Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

しゃっくりの焼肉

2006-08-06 23:40:43 | なんでもあり・ファミリー
この一週間でやっと夏らしくなった。が、犬と猫は、年中毛皮着ているのでタイヘン。日中は、ネコはどこかで居眠り、イヌは夏用毛皮に着替えたはずだが風通しのよい日陰でハアハア、夕方からやっとヤル気が出てくるアフターファイブの哺乳類。

真夏の夜にゲンちゃんの家を訪問した。2坪もある個室で悠々だし全部網戸なので風も通って気持ちがよい。書見灯までつけてやったんだがなあ。ぬいぐるみおしゃぶりに付き合っていたら、風に乗ってどこからかバーベキューのいいにおい。
おおっ、ゲンチャンとともに立ち上がり網戸の向こうを見回す。あそこの家だな、さっき、庭で準備していたな。夏の夜は、バーベキュー(の、においが)がいいなあ!

ん?タレつけてまた焼いたな、この感じ、おい、ゲンちゃんドクだよなあ、クンクン。玉ねぎもお前には禁物だからなっ!
カレ急に食欲催しボリボリ食べはじめる。今晩のメニューはCO-OPドライ、RUNミールミックス(ミルク味)、「元気なチャッピー角切りビーフ」少し。皆、安いやつばっかし(飼い主、甲斐性なくすみませぬ...)。テッちゃんは、サイエンスダイエット・腎臓病食などと獣医経由の高いもの食べてた。ゲンちゃんは元気で安上がりでなにより。「ショージくん」のおじちゃんみたいだな!(尊敬のあまり、失礼しました...)

先月は、ある集まりで食べホーダイ焼肉なんて行ったが、マシなのはハラミ。皆で「あれ、3サラ追加ぁ~」店のおねいちゃん「あっ、あのドス黒いのですかぁ?」おいおい、何とか...!ねっハラミって?どこのあたりだっけ? えっとォ~...、「いいや、早く持ってきて!ちょっと赤っぽいのねっ...」

自分で調べると...えっ横隔膜だっけ!肉でなくて内臓の分類!牛も、しゃっくりするのかなあ?でもココはうまい。(ほんとは皆に言わないほうがイイ、牛タンがそうだった...)
牛タン、テールスープ...仙台人は、入り口と出口あたり、しゃっくり用の筋肉?こんなとこばっか食ってるが、誰が真ん中たべてるの、なあゲンちゃんや、お前の角切ビーフとか言うのも怪しいぜ?...というような、会話をゲンちゃんと交わした。
かれは、よけいな詮索などせずに、素直に飼い主に感謝をしているようであった。よしっ。

テツは一昨年いなくなってしまったが、インタネットでは曾祖父鉄源号のその父作州源号が見られる。シロート目には、ゲンちゃんもイイ線いくはずだがなあ。
どうかなあ。きゃんきゃん甘えているようでは...国家もそうらしいが、なにより品格だってよ...



********
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「鯛焼きの丸かじり 東海林さだお 文春文庫 ISBN4-16-717737-4」
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「行くぞ冷麺探検隊 東海林さだお 文春文庫 ISBN4-16-717740-4」
「以下、またまたボーダイ、これからね~ 
行くぞ!冷麺探険隊

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仙台七夕の青空

2006-08-05 12:32:24 | なんでもあり・ファミリー

福島にいたころ幼稚園夏休み。8月の暑い日の午後、仙台のばあちゃんからハガキがきた。
「あしたから仙台七夕・遊びにおいで...」と読んでくれたのが、母の間違いだった。直ぐ行きたいと母の膝の上で僕は大泣きを続け近所の人たちが何事かと縁側の向こうにぞろぞろと集まってきた。

弟が3才、一番下は6ヶ月の乳飲み子、クルマなんかない時代だったから身軽に動けるわけもなく、母は困り果てたのだろう、開け放した縁側からしばらく見物されるままにしていた。

しかし、母は、二人の手を引き赤んぼうを背負い、仕事場の父に連絡でもとり慌ただしく汽車に乗ったのだろう。急行でも1時間以上の時代だった。仙台に近づくころは夕闇もせまり、すれ違う展望車の赤いテールランプが遠ざかっていく。
仙台市電も降り宮城野原・気象台の坂と踏切を越えて、テニスコート向いのばあちゃんの明りがついている玄関を叩いたころは、もう外は真っ暗だった。引き戸を開けたばあちゃんのびっくりした顔。
そのあとの記憶はない。疲れてすぐ寝てしまったのだろう。

翌日、一番町藤崎のあたりでアイスクリームを食べた。あのころの七夕は飾りもまばら、アーケードの屋根などなかったから、見上げた空が真っ青で大きかった。あの日は快晴だった。

母はこのあと二度と七夕を見ることはなく、これが実家への最後の里帰りとなった。秋はボクの受験勉強補講?で幼稚園付き添いの記憶あるが、その後寝たり起きたり翌年5月のはじめ卒園式にも小学校入学式にも出られず、癌で31才の短い人生を終えた。
きょうがあの日から51年、若き母もたいへんだったろうけど、あれでよかったじゃないかと思った。
...こんなことばっか、あたまに浮かぶとよくない。封印してしまおう。

