まだまだ寒いし、生活習慣(病?)がマズイせいで血糖値がオカシイ。などとツマンナイことばかりでコタツに潜り込んで観るはAbemaTV将棋チャンネル。ある日ムスメが現れPC画面をちらり、ボーッとしてんじゃねえよ~という感じで、文庫本をよこした。それが、「将棋の子」。数日して次が飛んできて「しょったんの奇跡」。なぜにムスメが、こんな将棋の世界の本、こういう世界を見ているかはイマイチ判然としないが、まあ、いいのではないかい。どれも読んでいなかったし、どれもすばらしかったからだ。こうなると気になっていた「聖の青春」も一気読み、これは逆にムスメに貸してやった。エネルギーが多少湧いてきたので、初手から三手目まで三作をメモしておくことにした。連日、半ボラお仕事も年度末、総会準備で綱渡りの日々、こんなことやってていいのか、1分将棋みたいな今週であった。。。よんじゅうびょう、ごじゅうびょう、いちっ、にい、さん、しい、、まあ、いそがしいほど、冴えってものは出てくるのだ。。。
藤井聡太クンが現れ「将棋世界」表紙を飾っているのを見て、何十年ぶりかで毎月買っていた。この新人、むむ、これは、何十年に一人の逸材だ。こちとら今さらリアルにヘボ将棋をやる気も起きないから、もっぱら図上演習というか研究と鑑賞。棋譜をならべても時間ばかりかかって途中図とも合わず、どっか抜けたかな!?で、将棋盤はただのサイドテーブルに。今の時代の環境ならPCのヴァーチャル画面の方が。。。だいたい猫パンチが飛んで来たら盤面はぐちゃぐちゃ、それこそ「矢倉は終わった~」
将棋の世界というのは、実業ではなく虚業の世界(?)なので、ときに将棋そのものよりその周辺も楽しめるものだ。大好きだった米長さんいなくなって寂しいが(そういえば今の僕の歳で亡くなられたのだ)、最近は若くて元気なのがいっぱい出てきて何より。対局中バナナとフィナンシェのテンコ盛りの永瀬、努力家とか皆がいうが、あれじゃあ血糖値ダイジョーブかね?
そのむかし子供の頃、雨が降ると菅野さんちの食堂で皆で「待った」ばっかしの将棋あそびしてたっけ。将棋指しになるという一手もあったのかなあ???いやいや、棋士なんか、運も含め本当にほんの一握りの人しか成れないものなんやろ。将棋で感想戦というのがあるが、あれはやだね。人生の感想戦なんかも、みんなやりたいもんかね?!
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<<以下 「将棋の子」 大崎善生 講談社文庫 より引用>>
。。。
時計は午前一時を指していた。
成田は明日午前6時には起きてご飯と納豆をかきこみ、叩きとして走り回る一日が待っている。私は東京へ帰らなければならない。
別れる時間が確実に近づいていた。
「将棋界のこと知っているの?」と私は聞いた。
「いや、まったく何も知らない」と成田は答えた。
「いまの名人は?」
「いや、知らない。こっち、雑誌も新聞も見ないから」
「丸山忠久」と私は言った。
「丸山?そんなのいたっけ」
「奨励会、いっしょだったはずだよ」
「ああ、じゃあおとなしい子だったんだ。名前はなんとなく覚えている。そう言われてみれば」
「羽生さんが七冠王になったのは?」
「それは知っている。テレビでもやっていたもん。こっちが栗山に戻ったころかなあ」
「驚いた?」
「そりゃ、驚いたさ。だって、こっち奨励会でやってたころは、羽生君まだ子供だったもん。可愛い子だった。あの子が七冠を全部とるとはすごいよねえ」
「羽生善治はすごい」と私は言った。
「うん。ハブゼンはすごい」と成田は言った。
それはずいぶんと久しぶりに聞く奨励会時代の羽生のニックネームだった。羽生が頂点へぐいぐいと駆け上がっていくにつれてそう呼ぶものはだれもいなくなっていった。しかし、成田の時計はそこで、その時代のまま止まっているのである。
「奨励会時代の対羽生戦は、何勝何敗?」と私は聞いた。
「0勝4敗」と成田は間髪を入れずにそう答えた。
「全然勝てなかったの、子供に」
「ああ、こっち一回も勝てなかった」と言って成田は嬉しそうに笑った。
「羽生善治、好きか?」と私は聞いた。
「好きだよ」と成田は言った。
「一回も勝てなくても」
