Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

八洲男さんからの手紙

2014-05-30 23:24:25 | なんでもあり・ファミリー

 

今日は母の四十九日のあたり日だが、夭折した父の誕生日なのだ。不思議にもドンピシャとなったわけで、母も彼岸にお着きのころだろうし91歳の誕生日祝いをしてくださいな。母の遺品の「八洲男さんからの手紙」という古ぼけた封筒に数通の手紙やはがきがあった。半世紀まえに書かれたものだから僕が小学生の頃のものだ。こんなことを記録していると、またムスメから叱られそうだが、ICLOUDにこっそり置くよりも供養になるだろう・・・昨日は徹夜で帰ってからちょっと寝たけど、時差ボケ・・・

そのひとつ昭和36年1月31日付の父から母への手紙。37歳だった父は仙台への転勤で前日に着任。妻を亡くし再婚などで異動がままならず現場の課長を5年もやっていたから管理機関の経験をということらしかった。交換網設備の建設の中枢の部署への辞令、東日本縦貫同軸やマイクロウェーブルートの背骨の形成と電話網の自動即時化工事がまさに始まろうとしていた。

引越しは子供の学校の修了を待って3月下旬、1ヶ月半ばかりは大崎八幡神社の近くの笹森にあった単身赴任寮にいた。寮を引払うとき、春休み僕は父に連れられてこの寮に行った。坂道を登ったのがついこの間のような気がする。

父や叔父たちは教育者の父親から徹底的に仕込まれ、みな字が上手だった。走り書きのこの手紙も達筆すぎて読めない(XX)部分があるが、中身は実によくわかる。父の四十九日に入社した僕も在職年数だけは超えたが、とても足元にも及ばぬ人格とキャリアの大先輩だった。健康ありせば、相当に伸びた人だったろう。 腕時計は母からのプレゼントなのか、喜んでるな・・・東北管内や大阪までも出先からはマメに手紙を書いていたようだ。多忙とそれまでの無理もたたったのかこのあと1、2年で体を壊した・・・

読めない字句は、法名録で正徳2年(1712年)没のご先祖まで遡れる父の生家で一緒に育った新田の英子叔母に聞いてみよう。学友が書かれた祖父伉治の碑には、「・・・令息八洲男余ニ文ヲ嘱ス・・・」とある。末っ子だった「やっこちゃん」はかわいがられて親孝行だったようだな。この手紙のときの親父と同じ歳で僕も、父のいた建設、施設の本流の隣でソフトをやって東京へ2度目の転勤、ひと月半でどういうわけか引越し代まで使い果してしまった・・・父上許したまいてよ我は不肖の子なりき・・・

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慌しくご苦労をかけましたが昨三十日予定どおり安着しました 福島駅ではぢいちゃんから聞かれたと思うが非常に沢山の人々の見送りをうけ期せず万歳の声もおこり汽笛がなって動き出すと 名前を呼んでくれるもの ホームの終わりごろまで来てくれるもの やっぱり感激にひたりました

瀬上通過の頃から車内の転勤者同志の挨拶が始まり色々と やはり福島の思い出話に花が咲きアットいう間に仙台着
松井氏始め多数の出迎えをうけ通信局に第一歩

早速通信局長以下関係部挨拶まわり どこもかしこも関わっている人が多いので中々思うように捗らず一たん中止 午後二時食事(天ぷらそば 二五円)直ちに事務引継で五時 新任課長が宿がないので近くの旅館に同宿して暫し今後の方針について打ち合わせ(市内 寮満員、一般旅館七百円)二人でミカン 一〇〇円食う(ウラヤマシイ)(XXに)就寝九時半でした

