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Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

ノルウェイの森 ー 村上春樹 

2014-06-06 23:37:40 | 音楽・芸術・文学
ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)
クリエーター情報なし
講談社

ワタナベ君への手紙

お手紙がマメだったワタナベ君には、メールもケータイもなかった昔をしのんでお手紙をかいてみたくなりました。面倒なら、読まずに食べてね。

きょう6月6日は、70年前にノルマンジー上陸作戦が行われた日だった、とタイクツテレビがいってました。J.D.サリンジャーは自分ことをほとんどバラさないひとでしたが、あのノルマンジー作戦にも参加していたのでしたね。「再見コンバット!」 
このあいだ、村上春樹さんの訳の「フラニーとズーイ」をよんで、なつかしくなったので、ついでに野崎孝さん訳の「ナインストーリーズ」や、「大工よ、屋根の梁を・・・」なんかを読み返しました。サリンジャーは、最初にシーモアお兄ちゃんの命を絶ってしまったため、遡って説明するのもたいへんみたい。作家というのもご苦労なことだ、しみじみおもうなあ。村上さん訳の「ライ麦・・・」は、あとのお楽しみとして、じつは春樹さんのなにも読んだことがなかったので、お約束のとおり(自分にしかしてないけど)、まずは「ノルウェイの森」にいってきました。いまは「ねじまき鳥」あたりを徘徊している、というか深いカラ井戸の底でじっとしているみたいです。

すこしだけ、ノルウェイの森の近くのお話させてくださいな。ワタナベ君もギッチリ詰まった青春だったのですね。1949年のお生まれとするならば、僕の一つ上です。だからほっとするなあ。後輩ならば、なにかこうライバル心というか、出来のいい人へのやっかみというか、どうにも素直になれないのですが、生まれが少しでも上だと甘えられる気がするんです。でもよく考えればほとんど同級生ですね。全くの同じあの時代と時間をすごした、同じ空気を吸ってそれぞれの風を受けてきたわけで・・・ぼくはいまや実にさびしいボッチのこのごろですが、いまごろになってなんともすばらしい恋物語をきかせていただいて・・・もっとも30年近く前に書いて戴いたんだから、37歳のワタナベ君に向かってこのお手紙(Re:)書いてるのかなあ?・・・

むろん、あれは小説ですからワタナベ君の個人的な体験とは思いません。でも生々しさも感じてつい、ああ彼女は津田塾だななどと要らぬ想像をしてしまうのです。それにすこし濃密すぎて・・・。話飛べば、まったくの無縁な世界のように安田講堂攻防戦をボーっとテレビで観てたとき現れたのが髪の長い少女でした・・・七つの水仙、レモンツリー、パフ、500マイル、花はどこへ行ったの、こげよマイケル、全部おしえてもらった ...八月の光 もずっと借りてたな・・・一浪した同級生はこの年東大は受けられず一橋と東工大はすごい難関だったと聞きました。翌年ボクは東京郊外の学生寮に入ることができ、綿パンにスニーカーにカーディガンが大好きになった、十代の重苦しさは脱ぎ捨てたかったのかもしれません。新宿、紀伊国屋の裏手ですか・・・ジャズ喫茶、パドパウエル、ビルエバンス、マルウォルドロン、ダラーブランド・・・ミニスカートの時代、すらりとした若い足・・・ねえ、この子と?・・・だけど全くのウブで、途切れもなくなったのは、もすこしあとでしょう・・・差し支えがありすぎて・・・みんな、お手紙は焼き捨ててくれましたか?

ボクたちはビートルズ世代、もっともあの春樹さんはビートルズよりジャズのほうのようだけど。ま、ともかく数年前にはテレビを観て記録しましたよ。四人はアイドル? サイドマン - ビートルズに愛された男 あらためて「リボルバー」を思い出しました。ビートルズではなにがいちばん? ヒア・カムズ・ザ・サン、るるるる、と言ったのは、ずっとあとでTちゃん、・・・どうしてることか・・・

ワタナベ君のお話、ノルウェイの森の記憶がなんとも切ないですよね。なにか言ってあげたいけど、どうしようもないよね、ぼっちだもんね、誰でも、Nowhere Man。ラバーソウルのメロディアスなほうがリボルバーより好きだな。ミッシェル、ノーホエアマン、ジュリア、ノルウェイの森、・・そうそう、映画のこともでてくるよね、武蔵野館はどうなったやら・・・卒業、カサブランカ。サウンドオブミュージック・・・手を握っただけでドキドキが伝わってきたMちゃん・・・それにしても「I wonna hold your hand」が日本ではなんで「抱きしめたい」になるんでしょうか?

その少し前18.9歳のめまぐるしい、毎月と季節が今も鮮明にたどれるあの頃、まわりではいろんなひとが命をおとしました。2ヶ月一緒の部屋にいたD君も一年後屋上から飛び降りた、いつまでも19だ。海でおぼれたひとも感電事故でなくなったひともいた・・・そのあと20で東京にやっと出られて、それからもう40年以上もたったんですね、生きてれば、ボクみたいに、その後の面白くもあり、たいして記憶にも残らない、ながいながーい時間を持てたのでしょうに。そして、そのときどき好きだった人とも別れてゆくのでしょうか・・・いつまでたってもわかりません、だれもおしえてくれません。今夜も猫ちゃんのほっぺをなでながら、一緒に寝るのでしょうか。

ワタナベ君の読んでた本はなんだったけ。えーと、フィツジェラルドのグレイトギャツビイ、トルーマン・カポーティ、トーマスマン・・・なんてかいてありますね。「ライ麦」も出てきましたね。ずーっと一生すきなことがあるのはいいんじゃないかなあ・・・素敵だなあ、ボッチだったワタナベ君、今、どうしてますか?ボクは、ヘイジュードなどやりかけましたが、もう3ヶ月もサボって、なんでもやるけどすぐアキル、こりないのですね・・・リブート/再開処理/ねじ巻き が必要かなあ・・・

                      2014・6.6 のり坊

ワタナベ トオル君   机下

  

 

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フラニーとズーイ J.D.サリンジャー/村上春樹訳

2014-05-25 23:57:00 | 音楽・芸術・文学
フラニーとズーイ (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

村上春樹さんがサリンジャーの「ライ麦畑・・」を訳してくれたというCMは見ていただけだったが、こんどは「フラニーとズーイ」を出したというのでつい買ってしまった。サリンジャーを読んでいたのはずいぶんと昔、四十数年も前、若かったな、あの知的な雰囲気と気取りというか、優しさというか、ともかくなつかしいなあ、というわけで。

あの頃は大学紛争やら奇怪な事件やら世の中、街の中、それに家の中もずいぶんと騒然としていた。友達とライ麦畑回し読みのあと、庄司さんの赤ずきんちゃんが現れて、あれっ、ライ麦とおんなじじゃないか~と。さて、グラス家の話の頃は東京での学生寮生活。サリンジャーの話が通じた中学のときの同級生塚本クンは、下宿代わりに製薬会社ビルの管理人をしていて、おお、こんなやり方もあるかと。世の燼にまみれた僕と異なり、牧師の息子の彼は青学で神学を学ぶストイックな青春を過ごしている様子であった。中村メイコのロストラブというラジオ深夜番組を聴いてたら声ですぐわかった、クラスメートのあの子がねえ・・・

フラニーちゃんは何で悩んでいるのだろう・・・今になってもよくわからない・・・何かで、どうにかして救済されるのだろうか、そもそも宗教とは何であろうか、神とはなにものであろうか・・・重そうなテーマは底に流れてはいるが、しかし表面では知的な若者たちとその時代のストーリーである。あの時代の最先端にいたものたちのスナップショットのナインストーリーズなど短編を組み立てればグラス家兄弟たちの青春と精神遍歴になる。サリンジャーという人は、解説も序文も許さない作家だ、まず生で読んで自分で何を感じるか、なのだろう。村上さんは別葉で「こんなに面白い話だったんだ」という訳者からのメッセージをつけてくれている。

いろんな方の訳で読んで、原書も持っていたがどこにいったのやら・・・鈴木武樹先生の本がくだけた感じで良かったような気もする。明治で先生のゼミにいたという会社の先輩がいて、このかたは文科系なのにコンピュータをやらされて大苦戦されていたっけ。北海道などを一緒に旅したこともあったなあ、どうしてることやら、・・・、そして40年ぶりに、ネジ巻きつつ、村上春樹訳のフラニーとズーイをよんだ。また続くのかなあ、まあ、そのまえに村上春樹さんにわるいから、これを機に今頃になってノルウェイの森やらにもお邪魔しようと思うんです。

>>>>>(「フラニーとズーイ」 J.D.サリンジャー/村上春樹 訳 新潮文庫 より 引用)

 ・・・職業的に言えばズーイは俳優であり、これまで三年あまり主演男優としてテレビ番組に出演してきた。実際のところ彼は、映画やブロードウェイで既に全国的な名声を得ているスターが副業としてテレビ番組に出演する場合を別にすれば、「テレビ番組の若き主演俳優」としてまず破格にひっぱりだこであり、また家族の耳に届いた不確かな伝聞情報によれば、破格に高額の報酬を得ているということだ。しかしそのような状況だけを、事情説明抜きでさらさら述べてしまうと、ずいぶん単純な話として受け取られてしまいそうだ。実を言えば、ズーイが公衆の前に正式に、また真剣に「演技者」としてデビューしたのは、まだ七歳のときである。彼はもともと七人いた兄弟姉妹の、下から二番目の子供だった。(*)

*脚注というのは美的見地からすると誠に興ざめなものだが、それでもやはりここでひとつ差し挟まないわけにはいかない。本書にはこのあと、七人の子供たちのうちのいちばん年若い二人しか、直接的には登場しない。しかしながら残りの年長の五人はかなり頻繁に、このプロットにひそやかに出没することになる。まるでバンクォーの亡霊(訳注『マクベス』に出てくる)がうようよいるみたいに。

そのようなわけで読者諸賢はまず最初に、一九五五年時点においては、グラス家の子供たちの最年長であるシーモアが亡くなってから約七年が経過していることを、知っておかれた方がいいかもしれない。彼は妻と共にフロリダに休暇旅行をしているときに自殺した。もし生きていたら、一九五五年には三十八歳になっていたはずだ。
二番目に年長のバディーは、大学用語で言えば「ライター・イン・レジデンス(大学在籍作家)という肩書きで、ニューヨーク州北部にある女子短期大学に所属している。彼はかなり高名なスキー場から四分の一マイルほど離れたところにある、冬のための設備もなければ、電気も通じていない小さな家に一人で住んでいる。
三番目の子供、ブーブーは結婚して三人の子供の母になっている。一九五五年十一月には彼女は夫と、三人の子供全員をつれてヨーロッパ旅行をしているところだ。年齢順にいけば、ウォルトとウェイカーの双子がブーブーに続く。ウォルトが亡くなって十年になる。彼は陸軍兵士として日本に進駐しているときに、つまらない爆発事故のために死んだ。彼の十二分後に生まれたウェイカーは、ローマ・カトリックの司祭になり、一九五五年十一月には、イエズス会の会議か何かに出席するためにエクアドルにいた。

五人の男の子と二人の女の子、彼らは子供時代にそれぞれ、適度の間隔をはさんで時期をずらし、ラジオのネットワーク番組にレギュラー出演していた。『イッツ・ア・ワイズ・チャイルド(なんて賢い子ども)』というクイズ番組だ。最年長のシーモアと、最年少のフラニーの間には、おおよそ十八年の年齢差がある。そんなわけでグラス家は、『ワイズ・チャイルド』のマイクロフォンの前に、ほとんど世襲的ともいえそうな席を確保することになった。彼らの出演は一九二七年から一九四三年まで、十六年以上続いた。

つまりチャールストンからB-17爆撃機の時代までをカバーしているわけだ。(このようなデータはそれなりに大事な意味を持っていると私には思える)。彼らがその番組でそれぞれ活躍した時期のあいだには空白や、年月の隔たりがあるものの、少数の些細な相違点を別にすれば、その七人の子供たちはすべて同じように、夥しい数の質問に対してーーそれらはリスナーから送られてきたもので、ひどく堅苦しい質問とひどく可愛らしい質問が交互に出てきたーー溌剌と、また落ち着き払って回答した。それは商業ラジオ番組としてはずいぶんユニークなものと見なされた。子供たちに対するリスナーの反応が生ぬるいものであったためしはなく、しばしば熱を帯びたものになった。一般的に言って、リスナーは奇妙に頑迷な二つに陣営に分かれた。一方はグラス家の子供たちは耐えがたいほど「鼻高々の連中」であり、生まれたときに水に沈めるか、ガスをかがせるかして始末するべきだったと考える人々であり、もう一方は、彼らは本物の神童にして賢者であり、うらやましいと思わないまでも、間違いなく傑出したものを持っていると主張した。この文章を書いている時点でも(一九五七年だ)、七人の子供たち一人一人の、それぞれの発言の多くを、おおむねのところ驚くべき正確さを持って記憶している『イッツ・ア・ワイズ・チャイルド』のかつてのリスナーがいる。そのようなグループはさすがに層が薄くなりつつあるものの、いまだに一風変わった同人的なグループを形成しており、グラス家の子供たちの中では、一九二〇年代後期から三〇年代初期にかけて活躍した長兄のシーモアがもっとも「聞き応え」があり、もっともむらなく「感心させられた」というのが、彼らのあいだでの合意事項になっている。シーモア以降では、一般的には好感度とアピール度において、末弟のズーイが二位につけている。そして我々はここでは、ズーイに実際的な関心を抱いているわけだから、このように言い切ってしまって差し支えあるまい。・・・

 ・・・

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フラニーのねこちゃん、ブルームバーグくんもこんなかな!?

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What a Wonderful World / 劇団大日座公演

2014-03-30 00:06:12 | 音楽・芸術・文学

What a Wonderful World 宮城公演
~ぼくは想うよ 生きるってことは何て素敵なんだろう~
昭和30年代の田舎の男子高校生の友情を、なつかしい歌あり、行進あり、体操ありでつづるお芝居
<出演>
内田譲、大田翔(テノール)、谷本耕治(シャンソン・演歌)、武田直之(バリトン)、小野寺博、今井英二、福松子平、大立目弘(賛助出演)作・演出:大日琳太郎
ピアノ:山崎教昌、ベース:千葉一樹 <<< ( What a Wonderful World 宮城公演より )

2014年3月20日 一風変わったミュージカルがあって、観てきた。アク友佐々木がOBだからとか言って当夜に前売り券をゲットしてくれた?!仙台市太白区文化センター 楽楽楽ホールにて。3月も下旬というのに午後からみぞれ、道路にはワダチまでできるあいにくの空模様。この前日パソコンは電源部致命傷、装置取替と相成ったため、いまごろ記憶をたどってよたよたアップしている。

田舎の男子高というのは、仙台一高がモデル、というかこれはそのまんま!大日琳太郎座長の意気に感じて、学帽から学生服までそろえての白髪エキストラも多数友情出演。客席には若い女の子の姿も目立つ。おじちゃんおばちゃんの孫かいな、それにしては熱心すぎるとおもったら、なんと現役の在校生ではないか!今や共学になってしまったのであった・・・

客席にいた同期のもと応援団長小林氏、旗を振ってきた方がいいんじゃないかと声をかけたら苦笑い、いま四国お遍路がいいね!と。団長とは腕組みして睨み効かせているのが役目だったような・・・ひけてから一球会会長吉野先輩とバッタリ、足元悪いのでクルマでご自宅まで送っていった。このバレー部先輩、お住まいは元茶畑。真夜中に期せずして母校の正門の前を通って帰ることになり、偶然とはいえふしぎなことだ。

サッチモの往年の名曲What a Wonderful Worldをキーにしての同級生の半世紀の来し方ものがたり。名曲はともかくとして、ほんものの歌手が歌う母校校歌がよかったので勝手に拝借ね。たいぶまえに、校歌の作詞者大槻文彦先生のことをメモっておいたことがあった。「言葉の海へ」(高田宏著)

青葉の山の深緑
すがすがしきを心にて
身をし重んじつつましく
矩をばこえず守るべし

広瀬の川の一筋に
我が私をうちすてて
赤き真心捧げもち
御国のためにつくすべし

劇団大日座主宰のひとの中身は、こちらから、大日琳太郎 Facebook大日琳太郎Twitter だね。 

 

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「ビートルズから始まる」ー 小林克也

2014-03-16 23:06:31 | 音楽・芸術・文学
アビイ・ロード
クリエーター情報なし
EMIミュージック・ジャパン

 はやいもので、もう一年たったか、義母「おばあちゃん」の一周忌法要、このところも法事続き。悲しみか食べ過ぎか帰ってから胃が痛くこたつむり状態。こんなときインタネット・ラジオこれはすぐれもの、Iアプリ「radikker」で、ひねもす首都圏のラジオ・デイズ。ニッポン放送で鶴瓶の「日曜日のそれ」も面白かったが暖かすぎる人柄ゆえつい居眠りしてしまった。目が覚めたらもう6時、bayfm78で小林克也「ビートルズから始まる」、おお、これだ。1964年のきょう、Can't buy me loveがでたという、ちょうど50年前!!"I Want To Hold Your Hand"のドイツ語版をやれといわれゴネたとき、ポールがいいのができたと、それが、これだった、と克也さんがコメント。パリでの録音、たった1日でのこと。

きょうの放送では、ジョンの子ども時代の話。リバプールに寄りつかなくなったオヤジに母親ジュリアが愛想を尽かし姉にジョンをあずけたが、舞い戻った父親のどっちをえらぶとの問いに、父を選ぶと・・・、オヤジはニュージーランドに行くつもりだったのだが。さて、つづきは・・・また。ジョンには、だから・・・陰影があるなあ・・・わかいころのロックでのシャウトもそういうことだなあ、ちょっとおかしな歌だけど(笑)といいながら、半世紀以上も追っかけの克也さんが、「Happiness Is a warm gun」をかけた。

さいごのほうで「Stand by me」、「Love」、そして「A day in the life」についてはジェフ・ベックのインストルメンタルを。これをバックにさせてもらって、ひそかに歌ってもいいな!

