会してさまざまな思いがこみ上げました、とても切なかった・・・・

===スタジオ「ブルーパーム」 (L.A.)
(リンゴ・スター、ドン・プレストン・グラント・ガイスマン、ジム・ケルトナー、ヴァンダイク・パークス、ランディ・ニューマン、トレヴァーローレンス、イナラ・ジョージ...)
♪You're Sixteen
♪He Needs Me 

>>ビートルズ解散後も彼らとは友だちでした。みんながいい関係でいられるよう、少しは潤滑剤になったかも・・・・
>>私はいつも欧州とアメリカを忙しく往復していました。ロンドン、NY,LA,ニューオリンズ...それで、アメリカに移った。当時ロスは最先端をいっていました。
リンゴは住む場所を提供してくれました。あんな生活をしたのは生まれて初めて、シボレー・カマロまで借りてくれ、朝食は何になさいますかと聞かれて、王様気分です。...バンガローに簡単な絵を描いて貼り付け、リンゴに行き先を知らせてました。

>>...私はドイツに戻ることにしました。でもドイツのレコード会社は..環境がまったく違いました。レコード会社とバンドをつなぐ仕事なら出来るかもしれない。トリオというバンド、ドクタージョン、「ダ・ダ・ダ・」楽しかったね。こうして私は、はからずもプロデューサになりました。...そして、コーラスのクリスティーナと出会いました。...
(妻クリスティーナ)...彼は落ち着いている、どんな苦難も克服できる...彼とは20年になります。

♪Such A Night 

>>私の性格ややり方を受けいれる相手ならプロデュースします、でも私には不向きな仕事だったので辞めました。
...ビートルズと出合ったころの本を出版しました。こうして私は美術の活動に戻ったのです。
物事は常に変化し続けます。私の人生にも別の展開があったでしょう。もしも自分がビートルズの一員だったら、フォリナーの一員だったらどんな人生だったか興味があります。この人生に十分満足していると言える人はいないでしょう。違う人生もあったはずです。
私は常に流れに従ってきました。無理をしたことがありません。ずっーと漂っていたのです・・・

===

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四人はアイドル?

2010-01-02 00:05:05 | 音楽・芸術・文学

暮れの2009/12/30 13:00-、NHK-BS2で「よみがえるビートルズ」を流した。ナガラで観ていた娘が教えてくれたのだが、「やっぱ、レット・イット・ビーだな」、などというようになった。おまけで続いて「ファースト・ライブ・イン・アメリカ」も。冒頭の彼らの笑顔は、このときNYに着いたときもの。そうか、もはや半世紀近くたつのだ!追っかけで泣き叫んでいた女の子たちも、”アラ還”のおばあちゃんになってしまった、はずだ...

この1月2日、3日も21:10から、「BS世界のドキュメンタリー・ビートルズ解散40年...」が放映される。見逃しても、『NHKオンデマンド』に載ればいいのだけど...

昨年2009・9月ごろに「ビートルズ・リマスター版」なるものが出た。団塊の世代の僕らはLPのあとCDリマスタで買いなおしたはずだが、こんどはもっとクリアな音というがセットで何万!?、これじゃあ高過ぎて...輸入版のバラで探すしかないなあ、もともとの作りと雰囲気ならばモノラル版がいいはずだ。

昨年2009・1月だから、ちょうど1年前も、「The Beatles ... Hey Jude」を。何年か前勝手に「W杯 ビートルズ大会」をやってみた。彼らは僕の同時代のスーパースターであった。もともと雑音交じりのラジオで聞いてたのだ、微妙なベースの響きが違おうがまあどうでもよく、それより大事なのはあの頃のこと。

むろんアルバムは、ラバーソウル以降がいいのだけど、この映像をあらためて観てるとアイドル時代もいい一瞬だったね、特にリンゴが明るくていいや、まあ、ずっーと気のいい奴ではあった。あんなに若かったのに、もう二人も欠けてしまってつらいなあ。彼らは、チヤホヤされたのにスポイルされず、新しい音づくりやポップな領域に挑戦しつづけ20世紀を後々まで伝える創造的な作品群を残してくれた。思いを書けばさしさわりのある記憶と出来事ばかり、それぞれのアルバムに、それぞれの曲に、時とともに。1969なら安田講堂攻防戦、僕はもはや縁のない場所で遠い世界の出来事をモノクロテレビで見ていた。「野生のエルザ」抱えて髪の長い少女があらわれたような...

そうだ、NHKの「よみがえるビートルズ」から、彼らの肉声をテロップから拾っておこう。このドキュメンタリはもうジョンが亡くなってからだろうなあ...ジョージ・マーチンの人柄もみえ、映像全体に笑顔と温かさがあっていいな。 ”Let It Be”と”Abbey Road” 、アルバムが出た順は逆転したが、彼らのパフォーマンスの最後は”Abbey Road”のB面、彼らの幕の引き方も鮮やかであった。72年ごろか、Get Backの映画は観たのだが、あのかたもどうしてるかなあ...

