江戸の食文化: 和食の発展とその背景 (江戸文化歴史検定) | |
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小学館 |
百足光生さんの「大江戸ビジネス社会」で、大江戸の社会の活況を勉強させていただいたので、次なるは百足さんもライターの「江戸の食文化」を眺めていた。2013年12月に、「和食」がユネスコの世界無形文化遺産に登録された。われわれの祖先は、この島国で何をどう食べて、どう生きてきたのか、今の時代につながる食生活、食文化というものは、江戸時代にその原点があり、ある部分ではほぼ完成をみているようだ。減塩も気になる、アレルギー要因も、世界中の食べ物と料理も多く入ってきたこの現代、「おもてなし」はともかく、わが財産の一つは和食。
そもそも「大江戸」とはなんだろう。江戸時代、江戸城築城以来大きく拡大していった江戸の町の広がりと繁栄を示す雅語だという。では、「江戸」の地名で呼ばれる地域とは、いまの丸の内から半径20キロぐらいという。「...一般に江戸御府内は町奉行の支配範囲...寛文2年(1662)に街道筋の代官支配の町や300町が編入され、正徳3年(1713)には町屋が成立した場所259町が編入...延享2年(1745)には寺社門前地440カ所、境内227町が町奉行支配に移管・・・この町奉行の支配範囲とは別に御府内の範囲とされた御構場の範囲、寺社奉行が勧化を許す範囲、塗り高札場の掲示範囲、旗本・御家人が御府外に出るときの範囲などが決められ...文政元年(1818)に絵図面に朱線を引き、御府内の範囲を確定した。・・・Wiki-江戸」
徳川時代は、江戸時代だ。「江戸の食文化」は、大江戸のみならず、ひろくこの時代全般にもふれる。人にとって一番大切なのは何かと思うに、愛とか品性とか言う前に、やはり食べなきゃしょうがない。どうせ食べるには、おいしく食べねばならない。であるから、図版、写真とともに、その背景まで描いた、ビジュアルな楽しめる本となるわけだ。「江戸歴史検定」とやらは、まだチャレンジの域にはほど遠いけど、いずれ知識や食文化というものでも捉え方はちゃんとしたほうがよかろう。
江戸食文化紀行 | 歌舞伎座 (松下幸子千葉大学名誉教授 監修・著)というサイトもある。食べ物のある錦絵はほとんど使ったという「芝居と食べ物」、「江戸の美味探訪」300回連載もので、タイヘンな内容と情報量の画面だ。
こちらの本「江戸の食文化【和食の発展とその背景】」は、錦絵や図表なども含めてじっくり見るために虫眼鏡を片手にしても面白い。だからこの本はぜひ手元に置かないといけない。一部だけ引用させていただくと、当然のことながら江戸料理レシピ本ではないから、それを生み出した社会、文化、時代背景というお話となる。
<<<< 以下、「江戸の食文化【和食の発展とその背景】原田信男=編 小学館」 より
「旅の目的にもなったおいしい料理」
寺社めぐりと旅の楽しみがセットに
江戸時代初期には、五街道を中心に、宿場や一里塚など陸上輸送路の整備が進められた。これらの街道は、幕府の公用と諸大名の参勤交代のために整備されたが、社会が安定してくると、それ以外の商用や物見遊山の旅にも大いに役立った。
農民の旅は、基本的には幕府や武家権力にとって好ましいものではなかったが、五穀豊穣・村内安全などの祈願という名目がまさった。
これを助長したのが中世から活動していた御師の存在である。御師は、伊勢神宮・熊野三山・出羽三山・相模大山・富士山・信州善光寺・越中立山・加賀白山・高野山などから全国をめぐり各地に自分が属する社寺参拝のため集団「講」を組織していった。御師は元来、下級の神官で、各地の講を巡回して暦などの土産物を配布し、参詣の際の案内や宿の世話をした。
そのなかで、江戸時代にもっとも活発に活動したのが伊勢神宮の御師で、18世紀前半には外宮500家(軒)、内宮240家にも達していた。
講では、くじ引きなどで毎年代表して参宮する人々を選び、伊勢を目指した。その数は、平常年で30~40万人ともいわれている。伊勢山田奉行の幕府への報告によると、お陰参りが流行した享保3年(1718)には、正月から4月の間に42万7500人が参詣したという。参宮が農閑期のこの時期に集中するが、それでも少なく見積もっても年間約50万人という数字は驚異的である。
旅ならではの「ハレ」の饗宴
伊勢参宮の際の食事は、庶民にとってはたいへん豪華なものだった。文政5年(1822)に金井忠兵衛という人が書き残した「伊勢参宮 並 大社拝礼記行」によれば、「菓子、雑煮、吸い物、肴」に続き、硯蓋には「鮑・鯛・九年母・海老芋・昆布・蒲鉾」が、大鉢には「大鯛」、ここから本膳・二の膳が出され、平には「鮑・青菜・凍み豆腐」、皿には「焼き肴」といった具合である。農村や町場でも地方の人々のふだんの食事からは想像もできない、「ハレ」の饗宴である。
この料理については、井原西鶴が「西鶴織留」に書いているが、一度に2000~3000人分の調理をするのに台所の働き手は20人ほど。飯は籠に米を入れて熱湯につける「湯取り法」で、焼魚も大きな籠に20枚ほど入れて大釜でゆであげ、長板に並べて片面だけ鏝で焼き目をつけるというものだった。大量の客をさばく便法だったのだろう。
こうした「情報』は旅行者によって記録され、それぞれの講に持ち帰られて、さらに参宮への憧れを強めていく。それが講に属さない人々までに広がり、村に無断で伊勢神宮を目指す抜け参りのような個人の旅行につながっていった。
宗教的行為としての旅は、一種の精進だったが、その禁欲からの解放も旅には付きものだった。その意味では、宿場に性を売りものにした飯盛り女(食売女)がいたのは当然だったといえよう。
いずれにしても旅は日常からの脱出であり、非日常の世界に待っているのは、ふだんとは違う食の世界である。食への願望は、宗教的意味合いよりも強い場合さえあったと考えられる。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」がベストセラーになったように、江戸時代後期には庶民の旅に対する憧れも強まる。それにつれて宗教的行為以外の旅も増え、商人や庶民の泊まる旅籠は一汁二菜の夕飯と朝食がセットされ、昼食は付かない現在の旅館の形式が成立していった。一方、下級の「木賃宿」は素泊まりが基本で、燃料代を払い、食料は持ち込みで自分で炊事するのが原則だった。
また、甲州道中など江戸近郊の街道沿いには、現在のドライブインのように、料理屋や酒楼が立ち並んだという。
【浮世絵画像集】中山道広重美術館「雨の中津川」など展示、9/29まで。
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トップ画像:浮世絵ー太田記念美術館