賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

「新たに生まれる」とはどういうことか

2019-11-25 19:00:57 | 聖書の言葉

   「新たに生まれる」という言葉は、主にある兄弟姉妹がみな知っていると、わたしは信じています。「新たに生まれる」というと、兄弟姉妹は聖書に記されている主イエスとニコデモの次の対話を思い出します。「イエスは答えて言われた、『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』。ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか』。イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。「あなたがたは新たに生まれねばならない」とあなたに言ったことに、驚いてはならない』」(ヨハ3:3-7)。主イエスはわたしたちに、新たに生まれてこそ神の国に入ることができ、新たに生まれなければ神に淘汰されてしまうことを教えられました。これで分かりますが、主イエスのこの要求は神を信じ、神につき従うわたしたちにとって極めて重要です。

   わたしたちが知っているように、新たに生まれるとは、母の胎内からもう一度生まれるという意味だという、ニコデモの理解は絶対に間違っています。では、新たに生まれるとは、どういう意味ですか。ある兄弟姉妹たちは「主イエスがすでにわたしたちの罪を担われました。主を信じるわたしたちはもう主に贖われました。だから、わたしたちは生きることができ、もう新たに生まれました」と思っています。またある兄弟姉妹たちは「わたしたちが主の前で自分の犯したすべての罪のために激しく泣き涙を流し、しかも悔い改め、罪を告白し、洗礼を受けるなら、主はわたしたちの罪を赦し、わたしたちに新しい命を与えられます。そうなれば、わたしたちは新たに生まれることができます」と思っています。

   以前、わたしもこのように理解していました。でも、わたしの気持ちはどうしても落ち着きません。わたしはいつもこう考えています。「わたしが主に悔い改め、罪を告白したら、新たに生まれることになります。ことは本当にそんなに簡単でしょうか」。そうであれば、なぜ聖書に「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(ヘブ12:14)と書かれていますか。この節から分かるように、主イエスはわたしたちに罪を告白させるだけでなく、またわたしたちに、きよめられることを追い求めるように要求されました。では、全教会の信徒を見てみましょう。多数の人は毎日主に罪を告白します。しかし彼らの罪は減るどころか、かえって日一日と増えます。牧師、長老、同労者たちでさえ、名声と利益を争い、互いに腹を探り合って暗闘し、異分子を排斥し、いけにえを盗み食いします。兄弟姉妹たちは嫉妬したり、論争したり、勝手に人を裁き、罪定めしたり、邪悪な潮流を追い求めたり、マモンに仕えたりします。わたしたちがこれらは主の教えにかなわないとよく知っているのに、なぜ真理を実行できないのですか。わたしたちのような、罪に縛られている古い人は新たに生まれる人だと言えるでしょうか。


   

 

   わたしは聖書にこう書かれているのを思い出します。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリ二5:17)。この節から分かるように、本当に「新たに生まれる」というのは、人が罪を犯す古い命から解放し、キリストの新しい命に従うということです。これらの聖書の言葉は、今の信徒がまだ新たに生まれていないことを十分に証明しています。では、どうすれば新たに生まれることができますか、新たに生まれるに至る道は何ですか。

   このために、わたしは絶えず聖書を調べます。すると、次の聖書の言葉を見ました。ヨハネによる福音書第8章32節では、主イエスは彼を信じるユダヤ人に「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われました。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(ヨハ16:12-13)。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」(ペテ一4:17)。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(ヘブ9:28)。これらの聖書の言葉をかみしめることによって、わたしは永遠の命を得たいなら、世の終わりのキリストがもたらしてくださった、永遠の命に至らせる真理を得なければならないと分かりました。これらの聖書の言葉からは、次のことを知ることもできます。主イエスが世の終わりに再来される時、もう一段階の仕事をなさるはずです。この段階の仕事が真理によってなさる裁きの仕事、すなわち、人をきよめる仕事である可能性が非常に高いです。わたしたちは神の世の終わりの働きについていき、主イエスの再臨を迎えなければならず、神の新しい仕事の中で神の言葉によってきよめられなければなりません。そうすれば、わたしたちの腐敗した本性が変わることができ、物事を見る観点も変わることができます。これこそが、新たに生まれることの表れです。今までの、わたしたちの生きていく術がいろいろあります。例えば、「人が生きていくには、メンツが欠かせない。木が生きていくには、皮が欠かせない」とか、「唯我独尊」とか、「自分のためを考えてくれない人には、天地の罰が当たる」とか、「金は万能ではないが、金がなければ絶対にだめだ」とか、「人は金銭のために身を滅ぼし、鳥はえさのために滅ぶ」などです。生きていく上でのこれらの観点が神の裁き、刑罰の言葉によって取り除かれたら、わたしたちはもはやこれらの観点によって生きなくなり、神の人に対する要求、神の言葉によって生きるようになります。そうなったら、わたしたちが新たに生まれることになります。主の啓きに感謝します。主の啓きによって、わたしは「新たに生まれる」とはどういうことか分かりました。栄光が主にありますように! アーメン!


