いい日旅立ち

日常のふとした気づき、温かいエピソードの紹介に努めます。

配給以外を拒否して餓死した裁判官

2019-06-16 16:54:13 | 政治

第2次世界大戦後、軍人として高位であった者が、
コネを利用して、旧軍需会社等に籍を置き、
裕福に暮らしたという例は枚挙にいとまがない。
しかし、
海軍大将米内光政、井上成美等は、そうした行為を拒否し、貧しい生活をした。

さらに恐るべき法令遵守の人もいる。

第2次世界大戦直後、食糧管理法という法律があった。
乏しい米等の食料を国民に配分するため、
国が「配給制度」という法律を作って公平を期したのである。
しかし、配給の量はわずかであったため、ほとんどすべての国民は、「闇市」という場で食料を買っていた。

そんな中、自らも食糧管理法を適用する裁判を担当していたある裁判官が、
食糧管理法による配給だけで生活し、
栄養失調のため、餓死してしまった。
1913年に生まれ、1947年に亡くなった、
小山良忠である。

ほかにも、同様に餓死した人がいた。

東京高校ドイツ語教授 亀尾英四郎
青森地裁裁判官 保科徳太郎

現代の人たちは、このような人の話に、どんな感想を持たれれるだろう?













カモカのおっちゃん②「パンダは女」

2019-06-15 21:20:00 | 文学

先日91歳で亡くなった田辺聖子の「カモカのおっちゃん」。

第2話

このあいだ東京は上野でパンダを見ました。
もうこの頃は見物人も少し減ってるかなあと思って、見に行ったのだ。
ところが、なんのなんの、妊娠騒ぎからこっち、また連日、見物客が増加しているそうである。
上野動物園、裏から入って、荷物を預けようとすると、あずかり所はない。
そこから10分も歩いたパンダの前の案内書にしか、あずかり所はない。不便だ。
私は、あるものだと思ってバッグを持ち込んだので、たいそう困った。
でも、カモカのおっちゃんがいてたすかった。
おっちゃんに荷物をもたしてやった。
「爺さん婆さんの東京見物という図ですなあ」
「唐草の風呂敷に包んでくればよかったですね」
神戸の王子動物園を考えるものだから、上野動物園はやたら広く思われる。
モノレールに乗って反対側に行く。
木はずいぶんたくさんあるけれど、人が多くて埃っぽく猥雑であった。
いやもう、あまりにも人が多い。とても神戸の王子どころのさわぎじゃない。
大坂の天王寺動物園も人が多いけれど。
神戸の王子が好きなのは、景色がいいのだ。
春のさくらどきもいいが、何でもないときでも、一番奥の山側の。カバとサイのいるあたり、すばらしいながめなのだ。






































宮柊二の歌③~旧約聖書との接点~

2019-06-15 20:51:52 | 短歌

宮柊二は、戦後になっても、
必ずしも幸福にはなれなかった。
戦争での体験から、素直な悲しみや喜びにひたることができなかったのだ。
その一端として、
旧約聖書を題材とする作品がある。
詩編第80章を意識している。
古代イスラエルの教典からとり、日本の再生を願ったものといわれる。

……

なんぢ葡萄の樹をエヂプトより携え出しもろもろの国人を逐ひ退けてこれを植えたまゑり

汝その前に地を設け給へしかば深く根差して国に蔓れり

その影はもろもろの山を庇ひその枝は神の香柏の如くにてありき

その樹は枝を海にまでのべ其若枝を河にまで延べたり

汝いかなれば其垣を崩して路ゆく凡の人に摘み取らせたまふや

……

(詩編第80章)
イスラエルを養う方
ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ
御耳を傾けてください
ケルビムの上に座し、顕現してください
エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。
目覚めてみ力を振るい
わたしたちを救うために来てください。
神よ、わたしたちを連れ帰り
み顔の光を輝かせ
わたしたちをお救いください。
(以下略)
























































カモカのおっちゃん①田辺聖子さんの作品

2019-06-15 20:26:48 | 文学


2019年6月6日、作家の田辺聖子さんが亡くなった。
91歳であった。
1928年大阪生まれ。
知人の医師、川野純夫さんと結婚。
後妻で、夫には4人の子どもがいた。
なぜか、すぐに離婚するという風評がながれ、
2か月で離婚、4か月で離婚、6か月で離婚、という説しかなかった。
が、2002年、川野さんが亡くなるまで添い遂げた。
小説「感傷旅行」で第50回芥川賞を受賞。
文化勲章も受賞した。