Jeff Beck - A Day In The Life (Live at Ronnie Scott's)(+ 再生リスト)

高齢MAC上のItunesのライブラリには2000曲、いまもここでホワイトアルバムを聴いているのだが、ItunesがVer11にアップできないのでiphoneと同期しない。なんかやりかたあるかなあ?APPLEは古いものはドンドン切り捨ててゆくのだ。ムスメのおさがりMACでも待つか、ネットでまたまた買うのも業腹だ。そんなこんなで、新しい映像の発見もあるしで、最近はYouTubeのお気に入りにアップしている。iphoneではそちらから見るのだ。ところが、新しいものに目が行くのだな、どうも。で、クレジットでは際限なくなりそうなのでプリペイドでストア購入、やっぱりお金使わされるわ!

まあ、ずいぶん待ってのiphoneゴールドでPCと連動したのは理想型に近づいたということでよしとするか。アプリなど、アイディアとやる気次第で誰でも作れる時代だ。でも、人まね、コピペではいかんよなあ、プロの偽物まで現れたりして・・・無我夢中なだけだったビートルズは、どんどん成長し20世紀のクラシック音楽といわれるだろうのものを創造し、残してくれたのだ!「4人はアイドル?」だったのではない。「サイドマン − ビートルズに愛された男」 イギリス、ロンドン、奥深いものだなあ。

 

*******

(PS.I ♡U )

ロンドンいいねとシミジミしてたら、FBで大先輩から、これ「いいね!」しなさい、とリクエスト(命令?)来ていた!
仙台公演行かなくちゃ、バレー部10年下の後輩が がんばっている。
「田舎の男子高校」というのは、いまや共学になってしまった仙台一高らしい・・・古い学帽かぶって行けば割引きかな?

What a Wonderful World 宮城公演
~ぼくは想うよ 生きるってことは何て素敵なんだろう~

昭和30年代の田舎の男子高校生の友情を、なつかしい歌あり、行進あり、体操ありでつづるお芝居

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七つの人形の恋物語 / ポール・ギャリコ

2014-03-02 03:12:18 | 音楽・芸術・文学
七つの人形の恋物語 (海外ライブラリー)
クリエーター情報なし
王国社

 この物語は三日で二度読んだ。人形たちが誰が誰でとわかんなくなったからだが、天使のようなこばえちゃんにまた会いたくなったから。このお話をモチーフにしたミュージカル映画「リリー」は往年の傑作らしい。60年ぐらい前のもの、アラ60で巡り会ったわけでぜひ観たいな。でもDVD高すぎるぜ。

これを訳された矢川澄子さんのあとがきがすばらしいのでちょっと長いが書写してみた。矢川さん、天上でギャリコにWell done.と言われたろうな。あの童謡「ぞうさん」の、まど・みちおさんもいまごろ、ぞうさんやヤギさんたちに囲まれて、Well done.と言われてるだろう。夭折した母は乳の出が悪かったのか、実家でヤギを飼ってぼくのミルクにしてくれたらしい。うーん、つい最近知ったことだが・・・あれこれ思い浮かぶと・・・申し訳ないなあ・・・眠れなくなるよ・・・

>>>「七つの人形の恋物語 ポール・ギャリコ/矢川澄子訳 角川文庫」より引用、年月の漢数字部分のみ算用数字に変えた。

訳者あとがき

ポール・ギャリコは1897年7月、ニューヨークに生まれました.父はスペイン系イタリア人のコンサート・ピアニストで、演奏活動のためつい2年ほどまえ、オーストリア出の妻とともに旧大陸からわたってきたばかりでした。
 少年ポールはニューヨークのパブリック・スクールを出ると、コロンビア大学に進みました。はじめに医科をえらんだのは、こうした「さして貧しくもなければさりとて金持でもない」境遇の出で、芸術家稼業がかならずしも楽ではないことを子供のうちから知っていた少年が、彼なりに将来をおもんばかってのことでしたが、結局のところ生来の志望やみがたく、途中から文科に転向しました。
 この間ちょうど第一次世界大戦がはじまり、彼はさっそく海軍予備隊に志願し、後には実戦にも参加して、掌砲曹長として帰還しています。

 もの書きになりたいと考えたのはいつの頃からか、思い出せないほどだとギャリコは後年語っています。とはいえ、作家の卵としての彼はけして華々しい出発をしたわけではありません。才能とか天分とかいうことを顧みるとき、自分の念頭にうかぶのはきまってモオツァルトだったというのは、いかにも音楽家の息子らしいほほえましい告白ですが、現実の彼は下積みの文学青年として、書きあげた野心作を投稿してはさんざん待ったあげくに送り返されてくる、といった悲哀を味わうこともしばしばだったようです。

 卒業後の彼は、生活のためニューヨークの「デイリー・ニュース」社に入り、スポーツ担当記者として働きはじめました。ギャリコが文筆で頭角をあらわしはじめたのは、まずこの分野においてでした。
 もともとギャリコはスポーツ好きで、ハイスクールではフットボールの選手を、大学ではボート部の主将をつとめたほどの経歴の持主でした。そこで、その体力への自信と旺盛な探究心にものをいわせて、取材のために知り合うスポーツ界の名選手たちとつぎつぎに親交をむすび、時には拳闘のチャンピオンとともにリングにのぼり、時にはベーブルースとともに野球場をかけまわり、時にはスピードレースにも参加し、時にはパイロットの免許まで取得するといった縦横無尽の活躍ぶりで、他の追従をゆるさぬ充実した記事をものにし、読者を心からたのしませました。

 この十数年の記者生活は、単なるもの書き稼業のための筆ならしにはとどまりませんでした。ひとりの教養階級出の素直で明朗なアメリカ青年が国際的大作家に生まれかわる、いわば「魔の山」の修業期間でもありました。

 彼はまず記者として社会の裏側を知り、理想では片づけきれないこの世の悲惨や汚辱をまのあたりにつぶさにながめました。おまけにスポーツとは、何よりもまず人間の生身のからだあってこその世界であり、人間のもって生まれた能力の可能性と限界とをどこより赤裸なかたちで見せつけてくれる領域でもありました。この世界をつぶさに知れば知るほど、ギャリコはただに勝利や栄光のむなしさや現身のはかなさを嘆くにとどまらず、この現実をのりこえ、死すべき人間を生かしめるための根源的な救済の手段について深く思いをひそめずにはいられなかったのでしょう。

 こうした思いがきわまって、ギャリコは1936年、『スポーツよさらば』という一巻の引退宣言をさいごに、それまでの人気記者稼業をふっつりとやめ、まずはイギリスの南海岸の漁村に一軒の小屋を買って猫を相手に暮らしながら、かねて念願の創作活動に専念するようになりました。このときすでに彼は39歳でした。
 在職中からすでにアメリカの一流雑誌にぼつぼつ短篇を発表しはじめていたギャリコでしたが、1939年、その長篇の第一作として『ハイラム・ホリディの冒険』が生まれました。これは、長年の新聞社づとめのまに、目立たぬながら男として学ぶべきほどのことはすべて学びつくしたとひそかに自覚する、どうやら作者の分身めいたひとりのアメリカ人が、ふとしたことから多額の報賞金を手に入れて宿願のヨーロッパ旅行に出かけ、これもまた思わぬ偶然から国際的大陰謀にひきずりこまれて、ロンドン、パリ、プラハ、ベルリン、ウィーン、ローマの6大都市をかけめぐりながら波瀾万丈の大活躍をやってのけるという大ロマンで、後にテレビ映画としても評判になりました。

 つづいて1941年、ここに収めた『スノーグース』が発表され、たちまち当時のベストセラーとなって多くの反響をよびおこしました。ダンケルクの悲報はまだ人々の記憶にあらたでした。この一作を以てポール・ギャリコの名は大西洋をとびこえ、国際的にもゆるぎないものとなりました。

 この振りだしの両作品には、それまでの多年にわたる蓄積と、その後の全作品をつらぬくギャリコらしさとが、すでに申し分なく発揮されているように思われます。
 まず、何はともあれストーリーテラーとしての抜群の才能です。とりわけ長篇のばあいに明らかですが、一作ごとに彼はあらたなしかも奇想天外な筋立てを思いつき、過不足ない行届いた筆はこびによってさいごまで読者をひっぱって行ってくれます。これは何もサービスのために、無理して工夫をこらしているわけではなくて、この作家の天性のとどまるところを知らぬ奔放な想像力のなせるわざにちがいありません。
 もうひとつ、ギャリコの特徴はその初々しいまでの清冽な抒情性です。この『スノーグース』のようなどちらかといえば悲劇的な作品においても、そのためけしてべたつかぬさわやかな後味を期待することができます。

 それから、これはもう巨匠として自明のことでいまらさ申すまでもないかもしれませんが、その全作品の基底を脈々として流れる、愛に対する不屈の信念です。ギャリコとキリスト教の直接の関係についてはほとんど知りませんが、少なくとも聖書の一節に見出される「たとえもろもろの御ことばを語り得とも、愛なくば鳴る鐘ひびく鐃鈸のごとし」というあの有名な聖句は、そのまま作家ギャリコの信条であったにちがいありません。彼の作品はまぎれもない、冴えたひびきをたてて鳴りわたる鐘なのです。もろもろのことばを語り得るひとは、ギャリコ自身をも含めて現代にもいっぱいいます。しかし一見高尚に見える純文学や前衛畑のいわゆる芸術的作品のなかに、いたずらにこの鐃鈸のひびきしかたてられぬものがいかに多いことか。それを思うとギャリコのように古典的な作家が二十世紀のアメリカに出現したことの方が、むしろ奇蹟のようにさえ思われます。
 古典です、彼の作品はまさしく「現代の古典」なのです。健全で、しかもロマンティックで、古今東西に通じる文学の大道を、確固たる自覚のもとに堂々と歩んでいるだけです。そういえば、『ハイラム・ホリディ』のなかで、作者はこの主人公について「あんなロマンティックな人ってないわ。あの人は500年ほど遅くこの世に生まれてきすぎたのよ」とある女性に語らせていますが、これはそのままギャリコ自身の微苦笑的な感慨だったかもしれません。ちなみにこの作品の冒頭にあるハイラム氏の素性明しの項には、この「異常なまでにするどい感受性」にめぐまれた主人公が、社会の矛盾に幻滅すればするほどその解毒剤としてのロマンティシズムに惹きつけられてゆく過程がくわしく分析されており、ギャリコの自己省察のほどを示すものとして、この作家を理解するためには見逃せない一章です。

   *

 その後のギャリコはもっぱらモナコ、リヒテンシュタインなどを根城に気ままな暮らしをつづけ、創作のかたわら好きな釣りやスポーツ三昧にふけりながら、1976年に78歳で惜しくも世を去るまで、ほぼ一年一作見当の着実なペースで幾多の名作を世に送り出しました。
 そのうちの主なものにざっとふれておきますと、まず1940年代の作品として『孤独なるもの』(1947)があります。第二次大戦中ギャリコは従軍記者としてイギリスの空軍基地にありましたが、これはそのときの副産物です。あまりにも年若くして戦陣に駆り出されたアメリカ学徒兵の微妙な心の揺れをとらえた美しい中篇で、かつておなじく学徒出陣した作者自身の若き日の面影を彷彿させられます。

 50年代の彼の主要作品は、日本にも比較的よく紹介されています。
 まず『さすらいのジェニー』(原題「ジェニー」、1950)があります。少年ピーターが交通事故で失神しているまに猫に変身して、めす猫ジェニーと知りあい、さまざまな冒険を共にするというギャリコ最初の長篇ファンタジーです。
 この『ジェニー』とならぶ猫物に『トマシーナ』(1957)があり、これもいずれこの文庫に収録される予定です。ギャリコは自作のうちでも猫を書いたものが最も気に入っていると語っていますが、ここではトマシーナは古代の伝説通り九生をくりかえす霊的存在とされ、猫=女そのものであったジェニーのばあいよりも、さらに奥行きのある世界へ読者をみちびいてゆきます。

 女といえば、ここに登場する赤毛の魔女(レッドウイッチ)というあだ名のジプシー女は、むしろジェニー以上にギャリコの理想の女性像かもしれません。野末の掘立小屋にひとり貧しく暮らす女のもとには、あらゆる病み傷ついた獣たちが本能的に惹かれ、慕いよってきます。彼女はただその傷をさすり、いたわり、共に涙するばかりですが、ほかでもないそのやさしさによって、近代医学や合理主義のひややかな魔手に傷めつけられた者たちを、あらたな生によみがえらせてやることもできるのです。

 この二作のほぼ中間に位置するのが、ここにお届けする『七つの人形の恋』、1954)で、年輩のかたには往年の傑作ミュージカル映画「リリー」の原作と申しあげた方が手取り早いかもしれません。絶頂期にあったメル・ファーラーとレスリー・キャロンのコンビが、みごとにそれぞれの役を演じきっていました。
 ここに描かれたムーシュのつつましさには、『トマシーナ』の赤毛の魔女のありようが予告されているとみることもできましょう。ムーシュやジェニーはまだ年若く、自分では気がついていませんが、いずれはこの魔女のような祖妣性に目ざめるべきものなのです。この小説の終り近く、ムッシュ・ニコラの口をかりてのべられる男性論は、キャプテン・コックの真情の告白にとどまらず、ギャリコ自身の全女性にたいする大胆率直な求愛のあかしとも受取れます。

 虚と実、仮面と素顔とが幕一重で隣りあう舞台のおもしろさは、この作家にとってもこたえられないものだったらしく、ギャリコにはこのほかにも、サーカスや芸人の世界を取扱った小説がいくつかあります。
 50年代の作品として見過してならないものには、ほかにアシジの少年とロバとの物語『小さな奇蹟』、無名のお手伝いさんを主人公に仕立てた『ハリス夫人への花束』、『ハリス夫人パリへ行く』などがあります。

 わすれていました、『ジェニー』にさきだつ52年の小品に『雪のひとひら』があります。これは天からふってきた雪のひとひらに托して、生の流れをただよう女の一生を描きあげたもので、着想といい構成といい古今の幻想文学中にもほとんど類例をみない逸品です。

 60年代以後のギャリコには、初期にはともすればその抒情性や詠嘆調のかげに埋もれがちだった彼一流の茶目っ気が、堰を払ったように色濃く前面に押し出されてきた感があります。サーカスの獣と団員たちの交情をえがいた『愛よ、わたしを飢えさせないで』、ジブラルタルの町をあらす猿を主人公にした『スクラッフィ』、人間と拳闘をするカンガルーの話『マチルダ』など、猫にかぎらずさまざまな動物がつぎつぎに意表をつくかたちで登場してきては、ものこそいわね人間そこぬけの役割を演じてみせています。

