高田善右衛門 (初代) 、寛政5年(1793年)〜明治元年(1868年) 江戸時代後期の近江五個荘商人。
近江国神崎郡北五箇庄村(現・東近江市五個荘)の裕福な醤油醸造業吉郎兵衛の二男(末っ子)として生まれ、幼名を善次、成長して善三郎といった。
先祖は近江源氏の佐々木氏で、幼時から勤勉で精励することを教えられる。
17歳の時、安穏な生活を捨て、独立自活(自立自営)を決意し、父からの5両の資本で美濃の国で紙製のタバコ入れを仕入れ、紀州への行商の道すがら売る行商を始め、ローソク産地の紀州有田地方では近江八幡の灯心を売り、また紀州有田は茶の産地で茶摘みに竹皮笠が必要など、儲かる品に目をつけ、次第に商売を広げて利益をあげた。山道が険しく、他の商人が行きたがらない紀州方面を商圏にした。
近江国の特産だったろうそくの芯に始まり、かさやたばこ、織物まで取り扱いを拡大。
更に、麻布・呉服などを取り扱い、天秤棒を持って東海道、関東地方、奥羽地方へ出かけて行った。帰路は呉服を仕入れ東海道、木曽路で売りさばいた。
17歳から行商を始めて10年余の29歳のとき、一家を構え、多くの手代を使って、京都に店を開き、成功した。
正直や倹約を信条とした善右衛門は、行商中のある店で売り掛金を受け取っての帰り、1両多いのを発見し、深夜10余kmの道をいとわずに返しに行った話は有名である。
このような善右衛門の正直さや勤勉さは、戦前の修身の国定教科書にも取り上げられていた。
「正直にしてむりな利益をえようとよくばらなかった」。1939年の小学校の教科書には、苦労を重ねて努力する近江商人の典型として、高田のエピソードが掲載されている。
尋常小学修身書』児童用 巻四 1910(明治43)年
五両の資本から巨万の富を得た善右衛門はいつも次のように言っていた。
「自彊不息(じきょうやまず)」。自分から努め、休まず励むとの意味で、原典は古代中国の儒教の経典「易経」にある。
「決して大金を儲けようと望んではならない。ただ。黙々と働くだけだ。そうすると商売がきっと成功する」平凡だが名言である。
慶応4年(1868年)5月10日、76歳でその生涯を終えた。