この物語は三日で二度読んだ。人形たちが誰が誰でとわかんなくなったからだが、天使のようなこばえちゃんにまた会いたくなったから。このお話をモチーフにしたミュージカル映画「リリー」は往年の傑作らしい。60年ぐらい前のもの、アラ60で巡り会ったわけでぜひ観たいな。でもDVD高すぎるぜ。
これを訳された矢川澄子さんのあとがきがすばらしいのでちょっと長いが書写してみた。矢川さん、天上でギャリコにWell done.と言われたろうな。あの童謡「ぞうさん」の、まど・みちおさんもいまごろ、ぞうさんやヤギさんたちに囲まれて、Well done.と言われてるだろう。夭折した母は乳の出が悪かったのか、実家でヤギを飼ってぼくのミルクにしてくれたらしい。うーん、つい最近知ったことだが・・・あれこれ思い浮かぶと・・・申し訳ないなあ・・・眠れなくなるよ・・・
>>>「七つの人形の恋物語 ポール・ギャリコ/矢川澄子訳 角川文庫」より引用、年月の漢数字部分のみ算用数字に変えた。
訳者あとがき
ポール・ギャリコは1897年7月、ニューヨークに生まれました.父はスペイン系イタリア人のコンサート・ピアニストで、演奏活動のためつい2年ほどまえ、オーストリア出の妻とともに旧大陸からわたってきたばかりでした。
少年ポールはニューヨークのパブリック・スクールを出ると、コロンビア大学に進みました。はじめに医科をえらんだのは、こうした「さして貧しくもなければさりとて金持でもない」境遇の出で、芸術家稼業がかならずしも楽ではないことを子供のうちから知っていた少年が、彼なりに将来をおもんばかってのことでしたが、結局のところ生来の志望やみがたく、途中から文科に転向しました。
この間ちょうど第一次世界大戦がはじまり、彼はさっそく海軍予備隊に志願し、後には実戦にも参加して、掌砲曹長として帰還しています。
もの書きになりたいと考えたのはいつの頃からか、思い出せないほどだとギャリコは後年語っています。とはいえ、作家の卵としての彼はけして華々しい出発をしたわけではありません。才能とか天分とかいうことを顧みるとき、自分の念頭にうかぶのはきまってモオツァルトだったというのは、いかにも音楽家の息子らしいほほえましい告白ですが、現実の彼は下積みの文学青年として、書きあげた野心作を投稿してはさんざん待ったあげくに送り返されてくる、といった悲哀を味わうこともしばしばだったようです。
卒業後の彼は、生活のためニューヨークの「デイリー・ニュース」社に入り、スポーツ担当記者として働きはじめました。ギャリコが文筆で頭角をあらわしはじめたのは、まずこの分野においてでした。
もともとギャリコはスポーツ好きで、ハイスクールではフットボールの選手を、大学ではボート部の主将をつとめたほどの経歴の持主でした。そこで、その体力への自信と旺盛な探究心にものをいわせて、取材のために知り合うスポーツ界の名選手たちとつぎつぎに親交をむすび、時には拳闘のチャンピオンとともにリングにのぼり、時にはベーブルースとともに野球場をかけまわり、時にはスピードレースにも参加し、時にはパイロットの免許まで取得するといった縦横無尽の活躍ぶりで、他の追従をゆるさぬ充実した記事をものにし、読者を心からたのしませました。
この十数年の記者生活は、単なるもの書き稼業のための筆ならしにはとどまりませんでした。ひとりの教養階級出の素直で明朗なアメリカ青年が国際的大作家に生まれかわる、いわば「魔の山」の修業期間でもありました。
彼はまず記者として社会の裏側を知り、理想では片づけきれないこの世の悲惨や汚辱をまのあたりにつぶさにながめました。おまけにスポーツとは、何よりもまず人間の生身のからだあってこその世界であり、人間のもって生まれた能力の可能性と限界とをどこより赤裸なかたちで見せつけてくれる領域でもありました。この世界をつぶさに知れば知るほど、ギャリコはただに勝利や栄光のむなしさや現身のはかなさを嘆くにとどまらず、この現実をのりこえ、死すべき人間を生かしめるための根源的な救済の手段について深く思いをひそめずにはいられなかったのでしょう。
