Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

ゲンちゃんダメよぉ~

2005-09-28 21:31:03 | 柴犬の日常
 
 撮ったビデオや、テレビ録画の保存はDVDの時代。デジカメの写真もスライドショーにして、一緒に入れてしまう。ただ、使っているソフト似通ったものいろいろあるがどれもこれも中途半端、編集途中でパーになったり、30枚もコピーしてたら、休みが終わってしまった!
ま、時間は作り出すもの!
でも、それにしても、いい加減な編集ソフトと説明のまずさ。映像が好きで思い入れがあって世の中に出してくれているのではなく、仕事で義理でつくったものだからでしょうね!MACの世界に戻るかなあ!

 で、ご主人これなんで、この日ボクたちは勝手にさせてもらった。ゲンちゃんは、ムスコが残した目玉焼きのお皿をすっかりきれいにしてくれたらしい、が、もうヤメロってば!


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テツちゃんの命日

2005-09-21 23:05:48 | 柴犬の日常
 
 今日はテツの命日。2年前は秋分の日、まだ10歳になったばかりであった。数ヶ月アトピーで病院通いだったが、まだまだ死ぬには早すぎた。これは若いころのテツ。
 あの日は家に上げていたが様子がおかしくなり、抱き上げたら安心したのか目がとろんとしてボクの腕の中であっけなく息を引き取った。ちょっとつらかった10年間、テツには随分と助けられた。ありがとうね。
 いじめられたことがないためやさしい目で性格素直、無駄吠えはせず人には従順、しかし外では緊張感みなぎり大型犬にも立ち向かう柴犬であった。

 近所の公園で柴犬を5匹も引いていた人と知り合い4ヶ月のオスをゆずってもらった。もらう前からテツという名前に決めていたが、日本柴四大父系の一「白馬の源号」系の「鉄源」のひ孫だった。体型が多少足りず品評会はあきらめたらしかった。鉄源号、25年前第74回最高賞の作州源の直子、この鉄源の子で日本一を五頭出した時期がある。
 日本犬保存会の会員にはなっているため機関誌「日本犬」が送られてくる。顔だちと目、犬名からこの血統の親戚・子孫がだいたいわかる。品位は高いが素朴味、力感が薄れてきたと言うのが専門家の見方らしい。

 でももう、どうでもよいことだ。テツは綱や首輪がはずれると喜んで逃げてつかまらず、
「もういい、帰る」とつき離すと見え隠れしながら、つかず離れずでついてくるのだった。
 ボクには、ただただ、かわいいだけの犬だった。
 いまのゲンちゃんは、また違う個性でよいのだが、名前だけはあやかってみた。
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箱男?

2005-09-20 22:25:31 | ねこちゃん
 
 どういうわけか、ハコやフクロがあるとボク入ってしまうんだな。
文学的にはこの状態、箱男とでも云うのだろうが、ボクもうタマヌキ、なんと呼ばれるべきか?
 かわいそうだけど飼い主責任、マーキング防止でやむをえない、とのこと。
でも、おかげでボク煩悩なし、いつまでもコドモである。
 本日は、なぜか懐かしいモノ、くわえてみた。


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鯛も釣れた!

2005-09-18 21:10:13 | ローカルな話題

 
 朝のんびり起きてしまったが、いい天気なので出かけた。(きょうはホントは、、)
 「海の釣りぼり志津川フィッシングパーク」
 釣りぼりと言うなかれ、ウデと経験でかなりの差。海の上で気持ちがよい。
船は朝早すぎるし。 ここは、クルマ椅子のかたも楽しめるぐらい安全。
いまやジョーレンさんになってしまった (*^-^*)>" 

 湾内定置網に入ったものを生簀に放すのでいろいろあり、鯛も釣れる (^o^)v ただし鯛は、生まれ育ちは伊勢志摩あたり。
 志津川に昼近くに着き、2時間ぐらいのんびり釣って鯛1枚、今の季節だから、さば7匹、はまち7匹。 (^O^)」 鯛はおじいちゃんのとこか!

 さば、さっきまで生きてたし丸々と手ごろなので、今シメサバにしているところ。あした、食べごろ。
 作り方「NHK食彩浪漫、2003.9月号」(あっ簡単だった!極上〆さば)
 番組はほとんど見ないが、このホンは「男の食彩」時代から、なかなかよい。


**************

NHK 食彩浪漫 2006年 10月号 [雑誌]日本放送出版協会このアイテムの詳細を見る
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定禅寺ジャズのレイ・チャールズ君

2005-09-17 14:14:30 | 音楽・芸術・文学

 
 仙台はケヤキ並木通りでの、「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」今年で15回め 2005 the15th JOHZENJI STREETJAZZ FESTIVAL in Sendai
 先週9月10日、11日で観客63万人!!(主催者発表 http://www.j-streetjazz.com/
 ジャズ中心に、ロック、ゴスペル、なんでもあり。ボーカル、インストルメンタル、デュオから大バンドまで、参加バンド700超えたか?特に50代のプレーヤーが素敵である。
 (ケータイはこちらで映像と音 http://www.docomo-t-j.com/

 町内で住民運営のCATV
自主制作番組のツマにしようとビデオを撮ってたら、レイ・チャールズRay Charles 君!に出合った。

 1985年「We are the world」 USA for Africa
 アレも同窓会みたいなもんだったかな?
レイ・チャールズ元気、スティービー・ワンダーStevie Wonderもスゴイ、マイケルMichael Jacksonもあのころまでは...