 その一方、映画化されて有名になった『ポセイドン・アドベンチャー』のようにシリアスで壮大なパニックものもあれば、『戴冠式』のように市井の人々の哀歓をつつましやかにとらえた山本周五郎氏風の中篇もあります。
 幽霊でも神秘家でも、ピッピーでもお巡りさんでも、およそこの世に生きとし生けるものは動物人間をとわず片っぱしからギャリコのまなざしにからめとられて、その作品世界のなかで永遠の第二の生を生きはじめるといったぐあいです。ある作品のまえがきのなかでギャリコは、これは事実ではなく、作者のでたらめもいいところだ(ワイルデスト・イマジネーション)、と記していましたが、このワイルドきわまるという形容は、おそらく作者自身をも翻弄してくたくたにさせてしまうほどの空想力の奔騰を経験した者にのみ口にできることばではないでしょうか。

 晩年のギャリコは青少年向けの作品にも手を染め、モルモットを主人公にした幼年向けの『ジャン=ピエール』シリーズのほか、長篇ファンタジーを二つのこしました。
 天下一品できそこないの尾無しの不具のねずみが、仮想敵の尾無し猫と対決するまでの遍歴譚「トンデモネズミ大活躍』(1968)と、手品師、いかさま師ばかりのギルドの町に、ある日アダムと名のる男が忽然とあらわれ、ほんものの生命の神秘を披露して大恐慌をまきおこすという『ほんものの魔法使』(1966)とで、いずれも作中人物の名まえからして語呂合わせ続出であり、老来ますます自在の境地にあそぶとといった趣きがあります。
   *

 さいごになりましたが、この『スノーグース』は欧米ではすでに二世代以上にもわたるロング・ベストセラーとして読みつがれ、近年にいたってもその人気は衰えるどころかますます高くなって、音楽の世界にまで羽ばたきはじめました。最近出たレコードのひとつはイギリスのロック・バンド、キャメルの演奏によるものです。もうひとつはエド・ウェルチ作曲によるロンドン交響楽団演奏のもので、スパイク・ミリガンの台本による朗読が入っており、日本ではこの春、市川染五郎さん(編集部注。現・松本幸四郎)の語りによってRCAレコードから発売されました。
ギャリコはとりわけ後者の企画をよろこび、作曲者たちとも慎重な打合わせをかさねてレコードの完成をなによりたのしみにしていましたが、惜しくもその録音に先立つことわずか一月たらずで世を去りました。
 
 ギャリコのような作家は今後ともそう多くはあらわれないかもしれません。かつて筆者はこの作家を世界文学の先達ゲーテと思い合せましたが、この頃では彼はむしろ今世紀のジュール・ヴェルヌだったかもしれないと考えています。科学礼賛の19世紀の申し子ヴェルヌにくらべ、失われた自然の復権をもとめるギャリコの名は、時代の代弁者としてこれからもますます高まってゆくにちがいありません。
   1978年5月      訳者 

>>>>

ゲンちゃん、たすけちゃん、春は名のみの風の寒さよ・・・
イエローサブマリン帽子、集会所かな事務所かなHさんの車かな、どっかにわすれてきたなあ・・・
きょうのは全部かたずけたはずだったのに、気になること残してしまった・・・あった、集会所の下駄箱\(^〇^)/ 直前健忘症!?

     

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ハリスおばさんパリへ行く / ポール・ギャリコ

2014-02-23 16:41:55 | 音楽・芸術・文学
ハリスおばさんパリへ行く (fukkan.com)
クリエーター情報なし
ブッキング

 

原題は「FLOWERS FOR MRS.HARRIS」。だけど、インパクトとしては、ナマな感じで日本語訳の方がリアリティがあるな。では、そのハリスおばさんは、いったいぜんたい、なんでパリへなど行ったのかしら。そこで、みたものは、出会ったことは・・・?おしまいはどんなふうに?ハラハラさせられ通しとなるが、温かい人柄が偲ばれるギャラコのお話の進めた方は、なんともすばらしいね。本屋には手に取る気にさえならないのがあふれているが、これは復刻版。いいことだ。それでもすぐ手放す輩がいるのでこっちの手に入るわけで、せっかくだからもっと陽にあててあげてほんとうに復活させたいな。

コックニーというのか、おばさんのお喋りは。だけど、見知らぬ世界、パリの上流社会にとつぜん迷い込んでも、じんせいと自分には自信をもって堂々と。心の底は暖かく、くじけそうになってもいつも陽気に・・・この本の翻訳にえいきょうされて、みょうなところが、ひらがなになってしまった!まあ、いいか。いいおはなしだ。ポセイドンなんかよりもずっと、こちらのほうが、拍手が起きてFINE出るような暖かいいい映画になるだろうに。おばさんは、この何年かあと、ニューヨークにも行ったんだって!お掃除あんなにテキパキやるんでは、カーリングのイギリス代表選手だったのだろか?・・・

おお、おばさん乗ったのBAじゃないか、そのむかしリコンファームしとけなんて言われてドイツの田舎からロンドンに電話して冷や汗、えらいひとがおやまかこやまかわかんなくなったから!でも安心できるヒコーキ会社だな。ムスメもこれで一週間の弾丸旅行とか。

>>>> 「ハリスおばさんパリへ行く ポールギャリコ/ 亀山龍樹訳 fukkan.com ブッキング」より引用

りんごのような赤いほっぺたに、しらがのまじったかみ、いたずらっぽい、いきいきとした小さな目の、こがらなおばさんが、BEA航空のロンドン・パリ間の朝の旅客機に乗りこみ、客室のまどにおでこをぴったりおしつけた。
 ほどなく、この金属製の鳥は、爆音をとどろかせて滑走路をうきあがり、まだくるくるまわっている車輪を胴体に引き入れはじめた。それとともにおばさんの意気も、空高くまいあがったのだった。
 おばさんは、おちつかないでいるものの、おじけついてもいまかった。やっと冒険の旅路につけた。ゆくてには、長いあいだあこがれていたものが待っている。いまこそ、めでたい門出である。おばさんの心はときめいていた。
 
 おばさんは、いくぶんくたびれた。かば色[赤い色をおびた黄色]のあや織りのトップコートにちんまりとくるまり、清潔なうす茶のもめんの手ぶくろをはめて、すりきれたいんちき皮の茶色のハンドバッグをしっかりとだきしめていた。その中には、一ポンド紙幣が十まいーーイギリスから持ち出せる最大の金額ーーと、ロンドン・パリ間の往復切符が一まい、それから五ドル・十ドル・二十ドルのアメリカ紙幣のぶあついたばをゴムバンドでとめたのが、千四百ドルもはいっていた。
 まあ、いまのところ、おばさんのかぶっているみどり色のむぎわら帽だけが、日ごろの。はつらつとしたおばさんににていた。ぼうしのまえのところにくっついている、とっぴょうしもないばらの花が。機体をかたむけて旋回上昇させる、パイロットの手に調子を合わせるかのように、しなやかな茎の先で、あっちへぶらぶら、こっちへぶらぶらゆれていた。

 時間ぎめで、そうじとかたずけものをしにやってくる「おてつだいさん」の、いっぷうかわったサービスをしてもらったことのある、気のきいたロンドンのおくさんならーーいや、イギリス人なら口をそろえてーーすぐに、
「あのぼうしをかぶっている人は、ロンドンのおてつだいさんにきまっていますよ。」
というだろう。まさにそのとおりだった。
 乗客名簿によると、このおばさんはアダ・ハリスーーおばさん自身はロンドンの下町なまりで、いつも、アリスと発音している。住所はロンドンのバタシー区ウィリスガーデンズ五番地。たしかにおてつだいさんで、未亡人だった。
 ハリスおばさんは、ロンドンのおやしき街のイートンスクエアやベルグラビアのお得意さんをまわって、時間ぎめでせっせとはたらいてきた。
 大地からまいあがったこの目のくらむいっしゅんにたどりつくまでのハリスおばさんは、えんえんとうちつづくほねおりを毎日毎日つとめた。いきぬきは、たまに映画をみたり、夜、音楽会へいくのがせいいっぱいだった。

 もう六十ちかうにもなったハリスおばさんが、日ごろ活躍している仕事場は、ごったがえしと、よごれ水と、ちらかしほうだいの世界だった。一日のうちに、六つ七つもあずかっているかぎで、住宅やアパートのドアをあけて、流しにごっそりつみあげてある、よごれた、べとべとするさらやなべ、ごみため、起きっぱなしのしわくちゃのベッド、ぬぎすてたままの衣類などに、いさましくけなげに立ちむかうのである。

 ・・・

 ハリスおばさんは、このような、ひっくりかえった家の中をかたづける。この仕事は、おばさんの身も心もはりきらせ、また生活のかてにもなっていた。これはおばさんが神さまからいただいたお仕事だった。ただ、よごれた場所を清潔にするだけではなかった。ほかのおてつだいさんもそうだが、とくにハリスおばさんは、じぶんのかたづけた家を、いつもほこらしく思った。それに、これはものをつくりだすににたりっぱな仕事だし、むねをはってまんぞくをあじわうことができた。
 ハリスおばさんは、ぶた小屋めいたへやにはいっていって、きれいにせいとんし、ぴかぴかの清潔なへやにかえて去っていく。あくる日やってきて、またまたへやがぶた小屋のようになっていても、おばさんは、これっぽっちもいやな顔はしなかった。一時間三シリングのお礼をもらって、へやをきれいにする。
 このおてつだいの仕事を生きがいにも天職にもしている。小がらなハリスおばさんが、いま、パリゆきの大旅客機の三十人の乗客にまじっているのだった。・・・

・・・

<<<<

今日のお顔、ぼくのお腹の上の、たすけ君はチャーチルみたいな、ではハクちゃんはサッチャー風?チャーチルがご主人だった頃のダウニング街10番地にはネコがぞろぞろ十匹ぐらいいたらしいよ、戦時執務室にも自由に出入りできるネルソン君というのもいて・・・

毎日が猫の日なので、昨日2/22は猫ちゃんの日だったなんて、いろいろあって失念、すまぬ。まあ、これはお礼にギャリコに捧げるのよ。

  


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雪のひとひら / ポール・ギャリコ

2014-02-22 22:31:24 | 音楽・芸術・文学
雪のひとひら (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

 近年には珍しいほど雪が降って庭はいまだに雪の山。冬季五輪のソチはそんなにも雪だらけにはみえないなあ。スノボ/パラレルの竹内さんの大回転の写真の一枚がすばらしい。両手をバランスしての突っ込み、ダイナミックなターンの一瞬。雪か、ポール・ギャリコの「雪のひとひら」、雪の一生、それとも女の一生・・・訳者の矢川澄子さんのあとがきもすばらしいので、わすれないようにしておこう。こんなことをしていたら、ぼくの生まれた頃の父のことも知ってくれていた、妻のほう今野のおじさんの訃報がはいってきた。元茶畑も会社も大先輩お世話になった、二月という月はなんともいかんな。午前中は淵ちゃん先生に診てもらったが、どう調子は?まあまあ、ということにした。う~ん、H−A1C悪くなったね、ずっと風邪ぬけなくって・・(まあ2ヶ月前の測定だから、まあ、いいか、食べ過ぎ?メランコリー?)、コマとどっか暖かいとこに行ったの?あれもダイエットさせないと、アハハ、この前カガはいいなあ、おくさまが・・・って言ってたよ・・・

<<<< 「雪のひとひら ポール・ギャリコ/矢川澄子訳 新潮文庫」より引用 ・・・・・・:中略

 雪のひとひらは、ある寒い冬の日、地上を何マイルも離れたはるかな空の高みで生まれました。
 灰色の雲が、凍てつくような風に追われて陸地の上を流れていきました。その雲の只中で、このむすめのいのちは芽生えたのでした。
 すべては立てつづけに起ったことでした。はじめはただ、もくもくとしたその雲が、山々の頂をただようているばかりでした。それから雪がふりはじめました。そして、つい一秒まえまでは何物もなかったところを、いま、雪のひとひらとその大勢の兄弟姉妹たちが空からおちつつある、ということになったのです。
 まあ、おちる、おちる、おちる!ゆりかごにでものったように、やさしく風にゆられ、右ヘ左へ、ひらひらと羽のようにふきながされながら、雪のひとひらは、いつのまにか、いままでついぞ見も知らぬ世界にうかびでていました。

 じぶんはいったいいつ生まれたのか、またどのようにして生まれたのか、雪のひとひらには見当もつきませんでした。あたかも、ふかい眠りからさめたときの感じにそっくりでした。ついいましがたまでどこにも存在しなかったこの身、それがいま、こうしてくるくる、するする、すいすい、ずんずん、ひたすら下へ下へとくだってゆくところなのです・・・・
 雪のひとひらはひとりごちしました。「わたしって、いまはここにいる。けれどいったい、もとはどこにいたのだろう。そして、どんなすがたをしていたのだろう。どこからきて、どこへ行くつもりなのだろう。このわたしと、あたりいちめんのおびただしい兄弟姉妹たちをつくったのは、はたして何者だろう。そしてまた、なぜそんなことをしたのだろう?」
 問いかけてもこたえはありませんでした。空では、風がふいても音はしませんし、空そのものが静かなところなのです。地上でさえ、雪がふりはじめるときは、しんとしています。
 あたりを見まわすと、目のとどくかぎりはいちめんに、幾百幾千ともしれぬ雪たちが、おなじようにして舞いおりてゆくところでした。この雪たちもやはり、だまったままでした。
・・・・・・

・・・・・・

・・・・・・

いかなる理由あって、この身は生まれ、地上に送られ、よろこびかつ悲しみ、ある時は幸いを、ある時は憂いを味わったりしたのか。最後にはこうして涯しないわだつみの水面から太陽のもとへと引き上げられて、無に帰すべきものを?
 まことに、神秘のほどはいままでにもまして測り知られず、空しさも大きく思われるのでした。そうです、こうして死すべくして生まれ、無に還るべくして長らえるにすぎないとすれば、感覚とは、正義とは、また美とは、はたして何ほどの意味をもつのか?