「ああ、こっちの、なんていうか誇りだ」
「誇り?」
「そう、一回も勝てなくたってハブゼンはこっちの人生の誇りだよ」と成田は顔を輝かせた。
「明日早いんだろ?」と私は言った。
「うん、いつも通りだよ」と成田は答えた。
「じゃあ、そろそろ帰らなきゃな」
「うん」
「悪かったな遅くまで」と私が言うと成田は引き止めるように言った。
「こっち、奨励会時代からずっと持っているものがあるんだ。見る?」
「なんだ?」と私が聞くと成田はニコニコしながら財布を取り出し、その中から一枚のカードのようなものを大切そうに抜き取った。
「なんだと思う?」と成田は言う。
なんだろうなと私は考えた。母の写真はもう一枚も持っていないと言っていた。佐知子との写真だろうか。あるいは、どこかの道場の棋力認定証、または指導棋士の証明証。私はそれをつぎつぎに言ってみたけれど、成田はことごとく首を振った。
「いいでしょう、これ」と言って成田はテーブルの上にそれをもったいつけながら置いた。
森昌子のブロマイドだった。
「はは」それを見て私は思わず吹き出してしまった。決して美人とは言えない森昌子が、パンダのような化粧をして演歌を熱唱している写真だった。彼女の人のよさと心の純粋さと、歌を信じる心の強さのようなものがそこには映しだされていた。
「いいでしょう、森昌子」と成田は言った。
「ああ、いいね。確かにいい写真だ」
「駒とこれ。それだけさ。こっちに残ったものは。この二つだけは肌身離さずもって歩いているんだ、こっち」
その成田の言葉を聞きながら、私は思った。では自分はいったい何を大切にして、なにを肌身離さず持ち歩いているというのだろうか。どんなに苦しいときにも、少しだけでも成田の心を一瞬解放してくれた、一組の駒と一枚の写真。それにまさる宝物を私は何一つ持っていない。
棋士になっても不幸になっていく人間を私は千駄ヶ谷にいて何人も見てきた。どんな名声や勝利を勝ち得ても、人を信じることも優しくすることもできない棋士もいた。ただ生活のためにわずか150人の競争にあけくれ、人を追い落とすことだけに長けていく棋士もいた。そういう人間たちを私はすぐそばでそしてこの目ではっきりと見てきた。もちろんそうではない棋士も大勢いる。しかし、確実にそうである棋士がいることもまた事実である。
将棋に利ばかりを追い求め、自分が将棋に施された優しさに気づこうともしない棋士と比べて、ここにいる成田は何と幸せなのだろうと私は思う。
奨励会という制度が棋士になり勝つことによって金を得、生活権を得るための、ただそれだけものだとしたら、それだけのための競争だとしたら何というむなしいものだろうか。
将棋は厳しくはない。
本当は優しいものなのである。
もちろん制度は厳しくて、そして競争は激しい。しかし、結局のところ将棋は人間に何かを与え続けるだけで決して何も奪いはしない。
それを教えるための、そのことを知るための奨励会であってほしいと私は願う。
店内に「蛍の光」が流れ始めていた。ウエイトレスたちは客がいなくなったテーブルをきれいに拭き清めていた。
「またしばらく会えないな」と私は言った。
「そうかあ」と成田は寂しそうにつぶやき、そして続けた。
「大崎さん、こっち時々大崎さんに電話してもいいかなあ」
「そりゃいいよ」
「でも、こっち長距離電話かけるお金ないんだよね。だから、本当に時々さ」
「コレクトコールにすればいい」
「何それ?」
「まあ、いいから。俺のところに電話をかけたくなったら公衆電話に十円玉入れて、それから106と押す。そうすればお金はかからないから」
「本当?106だね」
「ああ、本当。ちゃんと覚えておけよ」
店内の明かりが急に明るくなった。
「負けるなよ」と私は成田に言った。
「ああ、こっち負けないよ」
「英二。すこしでいいから、目線を上げろよ」
「目線?」
「そう、名人を目指せとは言わないけれど、すこしは上を向かなきゃ。英二だって昔は夢を目指して頑張っていたんだろ。それが君の誇りなんだから。僕なんかが逆立ちしたって立てない場所に立っていたんだから」
「奨励会のこと?」
「ああ、そうだ」
「逆立ちしたって立てない場所?」
「ああ、英二はそこにいた。それは事実なんだから」
「わかった」
