賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ある体験の中、私は神の御加護を目の当たりにしました

2020-07-29 18:49:53 | 勝利者の証し

   私達は今まで一度も神を信じたことはありませんでした。しかし、2005年、神にお引き上げ頂いたことで、私の旦那、義理の父、伯父、そして私は全員が世の終わりの神の働きを受け入れる事が出来ました。その後すぐに、私は教会から書籍の管理業務に就かされました。後に、私達の自宅で火事が発生し、この火災の中で私達は神の奇跡的な御加護を授かったのです。神は正に全能であられるのです!

 

 

   2006年3月のある日、昼食後の午後1時頃、外では雪が激しく降っていました。私の旦那、娘と私は家の中にいて、火の近くで体を温めながらトウモロコシを脱穀していた時、突然外から、「お宅の家が火事になってるぞ!急いで、外に出て火を消すんだ!」、と大きい叫び声がしたのです。私達が急いで外に出て見ると、台所と豚小屋の屋根が既に燃えていたのです。3人の無信仰者が火を消すのを手伝いに来てくれて、「ほら、火を消すのを手伝って!」、と大声で叫びました。近隣の村2つにも私達の叫び声が届き、直ぐに30人から40人もの人達が火を消すのを手伝いに来てくれたのです。この時、私は誰かがこう口にしたのを耳にしました、「この家族は神を信仰していないのか?どうやったら火事なんかが起るんだ?でもこの家族の家は燃えてしまったから、これでも神を信じるだろうか。」私はこの時点では彼らの言っていることはどうでもいいと思いました。そして、私は炎が増々激しくなっていくのが見えました。強い風が燃え盛る炎を家の中心部に向って追いやっていました。家の中には教会の書籍と我が家の穀物があったので私はとても不安でした。この切羽詰まった瞬間、私は続けて神に呼び掛けました。「ああ神様!どうか教会の書籍と我が家の穀物を御守り下さい、これらの物が燃えてしまわないようにして下さい。」 私が祈りを捧げた後、奇跡が起こり、風の吹く方向が突然変わったのです。その時、私は家の中の物全てが保護されると分かり不安な気持ちが少し薄れて行きました。火を消そうとしていた人達が燃えてしまった物にどれだけ金銭的な価値があるかと話しているのを聞いた時、私は豚小屋に2匹の豚がいることを思い出しました。私の旦那は豚達を助けようと駆けつけました。しかし彼が中に入ったとたん、燃えた破片の塊が突然降りかかり、入口をふさいでしまったのです。私はこれを見て心臓が喉につまりそうになり、心の中で必死に神に呼び掛け、旦那を御守り下さるよう懇願しました。無信仰者達は皆、私の旦那が大きな危険にさらされているのではないかと心配していました。しかし、皆が見詰める中、私の旦那が1匹50キロ以上ある豚2匹を前に押しやりながらついにその無事な姿を現したのです。これで、私の心はやっと落ち着きを取り戻しました。炎は1時間もしくはそれ以上燃え続けた末に全体で台所と豚小屋を2つ燃焼させ、およそ4000元ほどの損害が出てしまいました。

   私達は後ほど、この大火災は火遊びをしていた子供によって起っていたことが分かりました。この時、私は神のこの御言葉を思い出しました。「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなたに対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある――その背後にはすべて戦いがある…神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである…あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか不信心者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うすべては素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)この神の御言葉の中に、今日私達が自宅の火災に直面した時、これは表面的には子供の火遊びによって引き起こされていたように見えましたが、実は霊的な世界ではサタンが神と賭けをしていたのです。サタンはこれを利用して私に神を非難させて、裏切らせて、拒絶させたがっていたのだと理解することが出来ました。無信仰者達が「でもこの家族の家は燃えてしまったから、これでも神を信じるだろうか」と言った時、あれはサタンが私を誘惑していたのです。もし無信仰者達の言う通りに神を非難し、批判していたら、私は神に対する証言が出来なくなっていたことでしょう。私は神の御心を理解した後すぐ、こう神に祈りを捧げました。「ああ神様!私の今日の体験はあなたからの試練であり、サタンからの誘惑だったのですね。私がサタンの前であなたの証言を出来るよう、どうか私に信念と精神力をお与え下さい、そしてこの事態に関する不平を漏らさないようにして下さい。私は全ての出来事と物事はあなたの手中にあると信じています。私の運命はあなたの手中にあり、私はあなたの御主権と御采配に従います。」