なぜ福音を宣べ伝えなければならないのか。 福音を宣べ伝える時に拒絶されたらどうするか

2019-11-23 21:17:11 | 聖書の言葉

福音とは何か

   福音とは、「祝福をもたらす声」、「祝福をもたらす情報やよい知らせ」であり、万物を創造された唯一の真の神が世の人に与えたい祝福です。この知らせが人にとってどんなに重要なのかを本当に知りたいなら、わたしたちは悪い知らせが何かをまず知らなければなりません。人類の祖先アダム、エバがサタンに腐敗させられた後、人類は死亡に直面しているようになります。人類にとって、これは明らかに悪い知らせです。そこで、神は人類を腐敗、死亡から救い出すために、人類を救う仕事を始められました。だから、神の毎回の働きは人類にとって福音なのです。その中の、恵みの時代の主イエスの人類を贖う仕事は、人々が最もよく知っている福音であり、地の果てにまで宣べ伝えられた福音でもあります。人々はイエス・キリストを自分の救い主として受け入れたため、救われて律法の縛り、罪定めから解放し、天の国の福音を得ました。



なぜ福音を宣べ伝えなければならないのか

   1.神の命令。マタイによる福音書第28章18-20節にこう書かれています。「『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。使徒言行録第1章8節にこう書かれています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。これらの聖書の言葉から、わたしたちは福音を宣べ伝えることは神の委託、神の選民に対する神の要求だと分かりました。福音を宣べ伝えるのは、神の働きを証しするためであり、人を神の前にもたらして神の働きを受け入れさせるためです。だから、福音を宣べ伝えることは人を救う仕事、神のみこころを行なうことにかかわる重要な仕事です。

   主は大きな使命をペテロ、ヤコブ、ヨハネなどの使徒、弟子に与えられました。そして、彼らはイエス・キリストからの使命を担い、至る所で主の福音を宣べ伝え、最終的に福音の宣べ伝えのために殉教しました。主はまた大きな使命を歴代の教会とあらゆる聖徒に与えられました。例えば、デイヴィッド・リヴィングストンはアフリカに行きました。ローバート・モリソン、戴徳生(ジェームズ・ハドソン・テーラー)は中国に来ました。ウィリアム・ケアリーはインドに行きました。アドニラム・ジャドソンはミャンマーに行きました。彼らは確かにこの使命を果たしました。主イエスの命令は諸教会に対する命令です。もちろん、それはわたしたちに対する命令でもあります。

   2.人の本分。神のために福音を宣べ伝えることは、被造物の尽くすべき責任と義務であり、また善行の一面です。もしわたしたちが福音を宣べ伝えることができれば、福音を宣べ伝える過程の中で主の意志を探り、主の言葉を実行し、経験することができます。そうすれば、主の言葉をよりよく理解することができ、また神に従い、神の委託を遂行することができます。福音を宣べ伝えることにおいてこれらの効果を収められることは、神が神の選民を救い、完全にしていることを示しています。それは最も意義のあることです。ローマの信徒への手紙第10章14節にこう書かれています。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」。福音を宣べ伝える人がなければ、主イエスの福音を受け入れていない人たちは、主イエスを救い主として受け入れていないために十字架の救いを得られません。彼らが神によって罪に定められたら、それはわたしたちの罪でもありす。わたしたちが福音を宣べ伝えたのに、彼らが受け入れないなら、それは彼ら自身の罪です。

