まあだかい—内田百﨤集成〈10〉 ちくま文庫 | |
内田百﨤 | |
筑摩書房 |
百鬼園先生、「昔の学生諸君」たちに還暦を祝ってもらったあとに毎年誕生日楽しい集まりがつづく。先生、ますます達者、未だか、未だかでずっと続く「摩阿陀会」とあいなった。昭和29年5月の五回目を抜粋しておこう。このときの一同の写真が「百鬼園写真帖」に載っている。「阿房列車」シリーズでヒマラヤ山系君こと平山三郎氏をお供に、あちこちへ<無目的の旅>で大いに意気が上がっていたときかもしれない。
さて、5回目の「きょうの瀬」の文章のなかに天長節の歌のことが出て来るから、ご本人の張りのあるお声も聴いてみよう。<youtube-内田百﨤「百鬼園長夜」(2) 百鬼園先生、歌う!NHK-1956年11月2日放送>。昭和31年だからこのとき67歳、ノラちゃんが家にいて先生もはつらつとした感じ、収録時のお顔も「写真帖」に載っていて、メディアというものはこれで完結!
翌年ノラちゃんがいなくなったころから数年間「摩阿陀会」の書き物は途切れる。復活後では喜寿のお祝いのときの写真もいいなあ。その昔立川で飛行練習していた法政航空部の学生におにぎりを作ってやっていた奥様も呼ばれてごいっしょだ。事実は小説より奇なり・・・百鬼園先生の人生は成る可くしてなったような自然なパフォーマンスの連続だったのかもしれない。そしておお、百鬼園先生のは元祖宴会ブログであったか。遠く及ばないがこっちもいくつか書いたっけな。先月のは出らんなかったし・・・メンゴ。
さても、先生稼業というのもいいもんだなあ・・・おっと、ムスメ、シンカンセンに乗ったって?教育実習申し込み?センセイにはならんだろうが・・・嵐が来てMAC占領される前にアップしとかないと・・・
>>>>>>>> 以下、「まあだかい—内田百﨤集成〈10〉 ちくま文庫」より
『きょうの瀬』
きのうの淵はきょうの瀬となる世の中に、摩阿陀会が年年同じ事を繰り返して、五回目になったのは難有い。還暦の賀宴を加えれば六年目である。余り長くなるから首をくくって埒をあけようかと思った門の柳は去年の秋、庭に池を掘った時に水門の傍に移し植えたら、細い幹の上の方が半分枯れたので、背丈が低くなってしまって、当分その役には立たないだろう。私がまだ生まれない前、親戚に気丈なおじさんがいて、山屋敷と云う淋しい家に住んでいる所へ、強盗が押し入った。おじさんは抜き身の前に大あぐらをかき、腕を組んで、殺さば殺せと云ったら、強盗が片耳を切り落として行ったと云う。殺さば殺せ、続かば続け、しかし来年の今日がめぐり来るか否か、それは去年だって一昨年だって解らなかった。
例年の通り迎えの車で新橋駅楼上の会場へ行った。毎年の事なのでボイも帳場も顔馴染みである。こちらの肝煎りもすでに手慣れていて、何も気を遣う事はない。そもそも今夜は来会の諸君一人一人が主人なのだから、私がお客様なのだから、私が気を遣うと云う筋が有る可き筈はない。しかし、うるさい性分なので、又諸君の中の大部分は昔私の学生であったから、つい何か口が出したくなる。わざわざ私の前に顔を近づけて、今晩はようこそお出で下さいましたと挨拶するのがいるかと思うと、すっかり間違えて、どうも遅くなりました、今晩は難有う御座いますと云うのもいる。先生はいつ迄もお元気で、とか、お変わりがなく結構ですとか云うのは、いつ迄も変らぬわけがない、もうすでに元気でいる筈がないと云う判断が先に立っている。云われて見れば御尤も、摩阿陀会も五へん目だと云う事に思いをいたし、彼等の言葉尻をつかまえる事はよした。
