Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

まあだかい ー 百鬼園先生

2012-03-20 15:09:49 | 音楽・芸術・文学
まあだかい—内田百﨤集成〈10〉 ちくま文庫
内田百﨤
筑摩書房

 百鬼園先生、「昔の学生諸君」たちに還暦を祝ってもらったあとに毎年誕生日楽しい集まりがつづく。先生、ますます達者、未だか、未だかでずっと続く「摩阿陀会」とあいなった。昭和29年5月の五回目を抜粋しておこう。このときの一同の写真が「百鬼園写真帖」に載っている。「阿房列車」シリーズでヒマラヤ山系君こと平山三郎氏をお供に、あちこちへ<無目的の旅>で大いに意気が上がっていたときかもしれない。

さて、5回目の「きょうの瀬」の文章のなかに天長節の歌のことが出て来るから、ご本人の張りのあるお声も聴いてみよう。<youtube-内田百﨤「百鬼園長夜」(2) 百鬼園先生、歌う!NHK-1956年11月2日放送>。昭和31年だからこのとき67歳、ノラちゃんが家にいて先生もはつらつとした感じ、収録時のお顔も「写真帖」に載っていて、メディアというものはこれで完結!

翌年ノラちゃんがいなくなったころから数年間「摩阿陀会」の書き物は途切れる。復活後では喜寿のお祝いのときの写真もいいなあ。その昔立川で飛行練習していた法政航空部の学生におにぎりを作ってやっていた奥様も呼ばれてごいっしょだ。事実は小説より奇なり・・・百鬼園先生の人生は成る可くしてなったような自然なパフォーマンスの連続だったのかもしれない。そしておお、百鬼園先生のは元祖宴会ブログであったか。遠く及ばないがこっちもいくつか書いたっけな。先月のは出らんなかったし・・・メンゴ。

さても、先生稼業というのもいいもんだなあ・・・おっと、ムスメ、シンカンセンに乗ったって?教育実習申し込み?センセイにはならんだろうが・・・嵐が来てMAC占領される前にアップしとかないと・・・

>>>>>>>> 以下、「まあだかい—内田百﨤集成〈10〉 ちくま文庫」より 

『きょうの瀬』 

きのうの淵はきょうの瀬となる世の中に、摩阿陀会が年年同じ事を繰り返して、五回目になったのは難有い。還暦の賀宴を加えれば六年目である。余り長くなるから首をくくって埒をあけようかと思った門の柳は去年の秋、庭に池を掘った時に水門の傍に移し植えたら、細い幹の上の方が半分枯れたので、背丈が低くなってしまって、当分その役には立たないだろう。私がまだ生まれない前、親戚に気丈なおじさんがいて、山屋敷と云う淋しい家に住んでいる所へ、強盗が押し入った。おじさんは抜き身の前に大あぐらをかき、腕を組んで、殺さば殺せと云ったら、強盗が片耳を切り落として行ったと云う。殺さば殺せ、続かば続け、しかし来年の今日がめぐり来るか否か、それは去年だって一昨年だって解らなかった。

例年の通り迎えの車で新橋駅楼上の会場へ行った。毎年の事なのでボイも帳場も顔馴染みである。こちらの肝煎りもすでに手慣れていて、何も気を遣う事はない。そもそも今夜は来会の諸君一人一人が主人なのだから、私がお客様なのだから、私が気を遣うと云う筋が有る可き筈はない。しかし、うるさい性分なので、又諸君の中の大部分は昔私の学生であったから、つい何か口が出したくなる。わざわざ私の前に顔を近づけて、今晩はようこそお出で下さいましたと挨拶するのがいるかと思うと、すっかり間違えて、どうも遅くなりました、今晩は難有う御座いますと云うのもいる。先生はいつ迄もお元気で、とか、お変わりがなく結構ですとか云うのは、いつ迄も変らぬわけがない、もうすでに元気でいる筈がないと云う判断が先に立っている。云われて見れば御尤も、摩阿陀会も五へん目だと云う事に思いをいたし、彼等の言葉尻をつかまえる事はよした。

出足の遅いのを待ち合わせて定刻を過ぎ、肝煎り多田の号令で目出度く著席した。例年の通り私の左右お医者様とお寺様である。お医者様は今日はお嬢さんのご婚礼で、昼間にその挙式を済ましてからこっちへ廻られた。ところがお寺様がまだ来ていない。或は檀家に新仏が出来て、そちらのお経で手間取っているかも知れない。
今日は肝煎りの多田君の身内にもお目出度があった。矢張りそちらを済ましてから来ると云っていたそうで、しかしモウニング・コートを著ているから、その儘の服装で摩阿陀会へ廻るのは変だから、一たん帰って出直すと云ったと云う。ちっとも御遠慮はいらないと思ったが、著換えるなら著換えてもいい。彼のモウニング・コートは、先年順ノ宮様の御披露宴によばれて行く時、借りて著たから私も知っている。もう大分古くて、ろくなモウニング・コートではない。その上彼の身体に合わせて仕立ててあるから、私が著ると脚の長さや胴の太さが違うので、息苦しくて、靴を穿く時、前にかがむ事も出来なかった。しかし又借りる機会があるかも知れないから、余り悪く云うのは差し控える。

写真を写した後、多田の音頭取りで、みんなが起立して私の為に乾杯してくれた。それを受けて私の前だけ置いてある大ジョッキを捧げ、みんなの見ている前で一呼吸に飲み乾した。だから、お変わりもなくて、と云う事になるのだろう。しかしそれは惰性であって、お変わりがあるかないかとは話が違う。
飲み乾した後、起った続きで挨拶した。

「毎年こうして誕生日を祝って戴いて、お礼の申し上げ様がない。言葉には尽くせないから、それは後日を期する。その内に摩阿陀会も済むでしょう。つまり僕が出て来なくなれば、それでお仕舞で、まあだかいが、もういいよとなる時機がある。その上で僕は皆さんの所へ化けて出て、ゆっくりお礼を申し述べる。生きかわり死にかわり。だから只今この席では省略する。
今にお酒が廻れば、お互いにがやがや騒いだり、歌を歌っていつでも同じ混乱の勝利である。その趣向を今年は少し換えるつもりで、テープレコーダーを持って来た。今年のお正月に宮城道雄検校の所へよばれて酔っ払い、口から出まかせの歌を歌ったのが、そっくり検校の所にある機械で録音された。始めから仕舞まで蜿蜿40分以上かかる。レコードでクロイツェルソナタの全曲を聴く位の長さである。そのテープを今晩は借り出して来た。それを廻して諸君の清聴を煩わす。僕はそれで歌を歌っているのだから、テープが廻っている限り、僕に用事はない。そこでこの席でゆっくり、諸君が感心している顔を見ながらお酒を頂戴しようと云う、こう云う寸法なのです。

何しろ僕は摩阿陀会の五年生、中身が古いのは止むを得ない。明治の中期に生まれて、日清戦争はおさな心の記憶に残り、日露戦争は中学生で提燈行列に参加した。しかしその時の軍歌はまだいい方で、諸君にはもっと耳遠い唱歌もある。僕の幼稚園の頃の天長節の祝歌が出て来る。

