Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

シモネッタのデカメロン

2008-02-10 01:10:36 | Viva Italia
シモネッタのデカメロン―イタリア的恋愛のススメ (文春文庫 た 56-2)田丸 公美子文藝春秋このアイテムの詳細を見る


最近はボッカッチョやらを追っかけていたが、デカメロンも読んでいないテイタラク。イタリア語で眺めて見てもチンプンカンプン、どなたの訳が面白いのかなと思うばかりで求めもせず。ならばと、田丸さんの楽しい「デカメロン」を読んだ。
「元祖シモネッタ・ドジ」にて、追悼・米原万里を書いたのが、2006年7月。5月がくれば彼女が亡くなって、はや二年になる。
本日登場の田丸久美子さんは、イタリア語の会議通訳・翻訳者。米原万里はロシア語、田丸久美子はイタリア語と、対象とする言葉と文化圏は異なっていたが通訳業から翻訳・モノ書き業まで、万里さんと互いにシッタ・激励しあった同業、そして大の親友であった。

田丸さんは「世界屈指の人生の達人と見なされているイタリア人」にかかわる仕事を三十年以上やってきて、デカメロンみたいな少しキワドイ面白いお話を書いたのがこの本。彼女がホンポーだからこんな話がかけるんじゃなくて、相手がつい心を許してホントのことを言ってしまう人だから、面白い話が集まるのですね。では、田丸さんのデカメロンをちょっとだけ覗いて見ると...


<まえがき から>
(イタリアの男は)あけっぴろげで話好き、並外れて個性的な彼ら。彼らは自分をこよなく愛しており、他人にも愛されたいと強く欲している。そのため初対面の異国の通訳にまで自分のことを語る。
『どんなに自分が妻を愛しているか』『妻に愛されない自分がどんなに不幸なことか』『自分がどんなに女性を喜ばせているか』
話題の中心はやはり男女関係(そういえばイタリア語には≪プライバシー≫という言葉がない。)性愛のことをここまで赤裸々に語るのは、カサノヴァの末裔だからかと思っていたら、そのルーツはもっと遠いところにあるらしい。...

<口説き上手なイタリア男たち>
「バッコ、タバッコ、ヴェネーレ」人生でなかなか辞められない三つの悪徳、バッコはバッカス神、つまり酒。タバッコはタバコ、ヴェネーレはヴィーナスつまり女性のことである。...いまだかつてイタリアで酔っ払いというものを見たことがない。...酔いつぶれては女性と楽しむことができないからだ。。。。
≪シモネッタ≫のあだ名を持つ下ネタ好きの私だが、これは女と見ればくどいてくるイタリア人にたいする自衛策して身につけたものである。攻撃は最大の防御、あっけらかんと下ネタを言うと相手が退くのである。...

<カサノヴァの末裔たち>
(小話)
イタリアで「セックスが終わった直後何をするか」と言うアンケートを取った。
17%: タバコを一服する
13%: 水やビールを飲む
11%: シャワーを浴びる
 3%: そのまま眠る
53%: 服を着て家に帰る

<ああ夫婦>
ある夕食の席で二十代だった奥様が私に訴えた。「彼って、私の友人にも相手かまわず手を出すの.もう病気ね」そして夫に向かい「誰と寝ようと勝手だけれど、私のクラス名簿で寝た子の名前の上にバツ印をつけるのはやめて!やることが子どもぽっすぎるわよ」
ハラハラしていると...ご主人も大物で「わかった、もう印はつけないよ」と平然と答えた。

<世界最古の職業,東西のプロたち>
ハンガリー人でありながらイタリアの国会議員に当選したポルノ女優、チョッチョリーナ。...彼女に会うのは三度目になる。ピンクのセクシーな衣装は左側の肩ひもだけが長く仕立てられていて、すぐに胸が露出する≪プロ仕様≫のものだった。...この日のテレビ出演中もサービス精神を発揮し、議員時代によく物議をかもしていたお得意のパフォーマンス≪おっぱいぽろり≫を何度も実行した。「私、左派なので、おっぱいも左側しか出さないの」