福音を宣べ伝える時に拒絶されたらどうするか

   主イエスに倣って十字架の道を歩み、続けて福音を宣べ伝えるべきです。マタイによる福音書第20章28節にこう書かれています。「人の子が、伝えられるためではなく伝えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。ルカによる福音書第14章27節では、主イエスは「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と言われました。わたしたち人類を贖う仕事の中で、主はさまざまな苦しみを耐え忍び、自分の命と自分のすべてを捨て、最終的に人類を贖い出されました。わたしたちもさまざまな嘲笑、誹謗、ののしりを耐え忍び、わたしたちの心身を献げるべきです。さまざまな失敗、挫折にあっても、がっかりしてはなりません。このような時、神に依り頼み、神を仰ぎ見て、引き続き福音を宣べ伝えて神を証しすべきであり、また、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」るべきである(ロマ12:1)。多くの人はこう言うかもしれません。「わたしたちも十字架を背負って主について行くべきだと知っていますが、今はどうしても真理を実行できず、また聖霊の働きを享受できず、最初の信仰、愛、苦しみを受ける志を失ってしまいました。困難に遭う時は消極的になり弱くなり、あきらめようとさえ思います」と。今、わたしは一部の教会にこのような兄弟姉妹がいるのを見ました。彼らは、わたしたちが初め主を信じて聖霊の働きを享受した時のように、福音を宣べ伝えることにおいて信仰に満ちていて、非常に愛、根気があり、福音を宣べ伝えるのに使いきれない力があり、たとえ他人に嘲笑われ、ののしられても、やはり信仰に満ちています。しかも、彼らは福音を宣べ伝えるのに非常によい効果を収めました。彼らの教会に加入する人はますます多くなります。彼らは聖霊の働きを持っていますが、わたしたちは聖霊の働きを享受できません。それはなぜでしょう。ヨハネの黙示録第14章6節に「わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て」と書いてあります。この中から分かりますが、主イエスが再来される時、永遠の福音をもたらされます。彼らの宣べ伝えている福音は世の終わりの永遠の福音でしょうか。これは一体どういうことですか。わたしたちは確かに、この問題で反省し、真理を求めるべきです。


なぜペテロだけが主イエスがキリストだと分かったのか

2019-11-22 22:19:49 | 聖書の言葉

   聖書にこう書かれています。「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。弟子たちは言った。『「洗礼者ヨハネだ」と言う人も、「エリヤだ」と言う人もいます。ほかに、「エレミヤだ」とか、「預言者の一人だ」と言う人もいます』。イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか』。シモン・ペテロが、『あなたはメシヤ、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる』」(マタ16:13-19)。毎回この数節を見る時、わたしはこう思います。「同様に主イエスの弟子ですが、主イエスに『あなたがたはわたしを何者だと言うのか』と聞かれる時、彼らはそれぞれ異なった答えを出しました。ペテロだけが主イエスはキリスト、生ける神の子だと言い、主イエスの本来の本質と身分を見極めました。ペテロの答えは最も正しく、しかも主イエスの心にかないます。彼だけが神に対して最も認識があるから、主は天の国の鍵をペテロに授けられました。十二人の弟子が同様に主の追随者ですが、なぜペテロだけが主イエスがキリストだと分かったのですか」と。



