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「オジーの休憩室」

岡山県や群馬県等地方の農産物の栽培の紹介や出掛け先の風景写真,生活の中の写真等を載せました。特に農家や生活の様子を。

新島襄の故郷 群馬県安中市を訪ねて(その2) 安中キリスト教会 、オジーの休憩室

2013年11月26日 | 歴史の建物

11月、友人達と群馬県安中市の新島襄にちなんだ所を見て回りました。それは

  1.新島襄旧宅

  2.安中キリスト教会

  3.新島学院高校

です。

今回はその第2回として、安中キリスト教会の見学記です。

明治11年に日本人の手によって創立された日本初の教会です。新島襄から洗礼を受けた湯浅治郎をはじめとする30名の信徒が教会創立に尽力。大正8年には新島襄召天30年を記念して教師の柏木義円と信徒湯浅治郎によって新島襄記念会堂が建てられました。

(1)通りからの安中教会

(2)安中教会の会堂

 平日予約無しで見学に行きました。幼稚園も併設しており、中に入る事は出来ません。

 ところが、仲間の1人が教会員をよく知っていることから、それが縁で特別に中に入れて下さり、説明を受けながら

見学する事が出来ました。

表から見た会堂全景、石造りの大変古い会堂です。

 

   西側から見た教会堂、会堂の廻りには大きな木が所々に有り、落ち着きと安らぎを与えてくれます。

(3)教会堂の石壁

 教会堂の建物は珍しく石造り(大谷石)です。

 会堂建設後94年を経ており、大分傷みが生じているとの事です。一部にその形跡が出ています。

(3)ステンドガラス

 

 中に入れないので、高性能カメラを持つ友人に窓から撮って頂きました。

 とっても素晴らしいステンドガラスです。

 

【安中教会の歴史】 ウィキペディアより抜粋

1864年元治元年)7月、新島襄は、函館から海外脱出し、アメリカキリスト教に入信して、ボストンの教会で按手礼を受けた。新島はキリスト教主義の学校設立のために、1874年明治7年)に帰国した。

帰国した新島は最初に新島の父母が住む上州安中に赴き伝道を行った。新島は3週間の滞在中、藩校造士館と龍昌寺を会場にキリスト教を講義した。その集会で30人の求道者が出て、日曜日ごとに聖書研究会が行われた。その中心的存在が、千木良昌庵湯浅治郎森本成徳であった。日本基督組合教会海老名弾正の協力があり、1878年(明治11年)3月30日に、男子16名、女子14名[1]の30名が新島襄より洗礼を受け、安中教会が設立された。海老名弾正が仮牧師になり、千木良、湯浅、森本の3人が初代執事になった。安中教会は群馬県最初の伝道の拠点となった。

安中教会は最初から自給教会として出発した。それは、湯浅の献金が重要な支柱になっていた。1879年(明治12年)12月1日に海老名が正式に牧師に就任する。海老名を支えたのは湯浅の財力であった。1880年(明治13年)頃から、湯浅らの平信徒伝道により伝道が拡大した。その結果、安中教会は1882年(明治15年)以降は士族に代わって、豪農富商によって担われていくようになる。

1884年(明治17年)には同志社を退学して、小学校校長をしていた柏木義円が海老名より洗礼を受ける。柏木は同志社に復学し新島に薫陶を受ける。

1897年(明治30年)に同志社を卒業し、新島の信頼を受けた柏木が牧師に就任する。柏木は1898年(明治31年)より『上毛教界月報』を創刊し、安中教会の牧師を務めながら1935年昭和10年)に引退するまで、足尾鉱毒事件廃娼運動未解放問題朝鮮人虐殺問題など地域伝道と政治・社会批判運動を活発に展開した。この活動を支えたのも湯浅であった。

【安中キリスト教会のホームページ】

 http://www8.wind.jp/a-church/profile/index.html

 

次回は安中キリスト教会(その2)と新島学院高校 他です。

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新島襄の故郷 群馬県安中市を訪ねて(その1) 新島襄旧宅 、オジーの休憩室

2013年11月17日 | 歴史の建物

11月、友人達と群馬県安中市の新島襄にちなんだ所を見て回りました。それは

  1.新島襄旧宅

  2.安中キリスト教会

  3.新島学院高校

です。

今回はその第1回として、新島襄旧宅です。

(1)旧新島宅の表

秋の午後暖かくのどかな時に撮りました。

表から見た旧新島宅 表全景

 

 

   旧新島宅母屋

のどかな午後、庭の見学者の人々も旧新島宅で過ごしました。

庭に菊が咲いていました。

 表の新島旧邸の碑、透明なボードに刻まれていました。

(2)旧新島宅の裏側

裏から見た旧新島宅です。

 裏にある新島襄先生の碑 

 最後に「十年待つ父にヨセフは逢いにけり、神には今も古もなし。」と歌が載ってあります。 

 尚、ヨセフとは「旧約聖書」の「創世記」の人物で、ヨセフの歩みをたとえとして用いているようです。

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世界遺産有望候補地 群馬県富岡製紙工場の関連施設である養蚕の田島弥平旧宅  ,オジーの休憩室

2012年11月11日 | 歴史の建物

群馬県伊勢崎市内にある 世界遺産候補地 富岡製糸工場関連の建物として、田島弥平旧宅 を見学する時があり、参加しました

通風を重視した蚕(かいこ)の飼育法「清涼育」を大成した田島弥平が、文久3年(1863年)に建てた主屋兼蚕室です。間口25m、奥行き9mの瓦葺き総2階建てで、始めて屋根に換気用の越屋根が付けられました。この構造は、弥平が「清涼育」普及の為に著した「養蚕新論」及びその続編によって各地に広まり、近代養蚕農家の原型になりました。

1.田島弥平旧宅

外から見た田島弥平の屋敷

 

   門の後ろの2階屋は養蚕用の家です。奥の方に母屋があります。

  この島村地域は田島の性の旧家が沢山あり。わかりやすい様に屋号を持っています。読めませんが白い看板に屋号が記載。田島弥平宅の屋号は「遠山近水舎・桑拓園」です。

田島弥平旧宅 

  母屋は約150年前に建てられ、現在も済んでいます。

     2階が養蚕のための部屋、一階が住居。この建物が当時新たに開発された養蚕・住まいの方式。

現在の当主で田島弥平の孫に当たる 田島健一氏

   今回は思いがけなく、いろいろと説明して下さいました。大正天皇の奥様が養蚕に熱心で。頻繁に訪れ、一緒に養蚕をされた事。 大正天皇の奥様に呼ばれ、皇居に何度もお伺いした事がある事、昔の様子 等。

 田島邸の井戸

 

  養蚕が活発な当時は200~300人の人を使っていたとの事、その大勢の人達の食事等の為に用いられた井戸。

2.田島弥平旧宅の周辺

農家旧家宅

  島村には大規模に養蚕をしていた農家が沢山ありました。約150年前の家で現在も残る家をいくつかのせます。

多くが田島邸の為に屋号で読んだそうです。この家は146年前に建てた家

 

 

コスモスの花

旧家の庭にコスモSが咲いていました。

 養蚕に使用する桑畑

養蚕農家の廻りは一面が桑畑でした。

田島弥平旧宅は 群馬県伊勢崎市境島村に有ります。

 ご覧頂きありがとうございました。

 

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