「何もしてやれないけど、東京に友達がいる」
「友達?」
「そう。英二がそう言ったじゃないか」
「大崎さんのことかい」
そういう成田の目に涙がにじんでいた。
「だったら、こっち電話かけてもいいでしょ」と手で涙をぬぐいながら成田は言った。
「いいよ」
たとえ夢にいつかたどりつく場所があったとしても、きっとそれはここではないと私は思った。そんなはずはないと。
「寂しくなったら、電話するよ」
「ああ」
「コレクトコールだったね」
「そう、106だ」
ファミリーレストランを出ると、外は季節外れの雪が降っていた。空を見上げると、暗黒の闇の中から魔法のようにふわふわと白い雪が次々と舞い降りてくる。
「まいった、まいった」と成田は言った。
「明日も寒いなあ」と続けた成田の言葉が空気の中で白く煙った。
厳しい寒さの日に、戸を叩き続けると最初は激痛が手のひらから腕の中を走り抜ける。それを繰り返しているうちにやがて自分の手の感覚がなくなり、戸を叩くたびに、もしかしたら氷のように自分の拳は粉々に砕けてしまうのではないかという恐怖に襲われると成田は言っていた。
手袋をとると手が真っ赤に腫れ上がり、フーフーと息を吹きかけて、ひたすら痛みが通り過ぎるのを待つのだと。
「明日も大変だね」と私は言った。
「でも、寒さなんか平気だ」
「そうか」
「ああ、寒さなんか馴れてしまえば平気だよ」
自分に言い聞かせるように成田はそう強がった。
札幌に降る5月の雪のなかで私はタクシーを拾い、乗りこんだ。
「じゃあ、またな」と私は言った。
「うん、大崎さんいろいろとありがとう」と成田は言った。
タクシーが発車し、後ろを振り返るとしんしんと降り続ける雪のなかで成田はいつまでも手を振っている。まるで糸にあやつられた人形のように規則正く手を振り続けている。
暗闇と白い雪、街灯の光と車のブレーキランプの赤や信号の青、サーチライトのようなさまざまな色に照らされて成田は直立不動で立ちつくしている。
「早く帰れよ」と私は口のなかでつぶやき、そして振り返るのをやめて、おそるおそるタクシーのルームミラーをのぞく。
成田は小さくなって、でも笑いながら手を振っている。
私はその姿を見ているうちに涙が溢れてどうしようもなくなった。次々と新しい涙が溢れ、そして声を出して泣き出してしまった。
あそこに、将棋の子が立っている。
そして懸命に手を振っている。
ミラーのなかに将棋の子がいる。
将棋を愛し将棋を信じ、そして今も将棋に何かを与え続けられそのことに感謝している、40歳の元奨励会会員が立っている。
雪になかにいる成田はニコニコと笑い、暖かいタクシーのなかで私は泣いている。
まったくどういうことなんだろう。
「早く帰れ」と私はもう一度口のなかでつぶやいた。
「早く帰って布団にくるまって寝ろ」
涙でゆがんだ景色のなかで、成田はだんだんと豆粒のように小さくなっていく。それでも、機械のように手を振っている。
その姿は何重もの雪と光の洪水の中にまぎれ、やがてあとかたもなくその深みへと、ネオンの底へと完全に埋没していったのだった。
<エピローグ>
北海道からの旅を終え、その半年後の平成13年1月31日に私は日本将棋連盟を退職した。
わずか半年の間にさまざまな出来事が起きた。そのなかのいくつかは、将棋界のバランスがどこかで、しかも確実に崩れていくような出来事だった。
瀬川晶司という三段で奨励会を退会した青年が、銀河戦という公式棋戦で7連勝という快挙をなしとげた。アマチュアがプロを相手に7人ごぼう抜きしてみせたのだ。。。。
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うーん、こうなると、次は「しょったん」だね。瀬川さんは昨年の天童の人間将棋の解説で見たよ。現地では「しょったん」がこんど映画になるとの話題が出てたが、こちらは、ほ〜〜お、と思っただけ、ナニも知らなかったのでメンゴ。夢はあきらめずにね、そうすればいいことがあるんだ。藤井クンのあの連勝中に突入した順位戦初戦が、瀬川さんだったもんね〜、いい将棋でしたよ、いい出会いでしたね。瀬川さん、昨期竜王戦では敗者復活で勝ち上がって見事昇級してました、フッカツが得意なんだ、えらいね!!
