2011年10月22日、一球会60周年記念祝賀会、これが何かというと仙台一高バレー部のOB会であった。旧制中学から続く母校は創立118年、バレー部(排球部ともいった)が出来て75年、OB会が結成されて60年という。後輩バックアップと同窓懇親のOB会も還暦を迎えたわけだ。本日の出席者はゲストの元・現監督4名、会員のOBで総勢60名。OB会どころか出席者の3/4は既に自らも還暦を越えた。
この学校では勉強もしているように見えないのにものすごい秀才もままいたが、学都仙台には東北大はじめ大学も多くあるので悠然と3年間正確には夏の総合体育大会&インターハイまでの2年半は、体育会系部に属してクタクタになるまで運動ばかりしてる生徒も多かった。文武両道の要領がよければ現役、悪くとも鍛えた体力で一(、二..N)浪して晴れて大学生になるや、後輩どもを教え導きしごいて恩返しとの使命感をもってクレーのバレーコート2面、少し後には体育館に現れるのであった。だから最低でも卒業年次の前後、4(先輩がコーチ)+3(在校)+4(後輩をコーチ)=11年間の面々は、その時代の経験を共にして一生の友人になってしまうのだ。
安田病院の阿部監督のころまでは、こういう若き先輩方の熱意溢れすぎる見守りのなか、古川なにするものぞの刷り込みとヘトヘトになるまでの練習の伝統が受け継がれたものだったが、昭和39年に日体大全国レベルの早坂監督・邦坊の出現でバレーの指導はOBたちの手から、彼のいうところの“近代バレー”の実質的君主専制へと様変わりし、優秀な頭脳を持つ子ほど理解しにくいこれまた延々時間をかけた夜中まで練習の日々となったのであった。要するに先輩が見守る排球部でもニチボー貝塚以後の邦坊のいう“近代バレー”ボール部でも、わけがわからぬままヘトヘトになることはなんら変わりがないのであった。のり坊も1年のころまでは、鴫原さんやクレーコートのベンチで後輩を前に堂々パンツを履き替える慶応の義憲さん、碁の名人?峰岸さん、山田さん、丸太ん棒のような腕の千田さん・・・、ときに怖い精神的説諭を長々と聞く(ふりをした?)のであったが、遠慮がちにみえた邦坊監督もよくいえばチャレンジャブル、どうかすればワイルドなその本性を現すや次第に若き先輩方の関わり方も変わっていった。
邦坊の着任と入れ替りに卒業して行った24連勝世代の村田、荒井、太田、高倉、大泉先輩、すぐ下の杉、山形、吉野先輩たちはトンペイならしょっちゅう、或は帰省中なら当然のごとくコーチに来いやとOBチームが作れるほどに、春夏合宿にまでぜひおいでと、こうして自発的な献身をもって(自重献身がわが校訓だから)、あるいは有無を言わせぬ邦坊の勅命を受けた佐竹の自宅までの押し掛け呼出しをもって、練習に始終おつきあいしていただくハメになった。そうしてそのおかげでまたまた黄金期はやって来た。しかしここに、OB会の大先輩方と大監督方との微妙な力学というか、せつなくも思想の全き相違があるらしいのだが、あれはあれでよかったかと、あるいはもういいやと納得するのに、皆様方ご一同はそのご数十年を要した。
そしていま、噂に聞く名物先輩の実物までをOB会で知り敬い、コノヤロと思っていた同級生とはヨウ!と時間が吹っ飛び、気になる優秀な後輩たちはやはりみな偉くなったか、と毎年毎年感慨をあらたにするのが習わしとなるのであった。やる時は徹底してやって目標ならば優勝せねばならぬ、同級の加賀谷・高20などは(卒業後40年以上経過しても!)後輩を育て勝たせるために、県庁幹部リタイア後再々度また母校のコーチをはじめたのだ、なんというやつだ。のり坊も疑問を抱きつつもやるだけやった。毎日夜体育館の鍵を締めると学校ではいつも最後に帰る生徒だったのである。思えば同期で入部しても最後までバレー部で卒業したのは半分以下であった。
体格、運動能力ともやめて行った連中の方が上であったろう。でもボクのクラス180センチが誰もいないちびチームで速い球回しのライト攻撃の速攻バレーを陳・江川とみんなで宮城県から切り開いたのだ。