今朝七時四十五分(セイコーロードマーベル)起床 例のとおり(かみそりきれないのでイタイ)朝食をカッ込んで通信局にかけ込む 時に八時四十分 殆どみんな出勤していた

飛内課長は引越しで今日昨日休暇 安倍君を(XX)して全員出張 課長代理で初めての書類ばかり 四苦八苦(一応マジメに書くとコウダが実はウマクゴマカシテ代理印を捺す いくら逆立ちしたって昨日来たばかりでわかる筈がありませんね)しているうちに晝一、 駅之(XX)送り 帰局食事 ゴ一・三〇(セイコーロードマーベル) 直ちに二月分時間外労働予定全員取りまとめ組合え提出の資料づくり(東北管内出張先の監督え電話してとりまとめ)時にゴ三・〇〇 今日は早いうちにネグラ之落ち着こうと ゴ三・二〇頃(XX)をチョロマカシテドロン

電車で北仙台之、 仙台駅前で市電乗換中に 四郎兄に偶然会う、びっくりした、まだ知らせてないのに。(校長試験に来たとか) 停留所で立話し五分で別れる 仙台も狭いものだネと不思議に思った

北仙台で無事荷物を受取りハイヤー(三五〇円)で寮之、一寸と山沿いに登るところだがもう雪が多く三寸位はあるだらう 宿舎の軒には氷柱が垂れ下って雪国之来たような感じをうけました ト云っても心配ご無用、乗物之の距離は電車もバスも近いところです 早速荷物を開梱、全部無事でした、 寮母に挨拶(砂糖五百匁)寮長に挨拶(菓子折り三百円)、同室者は外泊のようで今晩は独り 寝言もいうんではないかと思いますが一人ですので今晩は気楽ですのでこんな長い手紙を書いて了った

十時半ですので寝みます 疲れないよう気をつけますから何も心配要りません
みんな之 暫く留守を頼みます 取敢ず報告まで

 三十一日 (XX) みんなによろしく

よしこ どの

急いだので乱筆 ご判読願います

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フラニーとズーイ J.D.サリンジャー/村上春樹訳

2014-05-25 23:57:00 | 音楽・芸術・文学
フラニーとズーイ (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

村上春樹さんがサリンジャーの「ライ麦畑・・」を訳してくれたというCMは見ていただけだったが、こんどは「フラニーとズーイ」を出したというのでつい買ってしまった。サリンジャーを読んでいたのはずいぶんと昔、四十数年も前、若かったな、あの知的な雰囲気と気取りというか、優しさというか、ともかくなつかしいなあ、というわけで。

あの頃は大学紛争やら奇怪な事件やら世の中、街の中、それに家の中もずいぶんと騒然としていた。友達とライ麦畑回し読みのあと、庄司さんの赤ずきんちゃんが現れて、あれっ、ライ麦とおんなじじゃないか~と。さて、グラス家の話の頃は東京での学生寮生活。サリンジャーの話が通じた中学のときの同級生塚本クンは、下宿代わりに製薬会社ビルの管理人をしていて、おお、こんなやり方もあるかと。世の燼にまみれた僕と異なり、牧師の息子の彼は青学で神学を学ぶストイックな青春を過ごしている様子であった。中村メイコのロストラブというラジオ深夜番組を聴いてたら声ですぐわかった、クラスメートのあの子がねえ・・・

フラニーちゃんは何で悩んでいるのだろう・・・今になってもよくわからない・・・何かで、どうにかして救済されるのだろうか、そもそも宗教とは何であろうか、神とはなにものであろうか・・・重そうなテーマは底に流れてはいるが、しかし表面では知的な若者たちとその時代のストーリーである。あの時代の最先端にいたものたちのスナップショットのナインストーリーズなど短編を組み立てればグラス家兄弟たちの青春と精神遍歴になる。サリンジャーという人は、解説も序文も許さない作家だ、まず生で読んで自分で何を感じるか、なのだろう。村上さんは別葉で「こんなに面白い話だったんだ」という訳者からのメッセージをつけてくれている。