<イタリア人のビジネス>
イタリアでは、カンターレ(歌い)、マンジャーレ(食べ)、アマーレ(愛する)が人生の基本だが、食事のときも≪アマーレ≫のことを考えたいのか、こともあろうに男性器の形をしたパスタを売り出した。お土産に貰った友人が感動して「すごく芸がこまかいのよ。本体だけじゃなくて、その下に二つの玉もついてるの。食べるのが惜しくて飾ってるわ」と言うのを聞いて矢も立てもたまらず手に入れたくなった。

シチリア方言の男性器である≪ミンキア≫をもじった≪ミンキエッティ(愛らしいオチンチン)≫というネーミングだけが頼りである。私は勝手に、≪マラロニ≫という日本語訳を決定した。その後イタリアでイエローページを繰って必死で探した甲斐があり、まもなく、メーカが見つかった。電話口の女性は事務的に尋ねる。
「肉色とイカ墨の入った黒いヴァージョンがありますが、どちらになさいますか。クロの方がサイズは少し大きめです」


この田丸さんの文庫版には、「万里と私の最後の一年」という、元祖シモネッタだった親友を失ったつらい文章があとがきにつく。
万理さんも書いていたある語学サイトの「通訳ソーウツ日記」にも、昨年田丸さんが書いていた。 「...私が下ネタにすっかり興味をなくしてしまったこと。私は、彼女のはじけるような笑い声が聞きたくて下ネタを練っていただけなのだから...」

昭和44年東京外語大入学、米原万里と同級なのかなあ。このころ全共闘などはなやか,ヘルメットとゲバ棒だらけ、この年は安田講堂攻防戦で東大も入試中止、新宿西口はフォークソングがあふれて。この翌年だった、ボクが東京に行けたのは。電電の大学校で給料ももらってるのに全くベンキョウもせず遊んでばかりいた...。同じ年代だ。万里はもういないけど、クミコ、まだまだネタいっぱいあるでしょ、ガンバってね...

**********
「シモネッタのデカメロン―イタリア的恋愛のススメ 田丸 公美子著 文春文庫・文藝春秋 ISBN978-4‐16-771764‐3」

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海鳴りの響きは遠く

2008-02-06 23:33:06 | なんでもあり・ファミリー
海鳴りの響きは遠く—宮城県第一高女学徒勤労動員の記録
神谷 恵美子
草思社

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「郎女迷々日録 幕末東西」さんのサイトで「チェロが歌う『海ゆかば』」を見てて思い出したのだが、われわれの父母の青春時代はこの歌とともにあった。

昨夜、なにやら一女高のコーラスのことなど延々と電話で妻が話していたおばあちゃん・妻の母はますます元気。彼女のクラス旧制宮城第一高女47回生の卒業式は、昭和20年3月米軍の沖縄上陸を聞きつつ本土決戦が叫ばれる中、勤労動員に行っていた逗子の横須賀海軍工廠においてだった。卒業式は、「海ゆかば」の合唱。

なんどか、おばあちゃんに聞かされた逗子の話。冒頭にあげた表題の本は、その「横須賀組」の女学生たちの当時の日記を主にして後日の聞きとりや記録資料も補足して昭和56年発行、貴重な記録ゆえに最近草思社から復刻出版された。
あの時代の女学生は「軍国少女」?、今どきの子たちよりはそうとう大人であったが、そこは年齢相応。4年生1組から4組までの全生徒の写真、外出の鎌倉あたりのグループ写真もみれば、カワイイ女学生。軍事機密上重要なことは知らされないし、比較的境遇に恵まれた子が多いせいもあろうが、死を目前になどの悲壮感もあまり無いのが救い。

4年4組集合写真最後列一番左、学者の娘だったおばあちゃんもこのあと女専に行って会社づとめなどないから、この「県外に初出動、女子学徒の勤労義勇軍」は彼女の人生で唯一の勤労経験か?
お友達の日記などから少しだけ、みてみましょうか。お名前は省かせさせていただきました。


<学徒動員令>

「昭和16年4月、入学時は 桜かざしてうまれたる、われはやまとの乙女なり...
昭和19年秋、学徒動員令がおりた。4年生二百余名のうち百名が逗子の海軍工廠へ、残りは仙台貯金局へ、身体の弱い人たちは学校勤務へということになり、学校では逗子希望者をつのったところ、最初は二十余名しかいなかった。戦局が悪化の一途をたどるとき、娘を遠くに手放すのはどこの家庭でも忍びなかったのである。希望しなかったものは一堂に集められ諸石校長先生から「みなさんは国賊だ」と叱られた。軍国少女の私たちにとって、国賊の汚名は最大の恥辱であった。二度目の希望者はなんと百七十名程になり、ついに抽選という事になった...」