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「クニボウを囲む会」速報

2005-09-12 23:25:58 | ローカルな話題
 
クニボウ、自称、流木庵圓山、本名、早坂邦三郎、75才、元仙台一高バレー部監督。

われら団塊の世代。
 高校バレーで監督にしごかれ、やっと大人として扱っていただいたと思ったら、あっという間に40年。
先生の喜寿の前祝第一弾、正直言えばお元気なうちにと、多くは東京方面、玉造先輩などは韓国からの駆けつけ、久々に「せんせいを囲む会」となった。幹事はドクター樋渡、江川(陳)のため、何があっても安心。
 時は、平成17年9月10日、11日。
 所は、同級橘君の秋保温泉 岩沼屋

 当時バレー部のマスコットと乳飲み子、ご子息ふたりはいまや青学と仙台二高の教職に。そしてほとんど家にいないご主人、ご両親の世話、押しかけるOBまで奥様が一手に!幹事・主治医の陳のお手柄、ご家族お揃いでおいでいただけた。

 1964年卒の村田、荒井両先輩から、1970年卒決勝戦やっとバレーになった少年剣士櫻田まで24名集合。[   ]画面上で出席。
 この年代から宮城県総体6人制バレーに、優勝、ベスト4、ベスト4、優勝、ベスト4、準優勝、優勝。

 東京五輪の1964年、常勝ガマ女育てた早坂監督着任、OBコーチ自主練習の伝統から近代バレーへ!?
 東北大新入生だった村田コーチの日記、「1回戦からやっと勝つテイタラク、明日は勝ち目あるまい。荒井、[太田]、[峰岸]と山口パーラー...」
 ところが前年新人戦優勝校・仙台工を気力で破りベスト4に。3セット目の吉野先輩のコート上の声「泣くなっ杉!」。[山形]先輩あれだと、マトモな運動神経は二人のみの筈!水戸、星、本郷1年生まで入れて精神力での奇跡の勝利。全員大泣き。大先輩たち又々山口パーラー怪気炎、ひょとしてインタハイ!?
 [戦力イマイチの2年生が慶応の電気自動車清水教授、努力家の成広先輩、秀才ソーキツァン]
 ここまで、われわれ入学前年の伝説。樋渡先生、思い出すたび瞳ウルウル、本日は涙ぼろぼろ。

 さて、せんせい、何か言ってるぜ。
「...水戸、石川の大砲ではあたりまえ、(二枚セッター星Hoshi・本郷さんはスキを見て勝手にセンタ攻撃!)
おれは、陳のライト打ちで発見したのョ、大和田はな、それを真似して引き継いだ。(東北福祉大教授で全日本)以来、ライト攻撃が宮城県の武器になった....陳はカラダ壊し壊し大変だったと思うよ、えらいよ、親父の願いどおり医者になった..」
 でも、水戸、石川、星、本郷、樋渡、玉造、渡辺、[高橋]さんにインターハイ連れてってもらった。チンの驚異的レシーブ、全国ベスト32。バレーキチガイ星さんは卒業後クニボウ目指し母校日体に、肌合わずすぐに帰ってきた、それでもせんせいはホシッ、ホシッと四十数年。


 次のわれわれ年代の早坂が大事に保存していた先生の指導メモ1967.3.24の日付。

「陳、手を開いて打つ.....ボールに「ふれる前」「ふれてから」瞬間的にあきらめてプレーする時が見うけられるが(心の問題)..意志力それを起こさせる考え方、最後までプレーをステナイと云うことが大切であり、瞬間、瞬間を全力を尽くして闘う闘志がつみ重なって不可能を可能にし、技術を上達させ、ゲームをステナイ、粘りのある一高バレー部が生まれる。
 人生の闘いに於いても、粘りのある人間として成長するのであり、プレーに於いて瞬間的に「アキラメ」それがプレーで成功しても、心の闘いでは負けである。自分で心の闘いに勝つよう、心との闘いです。」

 ということで、、「ラストワン」のあともキレイに上がるまでレシーブは10本も続く。毎晩8時9時、土日は山形東、南、保原、、はては、東北大、三島女子大まで連れてきてのデスマッチ!ヤマトーは頭使った一見手抜きバレー、十数セットやって勝率3割。ヘトヘト。おーい、サダケ、コマイダ、くるま洗っておけ、笛吹け、まさし遊ばせておけ!MAZDAキャロルはピカピカに!
本日、せんせい「わるかったなあ、駒板、ゴメンな」、せんせ、いいってば、ガラス磨いたおかげでカメラメーカの重役になったんだから!
 はいっ、立派になりました!おい、我がエース金子(飛ばないためクニボウはアースとか呼んでいた)、千葉、駒板、佐々木、このメモ見たことあるかい? ハテ?しゃね!!粘りのある加賀谷は母校と一女でコーチをネバネバ二十年。息子はバレーをやらず一高では軟式野球のエース。