あのときの経験と記憶と人のつながりでその後のそれぞれ全く別の人生ではあったが、やってこれた。仕事上の現役などはあっという間であった、経営者にまでなったひと以外は(!)。大内・高21回などなんと当時あこがれの的の一女高校長までやってのけた。(でももう男の子も在学していて残念でしたね~)しごかれたあの頃の3年間などその後の実社会でいえばわずか一任期の短い時間であったが、若き濃密な日々のことは一生の宝でずっと心の奥にしみつき、何でも突破できるじゃないかという元気のもとになった。バレーばっかり、いつ勉強するのかとどこの親も怒っていたのものだが、学業成績はともかくバレーばっかりで卒業し戦績は残したクラスと人間のほうが、その後の人生の成功というか出世というか収入というか面倒見のよさというのか、ともかくそれらと密接な相関関係があることがわがOB会では証明されている。しかし皆紳士で大人なのでこのような真理は話題になることはなく、過去現在未来と数十年にわたる与太話が続き、時に半世紀たって知るあのひとのあの頑張りに感動を覚えることがいつものことなのだ。
さて本日参集のOB会出場メンバーは現役の頃こんなすばらしい結果を出した時期にいたのであった。宮城県は60校近く、なまじっかなことでは古川勢に勝てない、伝統を汚さないためには準決勝までは負けられない、僕らはそう思ったが、やっぱり一番じゃないとダメなのだ。今年は、「あたまを空っぽにして、ひたすら物事に打ち込む、優勝してこそ価値がある、頭でやるバレーだ・自主性だ!」と当時から健気に思って非力なメンバでよもやの奇跡をやってのけた内海たち昭和44年(高22)が還暦を迎えた。
昭和36年(高14):ベスト4
昭和37年(高15):準優勝、インターハイ出場
昭和38年(高16):優勝、インターハイ出場逃す
昭和39年(高17):ベスト4
昭和40年(高18):ベスト4
昭和41年(高19):優勝、インターハイ出場
昭和42年(高20):ベスト4
昭和43年(高21):準優勝
昭和44年(高22):優勝、インターハイ出場
昭和46年(高24):ベスト4
昭和48(高26)、52(高30)、53年(高31):ベスト4
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主審ピー: ゲーム開始(以下、申し訳ない、敬略、記載漏れ多々)
杉下会長・高6回:OB会できて何年かは定かではないのだが、平成12年ゴーインに50周年ということでやった、あれがOB会の再スタート。今回も千田君、阿部元監督はじめ皆さんのお力で60年記念になった。5月の一、二高定期戦後の総会と現役諸君の激励も今年は震災のため本日になった。
大宮・高7回:現役諸君自己紹介せよ~、激励する!
現役諸君に今年度分のカンパあげるね、ちょっと少ないけどインターハイに行く時はドカーンとあげるからな。
おお現役は高66回あたりか・・・
わがバレー部はじまって以来の女子部員3名、たかはし・ゆりさんから、阿部大監督に花束を贈呈!!
なお君たちには下でホテル特製のカレーライスを用意してあげた・・・では、がんばってくれたまえ~
乾杯!
懇談・放談・雑談・奇談・決断 から 聞き取れたことだけ、一部は想像で、順番、内容は定かでない・・・
玉造・高10回:みなさんに、「一球会60周年記念ー思い出のアルバム」DVDを作ってあげたよ。初の福井インターハイ出場の8ミリ動画から東京一球会の盛況まで、今日は特にお見せしよう。1枚1000円以上いくらでもいいから出してもってゆきなさい。
杉原・高15回 : 今,山口大学にいる。もう一人これなかったから学年ではひとりできりですまない。ちょっと遠かったがいい集まりだなあ。
村田・高16回 : 東京一球会メンバ起立、25、6人きてるかな。東京一球会会長をやっているが、こっちの方も今度は副会長をということなので、これは吉野のために尽くすかと。仙台本部の一球会が東京に負けるようじゃサマにならないよ、東京からも吉野を支えて盛り立てるから仙台もがんばれよ、サポートするから全体で繁栄しよう。私の代のとき9人制から6人制に代わった。最後の9人制でインターハイに行き、初の6人制では総体優勝したこと、ちょっとだけつけくわえておきますね~。
庄子・高14回 :3月の大震災で仙台港近くのわが社は壊滅,頭が真っ白になった。すぐさま(髪の真っ白な)吉野君がガソリン入りの車を持って駆けつけて来てくれた、それで直後はあちこち回ってなんとか対応できた。まだまだ復興は道のりは遠いが俺はやるよ。
阿部元監督 :仙台工専のバレーのクラブチーム、そ、そう、杜友会だっけ、をやってて、バレーコート借りたくて同窓でもない私が一高のバレーとかかわったのだよ。教えてみるとすぐ理解するので感心した、先生と生徒の関係も実にリベラルで、ここにいると居心地もよかった。私は先生と言われたりするけど、先生なんかじゃないんだぜ・・・