こうした思いがきわまって、ギャリコは1936年、『スポーツよさらば』という一巻の引退宣言をさいごに、それまでの人気記者稼業をふっつりとやめ、まずはイギリスの南海岸の漁村に一軒の小屋を買って猫を相手に暮らしながら、かねて念願の創作活動に専念するようになりました。このときすでに彼は39歳でした。
在職中からすでにアメリカの一流雑誌にぼつぼつ短篇を発表しはじめていたギャリコでしたが、1939年、その長篇の第一作として『ハイラム・ホリディの冒険』が生まれました。これは、長年の新聞社づとめのまに、目立たぬながら男として学ぶべきほどのことはすべて学びつくしたとひそかに自覚する、どうやら作者の分身めいたひとりのアメリカ人が、ふとしたことから多額の報賞金を手に入れて宿願のヨーロッパ旅行に出かけ、これもまた思わぬ偶然から国際的大陰謀にひきずりこまれて、ロンドン、パリ、プラハ、ベルリン、ウィーン、ローマの6大都市をかけめぐりながら波瀾万丈の大活躍をやってのけるという大ロマンで、後にテレビ映画としても評判になりました。
つづいて1941年、ここに収めた『スノーグース』が発表され、たちまち当時のベストセラーとなって多くの反響をよびおこしました。ダンケルクの悲報はまだ人々の記憶にあらたでした。この一作を以てポール・ギャリコの名は大西洋をとびこえ、国際的にもゆるぎないものとなりました。
この振りだしの両作品には、それまでの多年にわたる蓄積と、その後の全作品をつらぬくギャリコらしさとが、すでに申し分なく発揮されているように思われます。
まず、何はともあれストーリーテラーとしての抜群の才能です。とりわけ長篇のばあいに明らかですが、一作ごとに彼はあらたなしかも奇想天外な筋立てを思いつき、過不足ない行届いた筆はこびによってさいごまで読者をひっぱって行ってくれます。これは何もサービスのために、無理して工夫をこらしているわけではなくて、この作家の天性のとどまるところを知らぬ奔放な想像力のなせるわざにちがいありません。
もうひとつ、ギャリコの特徴はその初々しいまでの清冽な抒情性です。この『スノーグース』のようなどちらかといえば悲劇的な作品においても、そのためけしてべたつかぬさわやかな後味を期待することができます。
それから、これはもう巨匠として自明のことでいまらさ申すまでもないかもしれませんが、その全作品の基底を脈々として流れる、愛に対する不屈の信念です。ギャリコとキリスト教の直接の関係についてはほとんど知りませんが、少なくとも聖書の一節に見出される「たとえもろもろの御ことばを語り得とも、愛なくば鳴る鐘ひびく鐃鈸のごとし」というあの有名な聖句は、そのまま作家ギャリコの信条であったにちがいありません。彼の作品はまぎれもない、冴えたひびきをたてて鳴りわたる鐘なのです。もろもろのことばを語り得るひとは、ギャリコ自身をも含めて現代にもいっぱいいます。しかし一見高尚に見える純文学や前衛畑のいわゆる芸術的作品のなかに、いたずらにこの鐃鈸のひびきしかたてられぬものがいかに多いことか。それを思うとギャリコのように古典的な作家が二十世紀のアメリカに出現したことの方が、むしろ奇蹟のようにさえ思われます。
古典です、彼の作品はまさしく「現代の古典」なのです。健全で、しかもロマンティックで、古今東西に通じる文学の大道を、確固たる自覚のもとに堂々と歩んでいるだけです。そういえば、『ハイラム・ホリディ』のなかで、作者はこの主人公について「あんなロマンティックな人ってないわ。あの人は500年ほど遅くこの世に生まれてきすぎたのよ」とある女性に語らせていますが、これはそのままギャリコ自身の微苦笑的な感慨だったかもしれません。ちなみにこの作品の冒頭にあるハイラム氏の素性明しの項には、この「異常なまでにするどい感受性」にめぐまれた主人公が、社会の矛盾に幻滅すればするほどその解毒剤としてのロマンティシズムに惹きつけられてゆく過程がくわしく分析されており、ギャリコの自己省察のほどを示すものとして、この作家を理解するためには見逃せない一章です。