 きょうは十一月三日の朝よ
 朝日にかがやく日の丸の
 国旗は門並みひいらひら
   国旗は門並みひいらひら
 きょうは十一月三日の朝よ
 おかでも海でも勇ましく
 打ち出す祝砲どんどんどん
   打ち出す祝砲どんどんどん

テープの歌い出しは、水をたくさん汲んで来て、水鉄砲で遊びましょう、だったと思う。そう云うのを僕は一一、越天楽で歌いなおす。越天楽と云うのは、僕が酔っ払うと歌うあの、春のやよいのあけぼのに、よもの山べを見渡せば、の節であって、この旋律は平安朝以来、千何百年も続いて我我の先祖から歌い忘れなかったのである。尤もその旋律に「春のやよいの」と云う様な今様の歌をつけて歌い出したのは、平家時代からだそうだが、何しろあの節は古い。その越天楽で歌い直すから時間が掛かって、クロイツェルソナタの全曲のような事になる。お正月の宮城検校の席には、今日ここに御列席の小林博士も同座せられて、彼の博士は、明治時代に学生だったお医者の通弊で、酔うと義太夫を唸る。去年の秋のわずらいに、と唸られた後を、僕は越天楽で同じ文句を繰り返す。

小説新潮の四月号に、宮城検校が「百鬼園の越天楽」と云う随筆を寄稿したのを、諸君に中に読んだ人もいるだろう。その中に薬売りの文句が出て来る。これも諸君には耳新しいかと思うから、テープを廻す前にあらかじめ解説しておく。
その薬屋は、僕は漫然と富山かと思っていたが、そうではなく本舗は大阪だったのかも知れない。オイチニ館と云うので、そこから全国に薬売りを出して行商させた。制服制帽に手風琴を持って、歌に合わして鳴らしながら、オイチニ、オイチニと足拍子を踏んで行く。歌に曰く、

  そのまた薬の効能はオイチニ
  たんせき、溜飲、腹くだし
       オイチニ、オイチニ
又曰く、

  産前産後や血の道にオイチニ
そこで僕には新作がある。今にテープが歌い出す。
  神経衰弱房事過度オイチニ、オイチニ
  天才気ちがい低能児オイチニ

どうかごゆっくり御鑑賞を願う。その間僕はこれにてお祝いの御酒を頂戴する。

こうして僕が起立している序に、もう一言つけ加える。いつもはもっと後で、更めて起って諸君にお願いしたが、今日はこの後すぐにテープを廻し出すと四十分以上かかる。その間に僕は多分酔ってしまって、云う事に筋道が立たないだろう。又諸君の方でもがやがや、ざわざわして人の云う事をよく聴き取らないに違いない。早きに及んで、今日はこの儘そのお願いを申し上げる。

今から23年前、昭和6年の今月今日の、午前11時に、当時の法政大学法学部2年生栗村盛孝は国産の軽飛行機「青年日本号」を操縦して、羅馬に向かう為、羽田飛行場を離陸した。
今日の羽田空港の盛況は、僕は行って見ないから知らないが、23年前の羽田はまだ出来たばかりで、広っぱに何の設備もなく、草むらの中にただ一本の滑走路が走っていただけである。今日5月29日の前日、その学生機を今までの練習飛行場だった立川から空輸して羽田へ持って来た。羽田の新飛行場に初めての著陸の車輪を印したのは栗村の「青年日本号」である。
その晩は法政大学航空研究会の学生が、「青年日本号」を護って草原に夜を明かした。格納する建物なぞまだ出来ていなかった。そうして今日、5月29日の午前11時に、「青年日本号」は羽田飛行場を最初に離陸する飛行機として、学生訪欧飛行の壮途についた。

一本の滑走路の向うの端にいる「青年日本号」に向かって、僕が航空官の指示を受け、手に持った相図の旗をあげて、出発を命令した。滑走して来て、丁度、台の上に起っている僕の前あたりで車輪が浮いた。飛行場外れの向うの低い土手の上をすれすれに飛んで、次第に高度を取った小さな飛行機の後ろ姿を見つめて、僕はフロック・コートの手旗を持った儘、涙を流した。23年前の昔噺です。その栗村がそこにいます。彼の羅馬飛行の為に乾杯してやって下さい。栗村君、起ちなさい。」

乾杯を終わって、私の挨拶も済んだ。なぜ「青年日本号」に離陸の日と私の誕生日とがぶつかったかと云うわけは、学生訪欧飛行の準備がすでにととのい、出発の日取りをきめるだけとなった時、萬時その指導を受けていた逓信省航空局の航空官が、西比利亜にある梅雨の動きから考えて、5月末から6月初めに亘る数日の内がいい、その間ならいつでも結構だから、学校の方の都合でその日をおきめなさい。ただ日がらももがらを選んで、縁起のいい日に立つ様にと云う事であった。
一番新らしいと思われる飛行機の関係なぞで、案外そうした縁起をかつぐ。5月の末から6月初めと云うなら、5月29日が私の誕生日である。会長の私の誕生日なら、縁起は申し分ない。それでその日にきめたから、羅馬飛行の記念日と今日の摩阿陀会とぶつかるのはちっとも偶然ではない。

テープレコーダーが廻り出した。自分の声が外から聞こえて来ると云うのがすでに変な話で、それを自分の耳で聞くのは余りいい気持ちではない。そう云う不祥な事は成る可く避けたいが、しかし現にそこに機械から聞こえて来る。幸いな事にテープの中の私の声は、酔っ払っている。それを聞いている今夜の私は、まだ酔っていない。耳と声とは別人である。今に耳の方も酔って来るから、そうなると酔った声と酔った耳とが同一人になる恐れがあるけれど、聞く方も酔ってしまえば、自分の声を外から聞くのは気味が悪いなぞと、そんな面倒な事は考えないだろう。

このテープを音盤に取りなおしたのを、宮城検校から貰っている。12吋盤4枚の裏表で8面ある。私の家で蓄音機に掛けてみたが、どうも面白くない。廻転の工合の所為か、何となく陰陰滅滅として、幽霊がうなされている様である。今晩の肝煎りの一人平山がその座にいて、一緒に聞いたが、まだ済まない途中からいやだいやだと云い出した。悲しくなると云った。まあ我慢して聞いていなさいと、仕舞まで聞かせるのに骨を折った。
彼は口には出して云わなかったが、私が死んだ後の遺声を聯想したに違いない。音盤では自分で聞いてもそんな気がしない事はない。私が死んだ後で人が聞く声をまだ生きている内に聞いていると云う縺れた気持ちになる。