   あの夜、私の家族は普段通りに集まって神の御言葉を頂き、私は旦那にこう問いかけました、「あなたの木材が燃えてしまったけど、神様のことを責めてる?」すると彼はこう言いました、「不満なんか何もないよ。豚を助けてやろうとして豚小屋に行った時、お前達は皆俺のいのちの事を心配して、何か良くないことが起るんじゃないかとビクビクしていたけど、俺は内心全く怖がってなかったんだ。最終的には無事に出て来れたし。これが神の御加護じゃないのか?神の御加護がなかったら、我が家は完全に燃え尽きていただろうし、俺のいのちもどうなっていたことか。我が家にはまだ物があるんだし、俺たちは神の御気遣いと御加護、そして俺達を愛して下さっていることを感謝しなきゃ。」 確かに、私はこの経験を通じて、神は私達のことを御気遣いになられ、私達を御守り下さっていることを本当に目の当たりにすることができました。我が家に火が付いた時、もし神が、数住人の人達を結集して、私達の所に来て火を消すようにして下さっていなければ、自分達だけの力では人を消すことは不可能であったでしょう。風が吹いて炎を家の中心部に押し向けていた時も、神が偉大な御力で風の方向を変えて下さっていなければ、教会の書籍、我が家の穀物、そして我が家そのものは燃え尽きていたことでしょう。私の旦那が炎を顧みず豚を救いに行った時も、神の御加護がなければ、旦那はあの大きな炎の勢いの中では焼け死んでいた可能性が高く、髪の毛が一本も焼けずにすんなりと歩いて出て来るようなことはなかったでしょう。私達は交流すればするほど、神の偉大な御力と愛をどんどん理解していくことが出来ました。私達は不平を言わなかっただけでなく、心の中が神に対する計り知れない感謝の意でいっぱいになっていたのです。

   この経験から、私は神の全能さと奇跡的な御業を自分の目で見ることが出来た上に、神の優しさと素晴らしさを実感することも出来ました。火災の後、我が家の状況は以前に比べると少し悪くなってしまったものの、神に従う私の心は全く変わりませんでした。他人の言うことに関わらず、私は神がどのような行動を成されようとも、その全てが常に人々を救い、完全にすることを目的とされておられるのだと堅く信じています。私は自分の霊的背丈を考慮すると神の証言をするのは不可能だったと解っています。しかしこの試練の間、私は神の証言をして、サタンを辱めることが出来ましたが、その全ては神の御働きから生まれた結果であったのです。今後、私は神の御言葉をもっと読み、更なる真理を手にして、あらゆる種の試練を受ける際にも私の真の霊的背丈を以て神の証言をいたします。全ての栄光、全能の神にあれ!