出足の遅いのを待ち合わせて定刻を過ぎ、肝煎り多田の号令で目出度く著席した。例年の通り私の左右お医者様とお寺様である。お医者様は今日はお嬢さんのご婚礼で、昼間にその挙式を済ましてからこっちへ廻られた。ところがお寺様がまだ来ていない。或は檀家に新仏が出来て、そちらのお経で手間取っているかも知れない。 今日は肝煎りの多田君の身内にもお目出度があった。矢張りそちらを済ましてから来ると云っていたそうで、しかしモウニング・コートを著ているから、その儘の服装で摩阿陀会へ廻るのは変だから、一たん帰って出直すと云ったと云う。ちっとも御遠慮はいらないと思ったが、著換えるなら著換えてもいい。彼のモウニング・コートは、先年順ノ宮様の御披露宴によばれて行く時、借りて著たから私も知っている。もう大分古くて、ろくなモウニング・コートではない。その上彼の身体に合わせて仕立ててあるから、私が著ると脚の長さや胴の太さが違うので、息苦しくて、靴を穿く時、前にかがむ事も出来なかった。しかし又借りる機会があるかも知れないから、余り悪く云うのは差し控える。
写真を写した後、多田の音頭取りで、みんなが起立して私の為に乾杯してくれた。それを受けて私の前だけ置いてある大ジョッキを捧げ、みんなの見ている前で一呼吸に飲み乾した。だから、お変わりもなくて、と云う事になるのだろう。しかしそれは惰性であって、お変わりがあるかないかとは話が違う。
飲み乾した後、起った続きで挨拶した。
「毎年こうして誕生日を祝って戴いて、お礼の申し上げ様がない。言葉には尽くせないから、それは後日を期する。その内に摩阿陀会も済むでしょう。つまり僕が出て来なくなれば、それでお仕舞で、まあだかいが、もういいよとなる時機がある。その上で僕は皆さんの所へ化けて出て、ゆっくりお礼を申し述べる。生きかわり死にかわり。だから只今この席では省略する。
今にお酒が廻れば、お互いにがやがや騒いだり、歌を歌っていつでも同じ混乱の勝利である。その趣向を今年は少し換えるつもりで、テープレコーダーを持って来た。今年のお正月に宮城道雄検校の所へよばれて酔っ払い、口から出まかせの歌を歌ったのが、そっくり検校の所にある機械で録音された。始めから仕舞まで蜿蜿40分以上かかる。レコードでクロイツェルソナタの全曲を聴く位の長さである。そのテープを今晩は借り出して来た。それを廻して諸君の清聴を煩わす。僕はそれで歌を歌っているのだから、テープが廻っている限り、僕に用事はない。そこでこの席でゆっくり、諸君が感心している顔を見ながらお酒を頂戴しようと云う、こう云う寸法なのです。
何しろ僕は摩阿陀会の五年生、中身が古いのは止むを得ない。明治の中期に生まれて、日清戦争はおさな心の記憶に残り、日露戦争は中学生で提燈行列に参加した。しかしその時の軍歌はまだいい方で、諸君にはもっと耳遠い唱歌もある。僕の幼稚園の頃の天長節の祝歌が出て来る。
きょうは十一月三日の朝よ
朝日にかがやく日の丸の
国旗は門並みひいらひら
国旗は門並みひいらひら
きょうは十一月三日の朝よ
おかでも海でも勇ましく
打ち出す祝砲どんどんどん
打ち出す祝砲どんどんどん
テープの歌い出しは、水をたくさん汲んで来て、水鉄砲で遊びましょう、だったと思う。そう云うのを僕は一一、越天楽で歌いなおす。越天楽と云うのは、僕が酔っ払うと歌うあの、春のやよいのあけぼのに、よもの山べを見渡せば、の節であって、この旋律は平安朝以来、千何百年も続いて我我の先祖から歌い忘れなかったのである。尤もその旋律に「春のやよいの」と云う様な今様の歌をつけて歌い出したのは、平家時代からだそうだが、何しろあの節は古い。その越天楽で歌い直すから時間が掛かって、クロイツェルソナタの全曲のような事になる。お正月の宮城検校の席には、今日ここに御列席の小林博士も同座せられて、彼の博士は、明治時代に学生だったお医者の通弊で、酔うと義太夫を唸る。去年の秋のわずらいに、と唸られた後を、僕は越天楽で同じ文句を繰り返す。