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その後のギャリコはもっぱらモナコ、リヒテンシュタインなどを根城に気ままな暮らしをつづけ、創作のかたわら好きな釣りやスポーツ三昧にふけりながら、1976年に78歳で惜しくも世を去るまで、ほぼ一年一作見当の着実なペースで幾多の名作を世に送り出しました。
そのうちの主なものにざっとふれておきますと、まず1940年代の作品として『孤独なるもの』(1947)があります。第二次大戦中ギャリコは従軍記者としてイギリスの空軍基地にありましたが、これはそのときの副産物です。あまりにも年若くして戦陣に駆り出されたアメリカ学徒兵の微妙な心の揺れをとらえた美しい中篇で、かつておなじく学徒出陣した作者自身の若き日の面影を彷彿させられます。
50年代の彼の主要作品は、日本にも比較的よく紹介されています。
まず『さすらいのジェニー』(原題「ジェニー」、1950)があります。少年ピーターが交通事故で失神しているまに猫に変身して、めす猫ジェニーと知りあい、さまざまな冒険を共にするというギャリコ最初の長篇ファンタジーです。
この『ジェニー』とならぶ猫物に『トマシーナ』(1957)があり、これもいずれこの文庫に収録される予定です。ギャリコは自作のうちでも猫を書いたものが最も気に入っていると語っていますが、ここではトマシーナは古代の伝説通り九生をくりかえす霊的存在とされ、猫=女そのものであったジェニーのばあいよりも、さらに奥行きのある世界へ読者をみちびいてゆきます。
女といえば、ここに登場する赤毛の魔女(レッドウイッチ)というあだ名のジプシー女は、むしろジェニー以上にギャリコの理想の女性像かもしれません。野末の掘立小屋にひとり貧しく暮らす女のもとには、あらゆる病み傷ついた獣たちが本能的に惹かれ、慕いよってきます。彼女はただその傷をさすり、いたわり、共に涙するばかりですが、ほかでもないそのやさしさによって、近代医学や合理主義のひややかな魔手に傷めつけられた者たちを、あらたな生によみがえらせてやることもできるのです。
この二作のほぼ中間に位置するのが、ここにお届けする『七つの人形の恋』、1954)で、年輩のかたには往年の傑作ミュージカル映画「リリー」の原作と申しあげた方が手取り早いかもしれません。絶頂期にあったメル・ファーラーとレスリー・キャロンのコンビが、みごとにそれぞれの役を演じきっていました。
ここに描かれたムーシュのつつましさには、『トマシーナ』の赤毛の魔女のありようが予告されているとみることもできましょう。ムーシュやジェニーはまだ年若く、自分では気がついていませんが、いずれはこの魔女のような祖妣性に目ざめるべきものなのです。この小説の終り近く、ムッシュ・ニコラの口をかりてのべられる男性論は、キャプテン・コックの真情の告白にとどまらず、ギャリコ自身の全女性にたいする大胆率直な求愛のあかしとも受取れます。
虚と実、仮面と素顔とが幕一重で隣りあう舞台のおもしろさは、この作家にとってもこたえられないものだったらしく、ギャリコにはこのほかにも、サーカスや芸人の世界を取扱った小説がいくつかあります。
50年代の作品として見過してならないものには、ほかにアシジの少年とロバとの物語『小さな奇蹟』、無名のお手伝いさんを主人公に仕立てた『ハリス夫人への花束』、『ハリス夫人パリへ行く』などがあります。
わすれていました、『ジェニー』にさきだつ52年の小品に『雪のひとひら』があります。これは天からふってきた雪のひとひらに托して、生の流れをただよう女の一生を描きあげたもので、着想といい構成といい古今の幻想文学中にもほとんど類例をみない逸品です。
