花粉が・・・ 2011-04-03 21:10:45 | Weblog 斑尾、妙高、黒姫、戸隠、飯綱を遠くに望みながら、春を待つ畑の中での2時間LSD。鼻水たらしながら・・・ 走った後は、久々の子安温泉。鉄分たっぷりで黄土色。一番好きな温泉です。 簡単には言えないけれど、春は必ずやってくる! ようやく走る気持ちがでてきました。 5月22日、東日本大震災復興支援チャリティー、軽井沢ハーフマラソンに全力で出走します。
残しておきたい言葉 (阿刀田 高 「新しい生き方を求めて」) 2011-04-03 21:00:00 | Weblog 日経新聞 3月27日朝刊 文化欄 阿刀田 高 「新しい生き方を求めて」 言葉がむなしい。被災地には、ただ健気に生きてほしい、と祈るばかりである。 今年二月の初めにC/イーストウッドが監督する映画『ヒアアフター』を見た。人間の死とは何か、それを問いかける作品だった。その冒頭にすさまじい津波のシーンがあり、おそらくこれは数年前にもういを振るったスマトラ沖地震を模したものだろう。実に巧みに作られていて、-きっとこうなんだろうな-と感じ入った。 ところが、それから一ヶ月、私たちがもっと恐ろしい現実に見舞われようとは、月並みながら想像さえしなかった。これは映画ではない。この津波の襲来を実際に知見した人は限られているだろうが、ほとんどの日本人がテレビの画面で見て愕然として記憶に留めたにちがいない。鈍色の海水が帯を作って暗雲のように押し寄せ、盛り上がり、さらに盛り上がって砕けた。あるいは黒い泥水が敷物のように広がりさらに広がって街を襲って流し潰した。そのまがまがしい鳥瞰図はいつまでも忘れられない。 後を追って原子力発電所の破損が起きる。見えない恐怖が募る。だれしもが身震いして深刻な警鐘を聞き続けた。原子力の平和利用はどこまで可能なのだろうか。 実数はまだ計り知れないが、現時点で二万人をはるかに超える支社・不明者、直接の被害者や建造物の崩壊はどう数えればよいのだろうか。歴史上屈指の巨大災害、大自然の威力をまざまざと見せつける大惨事であった。危険はなお伏在し続けて油断はならない。 あるいは、こんな惨事を想定して日ごろから組織されている救済のボランティアたち、これについても、-偉いなあ-と感嘆してしまう。私は車の運転もできない老齢者だ。多少の志があっても目下のところ、ましな援助はなにひとつできない。 だが、あえて言えば、私と似たり寄ったりの立場や心境の人は全国にたくさんいるにちがいない。せめて今の志をいつまでも長く保ち続けること、それが人としての甲斐性だろう。 死者に対してはひたすらの哀悼を捧げること、くやしいけれど、それよりほかになにもない。どう悼んでみても畢竟、生きとし生けるものの悲しさにたどりつくばかりだ。 被害者に対しては、十全な対策が講じられること、これは当然のことだが、私たちひとりひとりの微力では間に合うまい。国家が、自治体が、大きな組織がどこまで本気になれるか、輿論を起こして執拗に訴え続け、支えていかなければなるまい。短い日時のあいだにどれだけ実効がみられるか、意欲も大切だが、大変な予算を必要とすることは疑いない。 まったくの話、経済力のダメージははなはだしい。素人の私にもこれはよくわかる。復興に直接かかる費用だけでも莫大だが、それを支える日本の経済そのものが大丈夫とは断言しにくい。もともと下降気味であったところに、この災害だ。救助する母体の方が不十分であったら、そのぶんだけ救済はむずかしくなる。とりわけエネルギーの分野が深刻だ。電力のかなりの部分を占める原子力発電は今後、技術的にも輿論との関わりにおいても後退を余儀なくされるだろう。そういう状況の中ではエネルギーをめぐる外交もビジネスも確実にむずかしさを増すだろう。経済を支えるエネルギーへの不安は、この国の命運を変えるのではあるまいか。 災害の悲劇の中で顕在化した人々の勇気や思いやり、真実眼をうるませる出来事がいくつもあったが、たがいに助け合う心は、だれにとっても肝要な倫理である。 --日本人は捨てたものではない-- だが、もうひとつ、合理の尊重も大切だ。救援活動であれ今後の対策であれ、冷静に、合理的に対処することを心がけねばなるまい。この点において必ずしも合格点に達しえないケースが、なきにしもあらず。風評被害はその最たるもの。ものごとは結局合理に従って進んでいく。妄信や甘い期待、根拠の薄い噂に惑わされてはなるまい。人間への愛と勇気、理性への信頼が、よりよい道を拓くことを確信したい。 そして、その背後にあるものは、人はどう生きればよいか、という命題だ。あえて私見を述べれば、ここ数十年、私たちは物の豊かさを求め過ぎたのではあるまいか。GDPが第二位だとか、第三位に下がったとか、それは本当に重要なことだろうか。もちろん経済の豊かさは大切だが、それが生きることの第一義ではあるまい。貧しくとも心の豊かな生活はありうる。 もともとこの国は貧しかったのだ。貧しいからこそ"読み書き算盤"を旨として知力を高め、世界第一の識字率を誇るようにもなった。文化の面でも俳句や短歌など筆一本紙一枚で心の豊かさを培う文学を広めて高めた。一ぱいの茶で人の心と心を交わせる茶道もある。私たちには簡素であることを尊ぶ伝統がある。 これからの日本は容易ではあるまい。新しい生き方がないものか。このあたりに小説家の出番があるのかもしれない。