<海軍工廠沼間寄宿舎>

「寮のあった沼間は地名通り、たいへんにぬかるみの多いところで、泥沼の上に三十センチぐらいの板を渡してそれをしずかにそろりそろりと渡ったものです」
「外出の時、近道して垣根をくぐったら、寮長の小父さんに「犬か!」とどなられ、「犬です」と平気で出たことがありました。」

<日記から>

(昭和19年)
11月17日(土)
「今日は食事当番(工場の昼)なので、9時25分に洞窟を出て用意した。昼は第三と工員の人たちのバレーの試合があった。仕事が終わって山に入り花の採集をした。山は秋の紅葉の色どりを示しほんとにきれいな景色であった。...今日はわたしの誕生日である。父様とお姉様からお手紙が来て嬉しかった。...二号室に泥棒入る。夜、前田さんに小包届き柿や芋をご馳走になった。
...
朝 御飯、味噌汁(豆腐、わかめ、キャベツ)
昼 御飯 煮付(鰊、大根)あえ物(豆腐、人参、卵)、菜漬
夕 御飯 シチュー(玉葱、人参、じゃが芋)、鰊(固くて困った)
今日はお芋がないので淋しい

11月18日(土)
「今日は特別寒い。一日中ふるえてばかりいた。今日も小屋で仕事をした.仕事の量が少ないので、とてもひまだった。第六号の秘密ドックで進水式をあげた世界第一の航空母艦「信濃」が、レイテ湾方面に出動したそうだ。...
朝 御飯(小麦入)、味噌汁(豆腐、玉葱)しょっぱい
昼 雑炊(にんじん、大根、玉葱) 魚の佃煮 大根のお新香 さつま芋
夕 御飯 煮付(蓮根、玉葱、人参)
(⇒ おっと「信濃」だ。信濃は大和型戦艦3番艦を転用した6万2千トン当時世界一の空母、19日に竣工したが残った艤装や兵装を呉海軍工廠で行うため28日に横須賀出港。翌29日午前3時17分紀伊半島潮岬東南方95浬にて米潜水艦「アーチャーフィッシュ」の雷撃を受け7時間後転覆し沈没、たった2日の命だった空母!格納庫には「桜花」50機が積まれていた。)

 1月3日(水)
「長い間微熱が下がらなかったので、入院して精密検査を受け、父はその結果を聞きに来たのでした。検査の結果が悪くて仙台に帰れることを期待していたのですが異状がなかったので、父は安心して帰り、私もその後気持ちが吹っ切れて元気になりました。今考えると、よく云う五月病のようなホームシックだったのではないかと思います(佐藤礼子談)」 
(⇒おばあちゃんだ!)
朝 お雑煮(ガチガチ)
昼 玉葱白菜人参の油炒り、里芋ごぼうの煮付
夕 ごぼう汁 海苔の佃煮 お汁粉

 月 日(日)
「わたしの父は当時外地に行って居りましたので、一度も家から(家族の面会が)来た事がなく、お友達の御馳走になってばかりいました。或る日面会の家族到着という事で誰の家族という事もなく、皆でわあわあと玄関口へ押しかけました。...ひょっと皆の間に母の顔が見えるではありませんか。わたしはハッ!として目を疑いました。皆をかきわけて側によると紛れもなく母です。「どうしたのどうしたの」と言いながらわたしは唯母の肩を背中をたたきました。後から後から涙が溢れてくるのです。母はそんな私を見て、唯黙ってニコニコと見て居りました...」