原音のテープではそんな風な所はない。陽気で面白い。面白いと云うのは聞いていてこっちが、酔って来たからである。自分が半年も前に歌った歌を聞きながら酒を飲んで、その歌に浮かされるなぞ、最も簡単な、或は非常に手のこんだ酒興である。そのどっちだって構わない。みんなが聞いているのか、いないのかそれもよくわからない。
遅参のお寺様が私の隣に座っている。左右にお医者様と対に揃って難有い。「新仏が出来ましたか」と尋ねたことは覚えているが、猊下がなんと答えたかは丸で記憶にない。テープが「とうとき血もて甲板は、からくれないに飾られつ」と歌うと、遅れて来た肝煎り北村が、テープの声にからんで、「からくれないに水くぐる」と歌い返した。それだけが耳に残っている。後は何がどうなったか、よく知らない。
つまりいつもの通りの摩阿陀会になってしまって、いつの間にかテープも終わってしまったのだろうと思う、一番仕舞の君ヶ代を聞いた様な気がする。そうして新橋汽車駅の桜上の床が、護謨を踏む様にふわふわして来て、みんなが、と云う中に私もいるかも知れないが、起ったり座ったりし出した。
新橋汽車駅と云ったので、肝煎り北村が起草した今年の案内文を思い出した。
 
   摩阿陀会回文

くうもに聳ゆる番町の 大根おろしは辛くして 靡き伏したる摩阿陀界 あおぐ今日こそ百鬼園ひじり 禁客寺を出て給えば 鉄路茫茫 粟散辺地の扶桑に跡をとどめ 阿房の道を弘めては 迷える衆生をみちびきて 精識を抽んで給う このひじりを師とし そのしりえに従いて 願いを同じゅうするわれ等 もとよりたくみ浅くして 才みじかきを嘆くと雖も 誰かひじりの千秋をこいねがわざらんや されば乃ち五月二十九日 黄昏六時 新橋汽車駅の桜上に 金壱阡五百円也を霧消せしめ ひじりの酔訓を浴びてその道に習わんとす 肴薄くして酒の軽きを 笑わば笑え 餓鬼共

その北村が起ち上がり、列座の一同を見渡して、諸君、これだけが、今晩のこの我我が、お通夜の顔ぶれだね。その時は又集まろうぜと云ったと云う。後から聞いた話で、その場では私は丸で知らない。しかしそんなに大勢が、当夜の列座三十四人、その中に私も這入っているからお通夜の時は別になるとして、三十三人も集まってどこへ座るつもりなのだろう。そんな広い場所で私が死ぬ筈はない。
いつ、そう云う時に、何のきっかけで切り上げたかわからないが、兎に角目出度くお開きになった。例年の例に依れば、これから更めて別の席へ出掛けるところである。大体三分の一ぐらいが一緒について来る。そこで又やり直すからいつでも夜半を過ぎ、身体がくたくたになって、私なぞは二日酔いでは済まない。三日目もまだふらふらする。しかしそう云う目にあっても一年に二度、お正月の三日とこの摩阿陀会の晩の事は、後悔しない事にきめてはいるが、そうなった後を後悔しないよりは、そんな事にならない方がまだいい。のみならず大変お金が掛かって、飛んでもない脚が出る。その後始末にいつも苦慮する。大概拭い切れないで、結局連中の中のだれかが背負い込むと云う事にもなり、甚だ相済まぬから、今後はどこへも廻らない、つまり梯子をしないと云う事を、摩阿陀会の随分前から肝煎りの多田君と相談し、約束し、ちかっている。
だから今夜はどこへも廻らない。

「多田君帰るよ」「それがいいです」と云うわけで、だれと一緒に車に乗ったか知らないが、家に帰って来た。
ところがその後から、ぞろぞろと大勢が、私の狭い家に這入って来だした。私を送って来たのか、私について来たのか、あるいは闖入したのか、昔、無声時代の活動写真の亜米利加喜劇で、一台の自動車が停まると、せいぜい五六人しか乗れないと思われる車の中から、次から次へと人が降りて来て、何十人かが自動車の前で犇めていたのを見たことがある。今夜の闖入者達は、勿論何台かの自動車に乗り分けて私の車の後を追っ掛けたに違いないが、別に後から加わった異性を加えて、総勢十六人が私の狭い部屋で押しくら饅頭を始めた。

狭いと云うのは、私の家は三畳の部屋が三つつながっているだけで、三つのなかの一つは書斎だからだれも這入らせない。這入らせもしないが、這入ろうとしたって這入る場所はない。三畳の畳の上に一畳敷ぐらいの大きな机を据え、その傍に小机を置き、字引を積み又列べ、抽斗箱を置き、その他諸品が羅列しているから、立錐の余地もない。
だから三つの部屋の内、その一つは丸で使えない。後の二つにも一方は中くらいの机があり、もう一つの方は大きな卓袱台、将棋盤、蓄音機、その他雑品が各その必然の空間を占めている。それで三畳を二つ合わせた六畳の内、実際に座れる所は四畳に足りない。その畳の上に十六人が座り込んだから、一畳に四人づついた計算になる。畳一畳に四人座れない事はない。又現に彼等はその場所でいい心持に落ちつき込み、一時を過ぎても、二時を過ぎてもだれも起たなかった。
狭いながらニ間に跨がって、目白押しに居並んだ諸氏の顔を眺めながら考えた。これで見ると、サロンだのカフェーだのは、矢張り無駄に存在するものではない。今度はどこへも廻らないと考えたその理由は、その儘残っているけれど、しかしこうして大勢が私の所へ押し入り、犇めいている有り様を見れば、いつもの通りそう云う所へ廻っていたら、この惨状はそこで解消した筈だと思う。

後から加わった異性の三人と云うのは、例年のそこからやって来たので、中の一人はマダムである。美人を踏み潰しそうだと云ったそのサロンから、今夜は彼女等が我我を踏み潰しに来た。風呂敷に包んで三鞭酒を持って来た。風呂敷に、と云うのは三鞭酒を冷やす桶、あれはなんと云うのか知らないが、その中に三鞭酒をつけた儘持って来たのである。
私の所にシャムパン・カップはない。もとはあったのだが、それは初めに話した羅馬飛行当時の記念でもあったが、空襲の火事で無くなった。だから茶碗やコップや杯を持ち寄って、それにこれから抜く三鞭酒を注ぎ分ける事にした。

三鞭酒の抜き方に二種ある。音がする抜き方と、音のせざる抜き方とである。古来ぽんと音をさせて、だから景気がいい、縁起がいいとしたもので、その音を祝ってボイに5円のチップを与えると云う話を聞いた。昔の事だから5円は大変である。私の知るところでも、5円あれば一寸した待合へ上がり、料理を取り寄せ、芸妓のお酌で一盞傾ける事が出来た。
私が郵船にいた当時教わった事だが、近来は三鞭酒を抜く時、ぽんぽん音をさせるのは、下品で物欲しそうで、はしたない不作法だと考える様になったと云う。多分それは英吉利風のサアヴィスの話だったと思う。何しろ私なぞ滅多に飲む機会もなく、よく知らない事だから、教わればその通り、そんなものかと覚え込んだ。
日本は戦争にまけて、すっかり格が下がり、品が落ちたから、たまに三鞭酒を抜けば、景気のいい音を聞かないと物足りないと云うもとへ逆戻りしているだろう。

さて、これから私は英吉利風にこの三鞭酒を抜く。そのつもりで壜の口を押さえ、少し傾けて針金をほどいた。私が余程上手だったのか、非常に下手だったのか、丸で音もせず勢いもなく、醤油壜の口を開けた様に栓が取れた。
先ずそれを注ぎ分けた。コップや杯や茶碗の数が多いから、みんなに廻らない。
次にマダムが二本目の壜を開けた。今度は素晴らしく景気のいい音がして、ポンと云ったらみんながよろこんだ。敗戦国の逆戻りだから、その心事は尤もである。
彼等が飲んだのは三鞭酒ばかりではない。その前から麦酒はもとより、お酒は冷やの儘で茶碗酒かコップ酒、冷蔵庫に入れてあったラムネまで飲み尽くし、お勝手にある凡そ食べられる物はみんな食べてしまった。