「カモカのおっちゃん」は、
夫との会話をもとに、おもしろおかしく書いたエッセイ集である。

……

王貞治さんが国民栄誉賞を受賞した時の小話。

おっちゃんと、国民栄誉賞の話をしていると、末広真樹子さんがきた。
「ねえねえ、こんな笑い話、知ってる?王選手が2本足だったらもっとはやく新記録を出してたろう……って」
おっちゃんと真樹子ちゃんは笑うが、私はどこがおかしいのか、頭が禿げるほど考えた末、
「王選手って、3本足だったっけ?」
と聞いたら、2人は声をそろえて、
「バカ、大きな声でなんちゅうこという!」
「こわいこわい、こんなこと言う人うっかり放送にだせない」
とさわいでいる。
「王は1本足やないの、あほちゃう」
と叱られ、アッそうか、何でも奇数とおぼえてたんだけど。
ほんとは私、よく野球を知らないんです。野球オンチからみると国民栄誉賞というのは、王サンにそぐわないんです。

































宮柊二の歌②~終戦直後の深きまなざし~

2019-06-14 21:43:42 | 短歌

終戦直後、
宮柊二は、復員(戦争から帰る)して、黒部に遊んだ。
次の5首をつくっている。

たたかひを終わりたる身を遊ばせて石群れる谷川を超ゆ
河原来てひとり踏み立つ昼時の風落ちしかば砂のしづまり
砂分けて湧き出づる湯を浴まむとしつぶさに寒し山のはざまの
山川の鳴瀬にむかひ遊びつつ涙にじみ来ありがてぬかも
めぐりたる岩のかたかげ暗くして湧き清水ひとつ日暮れのごとし

ここでは、戦争が終わったという安心感も、解放感もない。
また、平和な生活がまっているという喜びも感じられない。
むしろ暗く、くぐもっている。
次のような歌人の歌とは、一線を画している。
戦争を肌身に感じて戦ってきたからだろうか。

聖断はくだりたまひて畏くもあるか涙しながる(斎藤茂吉)
戦ひに果てし我が子も聴けよかしかなしきみことをくだし賜うなり(釈超空)
あなうれしとにもかくにも生きのびて戦ひやめるけふの日にあふ(河上肇)





























与謝野晶子の歌⑪~色彩の魔術師~

2019-06-14 21:21:03 | 短歌


与謝野晶子は、処女歌集「みだれ髪」の中で、
色彩感覚にあふれた作品を多く発表し、
与謝野鉄幹の「明星」にも、そのような歌を
多く投稿したことが知られる。

……

百合にやる天の小蝶のみづいろの翅にしつけの糸をとる神

この歌では、百合の「白」と蝶の「みずいろ」の対比が
たいへん美しい。
ほかにも
「ここちよく青みわたれり紅の椿のもとの一寸の雪」
など、色の名を多用し、情景を鮮明に歌い込んだ。

……

いにしへのクレオパトラを飾りたる玉の色してめでたきダリア

ダリアは、品種が多く、花の色もさまざまだが、クレオパトラの身を飾った宝玉は何色だったのだろう。
「あな恋し琥珀の色の冬の日の中に君あり椿となりて」
という歌もある。

……

晶子は、デパートの顧問として、流行色の命名にかかわり、色の美しさを再発見したといわれる。歌のみならず、童話でもくっきりした色を使って、独特の世界を構築した。








































宮柊二の歌①~死体とともに~

2019-06-14 20:49:17 | 短歌

河原より夜をまぎれ来し敵兵の3人迄を抑へて刺せり

宮柊二27歳のときの歌である。
歌集「山西省」に収められている。
過酷な戦争(日中戦争)の中の出来事である。

少々説明せねば、状況がわからないだろう。

宮柊二
1912年生まれ、1986年死亡(74歳)。
商家に生まれ、分けあってエリートの道に進むことなく家業を継いだ。
歌人北原白秋に師事し、富士製鉄に勤める。
日中戦争が勃発し、1939年に招集され、中国山西省にわたる。
一兵卒として、戦争の第一線で戦う。
はじめに挙げた歌は、そういう生活の中で生まれた歌である。
宮は、薦められたのにもかかわらず、幹部候補生になることを拒否した。