<工場での作業>

「高角砲の発射薬を絹の薬嚢に入れ、これを薬莢に入れ、炸填場で作った弾頭と組み合わせる仕事。
<結束>棒状の鉛筆の芯のような火薬を一定量測って絹の袋に入れ、それを白い糸で綴じる。弾丸の種類によって、火薬の種類、量、袋の形、大きさが異なる。綴じたものは、「仕上げ」でしらべる。繊維は燃えかすが残らぬよう必ず動物繊維(絹・毛)である。...」
「白い毛糸が欲しくてたまらなかった」
「特攻兵器『桜花』の噴推器の作業もした。小型飛行機のロケットの推薬の炸填である。飴色の中心に孔のあいた筒状の火薬を噴推器に入れ、それを伝火薬(黒色の粒火薬が、まるい絵絹の袋に平に入っている)をつけ蓋をして完成したものを、木箱(木枠)に入れる。蓋の釘打ち、箱書き(すりつける)したものをネコ車に乗せ、トラックの荷台に押し上げる。」
「特攻兵器の噴推器を作るようになった時は、本当にショックだった。これを抱いて若い兵士が敵艦に体当たりして散ってしまうのだ・・・、と悲壮な気持ちで作業を続けるほか、なかった。」

(桜花は、長さ6m、直径1.16m、頭部に1.2トンの弾薬が装填。一式陸攻の胴体につるし敵艦発見と同時に操縦士が乗り込み、(4千mの高空から)切り離されて時速470kmで突入する、ロケット燃料は9秒間しかない、人間爆弾であった)

<外出>

「休日のすごしかたは、各部屋によって違ったと思いますが、...
新聞で、軍神「関大尉」の若き未亡人が女子医専に御入学との記事を読み、お祝いに全員で出かけたこともありました。美しい愁いをおびたお顔がいまでも思い出されます。言葉少なく御入学のお祝いを申し上げ、また大尉の弔問をさせていただきたいとお願いしましたら、快くお部屋に通していただき、ピアノの上の遺品とお写真にお参りして、若き軍神となられたかたの思いはいかばかりかと、本当に辛くなって、お悔やみを申し上げるすべもなくおいとま致しました。」

<歌>
「警報で避難した壕のなかでは、移川先生の指導で歌をうたった。二高女も負けじと歌い小さな火花をちらしたものだ。移川先生はアメリカ二世で、よくアメリカの話をしてくださった。なかでもチョコレートやアイスクリームの話には、思わず生つばをごくりと飲み込んだものだ。そのアメリカと戦っているというのに。」
「夜になるといいかげん出たら目にカルメンなど歌って歌劇の雰囲気を出していました。...「希望のささやき」「ホフマンの舟歌」「シューベルトのセレナーデ」「ソルベージュの歌」「ドリゴのセレナーデ」等々に「杉の子」。二高女の人たちの上手な「田原坂」が聞こえいつのまにか覚えてしまったり...」

<卒業>

「思い出多き卒業式。簡素でかえって心にぴったりとした。式後、寮の前で卒業写真をとる。...よっちゃんが残していった荷物の荷造りで疲れてしまった。午後、ピーと裏山に登っておしゃべりをする。」

========
さすがに、男どもと違って、食べ物うるさいし毎日の食事の記録も確か。こういう異常な環境下での合宿生活では、なんでも「仕切る」ような元気のいい生徒がいるもの。おばあちゃんはどうもヤワだったようで...日記もこの本には出てこなくて、談話や友達の日記中に心配されて登場している。

入院・精密検査後の面会に来た父親は仙台工専の土木工学の教授であった。新制東北大に統合された今野彦貞教授の関係した橋はまだ各地にある。工廠付きの若手将校は先生の教え子だったのでおばあちゃん達は特によくしてもらい、同級のどなたかは後にお嫁さんとなった!ボクの伯父も教え子で、海軍に入り技術将校としてパラオも生き延び戦後は建設省役人をやったが、学生時代に大梶にあった教授宅に押しかけたことがあるという。僕の父は逓信・電気通信省でのちに電電公社、入省早々だった妻の伯父(おばあちゃんの兄)とは仙台で一緒にいたこともあったらしい。

わが妻とはまったくの偶然の出会いだが、世の中は狭いものだ。妻もここの学校出なので、ムスメにも入れと説得していたようであるが、美術科のある共学校に行き三代めとはならなかった。このiPOD孫ムスメ、おばあちゃんが勤労動員で逗子にいたときと同じ歳16なのだ。

**********
「海鳴りの響きは遠く 宮城県第一高女学徒勤労動員の記録 神谷 恵美子[監修]草思社 ISBN978-4‐7942-1607-6」

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吉野先輩2段ロケット点火

2008-02-04 00:18:48 | ローカルな話題
団塊の世代を中心として高校時代の運動部OBの集まりもあっという間に40年。仕事はまだ現役、もう第ニの人生などいろいろあって第ニ段階に。さて、本日は、仙台に戻って次なる夢の仕事をするんだという吉野先輩を囲んで、少し上の先輩がたも交えて、昔話ではなくかえって未来の話になってきました。
こういう話題をリアルに記すのもどうかなとは思うのですが、まあこういう例も実社会にはあるのだなと。あまりにナマな差し支えがありそうな話、本日不在の先輩後輩諸兄の名誉に大きくかかわる部分の記述は多少差し控えました...