翌くる日冷蔵庫の麦酒を出そうと思ったら、なかったのみならず、まだ冷蔵庫に入れてなかった麦酒も一本もなかった。お酒は飲みさしの壜は勿論、貰った儘しまってあったのもみんな無くなっていた。ナポレオンの軍隊がモスクヴァで敗れた帰りに、独逸を通ったときの話に似ている。
北村がみんなの間で麦酒のコップを挙げてよろこんでいる。おい、諸君、よかったね。これでお通夜の予行演習が出来た。まあこんな調子だろうね。
私が云った。違うよ。今晩はこうして僕が坐っているが、当夜はのびている筈だから、この限られた空間の関係が変わって来る。その為二三人は食み出すだろう。尤も僕を座棺に納めるなら、その制限は緩和する。
いつ迄もみんな落ちついている。勝手にするがいい。どうせもう電車なぞありはしない。しかし自動車なら、市ヶ谷見附へ出ても、夜通しいつでも間に合う。御ゆっくりなされたらよかろう。

二時半を過ぎてから、もう帰ろうかと云い出した。夜明けは未だだが、近頃流行の半通夜よりは長くいて、汐が引いた様に、一どきに帰って行った。銘銘方角が違うだろうし、随分遠方なのも居る筈である。どんなにして帰ったか、その後会わないから私は知らない。

くたんくたんになって寝て、翌くる日遅く目がさめた。身体の調子、頭の工合がよくないのは申す迄もない。後悔はしない事になっている摩阿陀会の翌日だから、それで構わない。
別に入り用があったわけではなく、だから探したのではないが、何かの事で書斎の抽斗を開けたら、昨夜出がけに持って行った洋服のポケットの諸品が、各きちんと元の位置に納まっている中に、ただ蟇口がある筈の所だけが空いている。つまり蟇口がない。おかしいなと思った。
私は滅多に外へ出ないけれど、それでも偶には出掛ける事もある。出掛ける時は、著物はないからいつでも洋服を著て行く。洋服のポケットに外出用の諸品を入れる。それを支度に掛かる前にあらかじめ揃えておいて、数を点検した上で順順にポケットへ入れる。普通は総数12である。その内の3点は時に省略する事があり、この頃は大体いつも持って行かない。その一つは時計である。腕時計は持っていない。鎖のついた懐中時計である。古いロンヂンであって、家では正確であるがポケットに入れて持ち出すと、いつも平らに置いてある時計の姿勢が変わる所為か、或は体温で機械が膨張するとか、油が溶解するとかの関係か知らないが、必ず狂って来る。だからそっとして置くに限るロンヂンと云う事になるので持ち歩かない。又外に出れば大概人に会うし、一人では出歩かない様にしているから道連れもあるし、私が時計を持っていなくてもだれかが持っているから、時間が知りたかったら、それで間に合う。第一、時間が知りたいと云う様な事は余りない上に、知って見たところで何の役にも立つものでもない事を承知している。
それで時計を省略する。

三つの中で第二は手帳である。外へ出て何かの心覚えをする。人との約束をメモに取る。そんな事を考えるが、考えて見るだけで実地にそう云う場合があった試しはない。手帳を持つのも惰性であるから、先ず省略する事にする。
第三は版行である。昔昔の学校の先生だった時分からの惰性は一先ず消えたが、後に又郵船会社へ通う様になってから、矢張り版行をポケットに入れて出掛ける癖が戻った。戦争にまけてから郵船をやめたが、あの時分は一寸外へ出ても認印のいる事があったのでその習慣が残り、一たんそうなると、しなれた事は中中やめられない性分なので、ずっとその後も、外へ出る時は必ず版行を持っていると云う意味のない習慣を続けた、しかし使った事はない。いつかなぞ飲み屋で酔っ払って、何か出鱈目の酔筆をふるった後、落款だと云うのでその水晶の四角い版行を取り出した迄はわかっていたけれど、後で紛失した事に気がついた。いくらか因縁もある印形なので随分気を遣ったが、その時一緒にいたのが、私が随分酔っているからと云うので預かっておいてくれたのはいいが、その彼も酔っていたから預かった事を忘れてしまってい、無駄に私を心配させたと云う事件もある。諸品があるから亡失する。諸品の数が少なければ忘れる場合も少ない。そこで版行を持ち歩く事を省略する。

以上三点を省略した後の九つは、どれもよすわけに行かない。それ等を机の端又は卓袱台の上に列べておいて、洋服を著終わると、一つずつ順にポケットに入れる。ゲルハルト・ハウプトマンの「線路番ティール」と云う短篇に、ティールが出勤する前、そこに列べた諸品を次ぎ次ぎにポケットへ納めて行く叙述がある。時計の鎖につけた馬の歯を持って行く。馬の歯は私の諸品の中にはないが、大体する事がおなじなので、聯想するといやな気がする。しかし私の癖をやめるわけには行かないし、そんな気兼ねをする筋もない。洋の東西、時の古今を問わず、偶然の一致と云う事はある。況んや線路番ティールは作中の人物であり、私は現に実在している。

そうして出掛けて、帰って来る。帰った時は大概酔っている。或はひどく酔っ払っている。それでも帰ると同時に、酔った手先で、ふらふらする足許を踏み締めて、出掛ける時にポケットへ入れた諸品を、又一つずつ取り出して、もとの抽斗の、もとの位置に入れる事を忘れない。忘れた事は一度もない。翌くる日起きて、その通りしたかどうか覚えていなくて、半信半疑で抽斗をあけて見ると、必ずちゃんと元の通りに這入っている。私は知らなくても、習慣がそれを実行している。
その抽斗の中に蟇口がない。蟇口は九点の中の一つである。古い白蜥蜴で、年数を食っているからもう白くはなく、きたならしい色をしているが、余り小さくはないから、蟇口のある場所に蟇口がないのは、そこに穴があいていて目立つ。おかしいなと思う。昨夜九点が一つ足りないと云う事になぜ気がつかなかったかと考えて見たが、ここへ諸品を入れたと云う事を丸で覚えていないのに這入っている迄の事で、時分で物事を考える力は失せていたのだから、それは止むを得ない。

抽斗以外の場所を探して見たが見当たらない。沽券にかかわるとは思ったが、仕方がないから家人に尋ねた。知らないと云う。しかしそう云えば北村さんが、この蟇口はだれのだ、だれのだと云って、手に取り、中を開けて見たりしていたから、あった事は確かだと云った。
しかしどこにもない。白蜥蜴の蟇口の中身は、北村が開けて検べる迄もなく、私がちゃんと知っている。中の仕切りのこっち側に三枚、こっちの方に一枚、〆て四枚四千円這入っている。一体、蟇口や紙入れの中身を、宙で正確に知っていると云うのはいい事ではない。お金に困っている証拠である。私は去年の秋頃から萬時都合が良くない。右の四千円も蟇口の中に安眠しているわけではなく、費途がすでにきまっている。摩阿陀会は29日だから、すぐに月末が来る。無駄に中身の金高を覚えてはいない。
その四千円が無くなった。どうしたらいいか解らない。北村がいたずらをして持って行ったかも知れない。