理由は、次の歌から推測できる。

おそらくは知らるるなけむ一兵の生の有様をまつぶさに遂げむ

幹部でなく、最前線の一兵卒として働く道を自ら選んだのである。
次の歌も、そのような体験から生まれたものである。

……

自爆せし敵のむくろの若かるを哀れみつつは振り返りみず

胸元に銃剣受けし捕虜ふたり青深谷に姿を呑まれる

5度6度つづけざま敵弾が岩を打ちし時わが軽機関銃鳴り初む

不覚の涙落とせり隊長を担架にゆりて担ぎ上げしとき

……

戦後、宮は製鉄会社に勤めつつ、歌人として短歌結社「コスモス」を運営し、
歌を発表し続けた。













































テレビのない生活は不便か?

2019-06-13 22:07:41 | 人生


テレビのない生活をはじめて、
2年になる。
テレビが故障し、めんどうでそのままにしていたことがはじまり。
始めは、不便で仕方がなかった。
番組を見たいということがなくても、
BGMにしていたから、
生活が物足りなくなった。
買おうと思えば買えるのだ。
3万円もだせば、
ちゃんとしたテレビが買える。
が、
そのままにしておいた。
やがて、テレビを見ることがまったくなくなってから、
2年もとたつと、
テレビを見る必要を感じなくなった。
考えてみれば、うちでテレビを見るようになったのは6歳の頃で、
それまでは、テレビの存在すら知らなかったのだ。

そういうわけで、いまだにテレビのない生活をしている。

しかし、やることはたくさんある。
充実した生活を送っている。
テレビはなくても、不便ではない。


































鍵をなくして締め出されて……

2019-06-13 21:47:30 | 日記


外出し、帰って鍵をあけようとした。
いつもの場所を探すと、
ない。
喫茶店で落としたか?
喫茶店に電話。
ない。
ポケットを探し直すが、
ない。
しかたなく、104に電話して、
鍵屋さんの電話番号を聞き、
電話。
今日はトラブルがあって、伺えないという。
もう一度104に電話し、
別の鍵屋さんの電話番号を聞く。
電話して、折り返し電話をしてもらうよう、頼む。
5分して、カッターシャツのポケットを探ると、
あるではないか。
3万円くらいとられるかと思っていたが、
助かった。
まったく、どこでなにが起こったのだろう?

まあ、よかった。



































愛犬ジローの思い出~買い物するイヌ~お題にこたえて

2019-06-13 21:31:58 | 人生


お題に応えて。

母の実家に、柴犬の「ジロー」という愛犬がいた。
たいそう賢い。
かごをくわえ、中に買い物のメモとお金を入れてもらう。
そのまま、ひとりで街に出て、
用のある店を回り、メモに書いた品物をかごに入れてもらい、
お金の勘定をしてもらってお金をかごに入れてもらう。
ひととおり用が済むと、さっさと家に帰る。
というわけで、
商店街の人も心得ていて、キチンと対応してくれる。
こどもに買い物を頼むより、
この方法の方が易しかったそうである。







令和の衝撃②~味わい深いつじどう会の歌③~

2019-06-12 19:54:09 | 短歌


平成・令和のの御代にまたがる十連休 みどりの日なり 突然雹雨

……

令和の世になった。
はじめから、衝撃的な事件があった。
高齢者の起こした交通大事故。
凶悪な殺人事件。
そして、突然雹雨が降り、畑が穴だらけになってしまった。

こういう事件が、令和を象徴するものなのかもしれない。
厳しい時代である。
高齢者が増え、それを支える若い人も苦しい日々を送らねばならない。
この新しい世を迎えるにあたり、
わたしたちは、強い志をもって生きていきたい。