早坂邦三郎先生は兄弟子なのだ、じつは。家が隣だった早坂少年は元気すぎて曹洞宗のお寺に修行させられていた事があったよ。お経読まされていたが、口パクばっかりで道元のことなんか・・・しかし彼はガマ女を鍛え(全国ベスト8まで持ってった)、私の後の一高バレー監督やってくれたのだがよく育ててくれた、もっとも私は理論家だったが彼のは見て覚えろだろ、彼も賢夫人あっての・・・(ま、ま、監督、このへんで・・・)
(阿部監督時代にバレー部副部長だった鈴木衛先生は監督に、生徒をいつもかわいがってくれるのが良い、と言われたそうでたいへんに嬉しかったと。我々のころは部長はこれまた優しい飯村先生に代わられていたが、仙南の村田高校での夏の合宿に鈴木衛先生は顔を出され、ニコニコしながら言われた。さっき、フェンシング部がインターハイで全国優勝したよ!こっちはそれどころじゃなかった、みなに便所の水飲ませるな,金子なんか特に見張ってろ!と邦坊の厳命。金子は佐竹の絆創膏でユニフォームに張ったMマーク(マネージャ印)を見ていつも、おいマタンキ!と呼んでくれたものだ、そんな彼も今や東京一球会の幹事長で皆の面倒をこまめに見るというから、大いなる人間的成長を遂げたようで目出度い、いまごろ俺の苦労がわかったか!
さて、さらには、小形昭先生は一高バレー部長としてバレー部と一球会の立上り時期をずっと支えられたという。先生は早坂先生と日体の同期で専門は陸上でバレーはシロートだったが審判資格を取り、我々の試合どころか国際試合の笛も吹かれた。我々の頃は二女高の監督で一高バレー部ですというと何故か優しく、それでなくともあの連坊の校舎に入り込むのはじつに楽しいことであった。: のり坊独り言)
早坂元監督 : 私、まだまだ長生きしますからよろしくね。今日はみなさんありがとう。
星・高19回:こういう会の運営はななかむずかしい、きょうはですねえ、早坂先生にはじめて一球会に参加していただいた、私は幸せものです。み、み、みなさん、飲んでていいから,耳だけはセンパイがたのお話聞いてやってくださいよお~
渡辺剛吉元監督 : 私はみなさんの宿敵、二高の監督からこっちにきてね、でも一高のバレー監督としては一番長く勤めさせていただいた。・・
(坂本・高30回が昨年11月20日に、高30回から39回まで、この間のコーチもふくめ総勢20名「剛吉先生を囲む会」をやってくれていた。エライ!あれっ、坂本はあの辺りの週に、高21回の大内、郡山などの還暦祝いにも来てくれたから、ますます感心。この日は加賀谷も出て、高22回以降はOB会とも疎遠であって、特に30回以後の若者!と縁を繋ぎたい、これからの一球会を支えてくれと言ったようだ。前・後期高齢者中心では先細り、孫のような現役の指導なんかとてもとても、であるから遠藤昇・高28、坂本・高30回よ、自宅に体育館まで建てたという剛吉先生を大事にしながら、がんばっぺ!去年は平成の世になって初めてベスト8までいったようだ、もう一息だ)
水戸,石川、本郷・高19回 :ここで勝ったんだよなあ、あの日。総体は決勝が月曜にずれこんだんだ、だからいっぱいいたのよ(水戸)。紺のセータ胸に赤くMG、いまでもあれか?可愛かったねえ(本郷)なあに俺でなく,水戸を見に来たのよ(石川)。
(家の近くの二高を蹴って連坊/茶畑に通う水戸先輩は端正なマスクで長身のバレー部エース、仙台市電に乗り合わせる宮城学院、一女、二女高生の憧れの的であった。とはいえ先輩は母一人子一人の境遇だからたいへんだったろう。
昭和41年6月6日、東二番町、宮城学院の体育館の2階回廊は、MGの女高生で鈴なりであった。早坂監督、邦坊は試合のベンチではもはや観念してニコニコしかしない不思議な練習だけの鬼だ。のり坊はベンチでスコアブック係だから、いつも本番の試合ばかりだといいなあと思っていた。1セットは失ったが、古高は練習試合でどうしても勝ち越せなかった山形東ほどではなかった、そして優勝、よかった。その後のインターハイ2次予選も全勝で,仮想敵の練習台だった僕ら2年生も報われて八戸のインターハイに連れて行ってもらい、本戦は3回戦まで突破した。この先輩たちはそれ以上勝つ気は無かった、勝てる試合を最後のセットは0点で終わらせた、やるだけやったからだった。2年でコートに入った陳=江川・高20回の驚異的なレシーブなどとバレーボール誌に書かれ、遠征費捻出でOBへ寄付集めに走り回ったというのに。