盗難と云う事を考えて見るに、事件には泥坊と被害者とがいる。被害者は金品が無くなったと云う事でその害を被るのであって、なくなったお金なり品物なりが、泥坊の手でどうなったかと云う事に関係はない。泥坊が取って行ったお金で、酒を飲もうと女を買おうと博打に費消しようと、こっちの知った事ではない。盗んだお金を慈善事業に寄附しても、盗んで帰る途中、途に落として遺失しても、或は盗んだお金を別の泥坊に盗まれて、元の木阿弥になっても、つまり盗んで行った泥坊は何の得る所がなかったとしても、盗まれた側の、被害者の損害に変る所はない。私の白蜥蜴の蟇口がなくなって、中身の四千円が、その費途に充てられなくなったと云う事実の前には、本物の泥坊が盗んだのも、北村がいたずらをして持って行ったのも、ちっとも変わりはない。いたずらだったら後で返って来るとしても、お金というものはその時時のいのちの物だから、いつだって有る事はいいが、いつだって有りさえすればいいと云うものではない。

昨夜の酔いがまだ残っているぼんやりした頭で考え込んで、止んぬるかなと思った。
昨夜の肝煎りの平山が、夕方近く一寸した用事で玄関先迄来た。昨夜はどうしたと尋ねると、同じ方向へ三人同車して帰ったが、一人は彼が降りた後を乗り継ぎ、一人は彼の家へついて来て泊まったと云った。そうしてお午過ぎまで寝込んでいたそうだが、今日はいい工合に日曜日である。
時に僕は実に困っていると私が云った。蟇口のことを話すと、彼もまだ酔いが残っているらしい朦朧とした顔つきで聞いていたが、不意に思い出した様に蟇口は北村さんが額の裏に隠して行きましたと云った。
額と云うのは昔の秩父丸の絵皿である。すぐに起って行って見たら、長押の上の絵皿の陰に、蟇口の口金がきらきら光っていた。

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内田百(けん)集成24 百鬼園写真帖 (ちくま文庫)

内田 百﨤

筑摩書房

 

 

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クルちゃん ー 百鬼園先生

2012-03-04 21:28:10 | ねこちゃん
ノラや (中公文庫)
内田百﨤
中央公論新社

 ノラちゃんは帰って来ない、どこでどうしてるものやら、百鬼園先生は彼を思うたび泣いてばかりいる。「ノラや」の後半はそれがえんえんとつづく。いなくなったのが麹町だから半蔵門から皇居に入り込み正五位を与えられ女官たちに可愛がられた、という可能性もなくはない!?

ノラちゃん失踪の数ヶ月後、子猫が迷い込む。これがクルちゃん。尻尾があれだからジャパニーズ・ボブテイルか。布団にまで潜り込むこの猫も短い一生だがほんとうに可愛がられた。剛胆なようで実に繊細な百鬼園先生、毎晩猫を相手に晩酌しては、なにやらお話しをしているようだ。・・・

うちのたすけは、またガンの手術が要る様だなあ、人でいえばアラカンぐらいの歳。たすけ大丈夫だ。人の話を聞いてぜーんぶわかっているのだ、また病院かあと言ったら、水色のキャリーケージに鼻をつけて、そのあとぷいっと横を向いた・・・(もう切れず、とか・・・あと3ヶ月・・・あら、またきたの。ずっとひざの上にいなさい。2012.3.17)
   

>>>>>>> 以下、「ノラや 内田百﨤 中公文庫 昭和57年3月 1195-690179-4622」収録の『猫の耳の秋風』より、引用 

「クルや。クルや。猫や。お前か。猫か。猫だね。猫だらう。間違ひないね。猫ではないか。違ふか。狸か。むじなか。まみか。あなぐまか。そんな顔して、何を考へてる。これこれ、お膳の上を見るんぢやないよ。見たつてそれはジュンサイだ。酢がかかつてゐるよ。こつちは七味とんがらし。猫の食べる物ではない。猫には向かない。向いたつてここではやらないからおんなしだが、そもそもお前はたしなみが足りない様だ。その低い貧弱な鼻を動かして、そら、鼻が少しづつ動いてゐるぢやないか。よくそんなぺちやんこな鼻が動かせるものだね。小さな穴を片方づつ、ひろげたりつぼめたりするのか。成る程さうすれば穴のまはりが伸縮して、鼻が動いてゐる様な効果を現はす。それによつてお前はお膳の上の物に興味があると云ふ事を示す。それがいかんのだ。お前はお行儀が悪い。ノラはそんな事をしなかつた。第一、お膳のそばへは来なかつた。お前はノラが帰つて来なくなつてから、うちの中へ上がり込んで、お前の思つた通り勝手に振る舞つてゐる。お前はお前でそれは構はないけれど、ノラが今に帰つて来たら、仲よくするんだよ。喧嘩なぞしたら承知しないから。それまではさうやつて威張つてゐなさい。しかしそんなところでお膳の端からいつ迄もジュンサイのお皿を眺めてゐないで、お銚子のお代わりぐらゐには起つたらどうだ。もうこつちは空いてゐるんだ。猫の手も借りたいと云ふのは今だぜ。クルや」
ニヤア
「猫の様な声をするな」
ニヤア
「さては矢つ張り猫だな」
ニヤア
「猫にしても男のくせにニヤアスウ云ふのではない」
ニヤア

「何だ。何を云つてゐるのだ。お前の云ふ事は言語不明晰でよく解らん」
秋になつてから、家内が病気して入院した。後に残りし猫と私は、よそのをばさんや奥さんやお母ちやんが入り代りやつて来て家の事をしてくれるお陰で日日の明け暮れを過ごしてゐるが、病院の事は心配だし、身辺は淋しい。入院当日の夜は猫が私の寝床に這入つて来て、一晩ぢゆうかじりついて離れなかつた。幸ひに経過が良く、退院の日を待つばかりになつてからは、猫を相手に一盞を傾けるお酒の味もよくなつた。


「こらクルツ、お前は夕方もつと早く帰つて来なければいかん。心配するぢやないか。高歩きをしてゐる内に雨が降り出して道がわからなくなり、ノラの様に家へ戻れなくなつたらどうするのだ。一体お前は毎日出歩いてどこをほつついてゐるのだ。身体に虱菜の実を食つつけて来るところを見ると、番町学校の前の空き地の草原を馳け廻ついてゐるのか、あすこにはよく死んだ猫が捨ててあるから、あんな所をうろつくのはよしなさい。こつちの禁客寺のお庭の方から屏の下をくぐつて向うへ行くと、靴屋には権兵衛猫がゐるよ。権兵衛はノラとは大の仲好しだつたが、お前とは仲が悪い様だね。顔を合はせたらその儘には済まされない喧嘩相手なのだらう。お前がひどい怪我をして帰つて来る時はいつも権兵衛と取つ組み合つて、ふんづもぐれつやつて来るのだらう。いつぞやお前の口のまはりに何だか黒い物がついてゐると思つたら猫の毛のかたまりだつた。権兵衛は藤猫だから、その毛を食い千切つて、むしり取つてきたのだ。どつちが強いのか知らないが、喧嘩をするなら負けるな。しかし喧嘩には勝つてもお前が怪我をして帰るのは困る。成る可くそつちの方へ行かない方がいいよ。わかつたかい。わからないのか。わかつたのでも、わからないのでもないか。そんな所らしいな。仕様がないな。こん畜生」