災害から人を御救いになる神の丹誠を惜しまぬ御心遣いを体験しました

2020-07-26 23:53:10 | 勝利者の証し

   2012年7月21日、過去60年で最悪の豪雨が降りました。私はあの集中豪雨の中で神の御業と神が人を御救われる方法を目にしました。

   あの日の午後、私は三人の姉妹と合流しました。外では雨が激しく降り続けていました。午後4時30分、無信仰者である私の旦那が、ロータリーに沢山水が溜まって人が通れなくなっていると言いながら戻ってきましたが、それでも午後5時になると、彼は急いで夜勤に出掛けて行きました。その時私は何もおかしな気がしていなかったので、普段通りに夕食の支度に取り掛かりました。午後7時になると、私達の住人が私を呼びながらドアをノックしてきたので、様子を見に外に出た時、私は人生で一番大きなショックを受けました。なんと雨水が既に中庭を水浸しにして、家の東楝と西楝に入り込んでいたと同時に地面の水位がどんどん上がって来ていたのです。私は息子と一緒に水の流れを抑えようとしましたが効果はありませんでした。切羽詰まった私は水の中で跪き、「ああ神様、どうか私に逃げ道を御開き下さい」、と神に呼び掛けました。その瞬間、旦那の会社から電話があり、旦那が家にいるかどうかを聞かれましたが、私が電話に出た時には水が既に家の中心部まで入り込んでいたのです。私は状況の深刻さを認識し、旦那の状況を知らなかった私は彼の事が心配になり始めました。私は再度、水の中で跪いて、不安の中で神にこう呼びかけました、「ああ、神様!私はこの鉄砲水に巻き込まれて、初めてあなたの御怒りを感じ、自分の犯した反抗的な態度と裏切り行為に気が付きました。あなたは私達の心をあなたに向けて下さり、あなたに頼りながら楽に生活をさせて下さっておられるというのに、私は未だに家族、旦那、そして子供達に執着して、手放すことが出来ておりません。ああ神様!私はやっと人間同士の間では誰も人に何かをもたらすことは出来ない、そして人は誰も救うことが出来ないのだと解りました。私はあなただけを頼るようにいたします。私の旦那は職場に向かってからもう4時間が経ちますが、未だに会社に到着しておりません。道中で何か起ったのかもしれません。私はあなたに旦那のことを委ねます。何が起ろうと、私はあなたの御計画と御采配に従います!」私はこのように何度も祈りを捧げ続けました。そして午後9時頃、私の旦那が突然びしょびしょになって私の前に現れたのです。私は神に旦那を救って下さったことをひっきりなしに感謝しました。この時、水は既に私の太ももの付け根まで上がってきており、私は旦那を掴んで、「一緒に祈りを捧げて。私達のいのちは神の手中にあるのよ」、と言いました。私の旦那はうなずいて賛成し、私達は水の中で跪いて祈りを捧げました。祈りを捧げていると、私達の住人が突然、「水が減っていく!減って行ってるぞ!」、と叫んでいるのが聞こえました。私は心の中で興奮しましたが、外では未だ雨が降っていたのに、水はどうやって減って行ったというのでしょうか?これは神の全能さによるものだったのです!神はなんて素晴らしく、信頼出来るお方なのでしょう。神は人をとても愛して下さっておられるのです。私達はとても反抗的で、とるに足らない存在であり、神はその私達をとても哀れんで下さっておられ、そして私達の泣き叫びに御耳を傾けて下さり、私達を災難から御救い下さっておられるのです。私はどの言葉を使って神に対する感謝と崇敬の意を表現したら良いのか本当に分かりません。

   この豪雨が去った後、私の旦那、義理の母、そして私の同僚までが神を信じるようになり、私は神に彼らを御救い下さったことに感謝しました。私は今回の体験を通じて、神は人類を滅ぼすためではなく、むしろ人類を救えるようにするために災害を起こしておられるのだと明確に理解することができました。一方で、神は、神を信仰してはいても盲目で反抗的な子供達は依然として生半可であり、神を欺いては裏切っているという警鐘をお与え下さります。他方では、元々は神に属していたが依然としてサタンの支配下に生きる哀れな魂全てを救うことをもより重要な目的とされておられるのです。この救いの手段には神の丹精をこらした御気遣いが多く込められているのです。これについて神はこう仰っておられます。「今日、わたしは赤い大きな竜の国に降り立つだけではなく、わたしの顔を全宇宙に向け、天空全体が揺れるようにする。わたしの裁きが行われない場所が一つでもあるだろうか。わたしの投げつける懲罰が行われない場所が一つでもあるだろうか。わたしは行く先々に、あらゆる災いの種を蒔いた。これは、わたしの働く方法の一つで、必ずや人間を救う行いなのであり、わたしが人間に差し伸べるものは、何であれ、一種の愛なのである。わたしは、さらに多くの人々がわたしを知り、わたしを見ることができるようにし、そうして長い間人々が見ることのなかった神、だが、今日、現実となった神を、崇めるようにしたいのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「十章」より)私はもう一度神を讃えずにはいられなくなりました。「ああ神様、私はあなたの成さることは全てが私達を救って下さるためであるということをこの目で確認することができ、あなたの愛は紛れもなく真なるものであるのだと分かりました。今私は、あなたの全能さと御知恵を正しく認識することができ、あなたの愛、御救い、そしてそれ以上に、あなたの熱心な御意図をはっきりと捉えることが出来ています。私はこれ以上、それに対し無関心であったり、忘恩でいるわけにはいきません。私はあなたの御国の福音を広めるため、より多くの失われた魂をあなたの御家族に導き戻すために私の全てを捧げ、そうすることであなたから頂いた偉大な愛にお応え出来るよう私の心を心の底から捧げることのみを望んでいます。」


