にわかにこの冬から春にかけてかけられてた規制が解除されて、気持ちがグンと気候に沿ってきました。もうすぐに梅雨の季節。続いては夏。ちょっと歩くだけで玉の汗がぽこぽこ落ちます。マスクがちょっと息苦しいけれど、少しずつ良くなっていきましたね。今まだ罹患されてる最中の皆さんも、心を強く持って、今しばらく辛抱ください。きっと良くなります。そのころには暑いですよ。
勇気も道徳も、あんまり世間に出てから役に立たない気がします。むしろ邪魔扱いされます。たまに発揮する時にはおおむね追い出されるはめになります。誰かは救えますが、コロニーから除外されます。起こった事は、黙ってないと後々いくらでも揉める種を内包しますので棺桶まで持って行きます。
事態を「惨めに済ませる」事の有意義も、どなたか教育した方がいいんじゃありませんかね。
事態を「惨めに済ませる」事の有意義も、どなたか教育した方がいいんじゃありませんかね。
むかーし、むかし。憤り極まって、相手を傷つけなくちゃ気がおさまらなかったり、これから先の生き方が激しく狂うからとの心象から、事態を平常化するために、狂気の沙汰に陥る事がありました。
でも勇気のないことに矛先をおさめてしまいました。
世間のニュースにある気の狂わんばかりの凶行には、心のどこかで「そうかもな」って思うときもあります。
ただ、自分がそれをしないで済ませただけのことなのかもしれません。
車で出かけて、電車で巡って、行った先にお店があって、買い物したり食べたり飲んだりできるように現代はなっています。
コロナ騒動になってから生活の事から営業を余儀なくしたお店が責められてるニュースを聞き、がっかりしたのと同時に、私たちは「広く過ごしすぎてる」ような気持ちが芽生えてきました。
仮に店主さんとお客さんが「同じ地区」に住まう話せる仲だったら、お店の経営状態もわかるし、気持ちも通じやすいような気がしたのです。無碍に「お金儲けに走って」などとなじることも厭(いと)われた気がするのです。
要は「言い放っておいても、これきりにしたら済むだけの相手なんだし」というろくでもない着想が感じられるのです。生活感の共有できないところを出入りできるサイズで生きてるが故に、このコロナ騒動の禍根は根深くなったように見受けるのです。
本当に人同士でののしりあって、密告しあうほどの価値があるんでしょうか。
「仕組みが悪い」ことは加味しないままでいいんでしょうか。
この措置まかり通るなら、法相不要じゃないですか。なんの示しもつかない、責任もとらない、一国の上の方でやいのやいのやってるだけですね。下品極まる。