<<以下 「 泣き虫 しょったんの奇跡」瀬川晶司 講談社文庫 より引用>>
。。。。
応援の手紙やマスコミの取材は、ますます増える一方だった。将棋の調子も、明らかに落ちていた。奨励会を退会したあと、僕がいちばん大切にしてきた将棋を楽しむ気持ちが消え、年齢制限におびえていたあの頃のような覇気のなさが顔を出しはじめていた。
これで僕がもし第二局に敗れ、第三局も当然のように一蹴され、立ち直れないまま第四局も負けて一勝もできずに挑戦失敗という結果に終わったら、いったいどうなるだろう。自分の人生がかかっているというプレッシャー以上に、その恐怖が大きかった。しかもいまのままでは、その可能性はかぎりなく高いのだ。
やっぱり僕には、プロになることなど無理だったのだろうか。
試験将棋第一局から一週間ほど経ったある夜。
会社から帰宅した僕はいつものように、その日に届いた郵便物を母から受け取って自室に入った。いつものように、名前も知らない人からの手紙ばかりに見えた。
ところが、そのなかに一通、不思議な葉書があった。ドラえもんの絵が大きく印刷された葉書だった。その子どもっぽさに違和感があった。
誰だろう?
僕は子どもの頃、ドラえもんが好きだった。そのことを知っている人だろうか。ネクタイをゆるめながら葉書を裏返し、差出人の名を見る。
あっ。
その瞬間、僕は声をあげそうになった。
葉書をもう一度ひっくり返し、ドラえもんの絵の上に書かれた文字を追う。
「だいじょうぶ。きっとよい道が拓かれます」
いままで心の中で押し殺していたものが、堰を切ったようにこみ上げてくるのを感じた。嗚咽でのどが震え、文面が涙で見えなくなる。それを拭っては何度も読み返す。そのたびにまた、新しい涙があふれてくる。
そうだった、すべては、このひとのおかげだった。
何に対しても自信が持てなかった僕が、自分の意志で歩けるようになったのも。ここまでいろいろなことがあったけれどもなんとか生きてきて、いま夢のような大きな舞台に立つことができたのも。
もとはといえば、すべてこの人のおかげだった。
この人に教えられたことを、僕はすっかり忘れていた。いつのまにか僕は、僕でなくなっていた。僕は、僕に戻ろう。僕は、僕でいいのだから。
心の中にできた固い岩をすべて溶かしきるまで、僕は泣きつづけた。
「では、行ってきます」
八月十三日。部屋のいちばん目立つところに貼ったドラえもんの葉書にそう挨拶して、僕は試験将棋第二局を戦うために大阪に出発した。
翌十四日、神吉宏充六段を破って試験将棋初勝利をあげた僕が、その後の記者会見で、万感の思いを込めてこう答えた。
「いままでの人生で、いちばんうれしい勝利です」
。。。。 >>>
( 「大崎善生 解説 」より)
奨励会退会後の奨励会会員たちのその後の人生は、本当にさまざまだ。小学生時代から文字通り将棋に明け暮れ、それだけを人生の目標にしてきた彼らが、ある日突然にその自分という人格を形成していたはずの骨格をはがされ、すべての価値観を測っていたメジャーをはずされてしまう。
。。。。
二十歳前後の社会的な経験もほとんどない彼らが、いきなり身ぐるみはがされて真冬の路上に放り投げられ、そして決断を迫られる。自分の今までの人生とはなんだったのか、将棋とはなんだったのか。それに挫折した自分はこれから何を指針にして生きていけばいいのか。第一、どこに行って何をすればいいのか。どこに行けるのか。
本書を読んでいると私の目からはクールでスマートに見えた瀬川さんも、やはり同じような苦しみの中で、タールの海を泳いでいた時期があったのだといまさらながらに気づかせられる。考えてみれば当たり前のことで、誰もが簡単に自分の存在価値を捨てられないように、奨励会員がクールに将棋と訣別などできるわけがないのである。
身を切り裂くような思いで将棋に対して線を引いたはずの瀬川さんの人生が、やがて微妙な航跡を辿りはじめる。対プロ7連勝や八段や九段への勝利をはじめとして、常識では考えられないような成績を次々と残していくのだ。
プロをものともしないアマ。
目の前で起こる実現不可能だったはずの奇跡。