入院中の手伝ひに来てくれるをばさんの家にも猫がゐるさうで、その話しに、猫に畜生と云ふと、何とも云へないいやな顔をしますよと云つた。クルツがいやな顔をした様ではないが、こつちの話しは聞いてゐるらしい。片方の耳の喇叭を少しづつ働かして、人の顔を見てゐる。内側に毛の生えた喇叭の耳は、今では一匹前に大きくなつて、ぴんと撥ねてゐるが、ノラが出て行つた後へ間もなく這入り込んで来た当初のクルツの耳は、小さくて貧弱で、親指の一節ぐらゐしかなかつた。篦で額の上を二タ所ぴつぴつと撥ねた跡が耳になつてゐると云ふ感じであつた。つまり彼はまだ一匹前に育つてゐなかつたので、大体ノラよりは七八ヶ月後から生まれたのだらうと思はれる。

ノラは隣家の縁の下で生まれたのだらう。少し大きくなつてから、隣との境の屏の上で親猫と日向ぼつこをしたり、じやれついたりしてゐるのをよく見掛けたが、その内に私の家で可愛がり出したのを見届けて、親猫はそれではこの子の事はよろしくお願ひ申しますと挨拶した様に私共に思はせて、どこかへ行つてしまつた。そのノラが去年の3月27日に出て行つたきり、こんなに長く帰つて来なければ、挨拶を受けた親猫にも申し訳がない様な気がする。
クルツは、クルツと云ふ名は、ノラの尻尾は封筒ぐらゐの長さがあつたのだが、クルツのは、短かく、おまけに小さなお椀の蓋の様に円くて平つたい。短かいから独逸語でクルツと名づけた。呼びいい様にクルとも云ふ。尻尾は長短著しく違ふけれど、前から見た毛並みや顔の感じはノラそつくりである。ノラの事を気に掛けてくれてゐるよその人は、クルツがゐるのを見て、おやノラちやんが帰りましたかと云ふ。私自身がノラの失踪の当初、屏を伝つてこつちへ来るクルツを見て、何度ノラが帰つて来たと思つたかわからない。




ノラの素性は大体わかつてゐるが、その後へ這入つて来たクルツは丸でわからない。私の家にかうして落ちつく迄、どこで育つたのか、どう云ふ家の飼ひ猫だつたのか、見当もつかない。野良猫で育つたのではない事は手許に飼つて見てすぐわかる。どこかの飼ひ猫が何かのはずみで自分の家に帰る道を失ひ、私の所に落ちついてしまつたのだらう。さうするとノラもどこかで同じ様な境遇になつてゐるに違ひないと、つい又そつちの方を思ひ出す。

クルツはくたびれたと見えて、お膳のわきで大変大袈裟な伸びをした。それから欠伸をした。
「これこれ、クルや。お前、それは即ち失礼と云ふものだぜ。こちらはまだお膳の上が峠を越さないのだ。そら、木戸の音がした。そうら、そら、お待ち遠様と云つた。全くお待ち遠様で、大概四五十分、どうかすれば一時間待たされる。お前なぞ待つてゐられるかい。をばさんがここへ運んで来るのを、お前も行つて手伝ひなさい。泰然として動こうとしないね。その癖、鼻をひくひくさせ出したぢやないか。いいにほひがするかい。蒲焼だよ、鰻だよ。うまいんだぜ。後で、あつちで、お前の皿で少し戴くか。お行儀をよくすればやつてもいいが、猫に蒲焼と云ふ語呂はあまり聞き慣れない様だな。クルや、蒲焼は高いのだよ。高いからうまいのだ。おさつやいわしも高ければもつとうまいだらう。安いからおろそかにされるのだ。もつと高くなつて、高くて食べられない程高くなれば、食べたらきつとうまいだらうと想像する事が出来る。わかつたかい。わからないかい。どつちにしてもおんなじ事だね。一体お前はさうやつて、伸びをした後もまたぢつと座つてゐて、矢つ張りお膳のおつき合ひをしてゐるのか。ここを離れるのが淋しいのか」


手を出して撫でてやらうとすると、頭を少し下げてその手に擦りつける様にする。手の平に当たつた片方の耳の端が割れてゐて、割れた儘になほつて毛が生えてゐる。いつぞやの藤猫権兵衛との出会ひの時、権兵衛に裂かれた疵痕である。その時の喧嘩ではクルツの方が分がよかつた様で、戦場がうちの庭だつた所為もあつたのだらう、門の内側のあたりで大変な声がしてゐると思つたら、お勝手口の前を権兵衛が矢の様に走り抜けた。すぐその後からクルツが追つ掛け、追ひついて石炭箱の上で又取つ組み合ひを始めたらしい。その声と物音でいつもの通り家内がお勝手から馳け降り、物干の三叉の棒でクルツの味方をした。
背中のあたりを叩かれた権兵衛が逃げて行つた後、クルツは家内に抱かれて、ふうふう云ひながら廊下の自分の座布団の上に帰つて来た。全身方方に傷をして血だらけである。家内がリヴノール液で疵口を洗つて消毒し、その後へクロロマイセチン軟膏を塗つた。クルツはおとなしく手当を受けて、済んだらそこへ寝たが、今迄にも怪我をして帰つた事は何度もあるけれど、今日はその程度が大分ひどいらしく、見てゐてもこちらが息苦しくなる程猫の呼吸が早い。ほつておいていいか知らと心配になつて来た。特に額の真向の骨に達する傷が気に掛かる。

初夏の夕方の暗くなりかけた時間であつたが、獣医に診て貰ふ必要があると判断した。心当たりを問ひ合わせ、さう遠くない所にある犬猫診療所へ電話をかけて往診を頼んだ。処置を受ける都合からも、費用の点からも連れて行つた方がいいにきまつてゐるが、全身傷だらけの猫を家の外に連れ出すのは、そんな事に馴れないから今の場合どうしたらいいかわからない。

ところが、ふだん猫のお医者を煩はすなどと云ふ事は考へた事もないので、丸で事情がわからなかつたが、矢つ張り忙しい時は忙しいらしく、当のお医者さんはこれからすぐに出掛けて三鷹へ往診し、そこから鎌倉へ廻らなければならない。お宅へ伺ふのは早くて11時、もつと遅くなるかも知れないと云ふことであつた。夜11時を過ぎてからの猫医の往診は困る。なぜ困るかと云ふに、その時間になれば肝心の私がお酒が廻つてゐて、こちらから頼んで来て貰つた人に会ふ資格なぞなくなつてゐる。又クルツの為に毎晩のその順序を変へたり省略したりしなければならぬ程、事態が切迫してゐるとも思へない。それでは今晩は一晩様子を見て、明日の工合で再めてお願ひしませうと云ふのでその晩来診を乞ふ事は止めた。