>>>>>>
(マーチン) 彼らはその時非常に革新的な時期にいました。まずアルバムを書き上げてからリハーサルをして、それを大観衆の前で演奏して新曲のアルバムを作ろうとしたのです。

=== ”Let It Be” Album released - May 1970 ===


(ポール) 「レット・イット・ビー」プロジェクトは作業の過程をそのまま見せることにあったんだ。

-- Let It Be (1970) --

(マーチン) トゥイッケナム映画スタジオでリハーサルを開始しました。
(ジョージ) リンゴ準備はいいかい? uh,1,2,3,4

-- I Me Mine (1970) --

(ジョージ) もとはポールのアイデアだったと思う 新曲をリハーサルし、コンサートで録音しようってね。今でいう「アンプラグド」みたいなやり方だね、もっとも演奏はアンプラグド・スタイルではなかったけれど
(マーチン) ジョンが「余計な作業は加えなくていい」と言ったときは、ちょっと驚きました。ボーカルや他の重ね録りは要らない、初めに録ったままじゃないといけないと...

-- I've Got A Feeling (1970) --

(マーチン) 私が)トゥイッケナムへ行ったときは本当によくない雰囲気でした。みんなが全く協調していなかったのです。
(ジョージ) トゥイッケナムはすごく寒くていい雰囲気とはいえなかったんだ。だからそこはやめてレコーディングスタジオに入ることに決めたんだ。
(マーチン) 結局サビルロウのアップルスタジオでレコーディングをしました。

-- For You Blue (1970) --

(リンゴ) レコードを聴けば、僕らが楽しんでいる時はそれが演奏にも現れているのがわかると思うよ。個人的な事情など関係なくて、いざ音楽となると僕らは1000%の力を込めていたんだ。

-- One After 909 (1970) --

(ポール) 「ワン・アフター・909」昔に戻ったみたいだった。若い頃の生々しいエネルギーがあって、10代の頃を思い出させてくれるよ。スタジオに入ってからはすごくいいセッションができた。丸く坐って音楽を楽しんだんだ。演奏するのがとても楽しくて最後は屋上で演奏したんだ。
-- Get Back (1970) --

-- The Long And Winding Road (1970) --

(ポール) 「レット・イット・ビー」を作ってクリン・ジョンズにミックスしてもらったんだけど...それがすごく素直でシンプルなミックスで好きだったんだ。でも、アラン・クラインが「充分じゃない」とフィル・スペクターを連れてきて...アルバムのクレジットにあるとおり彼が”再プロデュース”することになったんだ。


(ポール:もう一回やりたい? ジョン:うん、少なくともあと1回は。もうチャンスはないかも知れないしね。
マーチン:最後のパフォーマンスだ、オーディエンスがいるよ)

=== ”Abbey Road” Album released - September 1969 ===


-- Because (1969) --

(マーチン) ポールが電話してきて「もう1枚でコードを作りたい、プロデュースしてくれない?」と言ったのには驚きました。
すぐに「以前のようなやり方でやるならね」と答えました。
「僕らもそうしたいんだ」とポールは言いました。
「ジョンも同じ考え?」と聞いたら「うん、そうだよ」と言ったのです。

(ポール) 「アビイ・ロード」のセッションを始める前に、ボクシンググローブを置いて...一丸となってとてもスペシャルなアルバムを作ろうということになったんだ。

-- Come Together (1969) --


(ポール) シングルというとジョンか僕もしくは僕ら二人で書くものと考えがちだったんだけど...突然ジョージがこの曲を持ってきたんだ。

-- Something (1969) --


-- Octopus's Garden (1969) --

(リンゴ) 「アビイ・ロード」の最後の部分は今でも僕らの作った最高の作品の一つだと思うね。


-- Mean Mr.Mustard (1969) --

(ポール) 本当にたくさんの曲のかけらがあったんだ。ジョンは「ポリシーン・パン」という曲を持っていた。

(...ジョン:ごめん失敗した。...ポール:失敗してくれてうれしいよ、ジョン:よかった...1,2,3,4)
-- Polythene Pam (1969) --

(ポール) そしてそれらを全てメドレーにして繋げるというアイデアを思いついたんだ。それが「アビイ・ロード」のB面としてオペラ風の作りになったんだ。全ての楽曲を上手く活用できたし、よかったよ。

-- Carry That Weight (1969) --


(ジョージ) その時点では、ビートルズの最後のレコードになるとは、僕らはというか、僕は知らなかった...でも終わりに近づいているんだろうというのは、何となく感じていたけどね。
(ポール) 僕は最後のアルバムになるかもしれないという予感はあったから、僕らが何ができるか見せてやろうじゃないか!?お互い何が出来るかみせてやろう...トライして楽しい時間を過ごそうと...
(マーチン) とても楽しいアルバムでした。全てものすごく上手くいってたし、だからこのアルバムは大好きなのです。
-- The End (1969) --

(ポール: キープして、素晴らしいって印をつけといて!
ジョン:  ティーンエイジの詩だよ、ホット・ロッド・ボールディ...)