   その後、わたしは聖書を読み、一部の兄弟姉妹たちと交流し、またこれらの問題において祈り、真理を求めることによって、神の啓きを得て、ペテロが主イエスがキリストだと知ったのは決して偶然ではなく、それは彼がふだんイエスのすることなすこと、イエスの所有しているもの、イエスの所是を注意深く観察することと密接な関係があると分かりました。主イエスが働いている間、ペテロは主イエスと共に食事をし、住みました。彼は現実生活の中で、主イエスの一挙一動、一言一行を観察することを重んじ、またこれらのディテールを通して、主イエスの中から流露される神の性質、神の喜怒哀楽をじっくりと味わいました。彼は特に主イエスのすべての言葉を重んじ、いつも主イエスの言葉の中で真理を求め、神の意志を探りました。彼は主イエスの一言一言は真理であって、人に真理、命を供給することができ、いかなる人も言い出せないことを見ました。しかも、主イエスの言葉、働きの中から、次第に神の性質、神の所有しているもの、神であるものを認識するようになりました。ペテロは次のことを見ました。主イエスは正常な人の外見をしています。人が想像しているように、彼は外見が非凡で、気品があり堂々としていて、王宮、貴族の家に生まれた、というのではありません。でも、主イエスが発表されるのはいかなる腐敗した人類も持っていない真理です。主イエスの中にあるのは完全に神の所有しているもの、神であるものです。主イエスの度量は非常に大きく、人類に対する彼の寛容さ、憐れみは無限です。彼はまたへりくだり、控え目に振る舞い、罪人と共に食卓に着きます。主イエスは傲慢ではなく、利己的ではありません。腐敗した人類のすべての腐敗した性質は主イエスの中に全然存在しません。主イエスの中から流露されるものはすべて、きよさ、義、人に対する無私の愛です。彼の喜怒哀楽は自分のためではありません。彼は彼の発表される真理が人類に光をもたらすために喜び、この腐敗した人類が罪の中に生きてサタンに苦しめられるために悲しみ憂えます。主イエスの発表される真理はすべての積極的な事物の実際です。このような本質と所是は神だけが持っておられます。ペテロは主イエスと付き合っている間のあらゆるディテールのゆえに、主イエスがキリスト、生ける神の子だと分かりました。最終的に、ペテロは神に対する認識のゆえに主に良しとされ、主は天の国の鍵と、羊の群れを牧するという任務とを彼に与えられました。

   ペテロが主イエスを認識する過程のゆえに、わたしはペテロを羨ましがり、また彼にあこがれています。ペテロの賞賛すべきところは、外見によらずに主イエスを認識し、主イエスのこの時点の言葉、働きを通して次第に経験し、注意深く体験し、神に対する認識、神の本質、神の性質と神の所有しているもの、神であるものに対する認識を追い求めることです。最終的に、彼は主イエスが受肉した神だと分かりました。ペテロが主イエスを認識したということで、わたしは少しの啓発を得ました。神を信じる過程の中で神に対する本当の認識を得ることを望むなら、神の言葉を認識することを重んじなければなりません。なぜなら、神の所有しているもの、神であるもの、神の性質、神の意志、神の人に対する要求などは神の言葉によってこそ認識することができ、人は神の言葉を心にとめてこそ、少しずつ神を認識することができるからです。これからは、わたしもペテロのように、神の言葉の中で多く真理を求め、神の意志を探り、神の働きを経験し、神の性質を認識し、神に対して認識を持つ人になることを追い求めます。


主を信じるわたしたちが一度救われたら永遠に救われたというのは本当なのか

2019-11-21 22:45:21 | 聖書の言葉

   聖書にこう書かれています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ロマ10:9)。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ロマ10:13)。これらの聖書の言葉を見た後、ある人たちは、主イエスを信じた人がもう永遠に救われたと思っています。では、わたしたちが一度「救われ」たら永遠に救われたというのは本当ですか。



   旧約聖書からこういうことが分かります。ヤーウェ神はモーセを通して律法を発布してイスラエルの民に守らせました。あの時、だれでも律法を犯したなら、自分のために罪を贖わなければなりませんでした。そうでない、彼は懲罰を受けます。そういうわけで、当時のイスラエルの民はみな、おとなしく律法を守り、だれも違反する度胸がありませんでした。しかし時がたつにつれて、わたしたち人類がサタンに腐敗させられた程度がますます深くなり、わたしたち人類の犯した罪もますます多くなり、こうして、自分のために罪を贖う罪祭は足りなくなりました。わたしたち人類が続けてこのように罪を犯すなら、律法によって罪定めされて死刑にされるという危険に直面するでしょう。わたしたち人類が神の言葉を聞かず、神を裏切りましたが、神は依然としてわたしたちを愛しています。わたしたちを死亡から救い出すためには、受肉した主イエスは十字架につけられて罪祭となり、人類を律法の下から贖い出されました。それ以後、わたしたちは主イエスを信じて頼ると、罪の赦しを得ることができます。わたしたちは律法を守れなくて死刑にされることがなくなり、主の贖いのゆえに救われ、しかも主イエスの憐れみ、慈しみ、主イエスから与えられた豊かな恵みを享受することができます。