 そのひとは何者か。この身に起ったことどもを、あらかじめそのように起るべく計らったそのひとは?何ゆえにそのように仕組んだのか。この身を唯一無ニのかがやかしい結晶体に仕上げ、空からふうわりと送り出したのは、ただにそのひとの気紛れにすぎなかったのか。それとも、こうしたことすべての裏には、彼女には測り知れない何らかの目的がひそんでいるとでもいうのか?
 そのひとは、結局のところ、雪のひとひらのことをわすれてしまったのか?ひとたびはそのひとの愛をうけた雪のひとひらでした。記憶はたしかでした。あのように、あらゆる災いからたしかに守られているという、ほのぼのと、こころよく、やさしくもなつかしい感じがあったのでした。とはいえ、そのひとは、たちまち彼女に飽いて突放し、おのれの創造になるこの神秘な世界をあてどもなくさまよわせ、さまざまな憂目に会わせたのではなかったか。
 
 海はいまや眼下に遠ざかりました。白熱の太陽は彼女をしっかりととらえていました。いまでは雪のひとひらのすがたかたちも、長年馴染んできた愛らしい透明なしずくではなくなり、しなび、干上りつつありました。まもなく中空に一抹の蒸気がふわりとただようのみで、すべてが消滅することでしょう。
 頭上はるかな高みには、ふわふわした白雲がひとつ浮かんでいました。あれがわたしの行きつくところなのか?雪のひとひらは、自分のいのちのふるさとが雲の中であったことを思い出しました。

 とはいえ、臨終のこのときにあたり、雪のひとひらの思い起こしたことは、それだけにはとどまりませんでした。
 かすみかけた彼女の目のまえに、いましもその全生涯のできごとがくりひろげられたのです。
 まず、雪のひとひらは山の辺にふりつもり、赤い帽子と手袋をした小さな女の子が彼女を橇でひいて通りすぎたのでした。
 それから、村の校長先生そっくりの雪だるまの鼻にされ、通りがかりの人々がその雪だるまを見ては、わらって、憂さ晴らしをしてくれました。
 それから、春がきて、丘をころがりおりて、森蔭のすみれの眠りを目ざめさせました。
 それから、水車めぐりにまきこまれ、粉挽の臼をまわして小麦を粉にし、一人の女に子供や夫のためのパンを焼けるようにもしてやりました。
 それから、なつかしいやさしい一しずくの雨と交わり、彼を愛し、彼とともに湖に入り、生涯の至福の日々をそこですごしました。

・・・・
 鼓動はすこしずつ、すこしずつ弱まってきました。まもなく雪のひとひらは雪のひとひらであることをやめ、宏大な無言の天空の一部、おぼろげにかすむ秋の雲のひとかけにすぎなくなるはずでした。
 けれどもこの終焉のきわに、彼女はいま一度、はるかな昔にはじめて空から舞い降りてきたときに感じとったこととおなじ、あのほのぼのとした、やわらかい、すべてを包み込むようなやさしいものが身のまわりにたちこめるのを感じました。
 それは彼女を甘やかな夢にいざない、おそれを鎮め、全身全霊をよろこびでみたしました。

 こうしてようやくわかりました。そうです、何者が雪のひとひらをつくり、雪のひとひらを見守り、大小を問わずあらゆるものとおなじに始終雪のひとひらをもいつくしみつづけてくれたのか、その究極の神秘は、ついに彼女には解き明かされぬままに終わるのでした。この期に及んではわざわざ知るまでもありませんでした。なぜなら、誰のしわざにせよ何者のゆえにせよ、まもなく雪のひとひら自身がその何者かの一部に帰するさだめであったのです。
 大陽が彼女を頭上の雲の中心にひきずりこむ間際、雪のひとひらの耳にさいごにのこったものは、さながらあたりの天と空いちめんに玲瓏とひびきわたる、なつかしくもやさしいことばでした。ーー 「ごくろうさまだった、小さな雪のひとひら。さあ、ようこそお帰り」
(了)
>>>

<<<(愛のまなざしのもとにーあとがきに代えてー 矢川澄子(訳者)」より
・・・
美しさといえば、全篇のここかしこにちりばめられた自然描写、情景描写のことごとくが生き生きとした美しさにみちあふれ、主人公雪のひとひらのこころを揺りうごかすとともに、読者であるわたしたちをも深い感動にさそいます。人生最初のあけぼのの壮大なパノラマ、岩走る春のせせらぎの気も狂うばかりのよろこび、湖畔にたわむれる子供たちのはしゃぎ声、その鳶色の脛・・・
 とはいえ、作者ギャリコがこの一篇でえがきだそうとしたものは、はたしてそのような美ばかりだったのでしょうか。美の問題にかこつけて、いまひとつだけいわずもがなの私見をつけ加えさせていただくとすれば、この小説の主題はやはり愛のこと、もしくは美と愛との一致するところにあり、その答えは最後の数行に尽くされていると思うのです。
  臨終の雪にひとひらの耳に、なつかしくもやさしいことばがきこえてきます。 ーー 「ごくろうさまだった、小さな雪のひとひら。さあ、ようこそお帰り」
 これです。これこそはおそらくこの世でもっとも甘美なささやきではありますまいか。
 ことばそのものは、ごくありふれた、あたりまえの挨拶にすぎないかもしれません。暗い夜道を一人とぼとぼと歩いてきたわが子を迎え入れる父母のことば、戦いに疲れ傷ついて戻った夫をまちうける妻のことばとおなじ、いたわりとねぎらいのことばですが、しかしこれはもちろんことばの上だけにとどまる問題ではありません。原文を知りたいかたのために書き記せば、“Well done, Little Snowflake. Come home to me now," ですが、この Well done が心からいわれるためには、相手のなしてきたことにたいする理解、その辛さ、さびしさ、苦しさを読みとるだけのまなざしが当然なくてはなりますまい。
 苦労ばかりではありません。よろこびもかなしみも、時には人知れず犯した罪でさえも、誰かに打明けてわかってもらったというそのことによってはるかに心救われたためしも数々あるでしょう。逆からいえば、このWell done の一声をどこかに期待できるかぎり、なかなか絶望などということはありえないのでしょう。
・・・>>>

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スノーグース / ポール ギャリコ

2014-02-15 17:56:31 | 音楽・芸術・文学
スノーグース スノーグース
作:ポール・ギャリコ / 絵:アンジェラ・バレット / 訳:片岡 しのぶ出版社:あすなろ書房絵本ナビ

 

ポール・ギャリコの初期の名作「スノーグース」を読む。2007年にアンジェラ・バレットが描いて見事なハードカバーの絵本になった、絵描きはいいなあ、短篇だが埋もれさせてはならない文学作品を復活させてくれた。物語のあらすじなど捜せばすぐわかったような気にはなれるし、表記のサイトでは絵まで少し立読みできる。だけど、こういう本は手もとにおくべきだ。副題は、ダンケルクの物語なのか・・・

チャーチルの回顧録を読んでいたころ連合軍のイタリア奪回までいったが、数万円するはずの稀少本にコーヒーがかぶるという大事故以来数年も放置状態である。フランス・ダンケルクからの英本土への「大部隊の海峡横断による緊急撤退」は、ロンメルも先頭にいたドイツ機甲師団怒濤の進撃の前に唯一の選択肢だったようだ。「This was their finest hour」

>>>「第二次世界大戦(上・下)W・S・チャーチル著/佐藤亮一訳 河出書房新社」より引用
「・・・ われわれは(1940年)5月24日午前11時42分、ダンケルク戦線への攻撃を一時中止せよというドイツ軍の明文電報を傍受した。...28日早朝、ベルギー軍が降伏した。...5月31日と6月1日はダンケルクの最後ではないが絶頂であった。この2日間に13万2千名の兵士が無事にイギリスに上陸したがそのうち三分の一近くは猛烈な空襲と砲撃の中を小舟艇で海岸から引き上げた。...6月4日フランス兵2万6165人がイギリスに上陸した。...6月4日午後2時23分海軍省はフランスの同意を得て「ダイナモ作戦」の完了を発表した。イギリスに上陸したイギリスおよび連合国軍兵士は、33万8千人余りに達した。」
<<<

この短篇「スノーグース」が書かれたのは、その翌年1941年7月。新聞記者もやったギャリコだから、短篇の下敷きになったことが本当にあったのだろうなあ・・・身体のハンディキャップを持つ画家ラヤダーは他人に背を向けて生きて居たが、鳥たちや傷ついた白雁を持ち込んだ少女に心をひらいてゆく。白雁も少女も毎年訪ねて来てくれるようになってきたが、そのころあの戦争は起った。ダンケルクに足止めされた同胞を救いに小さなヨットで出かけ、浜辺から沖の輸送船に大変な數の兵士たちを運ぶ、そして・・・

スノーグース・白雁のような渡り鳥さえ命の恩人のこと、愛してくれたひとのことは、ずっと決して忘れない。動物学者ローレンツ博士の本『ソロモンの指環』にも高々度の空からでも飼い主目がけて一直線に舞い降りる鳥の話があった。出会いから十年、少女は乙女になり・・・男の残したものは、傷ついた白雁を抱いた少女の絵が一枚・・・チャーチルからみれば何十万人、少女と白雁にとってはたったひとりのかけがえのないひと・・・

鳥は自然の中で自由だが、うちの猫は不自由か?二匹とも炬燵でぬくぬくだから、そうも思えない。この大雪の中げんちゃんの犬小屋に忍び寄ろうとしていた三毛猫よりはずっといいじゃないか。かわいそうだから豚肉やドックフードおすそわけしてやったが、いけないことだ、こまったなあ、どこのねこだろう、純野良にしては丸々しすぎているし...さて、こっちとら、そうもヌクヌクしていられず町内会やテレビ組合で土曜日夜は毎週何時間かとられるし今日もいまから。雪もまた降って来てせっかくの雪かきは殆ど徒労に、もういい・・・

 

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変身のニュース

2014-01-05 13:08:34 | 音楽・芸術・文学
変身のニュース (モーニングKC)
クリエーター情報なし
講談社

 

賀正

 

きょうは特別な日?、べつに、いつもと変らないけど。ひとごとと思ってた ♫ When I'm sixty-four・・・

 たすけちゃんをだっこしてYouTubeばっか、文字のこっちはずーと休眠ちゅう・・・

きのうの朝日に載ってたスプツニ子さん、あんな若いのに・・・awesome !

こちとら倍以上お日さまの周りを回ってしまったよ・・・僕は問題ありません・・・じゃないか・・・

いいかげん変身しないといけないんだ・・・

だから、宮崎夏次系の漫画本をみてたよ・・・すっばらしい !

才能ゆたかだな、ムスメの出た高校何年か先輩かも、じゃ、おにいの何年か下かいな・・・モーニングのWEBでもサワリが見られるね

おっと、たすけちゃん、♫ 捜しものはなんですか?

 

♫ 夢で逢えたら 素敵なことね・・・  ♫ 目立たぬように はしゃがぬように・・・

みんないなくなるなあ・・・このぶつぶつが、♫ 最後のニュース になりませんように・・・

いつのまにか、たすけはまた、おなかの上に・・・じゃましないようにはやく投稿するか・・・

おお!?ジャマ、イーカ、暮のだけど (いやがってるじゃないか、けっこうノッテた?)ぶつぶつぶつ・・・

   

(大晦日)

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遥かなる未踏峰 ー ジェフリー・アーチャー

2013-05-29 00:50:56 | 音楽・芸術・文学
遥かなる未踏峰〈上〉 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

 三浦雄一郎氏、エベレストから下山、カトマンズの空港で「酸素が濃いな・・・」。7年前に記録しておいた「三浦ファミリー!」、このあと75歳でまた登り、今また80歳で、「いくつになっても夢をあきらめない.その基本として健康、体力、気力を持てるということが必要」「よせばいいのに合計1時間ぐらい(酸素)マスクを取った。逆に疲れた。別のゾーン(次元)の空気だった」(毎日新聞2013.5.27より)、たいした怪物ですなあ。

エベレスト、チョモランマというべきなのだろう。ちょうど、ジェフリー・アーチャーの「遥かなる未踏峰」(Paths of Glory) を読んでいたところであった。文庫本の後書きから引用させてもらえば、— エヴェレストに挑み「なぜ登るのか?」と訊ねられ「そこに山があるからだ」と答えた悲劇の登山家ジョージ・マロリーGeorge Herbert Leigh Mallory 。彼は山頂にたどり着くことができたのか?いまでも多くの謎に包まれている彼の最期・・・—

名前だけどこかでうろ覚えの人であったが、「そこに山があるからだ」はマロリーの言葉。この人物に、ぼくのお気に入りの作家ジェフリー・アーチャー氏が迫ってくれたすばらしい小説だ。アーチャーさんの産物はCat-O'Nine-Talesもメモし、その後ゴッホの謎解きも面白かったが最近とんと御無沙汰していた。ところが出版社の言う所で、壮大なるサーガとか、「時のみぞ知る」Only Time Will Tell がいよいよ開幕だという。本国ではすでにこの「クリフトン年代記」第3部迄出たがこちらでは最近戸田裕之さんの翻訳で出たばかり。面白すぎてあっという間に読んでしまった。昔のリッチマン・プアマンを凌ぐドラマも作れそうな感じ。第2部以降は邦訳はすぐ出そうにないので道草喰っていたのが2年前出た、この本。

アーチャーさんが、新田次郎みたいな山と山男/山女の話を書くのかなあと思ったら大違い、人物のものがたりであった。マロリーはこれでまたまた21世紀に生き返ったすばらしい史伝、だけど、物語の最後には、やはりまた亡くなってしまった、残念。1924年6月、37歳の短い一生であった。日本では大正13年、オヤジや五十人町のおじいちゃんの生まれたころ。頂上まで600フィート(約182M)の「セカンドステップ」に立つマロリーとアーヴィンの姿が27300フィート(8321M)の第6キャンプのオデールの眼に入った。がまもなく霧のなかに消えた・・・75年経った1999年5月、マロリーの遺体が見つかる・・・マロリーは、いまエベレスト8164メートル地点に眠る。

孤独なむさくるしい蜘蛛男のような山男かというと、さに非ず、ケンブリッジを出た明るいインテリだったようだ。お友達の一人には「ビクトリア女王」の伝記作家リットン・ストレイチー、教師をした時代の教え子に、I,Claudius / Claudius the GOD「この私、クラウディウス」のロバート・グレイブズ。ジョージ・マロリー、第5キャンプでもイーリアスの翻訳をつづけ、ジョイスのユリシーズを読んでいた人だ。無事に下山出来ていればどれほどの仕事と作品を残したことか・・・ジェフリー・アーチャーが描いたものはジョンブル魂、よき家庭人、イギリス人の理想とするもの、と解説で三橋曉氏は書いている。最愛の妻ルースにあてた膨大な手紙の最後は頂上アタックの第6キャンプに残されていた。栄光への途のみ目指したのではない人の、命がけのラブストーリーであろう。

1953年のきょう5月29日はヒラリー卿がテンジンとともにエベレスト登頂に成功した日のようだ。偶然知ったことで、これはそのうち忘れるだろう・・・

*****

NHKBSプレミアム「ザ・プロファイラー」—エベレスト人類初挑戦伝説の登山家マロリー(2014.3.5)を観た。第3次遠征隊の第6キャンプとマロリー最後の笑顔の動画像その他の写真が観られたのが収穫だったが、どうも違うなあ、という感じ。酸素ボンベも使うこと自体が邪道と言われた時代だったのだろうし・・・それよりも、肌身離さず持っていたルースの写真は、遺体からは見つからなかった、だから・・・アーチャーの作家としての嗅覚。これをボクも信じて、登頂成功後の下山中でのザイルパートナー滑落が命取りになったと、思いたい。まあいいか、今日の番組の視点はその部分ではないから・・・(2014.3.5追記)

遥かなる未踏峰〈下〉 (新潮文庫) 新潮社

 

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個展 ー「いつか芽吹く日に」

2013-03-01 23:55:59 | 音楽・芸術・文学

  

 先週はこちらの母が大腿部骨折、病院に泊まり込み、どちらの母も予断をゆるさず。ゆーうつなことばっかりなので、ムスメの個展を見に行った。2月の最後の日、とうきょうは、もう18度。そのむかしキミがそんざいもしないころ、むこうのほうの森Bにオフィスがあって夜遅くに日比谷線、六本木交差点は連夜、田舎ならばお祭り騒ぎ。さいきんは、美術館のはいった大きなガラスビルがさんかくけいのポイントに、きれいな落ちついたいい街になった、キミはいいときに出くわしたよ。ビルの谷間にある小さなギャラリー、おしゃれなビルと樹木とフリーな空間の風情、なかなかいい感じ、都会はこうでなくっちゃ。

リキテックス アートプライズ 2012 準グランプリ展 佐竹真紀子 個展  「いつか芽吹く日に」  

2013年2月19日~3月9日 / GALLERY TRINITY 東京都港区赤坂9-6-19 1F

 

 東京ミッドタウン、カッペ・・・ 

   これが作家の肖像  

 

   丸を使って端面を活かす、馬上の少女は飛躍した

 

    

   彫ってばかりいたが、浮き上げたりもするんだ

 くちなしもいいけど鳥や魚が動きがあっていいなあ, だいすきな観覧車にはうちの家族も乗ってる

 丸はスタイロフォーム地にアクリル絵の具、もう少し極める、秋にはロンドンへも・・・

 「幸せだけ正夢になれ」

 

  

 

   

近くの国立新美では「五美大展」1031人の卒業制作。GALLERY TRINITYも含む六本木周辺の6ギャラリーで、若手芸術家による展覧会 Roppongi α Art Week2013も開催中、3月3日まで。
(というので今日は、ムスメはとうきょうなんかにやるもんじゃないわ、さびしがってるママも飛んで行った。桃の節句、作家は・・・でいないはずだよ~、3/3付け足し。どうやら逢えたみたいだ・・・)

 

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鹿児島阿房列車 ー 百鬼園先生

2012-04-01 15:43:38 | 音楽・芸術・文学
第一阿房列車 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

 

百鬼園先生の連作第一回目「特別阿房列車」の出だし。「阿房列車と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなどとは考えてはいない。用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。何にも用事はないけれど、汽車に乗って大阪に行ってみようと思う。・・・」昭和25年のはずだから、戦後やっと少しは落ちついて来たころか、その時代の明るさの気分が、阿房列車シリーズ全体に感じられる。僕が生まれた年だ、ああ、生きた時代が重なっていてくれたと、百鬼園先生にますます親しみを感じる。