それを次々とおこしていく瀬川という青年。
アマチュアはそんな夢のようなスターの出現に胸を熱くして声援を送り、瀬川さんはそれ以上の活躍で応えてみせた。訣別したはずのプロ将棋、線引きが済んだはずの将棋そのものが、まるで陽炎のようにゆらめきながら再び自分の人生に近づいてくることに、果たして彼は喜びと恐怖のそのどちらを感じていたことだろうか。
世間は動き始めた。
瀬川さんの意思とは違うところで。彼をこのまま放置することはプロ棋士の存在理由さえも揺るがしかねない。そんなところまできてしまっていたのである。そしてついに提示される、あまりにも大胆で未曾有の決着の仕方。
それが棋界史に輝くプロ編入試験だ。
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瀬川さんの人生のみならず将棋の歴史を大きく変えることになった奨励会退会者による編入試験は、施行方法に賛否両論を抱えながらも、大きな世間の注目を浴びながらスタートした。将棋が社会全体から注目されるという意味で羽生善治七冠誕生以来の大ニュースだった。七冠の完全制覇が奇跡の達成を目の当たりにしたいという意味で注目されたとすれば、瀬川さんの編入試験は一度は挫折を味わった経験のある日本中の多くの人間たちから共感を持って注目されることになった。
夢を追う姿。
決して諦めない姿。
それも一度は挫折した夢に再びかじりつくように追う姿。現実的には見られそうでいて滅多に見ることのできない、そのありのままの姿が公開の場にさらされ、一歩一歩もがきながらも瀬川さんは手足をばたつかせ続けた。
そしてついにくる熱狂の日。
タールの海を渡りきった彼を待ち受けていたのは、二度と戻ることのできなかったはずの夢の場所。
プロの四段だったのだ。
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平成十七年十一月六日深夜。
わたしの携帯が鳴った。ディスプレイを見ると瀬川晶司とある。
。。。。
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「将棋世界」の編集長を十年やった大崎善生のデビュー作「聖の青春」が2016年に映画化され、「村山聖は18年ぶりに戻ってきた」という。映像はともかく、話題になるのはいいことだ。日本将棋連盟HPの最近の将棋コラムに、「将棋界の師弟関係の魅力に迫る」という記事がある。2017年に引退された森信雄七段の最初のお弟子さんが村山聖。いまや森一門は西の大所帯、山崎隆之、糸谷哲郎、増田裕司、安用寺孝功、片上大輔、澤田真吾、大石直嗣、千田翔太、竹内雄悟、室谷由紀、山口絵美菜、石本さくら。
<<以下、青色字「聖の青春 (角川文庫) - 大崎 善生」より引用 >>
<<プロローグより>>
。。。
平成10年8月8日、一人の棋士が死んだ。
村山聖、29歳。将棋界の最高峰であるA級に在籍したままの死であった。
村山は幼くしてネフローゼを患いその宿命ともいえる疾患とともに成長し、熾烈で純粋な人生をまっとうした。彼の29年は病気との闘いの29年間でもあった。
村山は多くの愛に支えられて生きた。
肉親の愛、友人の愛、そして師匠の愛。
もうひとつ、村山をささえたものがあったとすればそれは将棋だった。
将棋は病院のベッドで生活する少年にとって、限りなく広がる空であった。
少年は大きな夢を思い描き、青空を自由にそして闊達に飛び回った。それははるかな名人につづいている空だった。その空を飛ぶために、少年はありとあらゆる 努力をし全精力を傾け、類まれな集中力と強い意志ではばたきつづけた。
夢がかなう、もう一歩のところに村山はいた。果てしない競争と淘汰を勝ち抜き、村山は名人への扉の前に立っていた。
しかし、どんな障害も乗り越えてきた村山に、さらに大きな試練が待ち受ける。
進行性膀胱癌。
。。。。。。。
平成元年の冬、将棋界を揺るがす大事件が起こった。将棋界の最高棋戦、竜王戦で羽生善治が島朗竜王を下し、わずか19歳で将棋界の頂点に立ったのである。