小説新潮の四月号に、宮城検校が「百鬼園の越天楽」と云う随筆を寄稿したのを、諸君に中に読んだ人もいるだろう。その中に薬売りの文句が出て来る。これも諸君には耳新しいかと思うから、テープを廻す前にあらかじめ解説しておく。
その薬屋は、僕は漫然と富山かと思っていたが、そうではなく本舗は大阪だったのかも知れない。オイチニ館と云うので、そこから全国に薬売りを出して行商させた。制服制帽に手風琴を持って、歌に合わして鳴らしながら、オイチニ、オイチニと足拍子を踏んで行く。歌に曰く、
そのまた薬の効能はオイチニ
たんせき、溜飲、腹くだし
オイチニ、オイチニ
又曰く、
産前産後や血の道にオイチニ
そこで僕には新作がある。今にテープが歌い出す。
神経衰弱房事過度オイチニ、オイチニ
天才気ちがい低能児オイチニ
どうかごゆっくり御鑑賞を願う。その間僕はこれにてお祝いの御酒を頂戴する。
こうして僕が起立している序に、もう一言つけ加える。いつもはもっと後で、更めて起って諸君にお願いしたが、今日はこの後すぐにテープを廻し出すと四十分以上かかる。その間に僕は多分酔ってしまって、云う事に筋道が立たないだろう。又諸君の方でもがやがや、ざわざわして人の云う事をよく聴き取らないに違いない。早きに及んで、今日はこの儘そのお願いを申し上げる。
今から23年前、昭和6年の今月今日の、午前11時に、当時の法政大学法学部2年生栗村盛孝は国産の軽飛行機「青年日本号」を操縦して、羅馬に向かう為、羽田飛行場を離陸した。
今日の羽田空港の盛況は、僕は行って見ないから知らないが、23年前の羽田はまだ出来たばかりで、広っぱに何の設備もなく、草むらの中にただ一本の滑走路が走っていただけである。今日5月29日の前日、その学生機を今までの練習飛行場だった立川から空輸して羽田へ持って来た。羽田の新飛行場に初めての著陸の車輪を印したのは栗村の「青年日本号」である。
その晩は法政大学航空研究会の学生が、「青年日本号」を護って草原に夜を明かした。格納する建物なぞまだ出来ていなかった。そうして今日、5月29日の午前11時に、「青年日本号」は羽田飛行場を最初に離陸する飛行機として、学生訪欧飛行の壮途についた。
一本の滑走路の向うの端にいる「青年日本号」に向かって、僕が航空官の指示を受け、手に持った相図の旗をあげて、出発を命令した。滑走して来て、丁度、台の上に起っている僕の前あたりで車輪が浮いた。飛行場外れの向うの低い土手の上をすれすれに飛んで、次第に高度を取った小さな飛行機の後ろ姿を見つめて、僕はフロック・コートの手旗を持った儘、涙を流した。23年前の昔噺です。その栗村がそこにいます。彼の羅馬飛行の為に乾杯してやって下さい。栗村君、起ちなさい。」
乾杯を終わって、私の挨拶も済んだ。なぜ「青年日本号」に離陸の日と私の誕生日とがぶつかったかと云うわけは、学生訪欧飛行の準備がすでにととのい、出発の日取りをきめるだけとなった時、萬時その指導を受けていた逓信省航空局の航空官が、西比利亜にある梅雨の動きから考えて、5月末から6月初めに亘る数日の内がいい、その間ならいつでも結構だから、学校の方の都合でその日をおきめなさい。ただ日がらももがらを選んで、縁起のいい日に立つ様にと云う事であった。