鳴海屋紙店のサイトで、七夕の由来や、和紙の飾りのつくりかたでも見たほうがいいね。ヤっヤっ、今は、インターネットでの竹飾り特注フォームまであるんだ!
鳴海屋さんでの七夕飾りつくりは仙台の女子大生のアルバイトだったよ。わが愛妻も、その昔やっていたっけ、...粘土教室のお弟子さんたちが書いた短冊が黒竹に...
どれどれ、なに書いてあるか...[XXちゃんと□□になれますように xx マル秘]だって、はぁ~~小学生。

伊達政宗の歌、元和4年(1618)。この頃から、七夕やっていたのか。
「まれにあふ こよひはいかに七夕の そらさへはるる あまの川かせ」
「七夕は としに一たひあふときく さりてかへらぬ 人のゆくすえ」

   

 (街中の第一幼稚園には福島交通のバスで越境通園。入園最初の日には、斜め向かいにあった父の電話局の前で乗せてくれる手はずが内気のため寄らず、とぼとぼ歩いて帰った。大きな犬が道をふさいでいて、こわごわよけ、途中で出あった第六幼稚園の近所の悪たれにお前はどこに通ってると脅され、やっとたどり着けば、このときも家の前は仙台のばあちゃんも含め人だかりであった。おお、えらいねとほめられるのかと思ったら、「ばかな子ねえ・・・」と小さく母の声がした。秋ごろまでは、ピンピンしてたと思うのだがなあ...バス停の前の店でアイスもお菓子もいつでももらって来ていいよと言われていたが、これも内気ゆえ母の配慮に応えず...可愛げのない子だ。みな普段着の集合写真にボクはきりっとした半ズボンのスーツに革靴を履いている...母が作った真新しい長ズボンをはいた日はウンチを漏らして帰ったのであった...付属小も落ちるし、期待に添えないことばっかで、ごめんね、今日は盆の入り。— 2010.8 追記/思い出した)



*************
仙台市観光情報
フォトギャラリー「仙台日和」

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父の日に

2006-06-17 18:22:14 | なんでもあり・ファミリー
父の日に贈るもの決まりましたかぁ~との広告をみたが、普段どうもチチらしいことしてないし...マア、思いがけないものでも貰うと嬉しいのではあるが...当分無理だろうなと観念している。
数年前、ムスコとムスメがいつか読んでくれればと、ちょっとしたものを書いておいた。今の年代では見てもらえることすらも期待しにくい感じ、偶然ということもあるだろうし、彼らにまずは序文?だけを贈っておくか。

ムスコAとムスメMに

パパはいつも、家のことをしないで好き勝手に釣りにいったり、かっこばっかりでよくぶっこわれる外車や読みもしない本やらで無駄使いしたり、夜中までパソコンやっていたり。
よくもまあそんなに次から次へと思いつくこと駄洒落ばっかり、マジメじゃない、とにかくおふざけが過ぎます、見栄っ張りなんだから、とママも言ってます。

そういういいかげんなパパにもお父さんお母さんがいましたが、君たち二人が生まれるずっと前に亡くなってしまいました。だから君たちが会ったこともない、おじいちゃんとおばあちゃんということになります。
よくお墓参りをしてくれている、あの大林寺のお墓に眠っています。パパのお母さんが死んだのは今から44年も前パパが6つの時でした。それからパパは今のおばあちゃんに育てられ、いろいろなかたにもずいぶん面倒をみてもらいました。

そしてパパが18才の時お父さんも亡くなったのですが、それからあっという間に32年がたちました。今年西暦2000年にパパはちょうど50才になり、若くして亡くなったお父さんお母さんのほうがずっと年下になってしまいました。
パパが憶えているお父さんの最後の言葉は「おまえ、しっかりしろなあ」です。
だけど、どうもいまだにパパはしっかりしていません。子供だったパパに対しては、いろいろなおとなの話もしないままにいなくなりました。でも、30年以上たって初めて知ったこともあったり、お父さんがなにを思っていたのかも、やっとわかってきたような気持ちになることもあります。

パパのいまの仕事や会社はパパのお父さんのやっていたことの続きかもしれません。パパとお父さん両方でお世話になったかたもたくさんいます。だから、パパ自身のこれまでのことも重ねあわせて書きました。いつの日か、おとなになってからでも読んでくれればいいかな、と思います。

パパ
平成12年2月 ―― 父三十三回忌に ――

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山二

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FIFAソーセージ対決

2006-06-11 19:10:52 | なんでもあり・ファミリー
FIFAワールドカップ、練習試合相手が良かったのかドイツチームは開幕戦で好発進とか。勝利をお祝いし、かつゲーテさんにも敬意を表して本日はフランクフルトソーセージ Frankfurter を作ってみた。
ヨーロッパスタイルの華麗な組織プレーなどといわれているが、ナニ、どいつもこいつもツイこないだ2千年まえごろは、ライン川のあっち、ましてドナウ川の向こうはたしかに集団で押し寄せる蛮族、住処がゲルマーニアだったのだ。それに、あの国が戦いの火蓋を切ったり電撃的好発進するのはいつものことなのだ!?