   しかし、これはわたしたちが永遠に救われたことを意味していますか。主イエスはこう言われたことがあります。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる」(ヨハ8:34-35)。ヘブライ人への手紙第12章14節にも「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」と書かれています。わたしたちは極力苦しみを受け、人には寛容で我慢し、また外側のよい行ないがありますが、でもわたしたちの内側の罪の性質は根深く、エゴイズム、狡猾さ、傲慢さなどの性質は全部そろっています。さらに、わたしたちはうわべでは主を信じていますが、実際には弁舌の才があり、道を説くことができる牧師、長老たちを崇拝し、また彼らについて行きます。主イエスがわたしたちを祝福される時、わたしたちは感謝し、主を賛美しますが、家に災難が起こったら、不平を言い、しかも弱くなって神から遠く離れます。……これで分かりますが、わたしたちはやはり罪を犯し、依然として罪の奴隷です! 主イエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタ7:21)と言われました。だから、わたしたちの罪が取り除かれることができなず、わたしたちがきよくなることができないとすれば、わたしたちは全然本当に神に従い、天の父の御心を行うことができません。

   主イエスに贖われたわたしたちは、どうすればきよめられることができるでしょうか。わたしたちはヘブライ人への手紙第9章28節にこう書かれているのを見ました。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」。この節は、主イエスがきっと二度目に人類に現れ、しかもわたしたち人類を救われるという情報を伝えてくれました。ここの「罪を負うためではなく」とはどういう意味ですか。これについては、わたしはこう理解しています。わたしたちがキリストの二回目の救いを経験してこそ、わたしたちの罪は徹底的に取り除かれることができます。これこそが永遠に救われるということでしょう。

   わたしたちはこのように祈りましょう。「主イエスよ、贖いの獲得という大きなご恩をわたしたちに施してくださったことに感謝します。あなたはすでにわたしたちを贖われました。またわたしたちを救いに来てくださるでしょう。わたしたちは、主が二回目にわたしたちに現れて、わたしたちを完全にきよくし、わたしたちが神を表現し、神の栄光を現すことができるようにすることを、切に待ち望んでいます。キリストの王国が地に来ますように。あなたの御心がわたしたちの上に行なわれますように。アーメン!」。


ユダヤ人の血と涙は世の終わりの人にどんな警告を与えたのか

2019-11-20 20:41:53 | 聖書の言葉

   ユダヤ人というと、わたしたちはこの民族が二千年近く虐殺されたり、亡命したりしていたという長い歴史を思い出します。1948年イスラエルが復国する前に、ユダヤ人は故郷も祖国もなく、世界各地に亡命し、各国の人に唾棄され、排斥されていました。最もひどいことに、何度も大虐殺に遭いました。

   紀元70年、ローマ帝国の皇帝ウェスパシアヌスの皇太子ティトゥスは十万人の部隊を率いてイスラエスの首都エルサレムを包囲攻撃し、ユダヤ人に対して破滅的な大虐殺を行ないました。その死亡者数は百万人を超えました。生け捕りにされた多くのユダヤ人はローマ人に売られて、船や山で苦しい労働をするように強いられました。また多くの人は競技場に送られて、獅子と格闘してローマ貴族を楽しませるように強いられました。あの戦乱の中で、エルサレムの神殿は大きな火に焼かれました。それ以後、ユダヤ人は安心立脚の地、身の置き所がなくなり、次々に諸国に逃亡し、異国を流浪しました。

   紀元7世紀、イスラム勢力が絶えず伸びていました。多くのユダヤ人はイスラム教に改宗するのを拒んだため、殺されました。

   紀元14世紀、ヨーロッパの広い範囲で黒死病が蔓延していました。ユダヤ人はこの疫病の伝染源だといううわさがヨーロッパで流れていたので、ヨーロッパに亡命するユダヤ人の半数は殺されました。