一番新らしいと思われる飛行機の関係なぞで、案外そうした縁起をかつぐ。5月の末から6月初めと云うなら、5月29日が私の誕生日である。会長の私の誕生日なら、縁起は申し分ない。それでその日にきめたから、羅馬飛行の記念日と今日の摩阿陀会とぶつかるのはちっとも偶然ではない。
テープレコーダーが廻り出した。自分の声が外から聞こえて来ると云うのがすでに変な話で、それを自分の耳で聞くのは余りいい気持ちではない。そう云う不祥な事は成る可く避けたいが、しかし現にそこに機械から聞こえて来る。幸いな事にテープの中の私の声は、酔っ払っている。それを聞いている今夜の私は、まだ酔っていない。耳と声とは別人である。今に耳の方も酔って来るから、そうなると酔った声と酔った耳とが同一人になる恐れがあるけれど、聞く方も酔ってしまえば、自分の声を外から聞くのは気味が悪いなぞと、そんな面倒な事は考えないだろう。
このテープを音盤に取りなおしたのを、宮城検校から貰っている。12吋盤4枚の裏表で8面ある。私の家で蓄音機に掛けてみたが、どうも面白くない。廻転の工合の所為か、何となく陰陰滅滅として、幽霊がうなされている様である。今晩の肝煎りの一人平山がその座にいて、一緒に聞いたが、まだ済まない途中からいやだいやだと云い出した。悲しくなると云った。まあ我慢して聞いていなさいと、仕舞まで聞かせるのに骨を折った。
彼は口には出して云わなかったが、私が死んだ後の遺声を聯想したに違いない。音盤では自分で聞いてもそんな気がしない事はない。私が死んだ後で人が聞く声をまだ生きている内に聞いていると云う縺れた気持ちになる。
原音のテープではそんな風な所はない。陽気で面白い。面白いと云うのは聞いていてこっちが、酔って来たからである。自分が半年も前に歌った歌を聞きながら酒を飲んで、その歌に浮かされるなぞ、最も簡単な、或は非常に手のこんだ酒興である。そのどっちだって構わない。みんなが聞いているのか、いないのかそれもよくわからない。
遅参のお寺様が私の隣に座っている。左右にお医者様と対に揃って難有い。「新仏が出来ましたか」と尋ねたことは覚えているが、猊下がなんと答えたかは丸で記憶にない。テープが「とうとき血もて甲板は、からくれないに飾られつ」と歌うと、遅れて来た肝煎り北村が、テープの声にからんで、「からくれないに水くぐる」と歌い返した。それだけが耳に残っている。後は何がどうなったか、よく知らない。
つまりいつもの通りの摩阿陀会になってしまって、いつの間にかテープも終わってしまったのだろうと思う、一番仕舞の君ヶ代を聞いた様な気がする。そうして新橋汽車駅の桜上の床が、護謨を踏む様にふわふわして来て、みんなが、と云う中に私もいるかも知れないが、起ったり座ったりし出した。
新橋汽車駅と云ったので、肝煎り北村が起草した今年の案内文を思い出した。
摩阿陀会回文
くうもに聳ゆる番町の 大根おろしは辛くして 靡き伏したる摩阿陀界 あおぐ今日こそ百鬼園ひじり 禁客寺を出て給えば 鉄路茫茫 粟散辺地の扶桑に跡をとどめ 阿房の道を弘めては 迷える衆生をみちびきて 精識を抽んで給う このひじりを師とし そのしりえに従いて 願いを同じゅうするわれ等 もとよりたくみ浅くして 才みじかきを嘆くと雖も 誰かひじりの千秋をこいねがわざらんや されば乃ち五月二十九日 黄昏六時 新橋汽車駅の桜上に 金壱阡五百円也を霧消せしめ ひじりの酔訓を浴びてその道に習わんとす 肴薄くして酒の軽きを 笑わば笑え 餓鬼共