どの旅の感じもなかなかによいものだが、「鹿児島行」から先生が故郷の岡山を通り過ぎるあたりまでを記憶にとどめておこう。先生の「無用の用の旅」は昭和20年代後半から30年代初頭。僕はオヤジの転勤で仙台から福島に移った幼稚園前後の歳だが、汽車は特に夕方の風情、すれちがう最後尾の展望車の真っ赤なテールランプの記憶が今でも鮮烈である。駅裏にも住んだから、大きな蒸気機関車の入替、炭水車への石炭の搭載をながめたせいで、HOゲージの模型にはまったときもある。天賞堂、珊瑚模型・・・、レールなどはイギリスのPECO・・・人間の模型の様な息子が現われてからは暇も金もなく止めてしまった。二十数年ぶりで段ボールを開けたら、キューロクや造りかけのD51、ディーゼルDD51もあってうしろは貨物車ばかり。「はと」か、銀河鉄道でも再現しようと思ったが「貴婦人・C62」もいないし客車も足りずとても無理。せめて特急ヘッドマークだけでも・・・

  

先生が出発して行った有楽町と新橋の間の高架線、何年かあの近辺で毎晩遅くまでアクセク働き、有楽町、日比谷、新橋、ガード下あたりもうろうろしていた。上から眺めてもしょうがないです先生、下の方が断然面白いのだ。あれからでもずいぶんたってしまった。もっと昔、寝台特急ハヤブサか、ついたのは西鹿児島、北ではニセコなんかも何回か乗ってるなあ。もう電気機関車の時代だったけど。しかし小樽の手前辺りのトンネルで窓閉めず煙が入ってきてあわてたのはいつであったか、ローカルかなあ、岡山へも何度かとんぼ返りをしたことがあった。あーあ、往時はただ茫茫・・・4月1日は旅立ちの日なのに・・・輝いていた頃と良き時代を思って何が悪いか・・・ぼんやりと、追いまくられない旅に行きたいものだ・・・・センバツの八戸・光星、ノースリーから打った、センターフライかとも思ったが越えろと走ったという、一生の宝になるランニングホームランだね・・・

 

>>>>>>以下、「第一阿房列車 内田百間 鹿児島阿房列車 前章より引用」

 (ちっとや、そっとの)

六月晦日、宵の九時、電気機関車が一声嘶いて、汽車が動き出した。第三七列車博多行各等急行筑紫号の一等コムパアトに、私は国有鉄道のヒマラヤ山系君と乗っている。二重窓を閉め切って、カアテンが引いてあるから、汽車が動き出しても外が見えない。歩廊の燈が後へ行く景色はわからないが、段段勢いづいて来る震動で、もう東京駅の構内を離れようとしている見当はつく。この列車は新橋には停まらない。

昔の各等列車は一等車が真ん中にあったが、今はそうでない。一等車二等車三等車の順に列んで、下りの時は進行方向の先の方に一等があるから、従って機関車に一番近い。だから発車信号の吹鳴が手に取る様に聞こえた。電気機関車の鳴き声は曖昧である。蒸気機関車の汽笛なら、高い調子はピイであり、太ければポウで、そう云う風に書き現わす事が出来るけれども、電気機関車の汽笛はホニャアと云っている様でもあり、ケレヤアとも聞こえて、仮名で書く事も音標文字で現わす事も六ずかしい。巨人の目くらが按摩になって、流して行く按摩笛の様な気がする。

巨人と云うのは日本の大入道の事ではない。ゴヤの描いた巨人の絵を写真版で見た事がある。半裸の巨人が大きな山脈の上に腰を掛けて、うしろの空に懸かっている弦月を半ば振り返って眺めている。その巨人は目くらではない。出目で、ぐりぐりした目玉に月の光が射している様な気がした。同行のヒマラヤ山系君は、柄は小さいが少し出目である。
「出目でない、奥目には、利口な人が多いですね」と或る時意味ありげな事を云った。

窓にカアテンが垂れていて面白くない。まだまだ寝るどころの話ではないから一方に片寄せて、硝子越しに外を眺めた。有楽町と新橋の間の高架線を走っている。走って行く方向の右側は、ドアがあって廊下を隔てているから、見えない。左側の数寄屋橋辺りから銀座裏にかけて、ネオンサインの燈が錯落参差、おもちゃ箱をひっくり返した様に散らばって輝いている。

これから途中泊まりを重ねて鹿児島まで行き、八日か九日しなければ東京へ帰って来ない。この景色とも一寸お別れだと考えて見ようとしたが、すぐに、そう云う感慨は成立しない事に気がついた。なぜと云うに私は滅多にこんな所へ出て来た事がない。銀座のネオンサインを見るのは、一年に一二度あるかないかと云う始末である。暫しの別れも何もあったものではないだろう。
こないだ内から、抜けかけた前歯がぶらぶらしている。帰って来る迄にどこか旅先で抜けるだろう。行く先は鹿児島だから遠い。鉄路一千五百粁、海山越えてはるばるたどりついたら、折角の事だから、抜けた前歯を置き土産にして来ようか知ら。宿は城山の中腹にあると云う話しなので、そこはもう立つ前からきまっている。城山に前歯を残して帰る亦可ならずやなどと考えながら、舌の先で押して見たら、思ったより大きく動いた。行き著く前に落ちない方がいいから、そっとしておく。
係りのボイが来て、菓子折の包みの様な物と手紙をそこに置いた。


お見送りの方から、と云ったので驚いて尋ねた。
「だれか見送りに来たのか」
しかし汽車はもう走っている。
ボイが云うには、お見送りにいらした方が、これを赤帽にお託しになって、赤帽が持ってまいりました。
腑に落ちないけれど請取って、手紙を見た。
夢袋さんの手紙である。表に麗麗しく私の名前が書いてある。ボイがどうして見当をつけたか解らないが、手紙の宛名通り、私は私に違いないから止むを得ない。しかし困った事である。これから明日の午頃まで世話になり、その間にいろいろ我儘をしようと予定している矢先に、そのボイにこちらの正体を見破られたくなかった。
手紙には、「御命令に従ってお見送りはいたしませんが、プラットホームを通って、車中の先生のお元気なお姿をひそかに拝し、」とあるけれど、カアテンが下りていて、発車前の寝台車は外から見ると霊柩車の様である。中身は拝見は出来なかったが、きっとそのつもりで、手紙はうちで書いて来たのだろう。

御命令に従って、と云うのは、抑も最初の特別阿房列車の時は、見送りに来てくれた椰子君が車室に侵入し、先生が展望車でえらそうな顔をしている所を写真に撮ろうと思って、写真機はこの通り持って来たけれど、フィルムがない。途中二三軒聞いて廻ったが、どこにもないので、残念ですと云った。フィルムがなかったので虎口を逃れたけれど、そんな事をされたら、同車の紳士の手前恥を掻いてしまう。
夢袋さんはこの前の区間阿房列車の時、三等車の窓際に起って、先生がお立ちになるのに、駅長はなぜお見送りに出ないのだろう。行って呼んで来ましょうか、と大きな声で云ったので肝を冷やした。

二件とも物騒な前例であるから、今度はあらかじめ両君に別別の機会に、お見送りの儀は平に御容赦下さる様頼んだ。
夢袋さんはそれでも是非にと云う事なので、事わけをわって話した。僕は体裁屋である。車中ではむっとして澄ましていたい。そこへ発車前にお見送りが来ると、最初から旅行の空威張りが崩れてしまう。僕は元来お愛想のいい性分だから、見送りを相手にして、黙っていればいい事を述べ立てる。それですっかり沽券を落とす。どうでもいい事で、もともと沽券も格好もあったものではないのだが、そこが体裁屋だから、僕の心事を憐れんで、見送りには来ないで下さいと頼んだ。

夢袋さんが私の話を納得したので、安心していると、顔を出さない見送りを敢行して、鞄にぶら下げた名刺にはヒマラヤ山系君のを使ってある程気をつけて隠した私の正体を、手紙の名宛で暴露してしまった。私がそれ程有名だと考えているわけではない。ただ商売柄、世間のどの筋かに私の名前を知った者がいないとは限らないから、用心したに越した事はない。現に係りのボイは私が心配した筋の一人だったと見えて、忽ち私を認識し、手紙を取り次いだ後は、人の事を「先生、先生」と呼び出したから、夢袋さんの諒解しない意味で私は肩身の狭い思いをした。


手紙に添えた包みには、サントリのポケット壜と私の好物の胡桃餅が這入っている。
しかし、旅中ウィスキイは飲まない方がいい。
「ねえ山系君」「はあ」「旅行中ウィスキイは飲んではいけないだろう」「飲まなくてもいいです」「その鞄の中に気附けの小壜も這入っているけれど、それは勿論飲む可き物ではない。夢袋さんのこれも、飲むのはよそうね」「はあ」「旅行中ウィスキイは飲んではいかん」
山系に申し渡したのか、自分に申し聞けたのか、その気持ちは判然としないが、今度の旅程八日の内、前半の4日目辺りには、どちらの壜も空っぽになっていた。

夢袋さんの手紙の最後には、こう書いてある。「ラヂオが颱風ケイトの来襲を告げておりますので心配いたしております。ケイトに向かって雄雄しく出発する阿房列車のつつがなきことを切にお祈りいたします」

ケイト颱風の事は、出る前から心配しているのであって、必ず無事だと云う確信はない。しかし旅先のどこかで、きっとぶつかるともきまっていない。うまく行けば、颱風が荒らした後へ行き著く事になるかもしれない。どうなるか解らないが、凡てはその場の風まかせと云うつもりで出かけてきた。

もうとっくに品川駅を出て、段段速くなっている。汽車のバウンドの感触は、いつ乗っても気持ちがいい。そろそろ車中の一盞を始めようと思う。
三七列車は、各等聯結の急行であるが、食堂車がついていない。それは前から解っているので、魔法壜を二本買って、お癇をした酒を入れて来た。夜九時の発車でそれから始めれば、いつもの私の晩のお膳が大概九時から十時頃に始まるのと同じ時刻である。その癖になっているから、腹がへってはいない。山系君はそうはいかないかも知れないけれど、いい工合に彼は腹がへった顔をしない男だから、それでいい事にしてほっておいた。

それでこれから始めようと思う。今晩の晩餐の用意には、二本の魔法壜の外に、有明屋の佃煮と、三角に結んだ小さな握り飯とがある。テエブルの代わりには、片隅の洗面台に蓋をしたのがその儘使える。しかしそれに向かって腰を掛ける場所は、後で寝台になる座席しかないから、そうすると私は山系と同じ方を向いて並び、気違いが養生している様な事になる。そっち側で一人腰を掛けられる物を、何かボイに持って来て貰おうと云う事になって、そう云ったら、丁度高さの工合のいい空の木箱を持ち出して、古いカアテンを幾枚もその上に重ねてくれた。それでクッションのついた腰掛けが出来た。山系君が木箱に腰を掛け、私は座席の上に坐り込んで、
「さあ始めよう』と云う段取りになった。
燈火は窓枠の上の蛍光ランプである。
魔法壜から、持参の小さな杯に注ぐのは中中六ずかしい。揺れているから、手許がきまらない。しかし暫らくすると、手の方が車の震動に順応して、調子が合わせられると見えて、もうちっともこぼれない。
カフェやバアに行けば、蛍光ランプは普通かも知れないけれど、私は知らないから珍らしい。しかし目が慣れれば別に変わった所もない。ただ窓の外の燈がへんな色に見える。今まで東海道本線の右側を走っていた桜木町線の電車が、東神奈川に近づく前から跨線で本線の左に移っているので、カアテンを片寄せた窓越しに上り下りの電車が走っているのが見える。電車の燈火の色が変で、赤茶けて、ふやけている。それを見た目を車室内へ戻すと、明るくて美しいと思う。

「蛍光ランプのあかりで見ると、貴君は実にむさくるしい」
「僕がですか」
「旅に立つ前には、髭ぐらい剃って来たらどうだ」
「はあ」
「丸でどぶ鼠だ」
「僕がですか」
「そうだ」
「鹿児島へ行ってから剃ります」
自分で鼻の下を撫でて、「そうします」と云い足した。
暫らく散髪にも行かないと見えて、頭の毛が鬱陶しくかぶっている。襟足が長いので、その先がワイシャツのカラの中に這入って、どこ迄続いているか、外からは解らない。熊の子に洋服を著せた様である。胴体は熊で、顔はどぶ鼠で、こんなのはヒマラヤ山の山奥へ行かなければいないだろう。
しかし、無理を云って、繰り合わせて同行して貰ったのだから、もてなさなければ悪い。
魔法壜を持ち上げて、「さあ一つ」と云ったが、思ったより軽かった。
「あんまりなさそうだな」
「あまり這入りませんからね」
山系君は杯を前に出したが、いつもの癖で猪口の縁を親指と中指とで持ち、その間の使わない人指指は邪魔だから曲げている格好が、人をあいつは泥棒だと云っている様である。
「またそんな手つきをする」
「はあ」
しかしそう云われても、持っている杯が邪魔になって、人差指を伸ばす事は出来ないらしい。
間もなく二本目の魔法壜に移った。横浜はもうさっき出た。
「我我は、どうも速すぎる様だ」
「お酒ですか」
「事によると、足りないぜ」
「それがですね、つまり、汽車が走っているものですから」
「汽車が走っているから、どうするのだ」
「走っていますので、ちっとや、そっとの」
云いかけて、つながりはなかったらしい。後は黙って勝手に飲んでいる。

保土ヶ谷の隧道を出てから、それは夜で外が暗くてもこちらで見当をつけているから、隧道は解るのだが、隧道を出たと思うと、線路の近くで蛙の鳴いている声が聞こえて来た。蛙の鳴く時候ではあるし、夜ではあり、そうだろうと思った。

放心した気持ちで、聞くともなしに聞いていたが、暫らくすると、或はそうでないかも知れないと思い出した。蛙の声にしては、あまりいつ迄も同じ調子である。又その調子が規則正しく繰り返しているのがおかしい。蛙の声でなく、車輪の軋む響きが伝わって聞こえるのかも知れない。そう思って聞くと、そうらしい。そうだろうと思った。

 車輪の音を放心した儘で聞きながら、その間に大分お酒を飲んだ。無口なヒマラヤ山系を相手にしているので、杯の間に議論の花を咲かせると云う事もない。しかし、何の話しもしないけれど、何となく面白くない事もない。外の音に気が散って、また耳を澄ました。さっきから聞こえているのは、矢っ張り田の中の蛙らしい。車輪の軋む音ではないだろう。尤も蛙だとしても、さっき保土ヶ谷の隧道を出た所で鳴いた蛙ではない。なぜと云うに汽車は走り続けている。違った蛙でも同じ声をしている。しかし本当に同じ声だかどうだか解らない。確かめようと思って気がついて見ると、汽車が動いているから、それは出来ない。はっきり聞いたと思う声は、実は幾つの声がつながっているのか、見当もつかない。どうも少し酔って来たらしい。総体に物事が、はっきりしない。蛙で面倒なら、車輪の音にして置こうかとも考える。そうは行かない。車輪なら車輪、蛙なら蛙、それはそうだが、ちっとやそっとの、と不意にさっき山系が云い掛けた文句が口に出た。

大船を出て、線路の真直い、汽車が速くなる辺りへかかっている。線路の継ぎ目を刻んで走る歯切れのいい音が、たッたッたッと云っていると思う内に、その儘の拍子で、「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」と云い出した。汽車に乗っていて、そう云う事が口に乗って、それが耳についたら、どこ迄行っても振るい落とせるものではない。「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」もう蛙なぞいない。今度著くのはどこだろう。お酒がないだろう。

ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「山系君」
「はあ」
ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「お酒はどうだ」

口に乗り、耳に憑いたばかりでなく、お酒を飲み、佃煮を突っついている手先にその文句が乗り移って、汽車が線路を刻むタクトにつれ、「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」の手踊りを始めそうになった。
「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの、こう手を出して」
「何ですか、先生」
「ちッとやそッとの、ちッとやそッとのボオイを呼んで」
ボイがノックして這入って来て、
「お呼びで御座いますか、先生」と云った。
それでいくらか調子が静まった。お酒が足りなくなりそうだから、買ってくれと頼んだ。熱海で買いましょうと請け合って、出て行った。
ちッとやそッとの、ちッとやそッとは薄らいだが、まだ幾らか残っている。しかし線路の工合が変り、カアブが多くなったと見えて、さっき程切れ目を刻む音がはっきりしなくなったので、自然にそちらから誘われる事もない。