羊の腸に詰めればウィンナー、牛ならばボロニア、そして豚に詰めればフランクフルト。
仙台では、羊腸や豚腸などのケーシングが手に入るのが「明治屋」ぐらい、牛のは見かけない。おっと、冷蔵庫に眠ってた塩漬の豚腸ダイジョーブかな?まあいいか、と。

ソーセージsausageつくりは、4,5年前、蕎麦うち仲間に誘われ数回ゲスト受講した「農業高校社会学級」で覚えた。
農家レストランのオーナーのかたにも教えてもらったが、さすが本格的なものは、うまかった。材料をえらんで、下作りの「仕込み」工程に何日かかけるんですねえ。このときは、この家のねこちゃんご主人の作ったソーセージを入れた袋にジャンプ一番飛びついて1本くわえて離さず、とうとう持っていきました。さすがでした。
いい豚なら、手に入るんだがちょっとかわいそうで...

こちらはいつまでも自己流。「ドイツスタイル・シーズニング」という便利なものあって、こんなのつかえば簡単にドイツ風になるのだ。スパイスは凝ればきりがないから、とは手抜きの言い訳。
どんなことでも100回ぐらいやればレシピとかはドーデモよくなり、自分のものになるのである...ブランデーのかわりに?味醂とそばつゆ入れたのがボクのオリジナルではありますよ。ウチのネコは飛びついてくれるかなあ?またいでくれる予感が...

料理ホンでもちゃんとみて発色剤なんかも使えば、味も見かけもっとうまくなるんだろうなあ。いつも工夫がなくてはと、本日は洋酒樽に30年以上使ったというホワイトオーク材の燻製スモークーウッド”ウイスキーオーク”というのを使ってみた。

さて、日本では太さが20mm未満ならウィンナー、36mm以上ならボロニア、其の中間がフランクフルトだって、なんだこれ、以下のサイトで知りました。
ワールドカップ決勝トーナメントは、スローフードのソーセージ対決となるか!
コンビニのおむすびコロコロなんかじゃ勝てないってば。

>>以下、勉強のため「ハムソーセージ・ウンチク話」より引用させていただきました。
・ソーセージの語源にはSau(牝豚)とSage(香辛料のセージ)という語が合成されてできたという説、ラテン語のSalsus(塩漬け)からきたという説、そしてSauce(塩水)とAge (寝かす)、つまり塩漬して熟成させた物がソーセージであるという説など諸説があります。

・ソーセージにはヨーロッパの地名が冠されているものが多く、イタリアのボロニアソーセージ、フランスのリヨンのリオナソーセージ、その他有名なものではフランクフルトやウィンナ。

・ウィンナーは豚肉と牛肉を塩漬したものに香辛料を加えて練り合わせ、ケーシングに充てんした後、燻煙・ボイルしたソーセージで、その名の通りオーストリアのウィーンが発祥とされる世界的にも最もポピュラーなソーセージです。
(面白いことにウィンナーの事をウィーンではフランクフルトソーセージと呼ぶそうです)

・日本農林規格(JAS)では肉の種類や燻煙の有無には関係なく、ある一定の基準で作られたソーセージのうち、羊腸もしくはこれに準じた太さのケーシング(製品の太さが20mm未満)のソーセージに対しては「ウィンナーソーセージ」という名前をつけることができます。
ウィンナーソーセージ(羊腸を使用したもの、又は製品の太さが20mm未満)、フランクフルトソーセージ(豚腸を使用したもの、又は製品の太さが20mm以上36mm未満)、
ボロニアソーセージ(牛腸を使用したもの、又は製品の太さが36mm以上)・・・
ただし、あくまでも日本での分類です。...


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粘土教室

2006-06-07 23:55:23 | なんでもあり・ファミリー

玄関に「粘土教室」の看板あり、せんせ~は愛妻、塾生は近所の小学生の子どもたち。小学生のころのムスメの友達たちと一緒にやっていた延長線で9年もやっているというもの。
作品は、町の文化祭などでほめられているようだ。中学になると部活や塾でそれどころでなくなるみたいで小学生までですね。

樹脂と紙の中間のような「超ファイバー樹脂粘土」、赤、黄、青の三原色と白の粘土を混ぜれば全ての色は生み出される。形や作るものは、花、鉢、人形、何でもアイディアしだい。ボンドや仕上げのラッカーなども材料のうち。
で、今日作りかけの作品はと見ると、おっと!なんだこれ、すばらしい。せんせーに聞いてみた。

「今回は、鏡の額縁をテーマにしたら、カガミを口に見立てて歯磨きの顔にした子がいて...頭はアフロにしたかったらしいけど、鎌倉の大仏ヘアーにしたみたい。おててにちゃんと歯ブラシ持たせて。思いがけない創造性、色の使い方なんか、こどもに教えられること多いなあ...」よくみると、虫歯にバイキンマン!芸がこまかいですね~

材料費相当のお月謝なのでビジネスモデルなどとは縁遠く、作りかけクレイモデルが部屋中に!生徒さんただいま7人、いつでもどうぞ!