その北村が起ち上がり、列座の一同を見渡して、諸君、これだけが、今晩のこの我我が、お通夜の顔ぶれだね。その時は又集まろうぜと云ったと云う。後から聞いた話で、その場では私は丸で知らない。しかしそんなに大勢が、当夜の列座三十四人、その中に私も這入っているからお通夜の時は別になるとして、三十三人も集まってどこへ座るつもりなのだろう。そんな広い場所で私が死ぬ筈はない。
いつ、そう云う時に、何のきっかけで切り上げたかわからないが、兎に角目出度くお開きになった。例年の例に依れば、これから更めて別の席へ出掛けるところである。大体三分の一ぐらいが一緒について来る。そこで又やり直すからいつでも夜半を過ぎ、身体がくたくたになって、私なぞは二日酔いでは済まない。三日目もまだふらふらする。しかしそう云う目にあっても一年に二度、お正月の三日とこの摩阿陀会の晩の事は、後悔しない事にきめてはいるが、そうなった後を後悔しないよりは、そんな事にならない方がまだいい。のみならず大変お金が掛かって、飛んでもない脚が出る。その後始末にいつも苦慮する。大概拭い切れないで、結局連中の中のだれかが背負い込むと云う事にもなり、甚だ相済まぬから、今後はどこへも廻らない、つまり梯子をしないと云う事を、摩阿陀会の随分前から肝煎りの多田君と相談し、約束し、ちかっている。
だから今夜はどこへも廻らない。
「多田君帰るよ」「それがいいです」と云うわけで、だれと一緒に車に乗ったか知らないが、家に帰って来た。
ところがその後から、ぞろぞろと大勢が、私の狭い家に這入って来だした。私を送って来たのか、私について来たのか、あるいは闖入したのか、昔、無声時代の活動写真の亜米利加喜劇で、一台の自動車が停まると、せいぜい五六人しか乗れないと思われる車の中から、次から次へと人が降りて来て、何十人かが自動車の前で犇めていたのを見たことがある。今夜の闖入者達は、勿論何台かの自動車に乗り分けて私の車の後を追っ掛けたに違いないが、別に後から加わった異性を加えて、総勢十六人が私の狭い部屋で押しくら饅頭を始めた。
狭いと云うのは、私の家は三畳の部屋が三つつながっているだけで、三つのなかの一つは書斎だからだれも這入らせない。這入らせもしないが、這入ろうとしたって這入る場所はない。三畳の畳の上に一畳敷ぐらいの大きな机を据え、その傍に小机を置き、字引を積み又列べ、抽斗箱を置き、その他諸品が羅列しているから、立錐の余地もない。
だから三つの部屋の内、その一つは丸で使えない。後の二つにも一方は中くらいの机があり、もう一つの方は大きな卓袱台、将棋盤、蓄音機、その他雑品が各その必然の空間を占めている。それで三畳を二つ合わせた六畳の内、実際に座れる所は四畳に足りない。その畳の上に十六人が座り込んだから、一畳に四人づついた計算になる。畳一畳に四人座れない事はない。又現に彼等はその場所でいい心持に落ちつき込み、一時を過ぎても、二時を過ぎてもだれも起たなかった。
狭いながらニ間に跨がって、目白押しに居並んだ諸氏の顔を眺めながら考えた。これで見ると、サロンだのカフェーだのは、矢張り無駄に存在するものではない。今度はどこへも廻らないと考えたその理由は、その儘残っているけれど、しかしこうして大勢が私の所へ押し入り、犇めいている有り様を見れば、いつもの通りそう云う所へ廻っていたら、この惨状はそこで解消した筈だと思う。
後から加わった異性の三人と云うのは、例年のそこからやって来たので、中の一人はマダムである。美人を踏み潰しそうだと云ったそのサロンから、今夜は彼女等が我我を踏み潰しに来た。風呂敷に包んで三鞭酒を持って来た。風呂敷に、と云うのは三鞭酒を冷やす桶、あれはなんと云うのか知らないが、その中に三鞭酒をつけた儘持って来たのである。