いつぞや一人で汽車に乗った時、線路を刻む四拍子につられて、ふと口の中で「青葉しげれる桜井の」を歌い出した。どこ迄行っても止められない。幸いだか、運悪くだか、私はその長い歌を、仕舞までみんな覚えている。それで到頭最後まで持って行って、済んだら、気が抜けた様な気持ちがした。
青葉繁れるをみんな覚えている馬鹿はいないだろうから、従って一番仕舞の所を知っている人も少ないだろう。念の為に記して置く。
  緋縅ならで紅の
  血汐たばしる篭手の上
  心残りは有らずやと
  兄の言葉に弟は
  これ皆かねての覚悟なり
  何か嘆かん今更に
  さは云え口惜し願わくは
  七たびこの世に生れ来て
  憎き敵をば亡ぼさん
  左なり左なりとうなずきて
  水泡と消えし兄弟の
  清き心は湊川
兄弟の兄は云う迄もなく正成、弟は正季である。 

汽車が熱海を出ると、ボイがお酒の壜を持って来た。
「先生買ってまいりました」
「先生」なぞ云わなくてもいい。不用の呼び掛けだが、これ皆夢袋さんの成せる業なり。何か嘆かん今更に、さは云えお酒は買ったれど、魔法壜の中身はお癇がしてあって、駅売りは冷酒である。後口に冷も悪くないかも知れないが、まだ魔法壜にいくらか残っているし、多分丹那隧道を出て、暫らくしてから冷酒に代ったと思うけれど、わざわざ買い足した程うまくもない。結局お行儀が悪く、意地がきたなくて、無くても済む物がほしかったのである。

二合壜を半分程飲んで御納杯にした。その残りの一合許りを鹿児島くんだり迄持ち廻り、どこの宿屋でも、それをお癇して出せと云うのを云い忘れて、翌くる日立つ時には又持って行った。到頭八日の間荷物にして、家に帰ってから九日目の晩に、家で飲んで、それでやっと片づいた。大きな顔をして一等車に乗っていても、根がけちだから、そう云う事でお里が知れる。そう思うけれど、実はそうではないとも思う。お酒と云う物は勿体ない。おろそかに出来ないと云う事が腹の底に沁み込んでいる。空襲の晩には、焼夷弾の雨下する中を、一合許りのお酒が底に残っていた一升壜をさげて逃げたが、その時のお酒と、コムパアトで飲み残したお酒と、勿体ないと云う味に変りはない。

それで今晩はお仕舞にした。洗面台のお膳を片づけ、臨時の木箱の腰掛けもボイが持って行って、もう寝るばかりになった。今どの辺りを走っているのか解らない。何しろ大分夜更けである。
寝台は上段と下段に別れている。ヒマラヤ山系が、お休みなさいと云って、小さな金の梯子を登った。どぶ鼠が天井裏に這い上がり、上でごそごそしている。何か、かじっているのではないか。上と下の境の天井は木の板だから、酒の勢いでかじって穴をあけて、落ちてこられては困る。その内に、うとうとして、天井の上は鼠が一ぱいいる様な気がし出した。いらいらし掛けたが、その儘寝てしまった。


(古里の夏霞)

朝になってから通る京都も大阪も丸で知らなかった。姫路を出て上郡を過ぎ、三石の隧道が近くなる頃に漸く目が覚さめて、気分がはっきりした。郷里の岡山が近い。顔を洗って朝の支度をした。
三石の隧道を出て下り勾配を走り降り、吉井川の川中で曲がった鉄橋を渡ってから、備前平野の田圃の中を驀進した。
瀬戸駅を過ぎる頃から、座席の下の線路が、こうこう、こうこうと鳴り出した。遠方で鶴が鳴いている様な声である。何年か前に岡山を通過した時にも、矢張りこの辺りからこの通りの音がしたのを思い出した。快い諧音であるけれども、聞き入っていると何となく哀心をそそる様な気がする。
砂塵をあげて西大寺駅を通過した。じきに百間川の鉄橋である。自分でそんな事を云いたくないけれど、山系は昔から私の愛読者である。ゆかりの百間土手を今この汽車が横切るのだから、一寸一言教えて置こうと思う。
百間川には水が流れていない。川底は肥沃な田地であって両側の土手に仕切られた儘、蜿蜿何里の間を同じ百間の川幅で、児島湾の入口の九幡に達している。中学生の時分、煦煦たる春光を浴びて鉄橋に近い百間土手の若草の上に腹這いになり、持って来た詩集を読んだと云うなら平仄が合うけれど、私は朱色の表紙の国文典を一生懸命に読んだ。今すぐその土手に掛かる。
「おい山系君」と呼んだが、曖昧な返事しかしない。少しくゴヤの巨人に似た目が上がりかけている。
「眠くて駄目かな」
「何です。眠かありませんよ」
「すぐ百間川の鉄橋なんだけれどね」
「はあ」
「そら、ここなんだよ」
「はあ」
解ったのか、解らないのか解らない内に、百間川の鉄橋を渡って、次の旭川の鉄橋に近づいた。
車窓の左手の向うに見える東山の山腹の中に、私はさっきから瓶井の塔を探しているが、間に夏霞が籠めて、辺りがぼんやりしている所為か、見つからない。子供の時いつも眺めて育った塔だから、岡山を通る時は一目でも見たい。瓶井と云うのは、本当は「みかい」なのだが、だれもそうは云わない。訛りなりに、「にかい」の塔と云うのが固有名詞になっている。岡山では何でも「み」が「に」に訛ると云うのではないけれど、私なぞ子供の時に云い馴れたのは、歯にがき、真鍮にがき、玉にがかざれば光なし、と覚えている。抑も先生がそう云って教えたかも知れない。
旭川の鉄橋に掛かる前、やっと霞の奥に塔の影を見つけた。
旭川の鉄橋を渡ると思い出す話がある。岡山の人間は利口でいやだと他国の人がよく云う。その実例の様な話なのだが、小さな子供を負ぶったお神さんが鉄橋の上を渡っていると、汽車が来て逃げられなくなった。非常汽笛を鳴らしている機関車の前で、お神さんは手に持っていた傘をぱっと開き、ふわりと下の磧に飛び下りた。尻餅ぐらいはついたかも知れないけれど、背中の子供も無事だったので、車窓からのぞいて固唾を嚥んでいた乗客が一斉に拍手したそうである。私の子供の時の事で古い話だが、傘をひろげて飛んだのは、後の世の落下傘と同じ思いつきである。

もっと古い、私などの生まれる前の話に、傘屋の幸兵衛と云う者があって、瓶井の塔から飛行機の様な物に乗って空に飛んだそうである。発動機がついていたのではないだろうから、滑空機の趣向だったのだろう。瓶井の塔は高いから、暫らく宙を飛んで、原尾島と云う村まで行き、毛氈をひろげてお花見をしてる所へ落ちた。落ちても無事だったのだと思われる。お花見の人人が驚いたのは云う迄もない。後でお上から、人ノ為サザル事ヲ為シタル廉ニ依リと云うわけで叱られて、お国追放に処せられた。

汽車が旭川鉄橋に掛かって、轟轟と響きを立てる。川下の空に烏城の天守閣を探したが無い。ないのは承知しているが、つい見る気になって、矢っ張り無いのが淋しい。空に締め括りがなくなっている。昭和二十年六月晦日の空襲で焼かれたのであって、三萬三千戸あった町家が、ぐるりの、町外れの三千戸を残して、みんな焼き払われた晩に、子供の時から見馴れたお城も焼けてしまった。

森谷金峰先生は私の小学校の時の先生であった。金峰先生の御長男は今岡山の学校の校長さんである。空襲の晩、校長森谷氏は火に追われて、老母を背中に負ぶって、旭川の土手を鉄橋の方へ逃げた。そのうしろで炎上するお城の大きな火焔が天に冲し、振り返れば焔の塊りになった天主閣は、下を流れる旭川の淵に焼け落ちて、土手を伝って逃げ延びる足許をその明かりが照らした事であろう。背中の老母は金峰先生の奥様である。よく覚えていないけれど、子供の時にお目に掛かった事があるに違いない。もう一度車窓から眺めて見ても、その辺りの空は白け返っているばかりである。
鉄橋を渡ったら、じきに岡山駅である。ちっとも帰って行かない郷里ではあるが、郷里の土はなつかしい。停車の間、歩廊に出てその土を踏み、改札口の柵のこちらから駅前の様子を見たが、昔の古里の姿はなかった。

・・・・(以下、略)








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まあだかい ー 百鬼園先生

2012-03-20 15:09:49 | 音楽・芸術・文学
まあだかい—内田百﨤集成〈10〉 ちくま文庫
内田百﨤
筑摩書房

 百鬼園先生、「昔の学生諸君」たちに還暦を祝ってもらったあとに毎年誕生日楽しい集まりがつづく。先生、ますます達者、未だか、未だかでずっと続く「摩阿陀会」とあいなった。昭和29年5月の五回目を抜粋しておこう。このときの一同の写真が「百鬼園写真帖」に載っている。「阿房列車」シリーズでヒマラヤ山系君こと平山三郎氏をお供に、あちこちへ<無目的の旅>で大いに意気が上がっていたときかもしれない。

さて、5回目の「きょうの瀬」の文章のなかに天長節の歌のことが出て来るから、ご本人の張りのあるお声も聴いてみよう。<youtube-内田百﨤「百鬼園長夜」(2) 百鬼園先生、歌う!NHK-1956年11月2日放送>。昭和31年だからこのとき67歳、ノラちゃんが家にいて先生もはつらつとした感じ、収録時のお顔も「写真帖」に載っていて、メディアというものはこれで完結!

翌年ノラちゃんがいなくなったころから数年間「摩阿陀会」の書き物は途切れる。復活後では喜寿のお祝いのときの写真もいいなあ。その昔立川で飛行練習していた法政航空部の学生におにぎりを作ってやっていた奥様も呼ばれてごいっしょだ。事実は小説より奇なり・・・百鬼園先生の人生は成る可くしてなったような自然なパフォーマンスの連続だったのかもしれない。そしておお、百鬼園先生のは元祖宴会ブログであったか。遠く及ばないがこっちもいくつか書いたっけな。先月のは出らんなかったし・・・メンゴ。

さても、先生稼業というのもいいもんだなあ・・・おっと、ムスメ、シンカンセンに乗ったって?教育実習申し込み?センセイにはならんだろうが・・・嵐が来てMAC占領される前にアップしとかないと・・・

>>>>>>>> 以下、「まあだかい—内田百﨤集成〈10〉 ちくま文庫」より 

『きょうの瀬』 

きのうの淵はきょうの瀬となる世の中に、摩阿陀会が年年同じ事を繰り返して、五回目になったのは難有い。還暦の賀宴を加えれば六年目である。余り長くなるから首をくくって埒をあけようかと思った門の柳は去年の秋、庭に池を掘った時に水門の傍に移し植えたら、細い幹の上の方が半分枯れたので、背丈が低くなってしまって、当分その役には立たないだろう。私がまだ生まれない前、親戚に気丈なおじさんがいて、山屋敷と云う淋しい家に住んでいる所へ、強盗が押し入った。おじさんは抜き身の前に大あぐらをかき、腕を組んで、殺さば殺せと云ったら、強盗が片耳を切り落として行ったと云う。殺さば殺せ、続かば続け、しかし来年の今日がめぐり来るか否か、それは去年だって一昨年だって解らなかった。

例年の通り迎えの車で新橋駅楼上の会場へ行った。毎年の事なのでボイも帳場も顔馴染みである。こちらの肝煎りもすでに手慣れていて、何も気を遣う事はない。そもそも今夜は来会の諸君一人一人が主人なのだから、私がお客様なのだから、私が気を遣うと云う筋が有る可き筈はない。しかし、うるさい性分なので、又諸君の中の大部分は昔私の学生であったから、つい何か口が出したくなる。わざわざ私の前に顔を近づけて、今晩はようこそお出で下さいましたと挨拶するのがいるかと思うと、すっかり間違えて、どうも遅くなりました、今晩は難有う御座いますと云うのもいる。先生はいつ迄もお元気で、とか、お変わりがなく結構ですとか云うのは、いつ迄も変らぬわけがない、もうすでに元気でいる筈がないと云う判断が先に立っている。云われて見れば御尤も、摩阿陀会も五へん目だと云う事に思いをいたし、彼等の言葉尻をつかまえる事はよした。

出足の遅いのを待ち合わせて定刻を過ぎ、肝煎り多田の号令で目出度く著席した。例年の通り私の左右お医者様とお寺様である。お医者様は今日はお嬢さんのご婚礼で、昼間にその挙式を済ましてからこっちへ廻られた。ところがお寺様がまだ来ていない。或は檀家に新仏が出来て、そちらのお経で手間取っているかも知れない。
今日は肝煎りの多田君の身内にもお目出度があった。矢張りそちらを済ましてから来ると云っていたそうで、しかしモウニング・コートを著ているから、その儘の服装で摩阿陀会へ廻るのは変だから、一たん帰って出直すと云ったと云う。ちっとも御遠慮はいらないと思ったが、著換えるなら著換えてもいい。彼のモウニング・コートは、先年順ノ宮様の御披露宴によばれて行く時、借りて著たから私も知っている。もう大分古くて、ろくなモウニング・コートではない。その上彼の身体に合わせて仕立ててあるから、私が著ると脚の長さや胴の太さが違うので、息苦しくて、靴を穿く時、前にかがむ事も出来なかった。しかし又借りる機会があるかも知れないから、余り悪く云うのは差し控える。

写真を写した後、多田の音頭取りで、みんなが起立して私の為に乾杯してくれた。それを受けて私の前だけ置いてある大ジョッキを捧げ、みんなの見ている前で一呼吸に飲み乾した。だから、お変わりもなくて、と云う事になるのだろう。しかしそれは惰性であって、お変わりがあるかないかとは話が違う。
飲み乾した後、起った続きで挨拶した。

「毎年こうして誕生日を祝って戴いて、お礼の申し上げ様がない。言葉には尽くせないから、それは後日を期する。その内に摩阿陀会も済むでしょう。つまり僕が出て来なくなれば、それでお仕舞で、まあだかいが、もういいよとなる時機がある。その上で僕は皆さんの所へ化けて出て、ゆっくりお礼を申し述べる。生きかわり死にかわり。だから只今この席では省略する。
今にお酒が廻れば、お互いにがやがや騒いだり、歌を歌っていつでも同じ混乱の勝利である。その趣向を今年は少し換えるつもりで、テープレコーダーを持って来た。今年のお正月に宮城道雄検校の所へよばれて酔っ払い、口から出まかせの歌を歌ったのが、そっくり検校の所にある機械で録音された。始めから仕舞まで蜿蜿40分以上かかる。レコードでクロイツェルソナタの全曲を聴く位の長さである。そのテープを今晩は借り出して来た。それを廻して諸君の清聴を煩わす。僕はそれで歌を歌っているのだから、テープが廻っている限り、僕に用事はない。そこでこの席でゆっくり、諸君が感心している顔を見ながらお酒を頂戴しようと云う、こう云う寸法なのです。

何しろ僕は摩阿陀会の五年生、中身が古いのは止むを得ない。明治の中期に生まれて、日清戦争はおさな心の記憶に残り、日露戦争は中学生で提燈行列に参加した。しかしその時の軍歌はまだいい方で、諸君にはもっと耳遠い唱歌もある。僕の幼稚園の頃の天長節の祝歌が出て来る。

 きょうは十一月三日の朝よ
 朝日にかがやく日の丸の
 国旗は門並みひいらひら
   国旗は門並みひいらひら
 きょうは十一月三日の朝よ
 おかでも海でも勇ましく
 打ち出す祝砲どんどんどん
   打ち出す祝砲どんどんどん

テープの歌い出しは、水をたくさん汲んで来て、水鉄砲で遊びましょう、だったと思う。そう云うのを僕は一一、越天楽で歌いなおす。越天楽と云うのは、僕が酔っ払うと歌うあの、春のやよいのあけぼのに、よもの山べを見渡せば、の節であって、この旋律は平安朝以来、千何百年も続いて我我の先祖から歌い忘れなかったのである。尤もその旋律に「春のやよいの」と云う様な今様の歌をつけて歌い出したのは、平家時代からだそうだが、何しろあの節は古い。その越天楽で歌い直すから時間が掛かって、クロイツェルソナタの全曲のような事になる。お正月の宮城検校の席には、今日ここに御列席の小林博士も同座せられて、彼の博士は、明治時代に学生だったお医者の通弊で、酔うと義太夫を唸る。去年の秋のわずらいに、と唸られた後を、僕は越天楽で同じ文句を繰り返す。