あの日の宮城学院の体育館のあった場所が、今日の会場/仙台国際ホテルなのだった。)
千田・高12回 : 平成13年宮城国体事務局長のときは一球会先輩、同期からお世話になったりと、公私ともどものおつきあいも多かった。お互い年を重ねても,先輩からは呼び捨て、同期以下はこれまた呼び捨て、という関係に身を置くことの心地よさは何事にもかえられない。
吉野新会長・高17回:いい思い出を持ってる我々の下の後輩が楽しく語れるような集まりにしたいですね。きょうは30~40回生も8名きてくれている。我々の経験を繋いで行く役割がある、一球会そのものも新しい尺度でさらに盛大な組織にしていこうじゃないか。強かったバレーの思い出だけでなく,現役を強くするのがいまの責務だとおもう。キンタマ有りますというだけで使い方わからぬじゃだめなんだ。ならば教えてやらなくちゃ。こっちはケーケン豊富なんだし、まだまだやってあげられる。
さて、この60周年記念祝賀会は3月12日にやるはずだったが、なんと前日にあの3.11の大震災、どうやって皆に延期の連絡取るかもたいへんだった。これからは運営も新しく、連絡や情報発信の新しい仕組みもつくんないといけません、分からぬ人は子どもや孫にでも聞いてや・・・
では一本締めだな、いっぽんだよ、 ヨーオッ、 バシッ!
副審・加賀谷:ピーピー: 校歌歌って、第1セット終わりまーす、第2セットは・・・(明日、西仙台ゴルフもあるんでしょ)
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(カメラも映像もおかしいけど、校歌の2番だけかろうじて・・・トップにあげた)
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こうなると、「一球会60周年記念誌」から吉野先輩の寄稿文の引用をせねばならぬ。この伝説の試合、のり坊は試合会場仙台商業近くの長町中の3年であった。野球をやっていた級友がこの試合を見ていて翌日ぼくにいった。「一高は勉強ばかりだと思ってたけど、バレーもすごかった」このときの言葉と彼の驚きの口調は今も記憶に残る。あのすさまじい試合を見ていたら,自分は、バレー部に入っていたろうか、はて?
吉野さんは合間合間で叫ぶ、「杉ッ、泣ぐなッ!」
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<一高バレーは栄光と挫折の激動だった> 高17回生 吉野俊彦
私がバレーボールを始めたのは、東華中学校で3年生になってから男子バレー部がメンバー不足で低迷していたころで、体育教官でバレー部顧問の先生から入部を強く勧誘されてのことだった。遊び友達の鴫原(一高同期生でバレー部の名マネージャーとして活躍)などを誘って一緒に入部し、中学1年生からバレーをしていた杉(一高同期生で主将を勤めた)と共にレギュラーとなり、市の中体連大会に臨んだのが初めてのバレーボール公式戦だった。
高校入学まではバレーボールよりも圧倒的に野球に費やす時間が多く、一高入学が決まったときは遊び友達の鴫原と共に硬式野球部入部を密かに望んでいた。私が一高バレー部に入部したのは、中学時代に一高から多くのバレ—部員を連れて練習を見て貰った高15回生の佐藤義憲さん、高16回生の峰岸徹夫さん、村田良樹さんなどの多くの先輩の熱い勧誘に感動してしまったからであった。
昭和37年4月にバレーボール部に入部を決めてからの3年間は、栄光と挫折を多く経験することとなった。1~2年生前半(昭和37年~38年夏)の一高バレー部は県下で常に1位を争う強豪チームで昭和37年の総体準優勝、同年インターハイ出場、レギュラーとして参戦した昭和37年秋の新人戦から昭和38年の6人制総体優勝まで1セットも失わず怒濤の24連勝など栄光の数々。連勝記録も、昭和38年7月のインターハイ2次予選で宿敵古川工業に接戦の末敗退で途切れ、この敗戦で2年連続のインターハイ出場が幻となったことが大変残念であった。
2年生後半から3年生時代(昭和38年秋~39年春)は勝利から見放されて、最上級生としての新人戦から総体までの大会は1、2回戦で敗退する弱小チーム。3年生の総体までは、負けるたびに悔しさで前年までの栄光に輝いていた天国から奈落の底に蹴落とされたような、挫折感でもがき苦しんだ。しかし、3年生の総体では決して忘れることのない試合を経験した。
