和邇氏と香香背男と茨城県
古代史研究会の藤田さんの本日の投稿を読みまして急遽、僕自身の「和邇族」についての論考を敢えて未完のままで投稿いたします。
藤田泰太郎さんの論旨は古代日本史において海人族の「和邇氏」の活躍が北九州奴国から滋賀県に移って大和政権に重大な影響を及ぼした、という画期的な主張です。
日本海側のハマナスの南限が鳥取県白兎町と同時に太平洋側が茨城県鹿嶋市であるのも不思議な付合しています。
僕自身の姓は「笹目」ですが、名字としての笹目は、全国には滋賀県と茨城県にしか残ってないらしいのです。地名としては、山口県、岡山県、神奈川県、埼玉県(ここは鎌倉の領地経営の一族)、栃木県、茨城県、福島県、岩手県にそれぞれ一ヶ所ぐらいづつ点在しています。しかも奥地の高地。ということはおそらく珍奇な石の採掘にあたっていた一族と関連していたと思われます。
この「笹目」の由来は確たる証明はないのですが、滋賀県「佐目」という「カンランセキ」採掘の地名が起源ではないかと察します。
同じく大津市に和邇という土地名がありました。藤田氏は海人の直系が綿津見族よりもこの「和邇」族ではないかと論じておられます。
さて話は、茨城県に戻りますと、「甕星の香香背男」は、日立市大甕町の大甕神社の列神です。主神は「静神社」の「シオリ」の「葉槌神」です。天孫族が地上を平定するにあたって鹿島と香取の神を成敗のために遣わしたが埒があかず、最後に葉槌神の協力で、ついに香香背男を射止めた、と日本書紀に記されてます。この葉槌神は阿波系だと思います。那珂川の中流域にはことさらに阿波系の伝承地が多いのです。
常陸の国が成立する以前は、北部地方は三か国、即ち「那珂国」、「多賀国」、「久慈国」という配置でした。このうち多賀国は現在の福島県の海沿いの半分近くまでの領域でした。
那珂国は、名前のように、福岡の那珂川と名前が共通しています。もう一つ徳島県にも「那賀川」がありますが「賀」という表記です。この徳島県の方は、特に「中臣氏」と関連しているという学者もいます。この「那賀」の字は茨城県の常陸大宮市にもその地名があり、やはり中臣氏と関連がありそうです。
もう一つの「久慈国」は一説には久住山のことではないかと言われます。面白いことには、「常陸風土記」の「久慈郡の条」では「元出雲の領地」と記されています。また現在のその範囲にある常陸大宮市宇留野には「日向神社」があります。昔は「ひむか」と読んだそうです。
現在の日立市には土地の古い言い伝えには、「昔の古老が、香香背負男のことを『甲羅鮫』と呼んでいた」とあります。
ここから、記紀の因幡の白兎の逸話に出てくる鮫鰐から、あのまつろわぬ悪、という意味が理解出来そうです。
以上挙げた、三か国の範囲は、また面白いことに所為「中・後期弥生時代」の十王台式土器の出土地域と重なり合います。後期と言っても関東では、前期弥生時代は存在しませんが。
現在のひたちなか市、那珂市、東海村は、旧那珂地方ですが、那珂川と久慈川の間にあります。
那珂川と呼ばれる以前は「粟川」と呼ばれていて、中流域に「粟」という地名が残っております。またいわゆる水戸は、隣のひたちなか市枝川にある鳴門川(現在は早戸川)から推測するに、鳴門の水門から転じたもののと考えることができます。
和邇の名前の名残は、鹿嶋市内にある鰐川(鹿島地方も古くは那珂国内)、いわき市に流れる鮫川からも察せられます。尚、日立市の日立銅山の裏手、最近、参拝客が多い「御岩神社」の地名は旧来「笹目」と呼ばれ、ごく近くには雲母が御神体の「星の宮神社」があります。
話を奈良に転じますと武甕槌神が鹿島立ちして春日山に奉じられますが、その土地というのが中臣氏が占有する前は和邇氏の固有の領地でありました。初期大和政権に組み込まれた和邇氏でありましたけれど、政権から遠ざけられ、かつ殲滅させられたという史実が日本書紀の香香背男退治という形で遺されたのではないかと思われます。
時代をもう少し過去に戻って見ますと、常陸国地域の所為弥生人の最初の入植者は徳島県の淡路付近と考えられます。それが淡(阿波)族或いは忌部族でした。彼らが綿津見族であり出雲族であった可能性も大いにあり得ると思います。それから次に福岡市の奴国から移住して近江に移った和邇族ではないでしょうか。
三か国の一つ「久慈」については、同県久慈地方には出雲系(大国主やスクナヒコナ)の神社が多数見られ、天下野(ケガノ)という地名もあるくらいです。
さらに時代が過ぎると、磐井の乱の後、大量に中九州、北九州の人々が入植して来たと思われます(大井神社系)。常陸風土記にみられる建借間命の鹿島・行方行軍記における「杵島ぶり」の条からも伺えます。それから中九州に多い装飾古墳の共通性。彼らが本格的に稲作農業を茨城県中部に展開したと思われます。中途に大和政権の直接介入もありました。いわゆる日本武尊及び景行天皇の東征です。
そして、最終的に中臣氏が鹿島神宮を中心として、紀伊水軍の蝦夷征伐と合わせて領地経営に乗り出して行くのです。中臣氏は、磐井の乱の後の物部氏の領地、さらにそれを踏襲した蘇我氏の領地を合わせて多大な勢力基盤を東国に築くことになります。
最後に、この説を裏付ける根拠として、傍証として、古代米の遺伝子を挙げることができます。全国の古代米の遺伝子が熊本県、滋賀県、茨城県だけが他の県のそれと違っているそうです。福岡県の場合がないのはその地域が重なり合う比率が高かったということでしょう。
それからだいぶ余談になってしまいますが、九州弁と茨城弁の抑揚の極似です。それと美人の多さ。
藤田氏が述べられていない部分と申しますと、奴国と熊本県との関係でしょう。推測に推測を重ねれば綿津見族も和邇族も海族は大いに火(日)の国と関係していたのではないかという仮説です。こちら那珂川の河口近くには「涸(ひ)沼」という湖がありますが、古来は「アタカナ(愛宕)」と呼ばれていたとの記録があります。いわゆる「愛宕」は「火」を表しています。「肥」沼が本来だったと思います。この熊本と奴国との関係が僕にとっての今後の課題と言ったところです。
最近、とみに東シナ海が「曙海」とか呼ばれ記紀の「昼子」伝承を呼び覚まされている感があるようです。我が国の縄文文明と揚子江文明との関係を解明してくれるキッカケを与えてくれそうです。