東京グランドホテルの対局室、ぐるりと取り囲んだ報道陣が間断なく浴びせるフラッシュの光の中で「地位の重さについていけるかどうか心配です」と羽生はかすれた声を振りしぼるように語った。部屋はニュースター誕生の興奮と4勝3敗1持将棋という白熱の大接戦の余韻がさめやらなかった。
天才棋士出現の報は将棋界をつき破るように日本中を駆け巡り、羽生善治の名は一夜にして広く世間に轟きわたることとなったのである。
そんな同世代棋士の活躍を横目に見ながら、村山の棋士生活は伏在する体調面の問題との戦いであった。健康状態がすぐれないときは黒星がたまっていく。そしてその黒星がまた体に悪影響をあたえるというどうしようもない悪循環の中でのたうちまわるような日々がつづくのだった。
体調が戻ればみるみるうちに勝ちはじめる。勝てば体も楽になる、10連勝くらいは何度も記録している。しかし、好不調の波が大きく、なかなか1年間安定した状態でいることはむずかしい。したがって順位戦のリーグでは毎年本命といわれながら、C級1組に3年間足止めを食うことになる。
その間、結局村山は前田アパートと将棋会館と師匠のマンションのトライアングルの中を行き来する生活パターンをひたすら繰りかえした。羽生がどんなに強くても自分にできることはそう多くはないというのもまた厳然とした事実なのであった。
そう。村山にできること。それはいままでの反復しかない。毎日将棋会館にいき棋譜を徹底的に調べ上げる。そして、奨励会員をつかまえ、10秒将棋の特訓をする。深夜部屋に戻り、詰将棋を朝まで解く。将棋に勝とうが負けようが村山は、がむしゃらに同じ勉強法を繰りかえし、またそれを信じるしかなかったのである。
このころ、村山は東京の棋士ともつきあいをはじめた。森雞二、野本虎次、滝誠一郎、先崎学ら、みな麻雀のつきあいである。対局で東京に出てくると必ず麻雀に誘われるようになっていた。
勝つことに無我夢中で、そのことに全身全霊を傾けているような村山と卓を囲むことが、将棋界でもなうての麻雀の強豪たちに新鮮に映ったのである。まるで真剣勝負のように牌を自摸り投げ捨てる。勝ち負けに徹底的にこだわる村山の麻雀はあっと言う間に東京でも評判になった。
ある日は早朝の病院での注射の予約を無視して、卓を囲みつづけた。その日の終電で帰るつもりが、翌日の終電になってしまうようなことがしょちゅうだった。もちろん、そんなことが体によくないのは百も承知だったが、しかし限界ぎりぎりまで村山は遊んだ。まるで、夏の光がそう長くはつづかないことを知りつくしている北国の動物たちのように。
C級1組に停滞した3年間、それは村山にとってある意味では幸せな日々だったといえるのかもしれない。
そんな村山を森は許していた。深酒をしても、麻雀で徹夜をしても森は決して怒らなかった。それによってしか得ることのできないものがあることを森は知っていたし、そしてそれがどんなに無駄に見えたとしても決してそうではないことも知っていた。少年時代から入院と対局を繰りかえしてきた村山が、それ以外の人生の広がりを模索することはむしろ、ごく自然なことのように森には思えていたのである。
そんな月日を送りながら、村山は22歳の秋を迎えていた。
11月2日、大山康晴十五世名人を準決勝で破った村山は天王戦の決勝に進出した。
体調は最悪だった。そんな中で村山は全棋士参加棋戦の決勝戦まで勝ち進んだのである。
決勝の相手は谷川浩司。幼い日から、夢にまで見た相手との檜舞台である。しかし、村山の気持ちは一向に高ぶらない、どうにも体調が悪すぎるのである。
天王戦の決勝は静岡県の伊豆が対局場である。立会人がつき、ファンを集めての大盤解説会がおこなわれるなど、タイトル戦同様の規模の一大イベントである。
その決勝の前々日、村山はある決心をした。
不戦敗である。前田アパートから、階段を下りて外に出るだけで精いっぱいという状態だった。高熱は少しも容赦してくれない。そんな自分が静岡までいって対局ができるわけがない。
そんなことをしたら取りかえしのつかないことになる、という恐怖心が村山をわしづかみにして離さなかった。