神を知る道を見つける

2020-06-29 23:35:25 | 勝利者の証し

   ある日私は、「ペテロはどのようにしてイエスを知るようになったか」の中に書かれている次の神様の御言葉を目にしました。「長らくイエスに従って、ペテロはイエスの生活の全て、つまりイエスの行動、言葉、動作、表情などを観察し、心に留めた…ペテロはイエスと接するようになってから、イエスの性格が普通の人とは違っていることにも気づいた。イエスは常に落ち着いて行動し、決して焦ることも、誇張することもなく、物事を控えめに表現することもなく、ごく普通で称賛に値するような生活を送った。イエスは会話においては、上品で、優雅で、率直で、朗らかでありながらも、穏やかで、働きを実行するときも決して威厳を失うことはなかった。ペテロは、イエスがあるときは無口になったり、またあるときは絶え間なく話したりするのを見た。イエスは時には嬉しくて、鳩のように敏しょうに、いきいきとふるまい、時には悲しみの余り、まるで風雨にさらされた母親のように、まったく口をきかないこともあった。時としてイエスは、勇敢な兵士が敵を殺すために突進するように、また時には吠え猛るライオンのように憤りで一杯になることさえあった。イエスは時には笑い、時には祈り泣くこともあった。イエスがどのように行動するかに関わらず、ペテロは限りのない愛と敬意をイエスに抱くようになった。イエスの笑い声はペテロを幸せで満たし、イエスの悲しみはペテロを嘆きに落とし入れ、イエスの怒りはペテロを脅かしたが、その一方、イエスの憐れみ、赦し、厳しさによって、ペテロはイエスに対して真の畏敬と憧れを抱くようになり、ほんとうにイエスを愛するようになった。もちろん、これらのこと全ては、ペテロが数年イエスのもとで生活して、次第に分かってきたことである。」(『言葉は肉において現れる』より)これを読んで私は思いました。「道理でペテロは神様を知ることができたわけだ。ペテロはイエス様の側で日も夜も生活しながら、イエス様の言動を一つ一つ目の当たりにし、そうすることで神様が愛されるに相応しいお方であることを知ったのだ。今だって、神様が肉となられて自ら人の世に降臨され、働きをなさる時代だ。ペテロのように神様に直接お目にかかり、共に過ごす機会が得られるなら、私も神様をもっとよく知ることができるのではないか。ああ、神様の御言葉を読むことはできても、イエス様のお顔を拝見できないとは何と残念なことだろう。だとしたら、どうやって神様のことを真に認識することができるだろうか。」

