古代ローマ帝国が崩壊すると、ギリシア人が生み出しローマ人が発展させ日常化したさしもの高い文明も失われ、各地に住み着いた各ゲルマン部族の単位で、価値観がバラバラで、非常に素朴なレベルに退化した西欧社会が成立して行きました。
そのバラバラの価値観の西欧に、初めて統一された価値観をもたらした社会の変革が産み出した文化を「ゴシック」と呼びます。
芸術を中心とした文化のレベルでは、ギリシア人が築いてローマ人が洗練させた古代文明には遠く及ばない素朴なものでした。
ヴァレンシアの祭壇画 1430年ごろ
フランス生まれの新しい教会の作り方が技術革新を生み、西欧全域に広がって、初めて西欧全域に同じ価値観の社会的統一をもたらした、そのゴシックの文化は、アルプスのせいで入って行きにくく真空地帯であったイタリア半島で、1300年代に入ってからひょんな事からローマ時代の文化の象徴である美術品の破片などが大掛かりに発見され始め、それらの研究が始まったことで「失われた古代文明」の感覚が再生されました。
ルネサンス(再び生まれる)の萌芽です。
「美しき女庭師のマドンナ」
ラファエロ 1508年頃
それ以後、建築を最上位に絵画と彫刻、および文学と音楽の分野が、あまりに完璧であった古代文化のレベルに追いつこうと研鑽するあまり、各国の王立アカデミーなどの組織で受け継がれるようになって、芸術が学問になります。
ちなみに日本では、建築も絵画も彫刻も、さらには音楽や文学は、職人の手で生み出され受け伝えられて行って「技術」だったのです。
芸術という概念は、明治維新以降にもたらされました。
そのまま、時代を経ながら発展と変化を続けながら、19世紀になると、理論のための芸術というような存在で、動脈硬化を起こして行きます。
パリの美術学校の教授たちがやっている事のみが、その時の芸術であり、それ以外のことをやると野蛮で下品で後進的で、芸術とは呼べない、というような感じです。
そしてフランス大革命、7月革命、2月革命、3月革命、パリコミューンなどの繰り返される社会の変動と、さらに産業革命によって社会構造が大きく変わり、芸術も「理論がどうのこうの」と言う物ではなくなって行きます。
王侯貴族の没落や衰退、王制から共和生への転換などにより、社会の推進役が宮廷を中心とする王侯貴族達から、産業資本家へと変わって行きます。
新しい社会のリーダーたちは、いわゆるお金持ちの町人であって、彼らがそれまで王侯貴族御用達であった芸術を手にするようになり、それらを生み出す芸術家のパトロンになってゆくと、崇高な学問的理論や鑑賞のルールなどを無視して、より生活感のある、社会のありのままを日常生活のレベルで見て感じ取れる表現されるものを好むようになって行きました。
つまり芸術が、学問性という形而上的性格から、日常の生活つまり形而下的な性格へと変貌を遂げるのです。
19世紀前半に起こる「リアリスム(自然主義)」と、そこからさらに19世紀後半に始まる印象派の「近代芸術」の誕生です。
「糸を紡ぐ少女」
フランソワ・ミレー 1867
ここまでの流れは、別の機会に項目を分けてじっくりと語りたいと思っています。
そういう流れの中で、その狭いニッチに仇花のごとく咲き誇った特別の感性を秘めた感覚の表現に『アール・ヌーヴォー』があります。
そして、その『自然主義』『印象派』『アール・ヌーヴォー』の誕生に、大きく寄与したのが日本の美術工芸のテクニックでした。
それを『ジャポニスム』と呼びます。
「フルート (を吹く少年)」
エドウガー・マネ 1867
日本でも中学校の音楽の教科書の表紙でおなじみ、マネの「フルート」(「日本では「フルートを吹く少年」と呼ばれることがあります)は、ジャポニスムの典型なのです。
ジャポニスムがなければ、アールヌーヴォーは存在しえなかった。
そのジャポニスムからアール・ヌーヴォーにかけては、次回にお話ししましょう。
もっと写真をたくさん載せて。