 せんせい、一高のあと野外活動センタ勤務、われわれの次、都竹、工藤は、ここでこき使われたのか、遊んでいたのか、工藤は夜外活動でミドリチャンをゲット、以後の人生ストレス無縁の様子。大内は「ガン箱にはエンジ色の優勝ユニフォームを入れろ」いまだ直接的プレッシャ、今、先生若き日にいたガマ女校長。クニボウのまねで多賀城バレー鬼監督するも多賀城駐屯地から大竹金弥校長兼和尚そっくり顔の同期郡山司令の度々のヘルプを仰ぐ羽目となっていた。

 しかして、その下、内海は3年ごと優勝だ!の意思と努力、優勝キャプテンで現役一橋!
少年剣士櫻田は、この決勝でバレーに開眼、前橋インターハイ会場の前では今度は生保支店長をやった。この世代は優秀、[伊藤マーちゃん]は、シリコンバレー!
 さて、主将というものは[公夫さん]、わが佐々木、工藤と、粘り<才能 にて指名のはずだったが?

 学生時代のあちこちのコーチ義務は当然、尚絅女学院持たされた玉造先輩、以来40年いつもニコニコ。一高バスケの一夫さんも星さん同様、クニボウにはカズオ、カズオで四十数年。 どうも、クニボウという人は教え子がすでに卒業しているとは考えたこともなかったようだ。
 こちらも、なにせ校訓が「自重・献身」、校歌は、「赤き真心ささげもち御国のために尽くすべし!」

 最後の9人制の年でインターハイ、6人制初の総体では優勝の荒井大先輩、加賀谷、マッチャンとともに宮城県の多忙な時間を活用、一球会50年記念誌もまとめてくだされたうえ、しかも後輩にまことにやさしい。「佐竹、AIDS検査ならいつでも直ぐこいよ」
 バレーを途中でやめていったのも多かった。が、せんせい、バレー部卒業生にはレギュラー以外のボクらも分け隔てなくあつかってくれた。 

 石川先輩は内閣官房などの激務、
「家は親父も,4人兄弟のすべても一高出身。さらに親父は教師でもあり,一高のような自由でいい加減な雰囲気を当然のこととして育ったし,もしバレー部に入らなかったら,決してそれ以外の空気にふれることはなく,(別な価値,可能性を)考えもしなかったろう。 そんななかで,クニボウに出会ったのは大変なショックであったし,ものすごい反発をおぼえた。そして今考えてみれば,先生への反発こそが,その後の人生の出発点でもあり,ばねにもなった。役所に入って,苦しくて何度やめようと思ったことか。そのたびに,一高で,(意に染まぬ状況に)反発しながらも,それを乗り越え,がんばってやりぬいた経験を思い出し,思いとどまることができた。先生の指導を受けたバレー部の3年間がなければ,間違いなく役所も辞めていたと思うし,現在の自分もいない。本当に,先生にお礼を申し上げたい。」(本日、これまた栄二クンがちゃんと聞き取り)
せんせい宅2階にたむろ、テツマン、雑魚寝、飲酒に、屋根からションベンとナマの話は言わず、青少年健全育成施策の政府委員答弁。

 奥様によれば、野外活動センタこれが一番好きだったみたい、一女バレー、常勝仙台高バスケ立上げ、凧遊び、陶芸、茶室自作庭園500坪、、、会うたびに熱中してることが違い、手間ひまカネ、労力がかかっている。あッ、労力は、体力づくりと言われて陶芸用粘土運びで、仙高バスケ部生が受難。

<ご長男 方志氏によれば、...ウコッケーなどの珍しいトリを500羽飼っていたなど、実はもっとたくさんの、常人を越えた趣味?の遍歴があるので、弟と母は戦々恐々としています!...>

 奥様;「よく、これまで、がまんしましたぁ(笑)...」 でも百まで、まだまだ、がまんだよ!


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「みかんちゃん」改め「虎之助」

2005-09-11 21:10:25 | ねこちゃん

 
 仙台の定禅寺JAZZフェスティバルの日だから、去年の今日まで3週間うちにいたハクの兄弟「みかんちゃん」。
 ハクより一日遅れで拾われた時は衰弱でいったん呼吸も止まりました。ママが蘇生処置、見事復活。
 この抱っこの翌日、ママのともだちにもらわれていって今は「虎之助」くん。
こんどは犬のコロ姉さんに抱っこされて、甘えているようであります。
 で、僕たち、それぞれママたちが投書して、
知る人ぞ知る「河北新報・夕刊」<はなまるアニマルコーナー>(2005.5.12、2005.6.2)に載っちゃったんだよ。

   

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