   第二次世界大戦の間に、ヒトラーはユダヤ人に対する集団虐殺を行ないました。大戦の直前、ナチス・ドイツはニュルンベルクで法案を通過させ、ユダヤ人が人身の自由のない民だと公表し、また彼らのすべての権利を剥奪しました。その後、何千何万というユダヤ人はドイツから追い払われました。第二次大戦の勃発後、ナチス・ドイツは戦争に乗じて、ユダヤ人に対する迫害を、史上かつてなかった頂点に至らせました。すると、ヨーロッパの多くの国のユダヤ人は次々と殺害されました。ある人は銃殺され、ある人は絞め殺され、ある人は生き埋めにされました。その後、ナチス・ドイツは捜査によって逮捕したユダヤ人たちを大量に強制収容所に送りました。一部の人は選ばれて苦しい労働をし、ほかの人はガス室に送りこまれて化学薬品によって殺されました。戦後の統計によれば、ヨーロッパの各国でナチス・ドイツによって殺されたユダヤ人は600万以上いたそうです。



   実は、エルサレムの神殿が破壊されたことも、ユダヤ人が亡命したり、集団虐殺されたりしたことも聖書の預言の成就です。申命記第28章25節にこう書かれています。「主は敵の前であなたを撃ち破らせられる。あなたは一つの道から敵を攻めるが、その前に敗れて七つの道に逃げ去る。あなたは地上のすべての王国にとって恐るべき見せしめとなる」。主イエスもイスラエルに対して次のように言われました。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前らの子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(マタ23:37-38)。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マコ13:2)。ユダヤ族の悲惨の歴史を見渡せば、聖書の預言がみな正確に成就したことを確証することができます。しかしなぜこれらのことが起こったのだろう。神は預言の成就のために事を行われるのですか。断じてそうではありません! 神は人の命を粗末に扱うことはありません。では、ユダヤ人のしたどんなことが彼らに国の滅亡のつらさを味わわせたのですか。

   わたしたちが知っているように、神は二千年前に主イエスという名によって、初めて受肉して人の世に来てわたしたち人類を贖われました。主イエスは働いている間に、悔い改るべきだという教えを宣べ伝えられました。彼はまた、力あるしるしや奇跡を行なわれました。例えば、盲人が見えるようになったとか、足の不自由な人が歩けるようになったとか、風と海を静めたとか、死人を復活させたなどです。当時、ますます多くの、主イエスの言葉を聞き、主の行なわれたしるしや奇跡を見た人は主の全能と権威に征服され、次々に主に立ち返りました。それと同時に、ユダヤ教のリーダ、すなわち祭司長、律法学者、パリサイ人は別の心理状態にありました。民が主イエスにつき従ったら、自分たちの地位と利益がなくなるのではないかと、彼らは心配していました。そこで、彼らは旧約聖書の文字によって主イエスを罪定めし、主イエスの名がメシヤではないという理由で、あらゆる面で主に敵対していました。彼らは、主イエスが律法に背き、安息日を守らないと非難し、しかも主イエスを冒涜し、主イエスに関するデマをまき散らすことさえし、また、聖霊からの受胎によって生まれた主イエスをナザレの大工の息子だと言いなし、主イエスが悪霊のかしらベルゼブルの力で悪霊を追い出している……と言いました。彼らは主イエスのために十分なデマ、罪名をでっち上げた後、主イエスに手をかけて捕らえ、しかもローマ人の手で主イエスを殺すと決めました。当時のユダヤの民の態度は何でしょうか。彼らのうちの多くの人は、ユダヤ教のリーダたちが一生ヤーウェ神に仕え、毎日人に聖書を解説し、人に律法を守るように教えるから、宗教のリーダたちの言葉はきっと正しいと思っていました。そのため、パリサイ人にそそのかされたユダヤの民も狂おしげに主イエスを罪定めしました。彼らはローマ政府に殺人犯バラバを釈放させても、主イエスの釈放を要求しようとしませんでした。ローマの総督ピラトがユダヤ人に「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」(マタ27:24)と言った時、ユダヤ人たちは「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタ27:25)と言いました。理性を失ってしまったユダヤ人は自分と子孫の命を賭けても、主イエスを十字架につけようとしました。そのため、この上なく大きな罪を犯し、神の義なる性質を犯し、二千年近くにわたる国の滅亡のつらさを味わいました!

