”スローライフ滋賀” 

「ウォーキング三昧」ブログの続編です。令和元年(2019年)5月1日に移行しています。

【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第69回) 大型リムジンカーでワシントン郊外へのビジネス出張

2023-10-15 06:00:00 | 海外の旅
 1980年代後半、ワシントンに出張した時のことである。
この時は先にニューヨークで仕事があり、確かANAのフライでワシントンに入った。
 ニューヨークの仕事を済ませ初めてニューヨーク―ワシントン間のシャトル便に乗った。搭乗時刻に最も近い便に乗るので予約はしない。どこの航空会社か覚えていないがTWAかユナイテッド辺りではなかったかと思う。
 ワシントン到着日は予定がなく珍しく半日程度自由時間があり、またホテル(確かヒルトンワシントン)がホワイトハウスから近かったのでその日の午後散歩を兼ねホワイトハウスを一周し、周辺を一人で散策した。しかし、国会議事堂やスミソニアン博物館等には行く時間はなかった。

 ワシントンに1泊し、翌朝、ワシントン郊外の目的先に行くためホテルに車の手配をお願いしていた。どこでどう間違ったのか定かでなかったがホテルの玄関に大型リムジンが待機していたのである。要人やスターが乗るあの車は映画やTVなどで見る光景である。


 私は玄関を出てタクシーを探したが居ない。ホテルのフロントで聞くとあのリムジンは私用であると。。。。私はこんな車を頼んだつもりはなかったが一般のタクシーは郊外に行かないことからハイヤーになったのだがまさかリムジンとは。。。
 こんな車で訪問先に乗り込んだらどんな目で見られるか笑い話の光景である。しかし、時間は迫りすったもんだしている暇はないのでこんな車で行くことに決めた。
大きな車に一人で乗り居心地は正直よくなかった。料金はそれ相当に高かったが支払った。帰国して会社に説明したが案の定大笑いされてしまった。
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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第68回) アメリカ出張の時は常連客だったユナイテッド航空

2023-10-05 06:00:00 | 海外の旅
 1980年代の後半、私はアメリカ出張時には一時期、「ユナイテッド航空」を主に使っていた。会社側からは特に指定の航空会社はなかったので会社出張なのに航空会社の指名は個人の自由だった。航空チケットはノーマルチケットで、かつビジネスクラスだった。
ただ、トラベルエージェントは会社指定の複数決まっており、私の部門は当時の郵船航空トラベルだった。
 よって郵船トラベルと相談し、航空会社の便、ホテルの手配を依頼していた。出張の日時は急な場合などが多く、無理を言って予約して貰うことが多かった。しかし、トラベルエージェントにしてみれば「ノーマルのビジネスクラス」チケットだったので料金はそれ相当の費用だったこともあり親身になって手配してくれたのを覚えている。

 ではなぜ、「ユナイテッド航空」になったのはユナイテッドのチケット代金が多少低かったこと(会社コスト削減)と当時、「ユナイテッドのマイレージ」ポイントが良かったことなどのアドバイスがあったではなかったかと思う。
 現にニューヨークを往復するとボーナスポイントなどを含めればアジアへのエコノミークラスチケット1枚分はあったと思う。何回も出張するとマイレージが軽く貯まった。ユナイッテドはスターアライアンスグループであり、アライアンス航空会社の便を使えるスターアライアンスのマイレージの価値は他アライアンスより高かったように思う。
 しかし、当時、ユナイッテドはJALなどのように出発時間が厳粛でなく遅れることもあり、またベテランキャビンアテンダントの横柄な態度やサービスの低さが気になって行った。
 当時、英国航空やシンガポール航空のサービスの良さは定評があり、JALや後発のANAのサービスも良かった。

 私は出張先を勘案して航空会社を選んで飛んだこともあった。そうこうしているうちに自然とJALが多くなり、JALの直行便が飛んでいる先はJALを優先して渡航した。特に疲れた海外出張の帰国便は日本語が通用し、日本人アテンダントのサービスは安らぎだった。
 当時はまだインターネットがなく、出張報告書は搭乗後、機内で持参したラップトップで作成し、途中疲れて眠ってしまったことが何度もある。その間に食事サービスがあっても起こさず、起きた時に個別に食事サービス対応などは嬉しかった。こんなことはユナイテッドではしてくれなかった。
因みに私はリタイア―した今もJALのグローバルクラブの会員である。
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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第67回) 楽しめぬマウイ島での国際会議やハワイでの出来事

2023-09-25 06:00:00 | 海外の旅
先ごろ「マウイ島」では未曽有の大山火事が発生し、多くの人々が被災し避難を余儀されている。
ハワイと聞けば南国のプレジャーアイランドのイメージであり、日本人が最も好む国でもある。

 そんなハワイには都合3回行ったが全てビジネス旅行だったので楽しんだとの思い出はない。

▽1回目(1990年代) マウイ島での国際会議の事務局として。
 1990年、国際海底通信ケーブルの技術部門会議が開催され、事務局として1週間マウイに滞在した。各国のメンバーが到着前にホノルル経由で若手社員1名と共に現地マウイへ乗り込んだ。会議資料準備等のためマッキントッシュのPCを担いで持って行った。
 事務局は忙しい。会議全般のスケジュール、会議資料・議事録作成、会議後の余暇や奥様同伴者もいるのでそのケアなどてんてこまいの忙しさだった。一部の会議参加者の中には空きの時間にスイミングやゴルフを楽しでいたが事務局員の私は最後までお楽しみは一切なしで帰国した。
 1週間もハワイに行っていたことを知ると皆、楽しんできただろうとからかわれたものだ。
 会議場はカパルアベイにあった有名なホテルだったが30年も前で現在は周囲は変わっているようだ。