小説新潮の四月号に、宮城検校が「百鬼園の越天楽」と云う随筆を寄稿したのを、諸君に中に読んだ人もいるだろう。その中に薬売りの文句が出て来る。これも諸君には耳新しいかと思うから、テープを廻す前にあらかじめ解説しておく。
その薬屋は、僕は漫然と富山かと思っていたが、そうではなく本舗は大阪だったのかも知れない。オイチニ館と云うので、そこから全国に薬売りを出して行商させた。制服制帽に手風琴を持って、歌に合わして鳴らしながら、オイチニ、オイチニと足拍子を踏んで行く。歌に曰く、

  そのまた薬の効能はオイチニ
  たんせき、溜飲、腹くだし
       オイチニ、オイチニ
又曰く、

  産前産後や血の道にオイチニ
そこで僕には新作がある。今にテープが歌い出す。
  神経衰弱房事過度オイチニ、オイチニ
  天才気ちがい低能児オイチニ

どうかごゆっくり御鑑賞を願う。その間僕はこれにてお祝いの御酒を頂戴する。

こうして僕が起立している序に、もう一言つけ加える。いつもはもっと後で、更めて起って諸君にお願いしたが、今日はこの後すぐにテープを廻し出すと四十分以上かかる。その間に僕は多分酔ってしまって、云う事に筋道が立たないだろう。又諸君の方でもがやがや、ざわざわして人の云う事をよく聴き取らないに違いない。早きに及んで、今日はこの儘そのお願いを申し上げる。

今から23年前、昭和6年の今月今日の、午前11時に、当時の法政大学法学部2年生栗村盛孝は国産の軽飛行機「青年日本号」を操縦して、羅馬に向かう為、羽田飛行場を離陸した。
今日の羽田空港の盛況は、僕は行って見ないから知らないが、23年前の羽田はまだ出来たばかりで、広っぱに何の設備もなく、草むらの中にただ一本の滑走路が走っていただけである。今日5月29日の前日、その学生機を今までの練習飛行場だった立川から空輸して羽田へ持って来た。羽田の新飛行場に初めての著陸の車輪を印したのは栗村の「青年日本号」である。
その晩は法政大学航空研究会の学生が、「青年日本号」を護って草原に夜を明かした。格納する建物なぞまだ出来ていなかった。そうして今日、5月29日の午前11時に、「青年日本号」は羽田飛行場を最初に離陸する飛行機として、学生訪欧飛行の壮途についた。

一本の滑走路の向うの端にいる「青年日本号」に向かって、僕が航空官の指示を受け、手に持った相図の旗をあげて、出発を命令した。滑走して来て、丁度、台の上に起っている僕の前あたりで車輪が浮いた。飛行場外れの向うの低い土手の上をすれすれに飛んで、次第に高度を取った小さな飛行機の後ろ姿を見つめて、僕はフロック・コートの手旗を持った儘、涙を流した。23年前の昔噺です。その栗村がそこにいます。彼の羅馬飛行の為に乾杯してやって下さい。栗村君、起ちなさい。」

乾杯を終わって、私の挨拶も済んだ。なぜ「青年日本号」に離陸の日と私の誕生日とがぶつかったかと云うわけは、学生訪欧飛行の準備がすでにととのい、出発の日取りをきめるだけとなった時、萬時その指導を受けていた逓信省航空局の航空官が、西比利亜にある梅雨の動きから考えて、5月末から6月初めに亘る数日の内がいい、その間ならいつでも結構だから、学校の方の都合でその日をおきめなさい。ただ日がらももがらを選んで、縁起のいい日に立つ様にと云う事であった。
一番新らしいと思われる飛行機の関係なぞで、案外そうした縁起をかつぐ。5月の末から6月初めと云うなら、5月29日が私の誕生日である。会長の私の誕生日なら、縁起は申し分ない。それでその日にきめたから、羅馬飛行の記念日と今日の摩阿陀会とぶつかるのはちっとも偶然ではない。

テープレコーダーが廻り出した。自分の声が外から聞こえて来ると云うのがすでに変な話で、それを自分の耳で聞くのは余りいい気持ちではない。そう云う不祥な事は成る可く避けたいが、しかし現にそこに機械から聞こえて来る。幸いな事にテープの中の私の声は、酔っ払っている。それを聞いている今夜の私は、まだ酔っていない。耳と声とは別人である。今に耳の方も酔って来るから、そうなると酔った声と酔った耳とが同一人になる恐れがあるけれど、聞く方も酔ってしまえば、自分の声を外から聞くのは気味が悪いなぞと、そんな面倒な事は考えないだろう。

このテープを音盤に取りなおしたのを、宮城検校から貰っている。12吋盤4枚の裏表で8面ある。私の家で蓄音機に掛けてみたが、どうも面白くない。廻転の工合の所為か、何となく陰陰滅滅として、幽霊がうなされている様である。今晩の肝煎りの一人平山がその座にいて、一緒に聞いたが、まだ済まない途中からいやだいやだと云い出した。悲しくなると云った。まあ我慢して聞いていなさいと、仕舞まで聞かせるのに骨を折った。
彼は口には出して云わなかったが、私が死んだ後の遺声を聯想したに違いない。音盤では自分で聞いてもそんな気がしない事はない。私が死んだ後で人が聞く声をまだ生きている内に聞いていると云う縺れた気持ちになる。

原音のテープではそんな風な所はない。陽気で面白い。面白いと云うのは聞いていてこっちが、酔って来たからである。自分が半年も前に歌った歌を聞きながら酒を飲んで、その歌に浮かされるなぞ、最も簡単な、或は非常に手のこんだ酒興である。そのどっちだって構わない。みんなが聞いているのか、いないのかそれもよくわからない。
遅参のお寺様が私の隣に座っている。左右にお医者様と対に揃って難有い。「新仏が出来ましたか」と尋ねたことは覚えているが、猊下がなんと答えたかは丸で記憶にない。テープが「とうとき血もて甲板は、からくれないに飾られつ」と歌うと、遅れて来た肝煎り北村が、テープの声にからんで、「からくれないに水くぐる」と歌い返した。それだけが耳に残っている。後は何がどうなったか、よく知らない。
つまりいつもの通りの摩阿陀会になってしまって、いつの間にかテープも終わってしまったのだろうと思う、一番仕舞の君ヶ代を聞いた様な気がする。そうして新橋汽車駅の桜上の床が、護謨を踏む様にふわふわして来て、みんなが、と云う中に私もいるかも知れないが、起ったり座ったりし出した。
新橋汽車駅と云ったので、肝煎り北村が起草した今年の案内文を思い出した。
 
   摩阿陀会回文

くうもに聳ゆる番町の 大根おろしは辛くして 靡き伏したる摩阿陀界 あおぐ今日こそ百鬼園ひじり 禁客寺を出て給えば 鉄路茫茫 粟散辺地の扶桑に跡をとどめ 阿房の道を弘めては 迷える衆生をみちびきて 精識を抽んで給う このひじりを師とし そのしりえに従いて 願いを同じゅうするわれ等 もとよりたくみ浅くして 才みじかきを嘆くと雖も 誰かひじりの千秋をこいねがわざらんや されば乃ち五月二十九日 黄昏六時 新橋汽車駅の桜上に 金壱阡五百円也を霧消せしめ ひじりの酔訓を浴びてその道に習わんとす 肴薄くして酒の軽きを 笑わば笑え 餓鬼共

その北村が起ち上がり、列座の一同を見渡して、諸君、これだけが、今晩のこの我我が、お通夜の顔ぶれだね。その時は又集まろうぜと云ったと云う。後から聞いた話で、その場では私は丸で知らない。しかしそんなに大勢が、当夜の列座三十四人、その中に私も這入っているからお通夜の時は別になるとして、三十三人も集まってどこへ座るつもりなのだろう。そんな広い場所で私が死ぬ筈はない。
いつ、そう云う時に、何のきっかけで切り上げたかわからないが、兎に角目出度くお開きになった。例年の例に依れば、これから更めて別の席へ出掛けるところである。大体三分の一ぐらいが一緒について来る。そこで又やり直すからいつでも夜半を過ぎ、身体がくたくたになって、私なぞは二日酔いでは済まない。三日目もまだふらふらする。しかしそう云う目にあっても一年に二度、お正月の三日とこの摩阿陀会の晩の事は、後悔しない事にきめてはいるが、そうなった後を後悔しないよりは、そんな事にならない方がまだいい。のみならず大変お金が掛かって、飛んでもない脚が出る。その後始末にいつも苦慮する。大概拭い切れないで、結局連中の中のだれかが背負い込むと云う事にもなり、甚だ相済まぬから、今後はどこへも廻らない、つまり梯子をしないと云う事を、摩阿陀会の随分前から肝煎りの多田君と相談し、約束し、ちかっている。
だから今夜はどこへも廻らない。

「多田君帰るよ」「それがいいです」と云うわけで、だれと一緒に車に乗ったか知らないが、家に帰って来た。
ところがその後から、ぞろぞろと大勢が、私の狭い家に這入って来だした。私を送って来たのか、私について来たのか、あるいは闖入したのか、昔、無声時代の活動写真の亜米利加喜劇で、一台の自動車が停まると、せいぜい五六人しか乗れないと思われる車の中から、次から次へと人が降りて来て、何十人かが自動車の前で犇めていたのを見たことがある。今夜の闖入者達は、勿論何台かの自動車に乗り分けて私の車の後を追っ掛けたに違いないが、別に後から加わった異性を加えて、総勢十六人が私の狭い部屋で押しくら饅頭を始めた。

狭いと云うのは、私の家は三畳の部屋が三つつながっているだけで、三つのなかの一つは書斎だからだれも這入らせない。這入らせもしないが、這入ろうとしたって這入る場所はない。三畳の畳の上に一畳敷ぐらいの大きな机を据え、その傍に小机を置き、字引を積み又列べ、抽斗箱を置き、その他諸品が羅列しているから、立錐の余地もない。
だから三つの部屋の内、その一つは丸で使えない。後の二つにも一方は中くらいの机があり、もう一つの方は大きな卓袱台、将棋盤、蓄音機、その他雑品が各その必然の空間を占めている。それで三畳を二つ合わせた六畳の内、実際に座れる所は四畳に足りない。その畳の上に十六人が座り込んだから、一畳に四人づついた計算になる。畳一畳に四人座れない事はない。又現に彼等はその場所でいい心持に落ちつき込み、一時を過ぎても、二時を過ぎてもだれも起たなかった。
狭いながらニ間に跨がって、目白押しに居並んだ諸氏の顔を眺めながら考えた。これで見ると、サロンだのカフェーだのは、矢張り無駄に存在するものではない。今度はどこへも廻らないと考えたその理由は、その儘残っているけれど、しかしこうして大勢が私の所へ押し入り、犇めいている有り様を見れば、いつもの通りそう云う所へ廻っていたら、この惨状はそこで解消した筈だと思う。

後から加わった異性の三人と云うのは、例年のそこからやって来たので、中の一人はマダムである。美人を踏み潰しそうだと云ったそのサロンから、今夜は彼女等が我我を踏み潰しに来た。風呂敷に包んで三鞭酒を持って来た。風呂敷に、と云うのは三鞭酒を冷やす桶、あれはなんと云うのか知らないが、その中に三鞭酒をつけた儘持って来たのである。
私の所にシャムパン・カップはない。もとはあったのだが、それは初めに話した羅馬飛行当時の記念でもあったが、空襲の火事で無くなった。だから茶碗やコップや杯を持ち寄って、それにこれから抜く三鞭酒を注ぎ分ける事にした。

三鞭酒の抜き方に二種ある。音がする抜き方と、音のせざる抜き方とである。古来ぽんと音をさせて、だから景気がいい、縁起がいいとしたもので、その音を祝ってボイに5円のチップを与えると云う話を聞いた。昔の事だから5円は大変である。私の知るところでも、5円あれば一寸した待合へ上がり、料理を取り寄せ、芸妓のお酌で一盞傾ける事が出来た。
私が郵船にいた当時教わった事だが、近来は三鞭酒を抜く時、ぽんぽん音をさせるのは、下品で物欲しそうで、はしたない不作法だと考える様になったと云う。多分それは英吉利風のサアヴィスの話だったと思う。何しろ私なぞ滅多に飲む機会もなく、よく知らない事だから、教わればその通り、そんなものかと覚え込んだ。
日本は戦争にまけて、すっかり格が下がり、品が落ちたから、たまに三鞭酒を抜けば、景気のいい音を聞かないと物足りないと云うもとへ逆戻りしているだろう。

さて、これから私は英吉利風にこの三鞭酒を抜く。そのつもりで壜の口を押さえ、少し傾けて針金をほどいた。私が余程上手だったのか、非常に下手だったのか、丸で音もせず勢いもなく、醤油壜の口を開けた様に栓が取れた。
先ずそれを注ぎ分けた。コップや杯や茶碗の数が多いから、みんなに廻らない。
次にマダムが二本目の壜を開けた。今度は素晴らしく景気のいい音がして、ポンと云ったらみんながよろこんだ。敗戦国の逆戻りだから、その心事は尤もである。
彼等が飲んだのは三鞭酒ばかりではない。その前から麦酒はもとより、お酒は冷やの儘で茶碗酒かコップ酒、冷蔵庫に入れてあったラムネまで飲み尽くし、お勝手にある凡そ食べられる物はみんな食べてしまった。

翌くる日冷蔵庫の麦酒を出そうと思ったら、なかったのみならず、まだ冷蔵庫に入れてなかった麦酒も一本もなかった。お酒は飲みさしの壜は勿論、貰った儘しまってあったのもみんな無くなっていた。ナポレオンの軍隊がモスクヴァで敗れた帰りに、独逸を通ったときの話に似ている。
北村がみんなの間で麦酒のコップを挙げてよろこんでいる。おい、諸君、よかったね。これでお通夜の予行演習が出来た。まあこんな調子だろうね。
私が云った。違うよ。今晩はこうして僕が坐っているが、当夜はのびている筈だから、この限られた空間の関係が変わって来る。その為二三人は食み出すだろう。尤も僕を座棺に納めるなら、その制限は緩和する。
いつ迄もみんな落ちついている。勝手にするがいい。どうせもう電車なぞありはしない。しかし自動車なら、市ヶ谷見附へ出ても、夜通しいつでも間に合う。御ゆっくりなされたらよかろう。

二時半を過ぎてから、もう帰ろうかと云い出した。夜明けは未だだが、近頃流行の半通夜よりは長くいて、汐が引いた様に、一どきに帰って行った。銘銘方角が違うだろうし、随分遠方なのも居る筈である。どんなにして帰ったか、その後会わないから私は知らない。

くたんくたんになって寝て、翌くる日遅く目がさめた。身体の調子、頭の工合がよくないのは申す迄もない。後悔はしない事になっている摩阿陀会の翌日だから、それで構わない。
別に入り用があったわけではなく、だから探したのではないが、何かの事で書斎の抽斗を開けたら、昨夜出がけに持って行った洋服のポケットの諸品が、各きちんと元の位置に納まっている中に、ただ蟇口がある筈の所だけが空いている。つまり蟇口がない。おかしいなと思った。
私は滅多に外へ出ないけれど、それでも偶には出掛ける事もある。出掛ける時は、著物はないからいつでも洋服を著て行く。洋服のポケットに外出用の諸品を入れる。それを支度に掛かる前にあらかじめ揃えておいて、数を点検した上で順順にポケットへ入れる。普通は総数12である。その内の3点は時に省略する事があり、この頃は大体いつも持って行かない。その一つは時計である。腕時計は持っていない。鎖のついた懐中時計である。古いロンヂンであって、家では正確であるがポケットに入れて持ち出すと、いつも平らに置いてある時計の姿勢が変わる所為か、或は体温で機械が膨張するとか、油が溶解するとかの関係か知らないが、必ず狂って来る。だからそっとして置くに限るロンヂンと云う事になるので持ち歩かない。又外に出れば大概人に会うし、一人では出歩かない様にしているから道連れもあるし、私が時計を持っていなくてもだれかが持っているから、時間が知りたかったら、それで間に合う。第一、時間が知りたいと云う様な事は余りない上に、知って見たところで何の役にも立つものでもない事を承知している。
それで時計を省略する。