   二千年来、主を信じるすべての人は主が憐れみ、慈しむ主だと知り、人がどんな悪いことをしても、主の赦し、憐れみを得られると思っています。しかしユダヤ人の歴史が言及される時にだけ、わたしたちは主の性質に対する自分の本当の認識が一体どれほどあるかをまじめに反省します。実際には、主は原則と状況によって人類を憐れまれるのです。もし人が理性を失って狂気じみたように神に逆らい、神を冒涜し、しかも受肉したキリストを十字架につけさえするなら、神はやはり人を憐れまれるでしょうか。ユダヤ人は主イエスを十字架につけて、主の尊い血の最後の一滴まで流されるようにしました。このような大罪を犯した彼らはどうして神に呪われず、懲罰されないことがあるでしょうか。

   主は憐れみ、慈しむ主です。しかし主の憐れみ、慈しみは、真心をもって彼を信じる、神を畏れる心を持つすべての人だけに与えられます。主イエスが働いている間に、主イエスに逆らったユダヤ教のリーダたちや、定見のない民たちと違って、一部の人は確かに主イエスの憐れみと祝福を得ました。彼らは、主イエスの言葉を聞き、主イエスの行なったしるしを見たので、主イエスが真の神だと確信したすべての弟子と追随者です。例えば、弟子ペテロ、ヨハネとか、サマリヤの女などです。聖書にこのようなことが記されています。ペテロとその兄弟アンデレは主イエスについて行く前に、ガリラヤの海辺で漁をすることで生計を立ていたのです。ある日、主イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタ4:19)という言葉だけ言って、彼らを召されました。そこで、彼らはすぐに網を捨てて彼に従って行きました。ある日、主イエスは一人のサマリヤの女を見て、彼女に五人の夫がいるという秘密を言い出されました。それで、サマリヤの女は主イエスが来たるべきメシヤだと信じました。そして、彼女は「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」(ヨハ4:25)と言いました。ペテロ兄弟とサマリヤの女の経験から分かりますが、神の声だと分かると、ためらうことなく主を信じ、主につき従う人こそが、本当に主と同在し、主の祝福と約束を得ることができる人です。

   あらゆるクリスチャンが知っているように、世の終わりは主が再来される日です。月が四回血に変わるという聖書の預言はもう成就しました。地震、疫病、虫害、洪水、干害などの災難もしきりに起こります。いろいろの兆しは、世の終わりの裁きの日が来たことを示しています。わたしたちが直面している問題はこうです。主が本当に来られたなら、わたしたちは彼が主だと知ることができますか。わたしたちはペテロやサマリヤの女と同じように、神の声を聞くと主につき従いますか、それともユダヤ人の二の舞を演じますか。

   ルカによる福音書では、主イエスは世の終わりの彼の再来についてこう預言されました。「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」(ルカ17:25)。主は、彼が世の終わりに来た時、苦しみを受け、世の人から排斥されると言われました。神を信じるのに、神に逆らって、国の滅亡のつらさを味わったユダヤ人の失敗は、後人のわたしたちにとって教訓となりました。だが、世の終わりに「今の時代の者たちから排斥されることになっている」という主イエスの言葉がどういう意味か、主の再来を拒絶するという預言がどんな人の身に実現するか、わたしたちが分かりません。本当に神を畏れる心を持つ人はみなユダヤ人の二の舞を演じたくないと、わたしは信じています。だから、わたしたち自身がユダヤ人の歴史の悲劇を繰り返すことを防ぐために、わたしたちは教訓をくみ取るべきです。主が再来したという福音がいつかわたしたちに宣べ伝えられたら、わたしたちもパリサイ人と同じように聖書の文字をかたくなに守り、メシヤの再来だけ信じて、メシヤという名をかたくなに守り、神の働き、言葉の中から真理の道を調べない可能性がありますか。周りの人がわたしたちが主に近づき、主が再来したという福音を調べるのを阻止するなら、わたしたちもあの時の愚かなユダヤの民と同じようにデマを信じ、悪者と一緒に悪を行なって神に逆らい、神を冒涜する可能性がありますか。主の日がもう来ました。これらの問題は確かに、わたしたちがまじめに考えるべき問題、いつでも戒めとすべき問題です。