その旨を村山は大阪の手合係に打診した。そして、その話は森へと伝わった。
森の判断は速かった。即座に前田アパートにいき、村山に告げた。
「もし、指せなかったら、引退するしかない、それでもええんやな」
汗ばんだ額に手を当ててみるとかわいそうなくらいに熱い。しかし、森は心を鬼にして言った。
「何度か不戦敗しているが、今回はちょっと意味が違う。新聞社の人たちが何ヶ月もかけて対局場を設営して、立会人を依頼して、そしてこの決勝戦のために1年間棋士たちの棋譜を新聞に掲載してきたんや。それを、全部むだにしてしまうということなんやぞ」
村山は何も言わずに悲しそうな目を虚空に投げかけていた。
「ファンやスポンサーのために棋士は全力で将棋を指す、それが宿命であり責任なんや。もし、それが果たせないのなら残念だけど引退するしかない。それで、ええんやな」
村山は、はいともいいえとも言わなかった。その代わりに高熱で苦しいのか、時々うめき声をあげるのである。
大淀ハイツに戻った森の気持ちはすぐれなかった。村山の体が棋士として無理なのかと思うことが一番つらかった。手には汗ばんだ村山の額の温もりが残っている。その温もりは何も語らない村山の悲しみや悔しさを代弁しているように森には思えた。
明日、将棋連盟に不戦敗と弟子の引退を申し出ようと陰鬱な気持ちで考えていた。
そのとき、部屋の電話が鳴った。村山からだった。
「僕、引退しなければいけないんですか」
「ああ、冴えんけどしょうがないなあ」
「僕、静岡に行きます」
村山は電話口で声を振りしぼるように言った。声が涙ぐんでいた。
「将棋を指します。だから、僕を引退させないでください」という声が震えていた。
「そうか。じゃあ、明日一緒に静岡にいこう」
「森先生も行ってくれるんですか?」
「一人じゃむりやろう」
「ありがとうございます」という小さな村山の声で電話は切れた。
森は大急ぎで、明日の稽古の代役を後輩の棋士に頼み込み、急遽静岡行きを決めた。
二人は新幹線で三島まで行き、そこからタクシーで伊豆に向かった。村山はぐったりと座席にもたれたまま、殆んど口も利かなかった。森は煙草を吸いながらタクシーの中からただ深い暗闇を見つめていた。村山の状態を見ていると、とてもじゃないが、あす対局に臨めるようには思えなかった。このまま対局させれば、本当にこの子は死んでしまうかもしれない。不戦敗の判断は側にいて自分がくだすしかないそれがたとえ棋士村山の終わりを意味することになったとしても。
寄り添うように二人は伊豆のホテルにたどりついた。
森は村山の額に濡れタオルをあて、一晩中それを交換した。40度近い熱に、替えたばかりの濡れタオルがあっという間に湯気を立てはじめる。何度も何度も同じ作業をくりかえしながら、やがて森は諦めの気持ちを抱きはじめていた。東の空がうっすらと白んでいた。森はいつしかうとうとと村山の傍らでまどろんでいた。はっとわれにかえり、額に手を当ててタオルを替え、またうとうとする。
そんな二人に奇跡が起こった。
森は何度目かのまどろみからわれにかえった。部屋はもう完全に明るくなっていた。目をやるとうんうんうなりながら寝ていたはずの村山の目がパッチリとひらいているではないか。森は慌てて村山の額に手を当てた。するとどうだろう、村山の熱が嘘のように引いているではないか。
「大丈夫か」と森が聞くと「はい」と村山は力強く答えた。
「よかったなあ。これで、まだ将棋が指せるなあ」
「はい」
そして、村山は対局に臨んだ。将棋は谷川の攻めが冴えわたり村山のボロ負けに終わった。しかし、村山はなんとか棋士の責任を全うすることができた。勝ち負け以上にそのことが森と村山に与えた喜びは計りしれないものがあった。
。。。
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(大崎さんに謝辞)
大崎善生さん、いいお仕事をしてくれました。そして彼は、夢だった小説を書く。。。うーん、なかなかいいね、ハルキ・一門かなあ!?。。。。
パイロットフィッシュ
アジアンタムブルー
こちらも、うるうるだなあ。。。