(平成20年2月2日土曜の夜・吉野さん歓迎会)
高14回(昭和37年卒):庄子公侑
高15回(昭和38年卒):佐藤智保
高16回(昭和39年卒):荒井富雄
高17回(昭和40年卒):吉野俊彦
高20回(昭和43年卒):加賀谷秀樹、陳(江川)春渕、早坂栄二、佐竹則和
高21回(昭和44年卒):郡山勝英、大内悦夫
高22回(昭和45年卒):櫻田芳宏



(吉野先輩:右)大きな自動車会社(女子高生いすぶとか読むトコ)に三十数年、定年六十歳引きとめられはしたがこのままの延長線でいいのかと。入ってから気がついたが、自分が不得意な緻密なコンピュータのシステム部門。かといって、やめる勇気もなく、バレーでやってきた人の気持ちを大事にしてのチームワークは財産になって役立ったけど...
さて、いったい自分は何がやりたかったかなあと...
そうだ、ほんとは電気自動車だ、あそこではでんき?、電装ならねえだった...
一昨年同期会で仙台にきたとき、バレー時代からの友人下永君が、エコモービルでがんばってた。自分の会社もつくってはいるが彼のトコにも関係させてもらって、仙台に去年の秋にもどった。また、みなさん、よろしく。
住所が元茶畑?ハハハ、昔からオレはあそこよ、地番は入り組んでるが一高の町内だな。


(庄子先輩・14回:中央)
チャバタン(一高付属の補講科)にいったから、バレー部の新入生で馬力あるの入ってきたなと分かった、それが吉野君。
そして茨大でもいっしょ。このひとは自炊で料理もうまくて、よく飯食わせてもらったよ。オクさん、茨城カツラ村の出、田舎だべとからかってたらこれがミスいばらきというか、高島礼子というか...結婚式にもださせていただいて吉野君とは、ずっと長いお付き合いさせてもらっている。
東洋刃物、産業用刃物の会社だ、鋼で鉄を切るような工業用刃物だね。もともと東北大金研の本多光太郎先生の成果を生かしてのモノ作り、極寒のシベリアでも折れない軍刀など!からだ。
だから技術と品質が誇りよ、それにうちは、人を大事にしましてね。家族的でネ。ITなんかのシステム化みたいなわからん案件でも、ひとの繋がりと信頼もだいじなことだな。


(佐藤先輩15回:左端)
おれの15回あたりは、入った時から不作の年だ下手だと先輩がたに言われつづけ、確かにヘタだったよな。エッ、あのモリヤクン?同級だ、彼はボート部だった。なんでああまでね~。
バレーのほうは、あんまりだから杉原なんかは頭にきて、ひとつここは頭と技術でカバーすっかと。(慶応に行った)義憲もバレー誌を読んで、まずは基礎体力つけてと、広い校庭でウサギ跳びを延々と...庄子センパイのころから、バレー界は六人制にかわってきていた。アンダーパスや、ホールディングの厳しさがちがう。日紡貝塚がきて、河西さんなんか見てると、今までのレシーブと全然違う。おっとカッコつけるためにころぶのかな、回転しても拾わなければハナシにならぬ、こっちは屋外コート、土の上だよ。拾い捲って誰か打ってくれ、やっと村田とか後輩にアタッカが入ってきて、インターハイまで行けた。