   そう思って悲しくなり、落胆していた時、神様の御言葉が私を啓いてくれました。「神を知ることは、神の言葉を読み理解し、神の言葉を実践し経験することを通じてなされなければなりません。『私は受肉した神を見たことがない。それでどうして神を知ることができるのか』と言う人がいます。実のところ、神の言葉は神の性質の表現です。神の言葉から、神の愛と人類の救い、そして人類を救う神の方法を見ることができます。……神の言葉は人間を使って書かせるのではなく、神自身によって表現されるからです。それは神によって直々に表現されるのです。つまり、神自身がその言葉と内なる声を表現しているのです。それが心からの言葉だと言われるのはなぜですか。なぜなら、それは奥深くから発せられ、神の性質、心、考え、人類への愛、人類の救い、人類への期待を表現しているからです。神の言葉には厳しい言葉もあれば優しく思慮深い言葉もあり、また人類の望みと一致しない暴きの言葉もあります。暴きの言葉にしか目を向けなければ、神はなんと厳しいのかと感じるでしょう。優しい言葉にしか目を向けなければ、神にはさほど権威がないかのように感じるでしょう。ゆえに、神の言葉を文脈から切り離すのではなく、あらゆる角度から見なければなりません。神が優しく憐れみ深い視点から語るときがあり、そのとき人々は神の人類への愛を見ます。神が厳格な観点から語るときもあり、そのとき人々は神の侵すことを許さない性質を見ます。人間はひどく汚れており、神の顔を見たり神の前に出向いたりする価値はありません。今、人々が神の前に出向けるのは、ひとえに神の恵みです。神の知恵は、神が働きを行なう方法や、神の働きの意義から見ることができます。しかも人々は神と直に接触しなくても、神の言葉の中にこれらの物事を見ることができるのです。」(『キリストの言葉の記録』の「受肉した神をいかにして知るか」より)神様の御言葉のおかげで、突然私の目の前に光が射しました。そうです。受肉された終わりの日の神様は、すでにご自身の御言葉によってその性質を残らず人間に示され、ご自身が偉大な力をもち、至高であり、謙虚にお隠れになり、愛される価値があることを人間が見えるようになさり、さらには神様の喜びと悲しみを人間が認識し、神様が所有されているものと神様そのものすべてを人間が知るようにされたのです。このことから、神様の御言葉を読んで経験する以外に神様を知る方法はないことがはっきり分かります。神様の御言葉から離れてしまったら、肉となられた神様に直接お会いしたところでどうなるでしょう。当時のパリサイ人もイエス様に会っているではありませんか。それでもイエス様を十字架にかけたのはどういう訳でしょうか。イエス様の御言葉に耳を傾けず、傲慢で、自分たちの観念と想像に執着し、自分たちが理解できる聖書のわずかな断片を基にして主イエスを拒否し、断罪したからではないでしょうか。それに比べてペテロは、自身の観念と想像を捨て、主イエスの御言葉を注意深く聞き、イエス様が発せられた一言一句を丹念に考えることができたために、イエス様を知ることができました。主イエスのご発言と行動を通じて、ペテロは神様の性質と神様が所有されているものと神様そのものすべてを知り、最後は神様に関する真の認識を得るまでになったのです。この揺るぎない事実は、人は神様の御言葉によらなければ神様を知ることができないということを十分に示してはいないでしょうか。さらに、終わりの日における受肉された神様の主な働きが御言葉の働きであるならば、私が神様を知るにあたって大いに役立つのではないでしょうか。

   自分の論理的思考を思い出せば出すほど、自分がいかに惨めで、愚かで、幼稚であるかを痛感しました。毎日、私は神様の御言葉を手に取り、神様の御言葉を飲み食いし、読み、経験してきたにもかかわらず、それらの御言葉を心から愛していたわけではなく、キリストのお顔を拝見しなければ神様を知ることはできないと考えていたのです。私は本当に祝福された人生を送りながら、それを感謝せずにいたのです。ああ、神様。あなたを知る私の間違った方法を明らかにして正し、神様を知る道を見えるようにしてくださり感謝します。これからはあなたの御言葉を読み、それを深く考え、御言葉を通じてあなたの喜びと悲しみを理解するよう求め、またあなたの愛らしさをさらに多く見つけることで、あなたをより深く知るようになりたいと心から思います。