私の所にシャムパン・カップはない。もとはあったのだが、それは初めに話した羅馬飛行当時の記念でもあったが、空襲の火事で無くなった。だから茶碗やコップや杯を持ち寄って、それにこれから抜く三鞭酒を注ぎ分ける事にした。
三鞭酒の抜き方に二種ある。音がする抜き方と、音のせざる抜き方とである。古来ぽんと音をさせて、だから景気がいい、縁起がいいとしたもので、その音を祝ってボイに5円のチップを与えると云う話を聞いた。昔の事だから5円は大変である。私の知るところでも、5円あれば一寸した待合へ上がり、料理を取り寄せ、芸妓のお酌で一盞傾ける事が出来た。
私が郵船にいた当時教わった事だが、近来は三鞭酒を抜く時、ぽんぽん音をさせるのは、下品で物欲しそうで、はしたない不作法だと考える様になったと云う。多分それは英吉利風のサアヴィスの話だったと思う。何しろ私なぞ滅多に飲む機会もなく、よく知らない事だから、教わればその通り、そんなものかと覚え込んだ。
日本は戦争にまけて、すっかり格が下がり、品が落ちたから、たまに三鞭酒を抜けば、景気のいい音を聞かないと物足りないと云うもとへ逆戻りしているだろう。
さて、これから私は英吉利風にこの三鞭酒を抜く。そのつもりで壜の口を押さえ、少し傾けて針金をほどいた。私が余程上手だったのか、非常に下手だったのか、丸で音もせず勢いもなく、醤油壜の口を開けた様に栓が取れた。
先ずそれを注ぎ分けた。コップや杯や茶碗の数が多いから、みんなに廻らない。
次にマダムが二本目の壜を開けた。今度は素晴らしく景気のいい音がして、ポンと云ったらみんながよろこんだ。敗戦国の逆戻りだから、その心事は尤もである。
彼等が飲んだのは三鞭酒ばかりではない。その前から麦酒はもとより、お酒は冷やの儘で茶碗酒かコップ酒、冷蔵庫に入れてあったラムネまで飲み尽くし、お勝手にある凡そ食べられる物はみんな食べてしまった。
翌くる日冷蔵庫の麦酒を出そうと思ったら、なかったのみならず、まだ冷蔵庫に入れてなかった麦酒も一本もなかった。お酒は飲みさしの壜は勿論、貰った儘しまってあったのもみんな無くなっていた。ナポレオンの軍隊がモスクヴァで敗れた帰りに、独逸を通ったときの話に似ている。
北村がみんなの間で麦酒のコップを挙げてよろこんでいる。おい、諸君、よかったね。これでお通夜の予行演習が出来た。まあこんな調子だろうね。
私が云った。違うよ。今晩はこうして僕が坐っているが、当夜はのびている筈だから、この限られた空間の関係が変わって来る。その為二三人は食み出すだろう。尤も僕を座棺に納めるなら、その制限は緩和する。
いつ迄もみんな落ちついている。勝手にするがいい。どうせもう電車なぞありはしない。しかし自動車なら、市ヶ谷見附へ出ても、夜通しいつでも間に合う。御ゆっくりなされたらよかろう。
二時半を過ぎてから、もう帰ろうかと云い出した。夜明けは未だだが、近頃流行の半通夜よりは長くいて、汐が引いた様に、一どきに帰って行った。銘銘方角が違うだろうし、随分遠方なのも居る筈である。どんなにして帰ったか、その後会わないから私は知らない。
くたんくたんになって寝て、翌くる日遅く目がさめた。身体の調子、頭の工合がよくないのは申す迄もない。後悔はしない事になっている摩阿陀会の翌日だから、それで構わない。
別に入り用があったわけではなく、だから探したのではないが、何かの事で書斎の抽斗を開けたら、昨夜出がけに持って行った洋服のポケットの諸品が、各きちんと元の位置に納まっている中に、ただ蟇口がある筈の所だけが空いている。つまり蟇口がない。おかしいなと思った。
