ジェイムズ・ティソ『日本の物品を見る少女たち』1869
さて
突然ですがここで質問です
19世紀半ばになって
新しい国が一つ「国際社会」の仲間入りをしました
さて、どこの国でしょうか?
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答えは....
我らが「日本」です
鎖国を解いた新興国ニッポンに
先進諸国から多くの外国人がやってきました
各国外交官
軍人
明治政府に雇われた技術者
学者
貿易商や宣教師
好奇心旺盛な旅行者
山師
詐欺師
などなど
横浜文明開化図
彼らは
日本での一仕事を終えて祖国に帰る際に
当然お土産を持って帰りました
質問その2
当時、欧米人が日本から一番欲しかったものは何でしょうか?
プレステ5?
電気釜?
目薬?
ブッブーーー!
答えは『磁器』なのです
長らく欧州では
陶器は焼けても磁器は焼けなかった
中国から輸入するわけですが
延々と長駆運ばれてくる途中で割れたり盗まれたりで
手に入る数は半減
値段は倍々
欧州で必死に磁器を焼こうとした話は
別の機会に譲りましょう
中国の高級磁器は官窯で生み出されました
ところが
政変やら何やらで官窯の生産が止めることがあった
そういう時に代替えで調達されていた「有田」のことを
ヨーロッパの知識人たちは識っていました
有田焼の皿
例えば
17世紀後半から18世紀後半の革命まで
ヴェルサイユ宮のブルボン王家の筆頭親族コンデ大公家が居を置いた
シャンティイの街で
大公は自国の産業振興のために自分の窯を作り『シャンティイ焼』を
始めます
シャンティイ城
その四代のコンデ大公は
有田からもたらされた焼き物の中でも
特に『柿右衛門』に魅入られます
城内の美術館にも何点もの見事な柿右衛門とその写しが展示されています
シュガーポット
大 皿
水差し または 花瓶
このシャンティイ焼は現在でも受け伝えられて
小規模ですが
生産が続けられています
現代シャンティイ焼のモーニング・カップ
さらに幕末も押し詰まると
第二回パリ万国博
「徳川幕府館」と「薩摩館」が競って出店し
日本の工芸品を飾りました
こういう下地があったからこそ
彼らは帰国の際に持てる限りの磁器を持ち帰った
そして包みを解いてみると
それらの磁器を包んであった紙切れに実にユニークな絵が
描かれていたのです
そこには
古代ギリシア人が考え付いてローマ人が普及確立した
美的バランスを決定づける『黄金分割』などと全く無関係に
実にユニークな表現が溢れていました
「諸国名所百景 奥州外ケ浜」 重宣
「江戸百景 羽田の渡し」
「冨嶽三十六景 甲州石半沢」広重
この浮世絵に代表されるような構図は
黄金比の美意識で絵画を製作していた芸術家にとっては
「途方もない」ユニークな物だったのです
「黄金比による人体像」 ダ・ビンチ
古代ギリシア人が見つけ出した「美しい物が美しいための方程式」を
レオナルド・ダ・ビンチが理解して
人体のプロポーションで表現したペン画です
そこに
この破天荒なデフォルメの構図の破壊力!
画壇の巨匠たちや美術アカデミーの教授たちより
むしろ社会の近代化の中で何をなすべきか模索していた若手に
大きな刺激となりました
彼らは
日本製のあらゆる美術工芸品を集めまくります
浮世絵から始まって
磁器・漆器・印籠・根付・刀剣特に鍔・彫金
文机や引き出しなどの家具
のれん・招き猫・ハッピ
その他面白いものならなんでも
そこから
日本の工芸の技術が西欧の絵画に影響し
彫金その他の分野まで影響していき
独特の表現が生まれていきました
それを『ジャポニスム』と呼びます
続きます