こんにちわsUnです
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今回の旅は、東京国立博物館 平成館(上野公園)への「空海と密教美術展」鑑賞です。
訪れたのは8月6日(土)。
この日の東京は朝からぐんぐん気温が上がり、とても暑い一日で、
帰りには上野公園の上空には暗雲が垂れ込め、ゴロゴロ
と雷様の太鼓まで聞こえてきました。
こりゃー一雨(夕立)きますな・・・
それでは「空海と密教美術展」の始まりです。

「空海と密教美術展」の旅ですが、実は8月8日から3夜連続で空海の特集がBSテレビで放送されるのを知り、
見てから行くか、行ってから見るかでsnowとも悩んだのですが、結論は「空海と密教美術展」にまた行っても
いいやってことで出発です。
最寄の駅までの歩きで汗どろどろになったのは言うまでもないことですが、ケーキ等を買ったときに付いてくる
小さい保冷材を両手に握って(sUn家では“ニギニギ”といっています)歩くと、これがあ~た意外と汗が出ない
のです。
嘘だと思って、一度お試しあ~れ!

ところで、空海って知ってました?
sUnは名前を知っている位でした(小生、日本史がめっちゃ苦手で・・・名前が覚えられないのです)。
そんなんじゃブログにもできないちゅうーことで、少し勉強しました。
空海
空海[宝亀5年(774年)~ 承和2年 (835年)] は、平安時代初期の僧で俗名を佐伯眞魚 (さえき の まお )といい、
弘法大師の諡号( 921年追贈 )で知られる真言宗の開祖です。
空海は日本天台宗の開祖最澄( 伝教大師 )と共に、奈良仏教から平安仏教へと転換していく流れの劈頭に位置し、
中国から真言密教をもたらしました。
また、能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられています。
写真は東京国立博物館 平成館です。
「空海と密教美術展」のポスターにわくわくします。
いざ入場!
「空海と密教美術展」では、空海の書、法具、曼荼羅、立体曼荼羅の仏像などが展示されています。
空海の書はテレビの特集を見てまた行きたくなりました。
中でも立体曼荼羅の仏像は圧巻で、仏像を360度見ることができるのです。
それに筋肉の動きが・・・これはどんな文豪でも決して文書ではあらわせないでしょう。
色、形、それに壁に映る仏像の陰、もう実物を見るしかありません。
感動ものです。

延暦12年(793年)、大学での勉学に“自分が得るものはない”と、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入り、
空海が室戸岬の御厨人窟(みくろど)で修行をしているとき、「口に明星が飛び込んできた」と「三教指帰」に
記されており、このとき空海は悟りを開いたといわれています。
当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、
空海(法名:教海→如空→空海)と名乗ったと伝わっています。
写真は東京国立博物館に入場した正面にそびえるユリノキ(チューリップに似た花が咲きます)です。
ベンチに座っている人と比べるとその大きさがわかりますよね。
両界曼荼羅
密教の中心となる仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を、大日如来を中心とした数々の「仏」を
一定の秩序にしたがって視覚的に配置したもので、「胎蔵界曼荼羅」、「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を
合わせて「両界曼荼羅」というそうです。
空海が持ち帰った彩色両界曼荼羅(根本曼荼羅)の原本および弘仁12年 (821年)に製作された第一転写本は
失われましたが、京都・神護寺所蔵の国宝・両界曼荼羅(通称:高雄曼荼羅)は彩色ではなく紫綾金銀泥ですが、
根本曼荼羅あるいは第一転写本を忠実に再現したものと考えられています。

空海は延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧として唐に渡ります。空海の乗った入唐船は、
途中で嵐にあい大きく航路を逸れ、貞元20年(延暦23年、804年)福州長渓県赤岸鎮に漂着しました。
しかし、空海等は海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間中国への入国を認められませんでした。
このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆し、長安入りを許されたとされています。
空海は、密教の唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、大悲胎蔵の学法灌頂、金剛界の灌頂を受けました。
更に伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(大日如来)を意味する
遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。
写真は、ユリノキから少し奥へ進んだところです。
皇太子徳仁親王(浩宮)の成婚を記念して平成11年に開平成館と 帝冠様式の本館の間に目をやると、
そこにはスカイツリーが見えました。

空海は約2年の修行の後に明州を出航して、帰国の途につきました。大同元年(806年)空海は無事帰国しましたが、
20年の留学期間を約2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期(けつご)の罪にあたるとされ、
入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされました。
大同4年(809年)平城天皇から嵯峨天皇へと移り、空海もまた入京をなしえました。
空海は弘仁7年(816年)に修禅の道場として高野山の下賜を請い、旨勅許を賜りました。
翌弘仁8年(817年)高野山の開創に着手し、弘仁9年(818年)には、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り
翌年まで滞在しました。弘仁10年(819年)の春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手しました。
また、空海は弘仁14年(823年)の正月に太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場としました。
写真は表慶館です。
東宮皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の成婚を祝い開館した。
設計は宮廷建築家の片山東熊(かたやまとうくま)です。

空海は、弘仁12年(821年)に満濃池(まんのういけ、現在の香川県にある日本最大の農業用ため池)の
改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いたことで知られています。
空海は承和2年 (835年)3月、高野山で弟子達に遺告を与え、入滅しました。享年62( 満60歳没)。
空海のお話は、平成館のロビーで約8分間にまとめられたDVDが見られます。
写真は、帰りに上野で見つけた北欧パンのパンダパンです。
かわいいだけではなく、これが美味しいんです(久しぶりの北欧パンだったからかな)。
一度ご賞味あれ。
何はともあれ、「空海と密教美術展」は一見の価値は、有り余るほどあります。
9月25日(日)まで開催されていますので、機会がありましたら是非、是非行かれることをお勧めします。
東京国立博物館 平成館