幸ひにクルツは一晩で大分らくになつたらしく、翌日はもうその必要もないくらゐ元気になつたから、猫のお医者がうちへ来ると云ふ事件は沙汰止みとなつた。
私の懇意な家が大森にあつて、私の主治医がまたそこの主治医でもある。その家には猫がゐる。或る日主治医の博士が往診されると、その後から猫の主治医が来て、人間のお医者と猫のお医者が鉢合はせをした。
人間担当の主治医の博士は大きな診察鞄を提げ、京浜線の混み合ふ電車の吊り皮にぶら下がつてやつて来る。猫担当の主治医は田園調布の辺りの遠い所から、自動車で、看護婦を連れて乗り込んで来る。世は逆さまと成りにけりの感がない事もない。しかしそんな事を気にしても、それは猫の知つた事ではない。


猫は何も知らないかと思ふ。しかしどうもさうではないらしい節もある。知らないのでなく、知つた事ではないと云ふ起ち場で澄ましてゐるのではないか。知る事は知り、しかもその記憶がある程度持続する例を実際に見た。ついこなひだ、手伝ひに来てゐるよそのをばさんと、そこへ来合はせた若い者が、あぢの干物を焼いて二人で小昼飯を食べてゐた。ちやぶ台の下でクルツが知らん顔をして香箱を造つてゐる。そこへ遅く目をさました私が出て行つて、自分で廊下の雨戸を開けたが、いつも勝手を知らぬお手伝いが雨戸の戸袋の始末にへまばかりやつてゐるのを、御飯中だが一寸起つてここへ来て、ここの所の壷の工合を見ておきなさいと云つた。お膳の前を離れて廊下へ出て来た二人に、ここをかうすれば簡単に開くのだと教へて、それですぐに済んだが、その間にちやぶ台の脚の所にゐた猫が這ひ出し、だれもゐなくなつたお膳の上のあぢに手を出さうとした所を二人に見つかつて、こらと叱られた。クルツは悉く恐縮してすぐに手を引いたさうだが、をばさんがおなかが空いてゐるのだらうと同情して、別の猫の場所に猫の御飯をこしらへて与へた。猫の御飯もあぢである。猫の小あぢは薄味に煮てある。クルツは自分だけ別にそれを食べ終り、うまかつたと見えて口のへりを舐め舐め今度は私のゐる方の部屋に来て、暖炉の前に座り込んだ。

さつきのちやぶ台のあぢの干物からは大分時間が経つてゐる。その間に自分の御飯も食べさして貰つたから、猫のおなかの工合は干物の焼いたのに手を出さうとした時よりは違つてゐる。又その干物事件も手を出さうとした所を叱られた、未遂に終つたのだから私の方ではもう忘れてゐた。
暖炉の所でクルツはらくに身体を伸ばさうとしてゐる。一眠りするつもりらしい。
「御飯を食べて来たのか、クルや」と云ひながら手を伸ばして背中を撫でてやらうとすると、私の手がまだ彼に触れない前に、ただ私の手がそつちへ動いたのを見ただけでクルツはどきんとしたらしく、全身を縮めてぴくんと跳び上がりさうな格好をした。
余程こはかつた様で、そのぎよつとした様子はさつきの干物の一件が彼の記憶にまだありありと残つてゐるのを示す様であつた。それを見て、クルは利口だと思つた。

ノラは利口な猫であつたが、クルも劣らず利口である。
「クルや、お前は利口だね。猫と雖も利口な方がいいよ。人間には利口でないのがゐるんだよ。知つてるかい。知らないかい。どつちでもいいね。利口だと思つてゐて、利口でないのもゐるしね。これ、なぜ人の顔を見る。そんな目をして、人をしけじけと見るものではない。何を考へてゐるのだ。お前の表情は昼でも晩でも、いつ見ても曖昧だ。もつと、はつきりしろ」
ニャア
「ニャアと云つたな。小さな声で。何だ。何だと云ふのだ。わからんぢやないか。これクルや、こつちはもう空いたんだよ。をばさんにもう一本つけて貰つて来な。心配するな。そろそろもうお仕舞だ。しかしその後が、それからあとが長いのだよ。その間が楽しみなのだ。わからんかい。おや、雨が降つて来た。雨の音がするだらう。耳を動かしたな。聞こえるだらう。トタン屋根の音だよ。クルや、雨が降ると淋しいね。病院にも雨が降つて行くだらう。クルや、お前は病院と云ふものを知らないね。長い廊下があつて、白い著物を著た人が歩いてゐるのだよ。行つて見るか。連れてつてやらうか。しかし途中が駄目だな」

少し頭を下げて、眠たさうな様子である。
「クルや、お前は今夜は随分おとなしいね。話しを聞いてゐるのか、おつき合ひをしてゐるのか。淋しいのか。考へて見ればお前には身寄りと云ふものがないね。お父つちやんおつかさんはどうしたのだ。ゐるかゐないかわからんのだらう。兄弟もゐたのだらう。みんなと別れ別れになつて、うちへ這入つて来て、人間の中に混じつて、人間ばかりをたよりにしてゐる。さう思ふと可哀想だね。猫は寂しがり屋だと云ふが、それは尤もなわけだ。お前は外から帰つて来ると、いつだつて大袈裟な声をして。ニャアニヤア家の者を呼び立てるぢやないか。門からお勝手口へ廻つた時も、庭から廊下の外へ帰つて来た時も、ニャアニヤア云ふから出て見ると、口を尖んがらかして、あれはわめき立ててゐるのだね、ただ今、帰りました、帰つて来たぢやないか、開けてよ早く、と云つてゐるのだらう。手伝ひのよその人が迎へに出ると、軒下の小石の上などに腹ん這ひになつて、小石にしがみついて、抱かさらない様に意地を張るだらう。我儘が過ぎるし、よその人の親切に対しても失礼でもある。かう云ふ非常な時は少しは遠慮するものだよ。どうだ、わかつたか。あれ、あんなに雨の音がし出した。あしたも雨が降つてゐたら、外へは出られないのだよ。いいかい、クルや、わかつたかい」

さう云つて平手でぽんぽんと頭を敲いたら、その拍子に乗つた様な動作でごろりと横にころがり、二本の前足を宙に浮かした中途半端な格好で、鯒の頭の裏の様な白い顎を前に突き出した。いつもする事で、そこを掻けを云つてゐるのがわかつてゐるから、彼が気に入る様に掻いてやつた。しかし必ずしも痒いから掻いてくれと云ふのではないだらう。人に甘えたい時の姿態、猫の気持ちを表はす一つの表情だらうと思ふ。
その儘クルツはちやぶ台の横の空いた座布団の上に寝ころがつて、すつかりくつろいだ顔をしてゐる。
「クルや、お前は猫だから、顔や耳はそれでいいが、足だか手だか知らないけれど、その裏のやはらかさうな豆をこつちに向けると、あんまり猫猫して猫たる事が鼻につく。そつちへ引つ込めて隠しておけ」