今日の夕方ごろ集まってやってましたっけ。ボクは本日会社にいけなかったので開講中の教室に出くわした。今朝真夜中2時、ピカピカどか~ん、どか~ん町内猛烈な落雷、小学校や、サッカー場、その他、雷サージ。
役員しているCATV施設の信号アンプや枝線の分岐タップ、各戸の保安器などあちこちおかしく、かなりテレビ映らない区域や家庭が出た。ウチも映らないので「あ~あ」。一日中、電力、電話、有放、電器屋など保守の車が団地内あちこちでウロウロ。

朝早く理事長と二人、伝送設備の落ちた電源ブレーカー戻しておおむね復旧させたが、メンテ業者と一緒に一日中個別の対応がつづいた。組合の電話もパソコンもイカレた。さて、奥様連中のクレームとモノの言い方わけがわかりませぬ。

ちょっとだけ家に戻ったときが粘土教室、テレビの事務所に戻ったあと夕方の電話何件かがきつかったですなあ。まあ、「お隣に聞くより電話で文句、町内の事など我関せず」の方ともお知り合いになれるので、結構楽しんでおりまする。
「帰ってきてもまだ直ってないじゃない!ワタシは明日もしごとなんですから!あんた今すぐ見に来れないのッ!!...」

 ア ハード デイズ ナイト ...「文句、どこの家?」粘土のせんせ~の質問には、守秘義務あり答えず。今日の日もあと何分かで終わる。今日の日はさようなら、災害なんかいつでも来いって!大仏さんが歯を磨いて直してやるぜ。

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つつじは満開...

2006-05-21 18:07:09 | なんでもあり・ファミリー

昨日のお魚があり過ぎて、正室の指示に従い彼女の実家に持っていった。
おばあさんは亘理にイチゴ狩りに、おじいさんは庭でドロだらけ。
「おっ、ちょうどよかった、もすこししたら今日はお寺だ」そういえば檀家集まってナニするとかウチにも案内来てたはずだが...行った事がない。同じお寺なのでマアいいか。ついでにいえばお墓参りも効率的!?「荒城の月」土井晩翠先生の菩提寺である。

「施餓鬼会?ありゃ和尚さんのレクレーションですな...栄一郎じいちゃんがこの25日だしね」と、おじいちゃんは欄間の父親の写真を見上げる。96歳まで生きて、ウチのムスコは生まれ変わりのはずだが...
でも覇気がちがうなあ、このじさまは若き大平正芳さんを鍛え、戦中は民政官でマレーにいき、戦後地元に戻るや県会の選挙にウッテ出たりした。蘭の温室、絵、掛け軸...明治の人は多趣味で余裕がありました。

僕と孫である妻をまえにこの部屋で、「若いうちは男は落ち着く事など考えず転勤してあるけ」などと一時間もしゃべり続けた。(で、そうはしたのですが...)
「おやおや、今日はどうしたんでしょう、ずいぶんご機嫌で...」長く教員をした明治のキャリアウーマンいわゑおばあさんやら周りもびっくり。もうあれから二十数年たった。

隣の写真は?「栄一郎サンの弟、志津川あたりの生糸も買い集めて横浜で商売したんだね」関東大震災で体を壊して1年後若くして亡くなった。「生糸ぐらいしか海外に売るものなかったんですよ。」

「ところで...」そらきた! (@_@;) 「Aクン、勉強余り好きでないみたいだなあ...専攻が情報デザ..?ハテ?..何になろうとしてるんだろ..」
大正末期~昭和一桁世代は理科系人種が戦争を生き残った?理づめでくるのでアイマイサでもっては、しのぎにくい。
青少年A=ムスコ、昨日から仙台青葉祭りで踊ってたらしい(朝も帰っていなかった)などともいえず...「S子も外でヒトのことはやるくせに...ま、入学祝い約束したから、どこでやるかな...そのときでも...」
監督不行届き...<(_ _)>  空は真っ青、五月晴れ、つつじ類もいろいろ満開なのに...

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5月7日

2006-05-07 01:28:22 | なんでもあり・ファミリー
福島にいたあの日からちょうど50年たった。

F大付属小入試は父の期待にそえず、住んでいた家近くのS聖母小学校に入った。制服仮縫いの日は祖母と一緒、入学式の写真には父が写っている。母が入院中だったからだ。

朝ごはんのとき電話が鳴り、ばあちゃんが受けた。
「母さん死んだんだよ」というひきつった祖母の声にも、僕は学校に行くと言い張った。日曜ではなかった、あの日は学校だった。
休み時間に校庭側のコンクリートタタミで遊んでいたら、連れ立って歩いてきたマザー二人から声をかけられた。
「お母さま、よくなられました?」僕、だまって首を振る。「おかわりないの?」「退院されたの?」。だまって首を振る。ためらいながら最後に聞いてくれた「亡くなられたの?」に、僕はうなずいた。
マザー達は驚き一人はどこかへ走ってゆき、すぐさま僕を家に帰したようだ、ここから記憶途切れる。

病院での母は眠っていた。
祖母が「パンツは、はかせられなくて上からかけただけ」と誰かに言っている。
母に近づくと、目をあけた、ように見えた。部屋を出ようと離れたとき、また、まぶたが開いてはっきりと僕を見た。死んでなんかいないじゃないか、と思った。