いろんな方の訳で読んで、原書も持っていたがどこにいったのやら・・・鈴木武樹先生の本がくだけた感じで良かったような気もする。明治で先生のゼミにいたという会社の先輩がいて、このかたは文科系なのにコンピュータをやらされて大苦戦されていたっけ。北海道などを一緒に旅したこともあったなあ、どうしてることやら、・・・、そして40年ぶりに、ネジ巻きつつ、村上春樹訳のフラニーとズーイをよんだ。また続くのかなあ、まあ、そのまえに村上春樹さんにわるいから、これを機に今頃になってノルウェイの森やらにもお邪魔しようと思うんです。

>>>>>(「フラニーとズーイ」 J.D.サリンジャー/村上春樹 訳 新潮文庫 より 引用)

 ・・・職業的に言えばズーイは俳優であり、これまで三年あまり主演男優としてテレビ番組に出演してきた。実際のところ彼は、映画やブロードウェイで既に全国的な名声を得ているスターが副業としてテレビ番組に出演する場合を別にすれば、「テレビ番組の若き主演俳優」としてまず破格にひっぱりだこであり、また家族の耳に届いた不確かな伝聞情報によれば、破格に高額の報酬を得ているということだ。しかしそのような状況だけを、事情説明抜きでさらさら述べてしまうと、ずいぶん単純な話として受け取られてしまいそうだ。実を言えば、ズーイが公衆の前に正式に、また真剣に「演技者」としてデビューしたのは、まだ七歳のときである。彼はもともと七人いた兄弟姉妹の、下から二番目の子供だった。(*)

*脚注というのは美的見地からすると誠に興ざめなものだが、それでもやはりここでひとつ差し挟まないわけにはいかない。本書にはこのあと、七人の子供たちのうちのいちばん年若い二人しか、直接的には登場しない。しかしながら残りの年長の五人はかなり頻繁に、このプロットにひそやかに出没することになる。まるでバンクォーの亡霊(訳注『マクベス』に出てくる)がうようよいるみたいに。

そのようなわけで読者諸賢はまず最初に、一九五五年時点においては、グラス家の子供たちの最年長であるシーモアが亡くなってから約七年が経過していることを、知っておかれた方がいいかもしれない。彼は妻と共にフロリダに休暇旅行をしているときに自殺した。もし生きていたら、一九五五年には三十八歳になっていたはずだ。
二番目に年長のバディーは、大学用語で言えば「ライター・イン・レジデンス(大学在籍作家)という肩書きで、ニューヨーク州北部にある女子短期大学に所属している。彼はかなり高名なスキー場から四分の一マイルほど離れたところにある、冬のための設備もなければ、電気も通じていない小さな家に一人で住んでいる。
三番目の子供、ブーブーは結婚して三人の子供の母になっている。一九五五年十一月には彼女は夫と、三人の子供全員をつれてヨーロッパ旅行をしているところだ。年齢順にいけば、ウォルトとウェイカーの双子がブーブーに続く。ウォルトが亡くなって十年になる。彼は陸軍兵士として日本に進駐しているときに、つまらない爆発事故のために死んだ。彼の十二分後に生まれたウェイカーは、ローマ・カトリックの司祭になり、一九五五年十一月には、イエズス会の会議か何かに出席するためにエクアドルにいた。

五人の男の子と二人の女の子、彼らは子供時代にそれぞれ、適度の間隔をはさんで時期をずらし、ラジオのネットワーク番組にレギュラー出演していた。『イッツ・ア・ワイズ・チャイルド(なんて賢い子ども)』というクイズ番組だ。最年長のシーモアと、最年少のフラニーの間には、おおよそ十八年の年齢差がある。そんなわけでグラス家は、『ワイズ・チャイルド』のマイクロフォンの前に、ほとんど世襲的ともいえそうな席を確保することになった。彼らの出演は一九二七年から一九四三年まで、十六年以上続いた。