60年代以後のギャリコには、初期にはともすればその抒情性や詠嘆調のかげに埋もれがちだった彼一流の茶目っ気が、堰を払ったように色濃く前面に押し出されてきた感があります。サーカスの獣と団員たちの交情をえがいた『愛よ、わたしを飢えさせないで』、ジブラルタルの町をあらす猿を主人公にした『スクラッフィ』、人間と拳闘をするカンガルーの話『マチルダ』など、猫にかぎらずさまざまな動物がつぎつぎに意表をつくかたちで登場してきては、ものこそいわね人間そこぬけの役割を演じてみせています。
その一方、映画化されて有名になった『ポセイドン・アドベンチャー』のようにシリアスで壮大なパニックものもあれば、『戴冠式』のように市井の人々の哀歓をつつましやかにとらえた山本周五郎氏風の中篇もあります。
幽霊でも神秘家でも、ピッピーでもお巡りさんでも、およそこの世に生きとし生けるものは動物人間をとわず片っぱしからギャリコのまなざしにからめとられて、その作品世界のなかで永遠の第二の生を生きはじめるといったぐあいです。ある作品のまえがきのなかでギャリコは、これは事実ではなく、作者のでたらめもいいところだ(ワイルデスト・イマジネーション)、と記していましたが、このワイルドきわまるという形容は、おそらく作者自身をも翻弄してくたくたにさせてしまうほどの空想力の奔騰を経験した者にのみ口にできることばではないでしょうか。
晩年のギャリコは青少年向けの作品にも手を染め、モルモットを主人公にした幼年向けの『ジャン=ピエール』シリーズのほか、長篇ファンタジーを二つのこしました。
天下一品できそこないの尾無しの不具のねずみが、仮想敵の尾無し猫と対決するまでの遍歴譚「トンデモネズミ大活躍』(1968)と、手品師、いかさま師ばかりのギルドの町に、ある日アダムと名のる男が忽然とあらわれ、ほんものの生命の神秘を披露して大恐慌をまきおこすという『ほんものの魔法使』(1966)とで、いずれも作中人物の名まえからして語呂合わせ続出であり、老来ますます自在の境地にあそぶとといった趣きがあります。
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さいごになりましたが、この『スノーグース』は欧米ではすでに二世代以上にもわたるロング・ベストセラーとして読みつがれ、近年にいたってもその人気は衰えるどころかますます高くなって、音楽の世界にまで羽ばたきはじめました。最近出たレコードのひとつはイギリスのロック・バンド、キャメルの演奏によるものです。もうひとつはエド・ウェルチ作曲によるロンドン交響楽団演奏のもので、スパイク・ミリガンの台本による朗読が入っており、日本ではこの春、市川染五郎さん(編集部注。現・松本幸四郎)の語りによってRCAレコードから発売されました。
ギャリコはとりわけ後者の企画をよろこび、作曲者たちとも慎重な打合わせをかさねてレコードの完成をなによりたのしみにしていましたが、惜しくもその録音に先立つことわずか一月たらずで世を去りました。
ギャリコのような作家は今後ともそう多くはあらわれないかもしれません。かつて筆者はこの作家を世界文学の先達ゲーテと思い合せましたが、この頃では彼はむしろ今世紀のジュール・ヴェルヌだったかもしれないと考えています。科学礼賛の19世紀の申し子ヴェルヌにくらべ、失われた自然の復権をもとめるギャリコの名は、時代の代弁者としてこれからもますます高まってゆくにちがいありません。
1978年5月 訳者
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ゲンちゃん、たすけちゃん、春は名のみの風の寒さよ・・・
イエローサブマリン帽子、集会所かな事務所かなHさんの車かな、どっかにわすれてきたなあ・・・
きょうのは全部かたずけたはずだったのに、気になること残してしまった・・・あった、集会所の下駄箱\(^〇^)/ 直前健忘症!?