二三日前の夜明けの、人間の足首の事を思ひ出した。入院中の留守の家事を手伝つてくれる女連の外に、私自身の身辺を構つてくれる若い者が幾晩か家に泊まつた。私の隣の部屋に寝てゐたが、寝る時は暖かすぎる程暖かくて、夜中から冷え込んだ晩の夜明け近く、私は目をさまして手洗ひに立たうとした。廊下へ出るには彼が寝てゐる隣室の布団の足もとを通る。私が自分の寝床に起きなほつて、そつちの方へ目をやると、彼は夜中に寒くなつて、寝ながら掛布団を無闇に上へ引つ張つたと見えて、足の方は掛布団が切れて敷布団が出てゐる。驚いた事に、その白いシーツの上に足首が一つころがつてゐる。
びつくりして、こはくなつて、そつちへ行く気はしないが、なほよく目を据えて見なほした。間違ひなく足首で、シーツの上に無気味にころがつてゐる。ぢつと見つめたが、まだよく目がさめてはゐない。有り明けにともしてある電気の光も薄暗い。何かを見違へてゐるのだらう。暫らく眺めて、沓下だらうと思つた。沓下を穿いたなり寝て、後でもしやもしやするから脱いで足許へつくねたのだらう。さうだつたのかと思ひ直してもう一度よく見たら、矢つ張り沓下ではない。間違ひなく人間の足首である。
全く気味が悪い。ファウスト伝説に、寝て鼾をかいてゐるファウストを起こさうとして手を引つ張つたら、手が根もとから抜けてしまつた。足を引つ張つたら足が取れたと云ふ話がある。ここに寝てゐる彼が、まさかそんな魔法を使ふ筈もない。クルツがどこかの縁の下から、くはへて帰つたと云ふ事もないだらう。

クルツは夜は外へ出ない。あつちの座敷で寝てゐる。しかしそこにころがつてゐるのは足首に違ひない。どうにも合点が行かない。見たくないけれど、そこばかり見てゐる。

起ち上がって、電気を明るくした。それで私の寝ぼけた目もはつきりした。矢つ張り本物の足であつた。ただ、離れてころがつてゐるのではなく、彼につながつてゐた。彼は沓下を脱いで、ずぼん下は穿いたなりで寝てゐる。その足が引つ張り上げた掛布団の裾から出てゐた。ずぼん下が洗濯屋から帰つたばかりなのか、新らしいのか、真白である。シーツは下ろしたての新品である。白いシーツの上に白いずぼん下が乗つてゐて、こちらの目がよくさめない所へ電気がぼんやりしてゐるから、シーツでずぼん下は帳消しになり、沓下を脱いだ裸の足首だけが目に入つて、無気味な勘違ひをした。
足首の一件はクルの知つた事ではない。縁の下からくはへて来たかと押し詰めて考へたわけでもない。悪く思ふな。ただその足の裏の豆が気になつて、足首を思ひ出したばかりだ。

「おやおや、寝た儘で、脚の先だけで伸びをしたな。器用な真似が出来るものだね。指の間を随分ひろげたぢやないか。もうそろそろおつき合ひに飽きて来たと云ふのだらう。ところがこつちは、さつきから急にいい心持ちだぜ。猫が退屈して、こちらは廻つて来て、食ひ違ひだね、クルや。もう一ぺん起きてお出で。起きて来て、お前も何か食べさして貰へ。をばさんの所へ行つて、ニャと云ひなさい。くれるよ。お前の好きな物は、常食の小あぢの外に、出前の洋食屋が持つて来るコロツケのわきづけのヴインナソーセーヂ、あの揚げた味がお前は好きなのだね。猫は練り物が好きだと云ふ。お前もその例に洩れない様だ。しかしソーセーヂは今晩はないよ。取らないんだもの、ないよ。それから銀紙に包んだ三角なチーズ、あれも好きだね。矢張り練り物だからな。洗濯シャボンを齧る様で面白くもないが、猫の好む所へ容喙する事はない。あれはあつた筈だ。あつちへ行つて貰ひなさい。おやおや、起きて来たね。矢張り人の云ふ事がわかるのかい。しかし、起きた途端に、それ、またその小さな鼻をひくひくさせる。お膳の上をそんなに見てはいかん。あつ、さうか、忘れてたよ。忘れて食べてしまつた。お前に蒲焼を少し残してやる筈だつた。あぶらでずるずるしてゐるから、つい咽喉へ辷り込んだのだ。御免よ、クルや、チーズで我慢しな」

ノラも大体クルツと同じ様な物が好きだつたが、特にいつも取り寄せる握り鮨の中の玉子焼には目がなかつた。家で焼く玉子焼と違ふところは、魚河岸から買つて来る魚のエキスの汁で玉子がといてあるのださうで、猫の口にも別の味がしたのだらう。ノラが帰つて来なくなつてから、ノラがその玉子焼をあんなに喜んでゐたのを思ひ出すのがいやで、鮨屋に何のかかはりもないのに、それ以来鮨を取り寄せるのを止めた。勿論外の店から取る様な事はしなかつた。今度家内が退院して帰つたら、それを機会に、またノラがゐた時の鮨を取らうかと思ふ。但し、玉子焼は抜かせる。そんな事を指図すれば向うでは取り合はせに都合が悪いかも知れないが、先ずさう云ふ事でもともと贔屓の鮨を再び家へ入れる事にしよう。取らなかつた期間は一年八ヶ月である。その間にその店のご主人は他界し、ノラのゐる時、家へ届けて来たノラの馴染みの兄さんが今はお店で握つてゐるのだと云ふ。

クルツもその玉子焼を貰げばよろこぶに違ひない。しかしノラがゐないのに、それをクルツにやる気にはなれない。ノラが帰つて来たら、さうしたら一緒に与へてどちらもよろこばせよう。それ迄玉子焼はお預けにする。
家内の入院と云ふ事件の為に、もう一つ区切りをつけた事がある。ノラの失踪後、熊本在住の未知のひとから教はつた猫が帰つて来るおまじなひを続けて、毎晩お灸を据えて、その数が五百三十五になつたのが入院の前晩である。ノラを待つ気持ちに変りはないが、それを続けてゐられない事情が起こつたのだから止むを得ない。五百三十五回で一先づ打ち切つた。
そんな事をこのクルツはみんな知つてゐるのか、丸で知らないのかわからない。起きなほつてもとの通りお膳のそばに座り、人の顔を見てゐる。お酒がいい工合に廻つたところで、ついノラの事を思ひ出したから、困る。目の裏が熱い。

「ねえ、クルや、困るねえ。よさうねえ。そうら、あんなに雨が降つてゐる。段段ひどくなつて来た。雨が降るのも困るねえ。音がするからいけない。クルや、お前か」
膝の上に抱き上げたら、その儘自分ですわりをよくして落ちついた。辷らない様に片手で支へてやつてゐると、次第に膝が温かくなり、それを感じた拍子についクルの上へ涙が落ちた。
「クルや、何でもないんだよ。そらもうお酒もお仕舞だ。お仕舞にしようね。それで、そもそもお前は猫である。膝の上なる猫はお前か。お前が猫でクルでお前で、まみでむじなで狸ではなかつたか」

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