三つの中で第二は手帳である。外へ出て何かの心覚えをする。人との約束をメモに取る。そんな事を考えるが、考えて見るだけで実地にそう云う場合があった試しはない。手帳を持つのも惰性であるから、先ず省略する事にする。
第三は版行である。昔昔の学校の先生だった時分からの惰性は一先ず消えたが、後に又郵船会社へ通う様になってから、矢張り版行をポケットに入れて出掛ける癖が戻った。戦争にまけてから郵船をやめたが、あの時分は一寸外へ出ても認印のいる事があったのでその習慣が残り、一たんそうなると、しなれた事は中中やめられない性分なので、ずっとその後も、外へ出る時は必ず版行を持っていると云う意味のない習慣を続けた、しかし使った事はない。いつかなぞ飲み屋で酔っ払って、何か出鱈目の酔筆をふるった後、落款だと云うのでその水晶の四角い版行を取り出した迄はわかっていたけれど、後で紛失した事に気がついた。いくらか因縁もある印形なので随分気を遣ったが、その時一緒にいたのが、私が随分酔っているからと云うので預かっておいてくれたのはいいが、その彼も酔っていたから預かった事を忘れてしまってい、無駄に私を心配させたと云う事件もある。諸品があるから亡失する。諸品の数が少なければ忘れる場合も少ない。そこで版行を持ち歩く事を省略する。

以上三点を省略した後の九つは、どれもよすわけに行かない。それ等を机の端又は卓袱台の上に列べておいて、洋服を著終わると、一つずつ順にポケットに入れる。ゲルハルト・ハウプトマンの「線路番ティール」と云う短篇に、ティールが出勤する前、そこに列べた諸品を次ぎ次ぎにポケットへ納めて行く叙述がある。時計の鎖につけた馬の歯を持って行く。馬の歯は私の諸品の中にはないが、大体する事がおなじなので、聯想するといやな気がする。しかし私の癖をやめるわけには行かないし、そんな気兼ねをする筋もない。洋の東西、時の古今を問わず、偶然の一致と云う事はある。況んや線路番ティールは作中の人物であり、私は現に実在している。

そうして出掛けて、帰って来る。帰った時は大概酔っている。或はひどく酔っ払っている。それでも帰ると同時に、酔った手先で、ふらふらする足許を踏み締めて、出掛ける時にポケットへ入れた諸品を、又一つずつ取り出して、もとの抽斗の、もとの位置に入れる事を忘れない。忘れた事は一度もない。翌くる日起きて、その通りしたかどうか覚えていなくて、半信半疑で抽斗をあけて見ると、必ずちゃんと元の通りに這入っている。私は知らなくても、習慣がそれを実行している。
その抽斗の中に蟇口がない。蟇口は九点の中の一つである。古い白蜥蜴で、年数を食っているからもう白くはなく、きたならしい色をしているが、余り小さくはないから、蟇口のある場所に蟇口がないのは、そこに穴があいていて目立つ。おかしいなと思う。昨夜九点が一つ足りないと云う事になぜ気がつかなかったかと考えて見たが、ここへ諸品を入れたと云う事を丸で覚えていないのに這入っている迄の事で、時分で物事を考える力は失せていたのだから、それは止むを得ない。

抽斗以外の場所を探して見たが見当たらない。沽券にかかわるとは思ったが、仕方がないから家人に尋ねた。知らないと云う。しかしそう云えば北村さんが、この蟇口はだれのだ、だれのだと云って、手に取り、中を開けて見たりしていたから、あった事は確かだと云った。
しかしどこにもない。白蜥蜴の蟇口の中身は、北村が開けて検べる迄もなく、私がちゃんと知っている。中の仕切りのこっち側に三枚、こっちの方に一枚、〆て四枚四千円這入っている。一体、蟇口や紙入れの中身を、宙で正確に知っていると云うのはいい事ではない。お金に困っている証拠である。私は去年の秋頃から萬時都合が良くない。右の四千円も蟇口の中に安眠しているわけではなく、費途がすでにきまっている。摩阿陀会は29日だから、すぐに月末が来る。無駄に中身の金高を覚えてはいない。
その四千円が無くなった。どうしたらいいか解らない。北村がいたずらをして持って行ったかも知れない。

盗難と云う事を考えて見るに、事件には泥坊と被害者とがいる。被害者は金品が無くなったと云う事でその害を被るのであって、なくなったお金なり品物なりが、泥坊の手でどうなったかと云う事に関係はない。泥坊が取って行ったお金で、酒を飲もうと女を買おうと博打に費消しようと、こっちの知った事ではない。盗んだお金を慈善事業に寄附しても、盗んで帰る途中、途に落として遺失しても、或は盗んだお金を別の泥坊に盗まれて、元の木阿弥になっても、つまり盗んで行った泥坊は何の得る所がなかったとしても、盗まれた側の、被害者の損害に変る所はない。私の白蜥蜴の蟇口がなくなって、中身の四千円が、その費途に充てられなくなったと云う事実の前には、本物の泥坊が盗んだのも、北村がいたずらをして持って行ったのも、ちっとも変わりはない。いたずらだったら後で返って来るとしても、お金というものはその時時のいのちの物だから、いつだって有る事はいいが、いつだって有りさえすればいいと云うものではない。

昨夜の酔いがまだ残っているぼんやりした頭で考え込んで、止んぬるかなと思った。
昨夜の肝煎りの平山が、夕方近く一寸した用事で玄関先迄来た。昨夜はどうしたと尋ねると、同じ方向へ三人同車して帰ったが、一人は彼が降りた後を乗り継ぎ、一人は彼の家へついて来て泊まったと云った。そうしてお午過ぎまで寝込んでいたそうだが、今日はいい工合に日曜日である。
時に僕は実に困っていると私が云った。蟇口のことを話すと、彼もまだ酔いが残っているらしい朦朧とした顔つきで聞いていたが、不意に思い出した様に蟇口は北村さんが額の裏に隠して行きましたと云った。
額と云うのは昔の秩父丸の絵皿である。すぐに起って行って見たら、長押の上の絵皿の陰に、蟇口の口金がきらきら光っていた。

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内田百(けん)集成24 百鬼園写真帖 (ちくま文庫)

内田 百﨤

筑摩書房

 

 

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ムサビの芸術祭’11

2011-10-31 23:28:10 | 音楽・芸術・文学

芸術の秋だから美大の芸術祭というものを見に行った。安くて時間の節約は深夜バス、運ちゃんはおばちゃん(失礼)で東北道・首都高・中央フリーウェイと追越し車線バンバン飛ばしてくれて、前列で高い眺めがめずらしく、それよりもコワいのと狭い座席で眠れず早朝立川に降りたったら眠いのなんのって。目指すガッコにたどり着けば朝まだき7時過ぎ、正門すぐまえのアパートのムスメをたたき起こしてちょっとまどろめばもう11時近く。ともかくもこうして、ガンガンとロックの轟音鳴り響くキャンパスに入ったのであった。

 ■武蔵野美術大学芸術祭'11、日頃の課外活動や個人制作・研究成果の一般公開の作品展覧会、各サークルを中心とした個性的な模擬店群とともに開学以来の伝統的な行事、とか。2011年は10月29日(土)~10月31日(月)であった。 

  

個人出展とグループ出展、ゲージュツ系の仕事のヒキもあったりするので、作品の脇には自作名刺やらポートフォリオをおいたりと、出展する子はそれなりにがんばっているようであった。しょせんお祭りだからか、作品は質量ともにちょっと残念な感じ、卒展にはまだまだのお遊びの世界だが、器用な学生はいまふうイラストというか漫画なんてお手のものなのだ。


本気のものは公募展とか学外に出すのかもしれない。だが卒業後何年かのセミプロがやっと入選するような狭き門、現役で賞を仕留めるのは至難のワザ、入選すらならず落ち込むことも多いようだ。だから、来なくていい!などと一時不機嫌でこっちのほうが落ち込んでしまったが、盗まれたチャリンコ見つかったり先週あたりはずっとマンマが泊り込み夏冬取替、上げ膳据え膳、足の踏み場もない部屋大掃除のせいかニコニコになっていた。ピンピロリン~「おーい、どこだ」「友達とあそんでる、いまどこ?」「どこって、サンマ焼いてる前だ」「そこ、動くなっ、行く」・・・

ここへのムスメの志望動機はオヤジにはほとんど分からぬが、ファインアートは本道、そこに突き進んでしまったのだ。むむ、蔵書から見るにあのスタジオジブリの大先輩やら「ハチミツとクローバー」のせいも少しあるかいな?やれるだけやってみな。じつに伸び伸びした学校であって入学式など途中からギンギンのステージになっておねえさんたちがサンバを踊りまくる。ポット出のムスメはドギモを抜かれたのであった。さすがに2年にもなると、一風かわった表現技法を作り出したようで今年あたりの作品にはちょっとおどろきのものがある。まあ彼女に見つかるまいから、ちょっとだけ貼っておこう。これはアブラではなく多層の塗りを彫って描いている・・・構想力と、べらぼうな根気、やり直しはきかず・・・

     幸せだけ正夢になれ

ちょうど学内では、「杉浦康平・脈動する本」と「20世紀から21世紀へ 転換期のポーランド・ブックアート」というブックアート/デザイン展が開かれているのでこちらも見させてもらった。杉浦さんの手がけた装丁になる本は2000冊にもなるという。そうだ、こういう世界もあったか、ほんものの本という紙のメディアも貴重なものだと思ったことであった。

「笑点」にも出ている林家たい平さんは、なんとここのOBでしかも客員教授である。東日本大震災後の慰問のなか石巻市観光協会からムサビの学生による≪未来があり元気になる作品≫を復興支援のために寄贈してもらえないかというお願いを受けたと。「石巻支援アート押しプロジェクト」、復興に向けて頑張る市民を応援し、勇気づけ美しいものを見る喜び、将来に向かう元気を届けようというのだ。作品はJR石巻駅、商店街、ホテルなどに展示してくれるという。ムスメも絵を出したが、オヤジはみていない。そのうち石巻で見れるだろうかな。

 

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A Sideman's Journey

2010-01-16 00:52:31 | 音楽・芸術・文学
A Sideman's Journey

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この正月2日のNHK-BS「サイドマン - ビートルズに愛された男」を観てとてもよかったので、文字として記録しておいた。このブログの本文は1万字が限度で、なんども書き直し。もっとも、ボクのブログのかなりがギリギリきわどい編集ばかり。で、コメント欄を利用してアルバム「A Sideman's Journey」の印象を「付録」として追加した。われながらスバラシイ思いつきだとジャケットの細かい字をたどってたら真夜中になり、めったにない本物のコメントまで見つけたりして尻切れトンボになってしまった。

これでは、クラウス Klaus Voormann さんに失礼なので、ここにリライトした(こーいうの、アナグロ・リマスター版という!?)。彼はことしで72歳だって。知る人ぞ知る幻の名ベースシスト、脇役に徹した”サイドマン”。その、クラウス・フォアマンが、お友だちにかこまれて、とうとう初主役として2009年3月にリリースしたアルバム。あのビデオのなかでも、いろんなセッション・シーンが映像ストーリーの中に組み込まれていた。このようなドキュメンタリはシナリオもしっかりしているはずで、アルバム・テイクと並行だろう。

ベルリンのプールつきの立派な生家再訪を振り出しに、イギリス、アメリカ東部、西部、あちこちをめぐりながら旧友との再会、仲間との楽しい演奏、...しかし音楽の世界に戻ることがこんなにタイヘンだとは・・・と、彼は映像の中で述懐していた。そして70歳の誕生日を期してクラウスは”サイドマン”から、”フロントマン”になった、と奥様のクリスチーナはライナーノーツのトップに誇らしく記す。むろん彼のデザインしたジャケットだし、本人と奥様の言葉と写真、余分な解説者なしのセルフノーツ。これで主役かいな?クラウスは横向き、ひとりベースをひいている。こういう絵の雰囲気が彼の奥ゆかしさだ。ポールだけはちょっとスマシテいるけど、みんな笑顔、ずっとお世話になってきたクラウスに心から感謝。彼はすべてのサイドマン・バイプレーヤーたちに、このアルバムをささげたのだ、クリスチーナは感じている。

クラウスの記すところによれば、彼は曲目を何週間も決めかねていたようだ。大アーティストたちのヒット作を演奏するとなると、ずいぶんと気が引ける。彼にとって、Johnの"Imagine"は神聖そのものだし、Nilsonの"Without You"もそうだ。それで選曲のほとんどは演奏者・演出にお任せにしたと...
Don Prestonがやろうといった"Blue Suede Shoes"には、ジョンのハンブルク時代、最初で最後のプラスティックオノバンドのトロント・コンサートでの思い出も・・・。よき友だったHarry Nilsonを偲んで、大好きな"He Needs Me"を彼は選んでみた。Van Dyke Parksが作曲に絡み自分も、ロバート・アルトマンの映像”ポパイ”の製作でサントラにつかったもの。でも、ビデオではセッションの情景が楽しめたが、このアルバムには、なぜか入っていない。第2弾に期待しよう、こんどは東海岸がいいか、カーリーサイモンのYou're So Vainはぜひ入れようね。

☆"I'M IN LOVE AGAIN" Piano,ElectricGuitar,Acoustic Guitar,Organ&Drums,Vocal ;Paul McCartney ,Bass Guitar;Klaus Voormann , Drums;Ringo Starr ...これでとうとう、クラウスは、ビートルズになった!
☆"YOU'RE SIXTEEN"、 いいことだ、Ringoもまた元気になって。でも、みんな、You're around sixties or seventies . (?)
☆これもいい、"SHORT PEOPLE",Don Preston もシブイし、花やいだギターはJoe Walsh、いつまでも達者だなあ...
☆それに、Bonnie Bramlett、 "MY SWEET LOAD"、時にハスキーに、アラ還でこの迫力はどうだ。Gerge Harrisonの傑作だからなあ、このプレイではオルガンがいい、ジョージは天国で・・・。彼女がシャウトするもう1曲"SO FAR"は、クラウスの作。
☆Mike D'Abo のヴォーカル、メンバーそろってくれて、"MIGHTY QUINN"。ダボも、クラウスのせいでクビにならなくてよかったね...
☆YUSUF ISLAMの "ALL THINGS MUST PASS"、 "THE DAY THE WORLD GETS ROUND"、やさしいいい声だなあ、Gerge Harrisonにぴったりと思った。最近、”road singer"というアルバム出したよ、と、クラウスはジャケットまで載せて紹介してくれている。よく見れば、彼はなんとCat Stevensじゃないか!何十年ぶりで再会、名前まで変えたんだ...彼のLP!が、さがせば出てくる...

クラウスのボーカルはMIGHTY QUINNのバックコーラスで聴いてね!?そして、ヘッドフォン使ってベースの響きをジーと気にかけるんだ。う~ん、こうなると控えめなベースマンは、ずーとSIDEMANかなあ...
でも、曲目やドクタージョンなどお友だちの出し方やら環境PJへのチャリティなど、彼の人柄がアルバムのつくりいたるところに感じられる秀作だよ。
昔から聴いてた古希・アラ還、団塊の世代にかぎらず若い人も、テレビ映像観て通り過ぎるより、ちゃんと買って手もとにおくべきだろね、このCDは。レンタルもいけない、紙ジャケットも彼のアートだからだ。

映像やDVDというものは、それはそれでいいのだが気が散るナガラ族には、ときにちょっとつらい。ビートルズの再々・リマスター版とやら、ボクの記憶の島までリミックスできないだろう?いまさら音質を聴き比べたいわけじゃないんだ・・・・。それに、モノラル版一そろいでは高すぎ手が出ない。
こういうスバラシイアルバムが、テレビで陽があたるまで誰も知らないからか50%OFF、得したよ。だけどMedia Playerに取り込もうとしたらJONEYなんとかというアルバム名とジャケットに化けてしまう、イヤになるなあ。ミュージシャンはいっしょうけんめいなのに、音楽ギョーカイやそのサイトの情報はイイカゲン、目先の売れ筋だけ・権利ばかり主張して・・・ ヒョーロン家含め皆フマジメだ、ずーっと感じてきたことである。 




Roadsinger: To Warm You Through the Night

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