つまりチャールストンからB-17爆撃機の時代までをカバーしているわけだ。(このようなデータはそれなりに大事な意味を持っていると私には思える)。彼らがその番組でそれぞれ活躍した時期のあいだには空白や、年月の隔たりがあるものの、少数の些細な相違点を別にすれば、その七人の子供たちはすべて同じように、夥しい数の質問に対してーーそれらはリスナーから送られてきたもので、ひどく堅苦しい質問とひどく可愛らしい質問が交互に出てきたーー溌剌と、また落ち着き払って回答した。それは商業ラジオ番組としてはずいぶんユニークなものと見なされた。子供たちに対するリスナーの反応が生ぬるいものであったためしはなく、しばしば熱を帯びたものになった。一般的に言って、リスナーは奇妙に頑迷な二つに陣営に分かれた。一方はグラス家の子供たちは耐えがたいほど「鼻高々の連中」であり、生まれたときに水に沈めるか、ガスをかがせるかして始末するべきだったと考える人々であり、もう一方は、彼らは本物の神童にして賢者であり、うらやましいと思わないまでも、間違いなく傑出したものを持っていると主張した。この文章を書いている時点でも(一九五七年だ)、七人の子供たち一人一人の、それぞれの発言の多くを、おおむねのところ驚くべき正確さを持って記憶している『イッツ・ア・ワイズ・チャイルド』のかつてのリスナーがいる。そのようなグループはさすがに層が薄くなりつつあるものの、いまだに一風変わった同人的なグループを形成しており、グラス家の子供たちの中では、一九二〇年代後期から三〇年代初期にかけて活躍した長兄のシーモアがもっとも「聞き応え」があり、もっともむらなく「感心させられた」というのが、彼らのあいだでの合意事項になっている。シーモア以降では、一般的には好感度とアピール度において、末弟のズーイが二位につけている。そして我々はここでは、ズーイに実際的な関心を抱いているわけだから、このように言い切ってしまって差し支えあるまい。・・・

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フラニーのねこちゃん、ブルームバーグくんもこんなかな!?

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緑のそよ風

2014-05-10 23:42:15 | なんでもあり・ファミリー

樹々のみどりが目にしみる五月のさわやかな季節になった。このところチト風は強すぎるけど・・・♫みどりの、そっよっか~ぁぜ~い~い日だっねぇ~。小学校6年のとき合唱の課題曲だ。おかげで覚えているので良しとするけど、転校してきたとたんに学校代表のメンバーにさせられ練習は毎日だし大勢のまえで歌うわけで、なんで僕がとなんとも嫌~な感じがしていた。(ん?、♫たの~しやぁ~、ごがぁ~つ、くさぁ~きはもえ~、だったようだな、どうも。それだとこのお題は取り違えだな、認知&健忘症の進行、ぜ~んぜん楽しくないっ、5月だ!:後日追記)

母の四十九日ももうすぐ、あっという間に時間は経つ。年度という区切りでは4月は始まりで町内会やテレビ組合の役員をまたまたやることになっていたから、お葬式やらのとんでもない出来事の間隙を縫っての総会や会合、スポーツ祭準備などやらねばならぬことばかり。なにごともイヤイヤやるか手を引くとずっと気分が悪いというのが、ご幼少時の経験以来わかってきたので、まあいいかと、平然とやっていることにした。

そんなこんなの用事で、今日も青空ひとりっきり、町内などを走り回っていたらここ仙台郊外の団地は緑がいっぱい。防災無線も写ってるけどあまり大活躍しないでほしいなあ・・・お隣のサッカー場ではJ2のSony Sendai FC が横河武蔵野FCとホーム戦とか。グラウンドの金網の隙間からでも観戦できるのだがそれは申し訳ないので、多賀城の名物とかいう、塩味と醤油味ハーフ&ハーフ「唐揚げ」を買って帰り着いた。思いつきで撮ったスマホの画像を見れば街路樹の風景には大きさはあるが(画像サイズもデカすぎだね)色彩の豊かさは乏しい。よって、ミラーレスの目を通した我が猫庭の小さな花たちで彩りを添えておこう。

         

    

 

 

      

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