令和の衝撃①ティアラ~味わい深いつじどう会の歌②~

2019-06-12 19:43:54 | 短歌


令和になって、世の中のことどもも
どんどん変化していく。
雅子様は皇后になられ……

……

雅子様頭上に輝く「皇后の第1ティアラ」令和の初日

(解釈)
令和の世になった。
天皇陛下も即位され、雅子様も皇后さまである。
頭上には、ティアラがある。
ティアラとは、明治時代以来、皇后しかかぶらない帽子である。
明治、大正、昭和、平成、令和、と5代めを迎える。
ティアラには、世界第3位という大きなダイヤモンドがつけられている。
やっと、雅子様は病から解放されるように思われる。
愛子様は、出生直後から、極めて優れた資質をあらわしておられる。
女性天皇、というものがあってもおかしくないのではないか……。





















味わい深いつじどう会の歌①

2019-06-12 18:39:17 | 短歌


藤沢市辻堂で開かれれるつじどう会の短歌。
5人の同人が、自作を発表、合評する。
それぞれに、人生の明暗を過ごし、ここに集まるわけである。

①なりわいに何をし選ぶ二十五歳の君は 心の病を十余年過ごして

(解釈)
友人の息子が、十歳の時から不登校になり、心の病をかかえたまま、二十五歳になってしまった。
何もしてやれないし、先はかなり厳しい。せめて、心を寄せて、見守ろうと思うのである。

②赦したし 障がいゆえの物言いに 応えかえして錐でもまるる

(解釈)
障がいのある友人と優しく交わりたい。コンプレックスを感じさせないよう、つつましく付き合うことを心掛けている。ところが、突然不条理なことばを浴びせられ、心が驚く。赦したいのはやまやまだが、どうしても心がついてゆけない。悲哀を感じつつ、今日も生きていかねばならない。

③なべてみてやさしきひとのよにありてなぜにあらそうなぜにあらがう

(解釈)
人は優しいものだ、心底から信じ、交わりを結べば理解しあえる……などと考えるのは甘いことくらい、わかっている。しかし、現実は現在進行形で進んでいく。もし、神ならせば、上記のような言葉を世に告げるのだが……。
















茅ケ崎市の公立小中学校のレベルはたいへん高い②

2019-06-11 20:48:44 | 学校


(承前)

のような経緯で、
平成10年4月以降の茅ヶ崎市立浜之郷小学校の指導に、
佐藤先生に来ていただくことになった。
徹底的な授業の参観(ビデオに録る)をもとに、
研究会をする。
この営為をずっと続けるうち、
浜之郷小学校の教育レベルが非常に高くなった。
無論、指導者だけでできることではない。
父兄や地域の方の全面的な協力もあった。

内容は、別の機会にゆずるとして、
結果として、
浜之郷小学校で育った優れた教師たちが、
茅ケ崎市中に散っていった。
そのことが、
茅ヶ崎の公立小学校界のレベルをきわめて高いものとした。

そうなると、公立中学校のレベルも高くなった。

どのようにレベルが高いのかは、省略する。

今も、この研究会は続いている。
指導者
佐藤学(学習院大学特任教授)
秋田喜代美(東京大学教授)
庄司康夫(埼玉大学教授)







































茅ケ崎市の公立小中学校のレベルはたいへん高い②

2019-06-11 20:48:44 | 学校


(承前)

のような経緯で、
平成10年4月以降の茅ヶ崎市立浜之郷小学校の指導に、
佐藤先生に来ていただくことになった。
徹底的な授業の参観(ビデオに録る)をもとに、
2時間以上にわたって、研究会をする。
教師たちの成長は、驚くほどであった。
この営為をずっと続けるうち、
浜之郷小学校の教育レベルが非常に高くなった。
無論、指導者だけでできることではない。
父兄や地域の方の全面的な協力もあった。

内容は、別の機会にゆずるとして、
結果として、
浜之郷小学校で育った優れた教師たちが、
茅ケ崎市中に散っていった。
そのことが、
茅ヶ崎の公立小学校界のレベルをきわめて高いものとした。

そうなると、公立中学校のレベルも高くなる。

どのようにレベルが高いのかは、別の機会に書きたい。

今も、この研究会は続いている。
指導者
佐藤学(学習院大学特任教授)
秋田喜代美(東京大学教授)
庄司康夫(埼玉大学教授)

なお、佐藤学先生は、のちに日本教育学会会長になられた。