=============
画像:Photograph of The Beatles as they arrive in New York City in 1964
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Beatles

ザ・ビートルズ・モノ・ボックス(アンコール・プレス)EMIミュージックジャパンこのアイテムの詳細を見る
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平成庚寅

2010-01-01 00:07:17 | ローカルな話題

謹賀新年

このところ、古代のギリシアの人たちに感心することしきりなので、そちらをさまよっていたが、ペルシア戦争のあった紀元前6世紀初頭などというと、これは紀元前590年あたりであって、何ともわかりづらい。あのころの人にとって自分たちの時代が後代にマイナス表示でいわれるなんて、考えもしなかったし失礼ではないか。それに紀元0年がないのだから、通しで今から何年前かを計算すればたぶん間違うはずだ。絶対0年というもの作っておかないと数千年ののちにはまたまた混乱するであろう、などと戯言ばかりでは、いかん。

こちらはオリエントの人種、新年にして、しかも自分の時が区切りなので急に干支というものが気になった。昭和25年生まれでこの5日でちょうど一回り、ひとごとと思っていた還暦ということになるそうだ、人生あっという間だ。60年前は、九星の五黄土星と干支の寅年が重なる「五黄の寅」、五黄土星は本命星の中で一番強烈な星、トラも十二支の中でもっとも強い干支だから、ご宣託通りにいけば本来強烈な人間・高邁な人格者になるはずであった。

であるのだが振り返りツラツラ思うに、強者トラならぬダル猫みたいな半生、カイシャもまた一区切りという本年、難題ばかりで先が見えぬ。さあ、あとひと回り先に、また「五黄の寅」が巡って来るはずなので、そのときまでひと勝負であろう、と。繰り返しを伴う循環というものには、天文学的にもその中で生かされているわけで、何らか自らの運気に確かに良き影響があるのだと思いたい。これでも、無事生まれてきたときは、周りはタイヘンな喜びようだったのだ。トラ、トラ、トラ...
 
写真は、お隣の港町・塩釜の駅前に飾られている塩釜神社の大絵馬。
大絵馬:虎親子、お目見え--JR本塩釜、塩釜駅前 /宮城 
 より。
塩釜市のJR仙石線本塩釜駅と東北本線塩釜駅の駅前に(12月)2日、来年のえとの「庚寅(かのえとら)」にちなんだ塩釜神社の大絵馬が飾られた。東北地方で最多となる約50万の初詣で客らを迎えるためで、「奥州一之宮」の塩釜神社の玄関口は、いち早く華やいだ正月気分に包まれた。
 大絵馬は高さ2・5メートル、幅3・8メートル、重さ300キロで、本塩釜駅前では今年の牛の絵馬を外した後、丁寧に“バトンタッチ”。虎の親子が、国の天然記念物・塩釜桜と盛り塩の前で仲良く遊んでいる絵柄で、「不景気を虎の勢いと勇ましさで吹き飛ばしてほしい、との願いを込めた」と同神社の村上恵一権祢宜(ごんねぎ)(61)。
 本塩釜駅の絵馬は、駅側の要望で通年飾られ、塩釜駅では1月14日の「どんと祭」まで飾り、神社に返納される。



中高年のアイドル・綾小路きみまろ氏は、芸能生活40年、”潜伏期間が30年”とか!、今年”アラ還”のきみまろさんから年頭のごあいさつ。
「全国の中高年の皆さま、新年あけましておめでとうございます。長年生きてこられて今年も生きていかれるわけですね、その顔で。謹んでお喜び申し上げます。...まさか自分が還暦を迎えるなんて…。不安とか何だとか、よくわかりませんよ。初体験だもん、年取るの。...人生いいこと半分悪いこと半分、ならせば同じ。あせらず体に気をつけて、きみまろと同じ時代を生きていきましょうよ。」

「『愛してる?』言ってたでしょ、言ってたんです奥さん、その顔で。愛があったんですよ、ご主人との間で確かな愛が。だって、そばにいるだけでドキドキしたんだもん。今、そばにいるだけで不整脈。」(河北新報2010.1.1:「綾小路きみまろ 還暦トーク」より)

BS2、2010/1/2 13:00-「きみまろフルコース ごきげん歌謡笑劇団」にて、3連発の再放送。

                                   平成22年(2010)・庚寅  元旦  トラ

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