縁側でオマルに真っ赤なおしっこが出て祖母が「あらっ、のり坊大変だ」と慌てた。すぐに近くの国立病院に入院させられた。自家中毒だったという。このとき3才だとすると、昭和28年、仙台でのことだ。
心細くて二階の窓から見ていると、病院の正門から小柄な母が歩いて入ってきた...うわぁ..
一番古そうな記憶だけど、まるで昨日のことのようだ。

母は、おとなしい人だった。縁側の前の畳で裁縫をしている。僕は横で遊んでいる。弟がよちよちやってきてヨイショとすわりタチバサミがボキッと折れた。「困った子ねえ」という言葉は出たが母はまったく怒らなかった。

仙台の仙石線宮城野原駅近くの母の知り合いらしい家で小犬をもらった。買い物篭のなかに小さな茶色い犬が動いていて、線路沿いの帰り道、何度も篭を覗きながら家に帰った。名前はペスになった。耳が垂れた毛が多少長い雑種で色は茶色。父が福島に転勤する昭和29年までテニスコートの向いの祖母の家にいたから、これは4才ぐらいのときだったか。

(1学期はずいぶん休んだ。深緑色の小さな聖書と赤い万年筆、(モルヒネの?)注射器と消毒綿入れ、たからものをビスケットの函につめて、畳の縁をブーブーと走らせていた。何十年もたって古いアルバムを見つけた。母はカトリック系の仙台高等女学校・いまの仙台白百合学園の出なのであった。僕が修道院の小学校に入れられたのは、母の最後の意志だったろう。半世紀たちアラ還の僕は、なるべく白百合のあった花京院交差点を渡る。重そうなかばんを抱えた小柄な女学生の通学路と行き来した空間を横切っているような気がして...2010.5追記)

1956年・昭和31年5月7日午前8時45分...
いったい、僕は誰に向かって何を書いているのだろうか、
インターネットがどこかにつながっているなら...これ読んでね。今、花盛りだよ。

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沈丁花のころ

2006-04-25 22:51:22 | なんでもあり・ファミリー
ごてごてと草花植えし小庭かな 子規

駐車スペースの脇につつじの花壇あり。奥のほうに沈丁花が二本根付いて、ずいぶん枝振りがよくなった。
それでいまごろは、ご近所にもいい香りのおすそ分け。
この木は、風に当たらずお日さまに隠れるようなところがいいらしい。
植え替えもきらう。もう一本は失敗、雪がドッサリ積もればへこたれそうになるし、なかなかこれまでになるのもむずかしい。

昔いた川崎・横浜あたりとくらべると、ここの沈丁花はひと月は遅い。
子猫の頃は自由に花畑の中でうっとり座っていたクロちゃん
クロ太逝く遠きあの日も沈丁花

西行の花はさくらだが、クロちゃんも同じだったね。
願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃

季節の花 300」より、以下拝借。

・学名 Daphne odora
Daphne : ジンチョウゲ属
odora : 芳香のある,香りのいい
Daphne(ダフネ)は、ギリシャ神話の女神の名で「月桂樹」のギリシャ名でもある。葉の形が似ていることからジンチョウゲ属の属名にも使われるようになった。中国原産。室町時代に渡来した。
香りは沈香(じんこう)という香りに似ており、葉の形が丁子(ちょうじ)という植物に似ているところから”沈丁花”に。

「沈丁花いまだは咲かぬ葉がくれの くれなゐ蕾匂ひこぼるる」
「沈丁花みだれて咲ける森にゆき わが恋人は死になむといふ」若山牧水

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小さき花

2006-04-22 14:59:52 | なんでもあり・ファミリー

小さき花が好きである、彼女は。小さき花幼稚園出身のせゐであらう。おそらく合唱の練習にて不在の育て主に代はり、お日さまに当ててやった。
その昔、通はれた(かふいふとき「大過去」時制を用ひるのであらうか?)仙台南材木町小学校は合唱が全国トップレベル、しっかり身にシミついて、ン十年たってもさえずっておる。しかるに余の音程は外れっぱなしヤメテチョーと母娘ともども叫ぶため、余は家では歌を忘れたカナリアになっちょる。

はて、お墓参りだけは余をせきたてるケーケンな曹洞宗仏教徒のはずであるが、ミサ曲のコーラスを何故にやっていなさるのか。これは鈴木徹先生のお考え、ご指導であらうな。ン十年前しこたまやっていた(こーゆうとき「半過去」で言うのであらう)I女高の同級・後輩とは、いまだにツルんで歌っておるやうだ。(やっと、現在形になりぬ!)
去年「大和言葉の美しき調べ」日本語であったが、今年のコンサートはラテン語、イタリア語、ドイツ語...みなさんダイジョーブなのであらうか、いらぬ心配、同級ハラッペ女史は語学の大学教授。

花のほうも、余ようわからぬ。無邪気な純情フリージャ、愛され幸せのアザレア、警戒せよのシャクナゲ、おお、成熟の魅力・優雅な夫人カトレア、キミは十分すぎるよ...まあ、余はどちらかと言ふとハデ系が好みじゃ。

