保護猫活動する隠居爺の野菜作りとスキーの日記そして病気の記録

冬場の60日以上はスキー、夏場はそのための体力作り&自給用野菜作り、そして保護猫活動と病気の記録も綴ります。

医師の提案する「断食(=蛾死)」に感激しながら…

2012年09月05日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

日本では、尊厳死も決して法制化されているわけではなく
医師と本人、家族間等の“阿吽の呼吸”などという曖昧な状況で許されているだけのことです。

このため、病の治療に医師は必要ではあっても
自分の死にまで望んでもいない他人様に関わって欲しくないと思う場合
自ら進んで希望通りの人生の幕引きをを行うには自殺が唯一無二の方法となります。

だから、「そう思う高齢者は自殺したっていいじゃない」などと不謹慎に肯定することなど
どうせ私くらいなものだろうと思っていました。

ところがここに来て、現役医師の中村氏から大往生の一つの手段として
自然死を目指した断食、つまり蛾死による自殺の提案を目にし、大いに感激することになりました。

当然、これが彼が伝えたい主旨でないことは、全210頁の著書のうち
僅か1頁に触れられているに過ぎないのですから明白であるにしても
そうする理由がはっきりしていて、さらに残される人々への気遣いさえ忘れなければ
「自殺も有り」とすることに何ら変わりはないはずです。

この中村氏以外にも、在宅やホームに携わる数人の医師から
“何が何でも生かす”現在の医療現場への不満から、自然死や平穏死なる大義の下
医療措置を限定的に拒否する提案がなされるご時世になって来たことは間違いがありません。

 ただし、こうした方々でさえ、現在置かれている環境で
初めて経験なさったことから辿りついた方法論であって、そうした死に方を
提案せざるを得ない側面も現在の医療制度には内包されているのかもしれません。

また、どのみち医療に関わる医師からの発言ですから
医療分野における「尊厳死」の範囲内であることに変わりはなく
同じ次元で語られる「積極的に死をもたらし自殺ほう助とされる安楽死」への道のりなど
気の遠くなるような時間が掛かることは間違いない、いえ、もしかしたら日本では
議論の場に上ることさえ無い可能性も高いのでしょう。

「もう充分生きたし、周りの家族などに何の問題もないから、死ぬなら今!」と思っても
お迎えが来ないからとズルズルと生きてしまい
子供や孫が新たな悩みにぶつかる場面を目にすることも頻繁のはずで
やはり「死に際」、つまり死ぬ時期は気持ちを安らかに保って死んで行くためには大切な要素です。

そう考える私が理想とする、尊厳死を広義に捉えて例え病気でなくても
尊厳を持って死ねるという解釈の下、希望する時に、希望するシチュエーションで
もちろん、苦痛はなく一瞬で死んで行ける死に方(例えば注射や薬)など夢のまた夢…。

しかし、この「一瞬で死んで行ける」に目を瞑りさえすれば
断食という仏教的方法で高齢者は約1カ月で蛾死に至るというのですから
これは私にとって“目からウロコ”と言っても過言ではありません。

また、医師が一部の医療措置を拒否する提案をするのであれば、一般人は
一切の医療行為を拒否する方法による自殺(と呼べるかどうか?)もあり得ることになります。

いずれにしても、普段から会話を通じて周りの人々、特に家族には
死に方に対する自分の考えを充分理解してもらっておかないと、本人は良いにしても
それらの方々にはとんでもない精神的苦痛を強いることになってしまうでしょう。

そうした意味からも、こうして尊厳死・安楽死、さらに自然死または平穏死などについて
大っぴらに語られ出しているとともに、病院や老人施設の不足から
否応なく自宅で亡くなる人が確実に増えると予想されることによる在宅での「看取り」についても
多くの医師達が声を上げ始めていることを歓迎しないわけにはいきません。

こうした議論の中から、また新たな死に方の提案が医師だけでなく
一般人からも出て来ることを心底願いながら、一旦、このテーマは終了することにします。

 

 

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