先日、私が3年生になってからバレー部監督に就任された恩師の早坂先生と、バレー部OBの還暦を祝う席でお会いする機会があり、談笑の合間で一高バレー部監督時代に一番嬉しかったことはとの問いに、昭和39年に就任した年の総体で、市工戦に勝ったときだと言われておられた。そういえば、試合後に強気一辺倒の監督の眼に涙があふれていた記憶が蘇って来た。誰が見ても絶対市工有利の試合をフルセットに縺れ込んで破り総体ベスト4の地位を掴んだのだから。我々現役は勿論、応援に馳せ参じた先輩の殆ども市工戦の信じられない勝利に感激で涙を流して下さった。
この試合で勝利したことは、強烈な思い出として残っており当時を思い起こすと今でも目頭が熱くなる。
一高のチーム構成は、3年生3人(杉、山形、吉野)と1年生3人(水戸、星、本郷)の6人を主たるメンバーとして戦った。昭和39年春の市工戦を戦ったメンバーのうち、主将の杉と私は前年まで2年生ながら初めての6人制バレー総体で優勝するまでの24連勝をレギュラーとして試合経験を積ませて貰っていたが、他の4人は昭和39年春からレギュラーに加わり総体は初体験であった。
相手の市工は2年生を中心に国体を経験している若く勢いのあるチームで、試合前の公式練習では全力でアタックする姿を見せつけられていた。私の試合前のアタック練習は決して全力では打たず、体を慣らす程度のものだったから相手からは私のアタックを甘く見られていたようだ。試合前の練習をしながら、力を誇示している2年生主力の相手チームの若さには圧倒されたが経験は自分の方が上回る筈だし、絶対負けたくないと強く沸き上がる気持ちを押し殺して試合に臨んだ。
試合が始まり、最初から拮抗したゲーム運びとなったが,試合前の練習と違って私は勿論、6人全員がそれまでの実力を越える信じられないプレーを連発し、それが最後まで持続したものだから、試合中の勝利に対する意欲では一高が市工を上回って、フルセットの最後の3点では、目の前に見える勝利の瞬間が待てずに主将の杉と私は涙を堪えきれずにプレーをしていた事が一生忘れられない。
市工戦では私自身,不思議な経験をしている。
アタックではミスがたった1回の信じられない打率で相手を圧倒したこと。味方のミスでボールが相手コートに直接返りダイレクトアタックで強烈に打ち返された際、私の体が勝手に反応しスライディングレシーブで好捕した後得点をもぎ取ったこと。半世紀も前のシーンが鮮明に記憶として残っている。(これらのことは、一高の練習を終えた後、自宅で夕食を摂った後に硬式野球のバットを引っ張りだして、自主トレで毎日何十回となくバレーのアタックフォームにあわせ、腹筋と背筋を使いながら素振りをしていたこと、合宿では朝練が始まる前の誰もいないコートでスライディングレシーブの練習を独りで黙々と重ねたこと、などが報われたのだろう。)
他のメンバーも神がかりなプレーを沢山していた。この不思議な経験は、極限まで意識を試合に集中することが出来たからだったと思う。市工戦の前に、応援に駆けつけた先輩達から試合会場に隣接した三女高の雨上がりのぬかるんだ校庭で、試合前としては異例なほど過酷なレシーブ練習をさせられたことで、雑念を払拭し集中心を最高に高められたのだと思っている。
結局3年生の総体はベスト4で終わったが、総体での出来事は前年まで1位を争った強豪チームの栄光よりも、それ以後味わった挫折から這い上がってもぎ取った総体のベスト4が、試合中に感激で涙が溢れるのを抑えられなかったほど何倍も眩しく私の心で輝いている。
厳しいながらも、現役の為に心を鬼にして指導してくれた先生と先輩、一緒に3年間の苦楽を共にした同輩、そして我々上級生に夢中で追いついてきてくれ、試合毎にめざましく上達して市工戦に100%以上の力を発揮して勝利に大きく貢献した後輩諸君に感謝している。
学業の不振で親から退部も迫られながら、それを振り切って3年間バレーボールに熱中出来て本当に良かった。一高のバレー部で経験した栄光と挫折,それを共に味わった仲間はその後の私の人生の宝物としてずっと大切にしている。多分、一高バレーを経験した者それぞれが大切な物を得ている筈で、現役の諸君にもより多く得て貰うために一球会の多くのOBと共に今後も微力を尽くすつもりでいる。
(了)