玄関前の小さき花ども、ラッキークローバー、忘れな草、姫ツワブキ、オステオペルマム、青やピンクの心に秘めた愛マーガレット、しそ科ラムズイヤーなどと、鉢の小さき名札にあったぜよ。クローバーの四つの葉は、faith 、hope、love、luck、そして「be mine 私のものに なって」。
忘れな草、露地植えもいっぱいあるはずだが消えちゃったかな、だから、
forget me not ( nontiscordardime)  , non scordarti di me なのであらうな。中学の時、梅津先生が黒板にこれ書いたな、花の名前だと答えたらちょっとおどろいて呉れた。(「遠過去」かな、これは)

いつのまにか小さくもなくなったムスメは、けふまで修学旅行らしい、東京ディズニーランドで何を研修なさってくるのであらうか?
アバウトなお兄と違ってどうもやることがチミツでありすぎ、大騒ぎで美術館から電車の小銭までインタネットでカンペキに調べていったぜよ、小使いン万円。これじゃあ、オトコどもはペーパアテストでは敵わぬわけだ。

ここまで書いたら、あれっ、彼女は帰ってきたぜよ、合唱じゃなく今日はムスコ殿皮膚科に連れてっただと。アレルギー、漢方で改善する。
若年性白内障との影響あり去年、今年と片目づつ手術した。ダルマ両目開き今年から何とか大学に行ってる模様であるが、ブレイクはたまたストリートダンスというのか、やっておることは、とんとケントーがつかぬ。

余はさきほど、猫のトイレの紙とゲンちゃんの「ほねっこ」の買い物を仰せ仕り候。(近過去、妻の命令形で余が受動態)
というわけで犬猫たち、ゲンちゃんやタスケ・ハクちゃんがこのフーフのカスガイになっておりまする。(現在進行形)
違いすぎるわれらどうし、この先どーなるのであらうか?(再帰動詞未来形、愚問文)


*********
「花の園芸 大百科 主婦と生活社 雑誌61341‐53 T1061341533908」

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ヴァーチャル豆まき

2006-02-04 14:16:30 | なんでもあり・ファミリー

 
今年は2月3日が節分。節分は立春・立夏・立秋・立冬の前日、特に立春が1年の初め「節分」といえば春の節分。立春を新年と考えれば節分は大晦日、前年の邪気を全て祓ってしまうための追儺の行事、「豆まき」。

この写真のタイムスタンプは94年とあるから、もう12年一昔前だ。まあ、このころは子どもたちはまだ素直であった。(妻もだ!?)

おにいちゃんは、12年後のこの日は私大受験2日目もう打上げ気分で帰宅は真夜中。
「バカめ、いまからだっつーの」と妻にグチったら
「あなた自分のことばっかりカマけて、ちゃんと話きいてやってないからよっ」

うーん、今年は、どこかに入れるかな。と言ってる場合じゃないか。
ムスメは推薦でいけるよう、いまから祈ろう。この画像を発見されたら肖像権主張で消せというはず。なにせ、インタネットの検索などお手のもの。

まあ、節分には一般的にこういうことをするものだと、もはや、おとぎ話よ、ムスメよ許せ、今となってはヴァーチャルではないか。
このころの犬テツとネコ3匹トラ吉、チャッピ、ピッピも、いなくなってすっかり顔ぶれが変わってしまった。犬猫の命のほうは、あっという間だなあ。

*********
「暦の情報が直ぐに手に入る」 http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0720.htm

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三浦ファミリー!

2006-01-09 12:49:27 | なんでもあり・ファミリー
三浦敬三さんがお亡くなりになったのを知りました。( 「そのままVon」君のブログにて)
プロスキーヤー、冒険家の三浦雄一郎さんのお父上。
2003年、99歳でモンブラン山系最長のフランス・バレーブランシュ氷河滑降
2004年、百寿の記念、ロッキー山脈滑走。
孫、三浦豪太氏はキリマンジャロ最年少(11歳)登頂、長野五輪、ワールドカップなど日本モーグル界リーダー的存在。
なんともすごい三浦ファミリー。
「ミウラ・ドルフィンズ」トップには三浦敬三さんの訃報、平成18年1月5日、101歳、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


昨年夏、三浦雄一郎さんの講演を聴く機会がありました。
敬三さんが春山での転倒大事故での小康を得られたなどと、お父上のことにも触れられていました。スキー、写真、それを支える体力と健康を自分で作り出した人だったのです。ウォーキングは毎朝、体が温まってくれば走る、年間120日はスキー。
手作りのスペシャルドリンク。(ゴマ、黄粉、てんさい糖、殻ごと酢たまご、ヨーグルト、牛乳を混ぜたもの)
「口開け運動」は、口を開けて舌を出す、テレビで見た雄一郎氏はあきれ、かつ感心されたということでした。
「100歳のスキーヤー・三浦敬三さんの食事に拍手喝さい」というのも見つけました。「健康は目的ではない。スキーをしたいために、日夜、努力しているのだ」