私は滅多に外へ出ないけれど、それでも偶には出掛ける事もある。出掛ける時は、著物はないからいつでも洋服を著て行く。洋服のポケットに外出用の諸品を入れる。それを支度に掛かる前にあらかじめ揃えておいて、数を点検した上で順順にポケットへ入れる。普通は総数12である。その内の3点は時に省略する事があり、この頃は大体いつも持って行かない。その一つは時計である。腕時計は持っていない。鎖のついた懐中時計である。古いロンヂンであって、家では正確であるがポケットに入れて持ち出すと、いつも平らに置いてある時計の姿勢が変わる所為か、或は体温で機械が膨張するとか、油が溶解するとかの関係か知らないが、必ず狂って来る。だからそっとして置くに限るロンヂンと云う事になるので持ち歩かない。又外に出れば大概人に会うし、一人では出歩かない様にしているから道連れもあるし、私が時計を持っていなくてもだれかが持っているから、時間が知りたかったら、それで間に合う。第一、時間が知りたいと云う様な事は余りない上に、知って見たところで何の役にも立つものでもない事を承知している。
それで時計を省略する。
三つの中で第二は手帳である。外へ出て何かの心覚えをする。人との約束をメモに取る。そんな事を考えるが、考えて見るだけで実地にそう云う場合があった試しはない。手帳を持つのも惰性であるから、先ず省略する事にする。
第三は版行である。昔昔の学校の先生だった時分からの惰性は一先ず消えたが、後に又郵船会社へ通う様になってから、矢張り版行をポケットに入れて出掛ける癖が戻った。戦争にまけてから郵船をやめたが、あの時分は一寸外へ出ても認印のいる事があったのでその習慣が残り、一たんそうなると、しなれた事は中中やめられない性分なので、ずっとその後も、外へ出る時は必ず版行を持っていると云う意味のない習慣を続けた、しかし使った事はない。いつかなぞ飲み屋で酔っ払って、何か出鱈目の酔筆をふるった後、落款だと云うのでその水晶の四角い版行を取り出した迄はわかっていたけれど、後で紛失した事に気がついた。いくらか因縁もある印形なので随分気を遣ったが、その時一緒にいたのが、私が随分酔っているからと云うので預かっておいてくれたのはいいが、その彼も酔っていたから預かった事を忘れてしまってい、無駄に私を心配させたと云う事件もある。諸品があるから亡失する。諸品の数が少なければ忘れる場合も少ない。そこで版行を持ち歩く事を省略する。
以上三点を省略した後の九つは、どれもよすわけに行かない。それ等を机の端又は卓袱台の上に列べておいて、洋服を著終わると、一つずつ順にポケットに入れる。ゲルハルト・ハウプトマンの「線路番ティール」と云う短篇に、ティールが出勤する前、そこに列べた諸品を次ぎ次ぎにポケットへ納めて行く叙述がある。時計の鎖につけた馬の歯を持って行く。馬の歯は私の諸品の中にはないが、大体する事がおなじなので、聯想するといやな気がする。しかし私の癖をやめるわけには行かないし、そんな気兼ねをする筋もない。洋の東西、時の古今を問わず、偶然の一致と云う事はある。況んや線路番ティールは作中の人物であり、私は現に実在している。
そうして出掛けて、帰って来る。帰った時は大概酔っている。或はひどく酔っ払っている。それでも帰ると同時に、酔った手先で、ふらふらする足許を踏み締めて、出掛ける時にポケットへ入れた諸品を、又一つずつ取り出して、もとの抽斗の、もとの位置に入れる事を忘れない。忘れた事は一度もない。翌くる日起きて、その通りしたかどうか覚えていなくて、半信半疑で抽斗をあけて見ると、必ずちゃんと元の通りに這入っている。私は知らなくても、習慣がそれを実行している。
