11月、友人達と群馬県安中市の新島襄にちなんだ所を見て回りました。それは
1.新島襄旧宅
2.安中キリスト教会
3.新島学院高校
です。
今回はその第2回として、安中キリスト教会の見学記です。
明治11年に日本人の手によって創立された日本初の教会です。新島襄から洗礼を受けた湯浅治郎をはじめとする30名の信徒が教会創立に尽力。大正8年には新島襄召天30年を記念して教師の柏木義円と信徒湯浅治郎によって新島襄記念会堂が建てられました。
(1)通りからの安中教会
(2)安中教会の会堂
平日予約無しで見学に行きました。幼稚園も併設しており、中に入る事は出来ません。
ところが、仲間の1人が教会員をよく知っていることから、それが縁で特別に中に入れて下さり、説明を受けながら
見学する事が出来ました。
表から見た会堂全景、石造りの大変古い会堂です。
西側から見た教会堂、会堂の廻りには大きな木が所々に有り、落ち着きと安らぎを与えてくれます。
(3)教会堂の石壁
教会堂の建物は珍しく石造り(大谷石)です。
会堂建設後94年を経ており、大分傷みが生じているとの事です。一部にその形跡が出ています。
(3)ステンドガラス
中に入れないので、高性能カメラを持つ友人に窓から撮って頂きました。
とっても素晴らしいステンドガラスです。
【安中教会の歴史】 ウィキペディアより抜粋
1864年(元治元年)7月、新島襄は、函館から海外脱出し、アメリカでキリスト教に入信して、ボストンの教会で按手礼を受けた。新島はキリスト教主義の学校設立のために、1874年(明治7年)に帰国した。
帰国した新島は最初に新島の父母が住む上州安中に赴き伝道を行った。新島は3週間の滞在中、藩校・造士館と龍昌寺を会場にキリスト教を講義した。その集会で30人の求道者が出て、日曜日ごとに聖書研究会が行われた。その中心的存在が、千木良昌庵、湯浅治郎、森本成徳であった。日本基督組合教会の海老名弾正の協力があり、1878年(明治11年)3月30日に、男子16名、女子14名[1]の30名が新島襄より洗礼を受け、安中教会が設立された。海老名弾正が仮牧師になり、千木良、湯浅、森本の3人が初代執事になった。安中教会は群馬県最初の伝道の拠点となった。
安中教会は最初から自給教会として出発した。それは、湯浅の献金が重要な支柱になっていた。1879年(明治12年)12月1日に海老名が正式に牧師に就任する。海老名を支えたのは湯浅の財力であった。1880年(明治13年)頃から、湯浅らの平信徒伝道により伝道が拡大した。その結果、安中教会は1882年(明治15年)以降は士族に代わって、豪農富商によって担われていくようになる。
1884年(明治17年)には同志社を退学して、小学校校長をしていた柏木義円が海老名より洗礼を受ける。柏木は同志社に復学し新島に薫陶を受ける。
1897年(明治30年)に同志社を卒業し、新島の信頼を受けた柏木が牧師に就任する。柏木は1898年(明治31年)より『上毛教界月報』を創刊し、安中教会の牧師を務めながら1935年(昭和10年)に引退するまで、足尾鉱毒事件、廃娼運動、未解放問題、朝鮮人虐殺問題など地域伝道と政治・社会批判運動を活発に展開した。この活動を支えたのも湯浅であった。
【安中キリスト教会のホームページ】
http://www8.wind.jp/a-church/profile/index.html
次回は安中キリスト教会(その2)と新島学院高校 他です。