雄一郎さん自身も60才前後は多忙な毎日、太りすぎの股ずれで、歩行にも支障をきたすほど!ハイキングの六甲山も途中であきらめ、これはならじと、ここから5年かけての体の作り直しを決意、目標はエベレストにする!(ここが凡人との違い!)
錘のついた靴で、リュックを背負い明治神宮など都内を歩いてトレーニング再開、2003年5月22日 世界最高峰エベレスト山(8848m)、次男豪太氏とともに登頂。エベレスト登頂最高年齢記録(70歳223日)及び、日本人初親子同時登頂記録とのこと。 

あらためて三浦敬三さん、後半生だけでもこの足跡!特にロッキーなど、すばらしい人生でしたね。
1955年 ( 51歳) 青森営林局を退職。
1964年 ( 60歳) 念願のアルプス撮影行(初の海外イタリア)。
1974年 ( 70歳) ヒマラヤのシャングリ氷河滑降。
1981年 ( 77歳) キリマンジャロ登頂、スキー滑降。
1985年 ( 81歳) シャモニー・ツェルマット間90キロ踏破。
1992年 ( 88歳) ヨーロッパアルプスオートルート完全踏破。
1994年 ( 90歳) モンブラン・バレーブランシュ 5度目の滑降。
2003年 ( 99歳) 白寿、親子三代でモンブラン山系ヴァレブランシュ氷河滑走6度目。
2004年 (100歳) 百寿、親子四代と170名の家族・知人たちとロッキー山脈滑走。
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季節はなぜあるの?

2006-01-07 12:11:32 | なんでもあり・ファミリー
地球が太陽の周りを少し傾きながら回っているからですね。
この地軸の23.5°の傾きのために地球の位置によって太陽の光が地球を照らす角度と時間が変わるんですね。夏は太陽は真南を見て約78°の高いところから長い時間地面を照らしてくれます。でも冬はおひさまが31°の斜めからしかあたらず陽の差す時間も短いので、これじゃ寒くなるわけ。
夏至6月21日はおひさまが14時間35分間も照らしてくれるのに、冬至12月22日では9時間45分間、いまごろ小寒1月5日では9時間51分ぐらいなのでしょうか。(これは東京の時間で)

昔の中国の人は太陽が春分点を出て再び春分点に達するまでの360度を24等分して15日づつですね、それぞれの季節に名前をつけましたよ。二十四節気(にじゅうしせっき)といいますね。中国の気候が元なので日本の気候とは合わないときもありますが、話題がなくなって困ったときの新聞によく出てくるんです。
小寒、大寒、立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑、立冬、処暑、白露、秋分、寒露、霜降、立冬、小雪、大雪、冬至。

地球が太陽の周りを1周するのにちょうど1年(あたりまえだ、のクラッカー!)、春夏秋冬がきますね、日本は南北に長い国、山あり谷あり、これでまたまた変化が大きくなって、それぞれの地域の季節も違った豊かな様相に。いい国ですね、美しい日本の私!?

ボクは小寒1月5日の生まれ、もう56回も太陽の周りをまわりましたよ。陽が当たるのかあたらないのか、ヤマありタニあり、まるで季節と同じようですね。
そのうえ地球は毎日1回転するのですからボクの日々も目が回るようですなあ。えッ、ボンヤリじゃないかって、そんな見方もありますね。

1月7日の朝は、無病息災を願って七草がゆを食べましょうね。
春の七草、せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ...これぞ七草。最近はフリーズドライもありますよ、今からでもどうぞ!?

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季節の花300 ⇒ 春の七草(はるのななくさ)
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ネコ鉢?

2005-12-29 16:32:25 | なんでもあり・ファミリー
 
蕎麦うちも、まず道具というわけで!ワルイくせ。
のし棒何本か、コマ板、うち台、まな板、生舟...そうめんの桐箱なども利用で手作り。まあ、時間手間ひまかけるのが遊びのコツ。ここまではDIY。
だけどコネ鉢は作れないしなあ、本を見てるとうっとりするような手彫りの鉢、数年前。

秋山郷は新潟と長野の県境にまたがる蕎麦の里。新潟県中魚沼郡津南町大赤沢(秋山郷)、「山源木工」http://www.otochi.com/otoku.htmlに、手彫りのいい木鉢が...

割れにくく変形しにくい栃の木を、鉈で荒削り、内側を鉢手斧でくり抜く。前鉋をかける、の手彫り。地下足袋、鉢巻の職人さんが先の曲がった前鉋で丁寧に彫る。柿渋でもいい色だが、手入れたいへんでしょうと漆仕上げにしてくれた。1キロ打てればいいかと尺6寸約50センチの鉢。実はこれ以上だと手が出ないお値段となる。

ほっといたらハクちゃんの寝床になっている気配、かじられちゃ大変、しまいこんでおいたが、出した途端この有様!ネコの毛など混じっちゃ問題外、ニャロメ、これじゃネコ鉢になっちゃう!
では、さぞ、おいしい蕎麦が...なのであるが...当然そば粉が...
本日は年越し蕎麦用を仕入れに粉屋さんに...素人のほうが石臼挽きなどの高いものを買う。あとは腕しだい、ここの青葉手打ちそば教室http://www.maru5.com/は店を出す心意気のひとたち。ぼくは分校?