(荒井先輩16回:右端)
昨年暮れ、主治医の陳のとこで診てもらってたとき、吉野が帰ってきたから歓迎会やるか、あッそッそッ、となってね。あの時、ちょうど加賀谷も診てもらってたっけ。それで今日の集まりになったが、先輩がたにもお声かけました。
わたしのときは最後の学年では総体も優勝したが、二次予選では不覚インタハイはいけなかった。体力あるほうでなかったから、入った時もうすぐやめるかなという気にもなったが、がまんしてやってきた。(荒井く~ん、女にしたらカワイイ子だったなあ、でも、あんた男だったよ、と庄子さん)
(アタッカーなんてわがまま。オレ、オレにあげろなんて、陽もあたるし。でも荒井さんや小さかった高倉さんも、そうでないとこで我慢して鍛錬した人なんですねえ...と吉野さん)
県庁入って衛生看護学院・微生物、検査技師育成など、教育にも携わった。もう今年の学生はみな平成生まれ、さて、ゆとりの教育よかったのだろうかなあ?そうとう学力が落ちてきたな。高校出たはずなのだが、割り算ができない。%というのがわからない。110/100など過分数となると、もうお手上げ。



(下永先輩・17回:左端)
仙台ニ中のバックセンで主将、一高では入ってすぐの1年生の身ででインターハイに出してもらえたが、160㎝じゃ六人制で通用しないと、そうそうに見切りつけてヨット部にいってしまった。ディンギーやスナイプ級でインタハイつかんだけど、こんどは骨折して出らんなかった。みなさんのバレー部は中退しちゃったけど、これを機会に(バレー部OBの)一球会に入れてもらえるかな。
早稲田理工出て紡績会社修行後オヤジのクルマの整備会社大きくして機械メンテなど、ん十億までの規模にしたが、バブルでつぶしてしまった。
でも電波高専との産学連携やエコな電動バイク&トライクの開発販売「イーモービル㈱」会長として、吉野君にも関連のトコの代表者にもなってもらって、新たなチャレンジで頑張ってる。

(吉野さ~ん、電気自動車なら、清水さん? )
・おお、それでね、下永くんといっしょに清水くんのトコにいってELICAに乗っけてもらって。すごかったね。清水さんと呼んだら「吉野さんから、さん、づけでよばれても…」だと。)

(男女別学について)
・イバ大での付合いで水戸一高のバレー部OBとも付き合いがある。アチラは男女共学になって久しいからOB会には、女子マネやったかたまで出てくる。こっちもそうなると、ちょっと「戸惑い」があるなあ...
・今の現役は、女子マネいるトコを羨ましげに見てたりするよ...
・男女別だった宮城県というとこも、そろそろ共学化。でも、学校の個性といろんな選択肢は残すベキだと思うのだけど...
・小子化、統合...共学は流れだよ。ムコウの方がやるべきとの理屈は多い。古きよき伝統を残せのノスタルジーだけではとおらんだろう...
・でも、仙台じゃ北の方が生徒も多いし、二高、一女はこんど宮城一高、いまでも、もう3番目なのか?


(覇気について)
・バレーでも、シード校ぐらいに入ってくれないとなあ...勝てる時でも「お付き合い」して負けてしまう...なにかが足りないんだよなあ。
・吉野さん三年のときは、前年国体・新人戦優勝の優勝候補・仙台工を相手に気力で総体準決勝に勝ちあがった。むこうは実力数枚上だったが二年主体のチーム、オレは3年やってきた、負けられるか。
奇跡の試合だった。身長172㎝のエース吉野は、一本毎のアタックすべてを今でもコースまで思い起こすことができる。オレにもってこいと全部のスパイクを決めた。ミスはたった1本だけだった。相手のブロックは眼の下にしか見えなかった。(中学3年だったボク。仙商体育館でのあの試合は同級生が見て来て、一高はアタマだけじゃなくてバレーもすごかったと。)
・おっと現仙台商校長が東京での校長会終わって駆けつけた。大内先生ひとこと。
「ん、センパイにお世話になってもお返しなんか要らないから、それは後輩に返してやんなくちゃあ」
(若手漫才日本一「サンドウィッチマン」は、仙台商のラグビー部出身。去年までは暇なので母校文化祭でも小遣い程度の謝礼、今年はもはやスケジュールぎっしりとか。若い女のコに媚びないタイドがよいらしい)


吉野さん、加賀谷みたいに58歳のいままでも、茶畑の一高の体育館バレー部の孫みたいな後輩の前に姿を見せましょうか。(ついコートに入ってしまいそうだ、との声)ともあれ、助走をつけた少しブロード気味のジャンプ・第2段ロケットに点火した吉野先輩のご活躍を祈る。


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