▽2回目(1980年代) 西海岸、サンフランシスコかロスアンゼルスからだったと思うが帰路、東京への直行便が取れなかったのでホノルル経由帰国したとき。

 西海岸から日本への直行便が取れない場合、1日遅らせて帰国するのだがこの時(2000年代)は翌日に重要な会議報告が予定されておりどうにかして帰国したかった。
 そんなフライトだったが問題が発生したのはホノルル空港ホテルカウンターでの「ホテルブッキング」トラブルだった。この時はこの航空会社を通じてホテル予約しており「OK」確認も取れていた。しかし現地に着いてみると予約者リストには私の名前はなく、またあいにくこの日はホテルも満室とのことだった。
 当事者の私は宿泊できないとシャーシャーと言われて、はいそうですかと下がる訳にはいかない。もし、部屋がないならこのホテルの責任として別なホテルに交渉して同等の部屋を準備するよう催促した。
 それでも始めの頃はそれさえ渋っていたが最終的に予約していた最上階の「Sweet Room」を割り当てて来た。そんな部屋に泊まったことがない私は少々戸惑ったが空港でもたもたしている訳には行かない。直行便からハワイトランジット便になったことから長旅になり疲れており早く寝たかったかった。
 やっとホテルに到着しSweet Room」に案内されたが立派な部屋だった。しかし、私は寝るだけでラグジュアリーなSweet Roomを楽しむことなく翌朝ホノルルを発ったのだった。(やはり貧乏人である(笑))


▽3回目(2000年代) ハワイ大学にビジネス打ち合わせがあったとき。
 この時もアメリカ西海岸からホノルルへ飛んだ。西海岸でビジネスJOBをこなした後、関連でハワイ大学の教授を訪ねた。私達はビジネスであり常夏のレジャーの島とはいえスーツ姿だったがキャンパスではその姿が浮いていた皆アロハシャツやTシャツで半パンツ、履き物はサンダルだった。
 目的先の教授は30代若手でアロハシャツ半パンサンダル姿だったので始め誰が学生で教授か分からなかった。さすが我々もこのままの姿では雰囲気が固いので私たちはスーツは脱ぎシャツは半袖を捲って場を緩めたのを覚えている。
 いくらビジネスとは言え、正に「郷に入ればは郷に従え」だった。
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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第66回) UTAフランス航空によるニューカレドニア

2023-09-15 06:00:00 | 海外の旅
 昔、英国は「英国海外航空(BOAC)=現英国航空:BA)」と「ブリティッシュカレドニアン航空(British Caledonian Airways=BR)」の2本立てで、フランスも「フランス航空(AF)」と「UTAフランス航空=Union de Transports Aeriens (UT)」の2本立てだった。

 概して英国航空とフランス航空は世界の主要国を対地に、「ブリティッシュカレドニアン航空(BR)」と「UTAフランス航空(UT)」は昔の植民地対地を中心に航行していたように思う。ザンビアと英国間は「ブリティッシュカレドニアン航空(BR)」が運行していた。

 そんな訳でアフリカのザンビア任務を終え、1979年、西アフリカ方面に飛んだ時、ザンビアの「ルサカ」からカメルーンの「ドゥアラ(Douala)」まで「UTAフランス航空」に搭乗したことがある。



 その1年後の1980年、森村桂の「天国に一番近い島」で有名になったフランス領「ニューカレドニア」へ東京から飛んだ時に「ニューヘブリデス諸島New Hebrides)に行った時にも東京~ニューカレドニアは「UTAフランス航空」だった。週1回の運航だった。。
 「ニューカレドニア」は今もフランス領であるが、ニューヘブリデス」(現バヌアツ:Vanuatu)は当時はフランスとイギリスの共同統治の島だった。

 そんな「UTAフランス航空」や「ブリティッシュカレドニアン航空」は「フランス航空」と「英国航空」に統合され、その名を知る人は少なくなってしまったに違いない。


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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第65回) 羽田国際空港と関西国際空港管制塔の見学

2023-09-05 06:00:00 | 海外の旅
 私は1970年代に業務上、「羽田国際空港監視塔」と1990年代に「関西国際空港管制塔」の見学をしたことがある。両方とも航空局の許可を得てのことである。

 「羽田空港管制塔」見学をしたときはまだ「成田国際空港」が開港しておらず羽田が関東では唯一の国際空港だった。羽田は国内、国際の発着を管制するBUSYな空港だった。



 そんな羽田の管制中枢であるコントロールタワーに登る機会を与えられた。
タワーの最上階で最終管制官が次々とプリントアウトされる航空機をさばく姿に感嘆し、別フロアではレーダーの前でより広範囲の地域管制するのにも驚かせた。
 レーダーに映るものすごい数の航空機は想像外だった。これらを事故なくさばく航空管制官に敬意を表した。
 只、空港の運用は管制官だけではない。管制をするための数々の無線設備、滑走路の維持、消防対策など重要な役割がある。それらを総合的に運用するのである。とにかく、空港は広い。あらゆる事柄にクイックリーに対処するには車が無ければとても空港内は動けない。


 「関西国際空港」の管制塔には1990年代に要人同伴で登った。新しい関空だったが約20年振りの航空管制業務を見学し、改めて重要さが分かった。

 管制タワーは空港管制のコントロールの中枢で安全対策上極めて厳しい保安対策を講じられている。従って、通常、見学等はできない。
勿論、空港の設備等の写真撮影は禁止されたがその時の見学内容は今も鮮明に脳裏に残っている。
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