わが家のみなさん、足で踏んだモチモチうどんのほうがいいみたいで。

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「野村ノート」

2005-12-16 01:04:41 | なんでもあり・ファミリー
 
本日12月15日、来期「楽天イーグルス」の監督になられ5年ぶりのプロ野球界復帰の野村克也氏の講演を聴いた。ユーモア交え和やかに話していただいたが、経験と実績の確かさからの真実と次の世代を育てる熱意に、大変感動した。

監督には、なにより選手の意識を変えること、仕事の野球それを通して人生の教育という役目が求められるという。選手を育てることには、選手の人生への思いやりとともに熱意。「考えないより考えたほうがよい」「知らないより知ったほうがよい」から意識改革を始める。
ヤクルトのミーティングは、いつもこの言葉から始まった。
 「はい、今日も知らないより知ったほうがいいを始めます」
意識がかわることで野球観が変わり、その選手のプレーが変わる。そして選手が高く評価され、チームが優勝したりタイトルや記録を手にすることで選手の運命が変わる。選手としての価値(運命)が引退後の人生まで変えてしまう。広沢への助言、古田の教育...そしてデータを取り入れた「ID野球」の工夫...

監督が心打たれた言葉として、紹介された。(ヒンズー教の教えという。)
   心が変われば態度が変わる
   態度が変われば行動が変わる
   行動が変われば習慣が変わる
   習慣が変われば人格が変わる
   人格が変われば運命が変わる
   運命が変われば人生が変わる

「生涯一捕手」などと言ったこともあったが、実は優勝請負人の指揮官、そして教育家が、野村さんの後半生である。

戦いには「戦力」「士気」「変化」「心理」の4要素。中でも士気、ムードが大事、チームのまとまりをどう作るか。選手に他チームより進んでいる、強いという優越感、優位感、これが大きな戦力になる。よき、コーチングスタッフを育て、身近に置くことも肝要。熱血漢星野監督の下では、島野がフォロー。

野村さんの野球人生は超一流、そして監督としてもリーグ優勝5回、日本一3回。信念と独創と行動、上や周りに対しても直言居士である。だから、南海ではプレーイングマネジャやったり解任劇も、最近もヤクルトの奇跡から、ダメ阪神!?まで波乱万丈である。
指揮官で人と組織は変わるとはいうが、それ以前にオーナーの意識、経営感覚はじめ、膨大な金と時間がかかる!
さて、「楽天イーグルス」は、再生どころの話ではなくまだ実態も無いような状態とのこと。ノムさんの手にかかり、いつ孵化するのだろうか?最近全くプロ野球を観てなかったが、指揮官は観たいな。

とっくの昔東京スタジアム、内野席で子供たちが鬼ごっこの閑古鳥鳴くパリーグ、ロッテー南海、ポーン、ポーンと野村のミットに入る音が球場内にコダマする。現役のノムさんはあんなところで野球をやっていた。三冠王はじめ前人未到の3000試合出場歴代1位、通算安打数および通算本塁打数は歴代2位。

*********
「野村ノート 野村克也著 小学館 ISBN4-09-387604-5」

野村ノート

小学館

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奥おおえ柳川温泉

2005-11-27 17:04:57 | なんでもあり・ファミリー
 
ちょっと(だいぶ?)早い忘年会、蕎麦うち同好会のメンバーで、昨日土曜日から今日にかけて鄙びた温泉に行ってきた。
山形県中部西村山郡の大江町。江戸時代最上川水運の中継港、最上川舟唄が生まれたところ。
ここから、もっと山あいに入った「奥おおえ柳川温泉」。
あーきの夕陽にぃ、照るぅやまぁもみじぃ~と。里山のいい感じ。
そらは晴れ。

蕎麦うちも出来る施設もあって自炊、湯治!?
山形県は蕎麦どころ。蕎麦街道13号線は宮城ナンバーぞろぞろ。
道中、寒河江の「吉亭」冷たいのが本来、この日はあったかい「肉そば」。
となり東置賜郡の高畠、上杉公のお寺の血がボクの1/4に入ってはいるが...

「麺好」めんずクラブという名だが、メンバーにはご婦人もいる。いつものことで来れるひと気楽に今回は男だけ半数の6人。
蕎麦うちはそこそこに、
山の中というのに「ブリ」シャブ、ソイ、アイナメやさんまのさしみ、蛸のヌタ、寄せなべからピッツァまで、もうちょっとと思うぐらいがいいよねえ、と贅沢な言葉。

寝る前にもう一風呂と...「お湯抜いたよー、も少しすればたまっからよ~」
真夜中お湯はまだ15センチ、露天風呂も同じ。
ものともせず寝そべってお湯につかった。が、あれッ皆オチンチンがお湯の上に! 

大江町はラ・フランスの産地。去年は行けずに山ほどラ・フランスをもらったので、ことしは、山のものを仕入れてきた。
白菜のビール漬け、このくるみはちょっと小粒、指の運動、蕎麦ののし棒を磨く。山形名物玉こんにゃくは、そばつゆで煮てと。芋ガラはみそしる。汲んで来た温泉はこれぽっち飲んでも慢性糖尿にすぐに効かないだろうがなあ。

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