その抽斗の中に蟇口がない。蟇口は九点の中の一つである。古い白蜥蜴で、年数を食っているからもう白くはなく、きたならしい色をしているが、余り小さくはないから、蟇口のある場所に蟇口がないのは、そこに穴があいていて目立つ。おかしいなと思う。昨夜九点が一つ足りないと云う事になぜ気がつかなかったかと考えて見たが、ここへ諸品を入れたと云う事を丸で覚えていないのに這入っている迄の事で、時分で物事を考える力は失せていたのだから、それは止むを得ない。
抽斗以外の場所を探して見たが見当たらない。沽券にかかわるとは思ったが、仕方がないから家人に尋ねた。知らないと云う。しかしそう云えば北村さんが、この蟇口はだれのだ、だれのだと云って、手に取り、中を開けて見たりしていたから、あった事は確かだと云った。
しかしどこにもない。白蜥蜴の蟇口の中身は、北村が開けて検べる迄もなく、私がちゃんと知っている。中の仕切りのこっち側に三枚、こっちの方に一枚、〆て四枚四千円這入っている。一体、蟇口や紙入れの中身を、宙で正確に知っていると云うのはいい事ではない。お金に困っている証拠である。私は去年の秋頃から萬時都合が良くない。右の四千円も蟇口の中に安眠しているわけではなく、費途がすでにきまっている。摩阿陀会は29日だから、すぐに月末が来る。無駄に中身の金高を覚えてはいない。
その四千円が無くなった。どうしたらいいか解らない。北村がいたずらをして持って行ったかも知れない。
盗難と云う事を考えて見るに、事件には泥坊と被害者とがいる。被害者は金品が無くなったと云う事でその害を被るのであって、なくなったお金なり品物なりが、泥坊の手でどうなったかと云う事に関係はない。泥坊が取って行ったお金で、酒を飲もうと女を買おうと博打に費消しようと、こっちの知った事ではない。盗んだお金を慈善事業に寄附しても、盗んで帰る途中、途に落として遺失しても、或は盗んだお金を別の泥坊に盗まれて、元の木阿弥になっても、つまり盗んで行った泥坊は何の得る所がなかったとしても、盗まれた側の、被害者の損害に変る所はない。私の白蜥蜴の蟇口がなくなって、中身の四千円が、その費途に充てられなくなったと云う事実の前には、本物の泥坊が盗んだのも、北村がいたずらをして持って行ったのも、ちっとも変わりはない。いたずらだったら後で返って来るとしても、お金というものはその時時のいのちの物だから、いつだって有る事はいいが、いつだって有りさえすればいいと云うものではない。
昨夜の酔いがまだ残っているぼんやりした頭で考え込んで、止んぬるかなと思った。
昨夜の肝煎りの平山が、夕方近く一寸した用事で玄関先迄来た。昨夜はどうしたと尋ねると、同じ方向へ三人同車して帰ったが、一人は彼が降りた後を乗り継ぎ、一人は彼の家へついて来て泊まったと云った。そうしてお午過ぎまで寝込んでいたそうだが、今日はいい工合に日曜日である。
時に僕は実に困っていると私が云った。蟇口のことを話すと、彼もまだ酔いが残っているらしい朦朧とした顔つきで聞いていたが、不意に思い出した様に蟇口は北村さんが額の裏に隠して行きましたと云った。
額と云うのは昔の秩父丸の絵皿である。すぐに起って行って見たら、長押の上の絵皿の陰に、蟇口の口金がきらきら光っていた。
<<<<<
内田百(けん)集成24 百鬼園写真帖 (ちくま文庫) | |
内田 百﨤 |
|
筑摩書房 |