神様の愛のお導きで病気という試練を乗り切りました

2020-06-12 19:02:51 | 勝利者の証し

喜んで主と再会

 私は今年で78歳ですが、ずっと頭痛や糖尿病を患ってきました。2005年に主を信じるようになってからというもの、長年にわたって私を苦しめてきた病気が軽減されました。私は神様の愛を感じ、心の底から主に感謝しました。二年後、親戚の一人が終わりの日の神様の働きについて説き、主イエスが受肉した全能神として再臨したと言いました。全能神は今や主イエスの贖いの働きを基礎の上により高次の新しい働きの段階を行っておられ、真理を用いて人を裁き、罰し、堕落を清めておられると教えてくれたのです。また、神様は最終的に救いを得た人を神の国に導くとも述べました。私はこの話を聞いてとても嬉しくなり、「生きている間に主をお迎えすることができるとは想像もしなかった。将来、神様の国に連れて行ってもらえるなら、どんなに素晴らしいことだろう!」と思いました。このことを考えると、私の心は言いようのない喜びに満たされ、神様の愛と救いに感謝しました。求め調べる一時期を過ごした後、神様の御言葉を読んで全能神は再臨された主イエスであることを確信しました。その直後には教会生活を送り、教会内で本分を尽くすためにできるあらゆることをしていました。

病に襲われ、私の嘆かわしい動機が露わに

 旧暦十二月、家事をしているときに突然心臓の圧迫感を感じ、呼吸困難に陥りました。息が詰まるように感じて今にも窒息しそうでした。私が苦しんでいるのを見た夫が急いで娘と娘婿に電話をかけ、彼らに市立病院に連れて行ってもらいました。

   総合的な検査の後、担当医は厳しい表情で言いました。「非常に重い病気に罹っています。心臓に問題があるので、いつ亡くなってもおかしくない状態です。すぐに入院して治療を受ける必要があります」医師の言葉は青天のへきれきで、私はたちまちうろたえ、思いました。「どうして突然こんな重病に?いつ死んでもおかしくないって?神様を信じるようになってから、ずっと誠実に本分を尽くしてきたのに。なぜ神様は私を守ってくださらないの?死んでしまったら、美しい神の国が出現する壮大な出来事に立ち会えない。娘たちや夫とまた一緒に暮らすこともできなくなる。天国の永遠の幸福にあずかれないの?」考えれば考えるほど胸が痛み、心に孤独感が忍び込みました。苦痛の中で私にできることは心から神様に祈ることだけでした。「ああ、神様!重い病気が私の身に降りかかって、私は無力で弱くなっています。何をすべきかわからず、神様の御心を理解できません。それでもこれは神様がお許しになるから起こっていることだと信じます。ですからどうか、私をお導きください」祈った後、神様の御言葉が思い浮かびました。「今、あなたがたは皆、神を信ずることは、ただ単に魂の救いや、肉の幸福のためでもなく、神の愛を通してあなたがたの人生が豊かになることなどでもないと分かっている。そのように、もしあなたが肉の幸福や一時的快楽のために神を愛するなら、たとえ最後にあなたの神に対する愛が頂点に達し、あなたが何も求めないにしても、このあなたが求める「愛」は依然として汚れた愛であり、神には喜ばれない。…この種の愛は現状維持のままでしかない。それは永久的不変性を得ることも、人に定着することもあり得ない。この種の愛は花が咲いた後も実がならず、しぼんでしまう花のようである。すなわち、そのように神を一旦愛した後、誰もその道を導いてくれないと、あなたは倒れてしまうだろう。…神に得られる人たちとは、サタンに逆らい、サタンの支配下から逃れる人たちのことである。そのような人たちは正式に神の国の民の中に数えられる。神の国の民はこのようになるのである。あなたはこの種の人になりたいだろうか。あなたは神に得られたいだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「信者はどのような観点をもつべきか」より)

   神様の御言葉の暴露で私は恥ずかしくなりました。そのときになって初めて、神様への信仰に関する私の見解が間違っていたことに気づいたからです。思い返せば、私が主イエスを信じ始めたのは病気が治るようにという気持ちだけからで、その後、全能神の終わりの日の働きを受け入れれば天国に入り、永遠の祝福を享受できると聞いたのです。それで、その祝福を得るために終わりの日の福音を受け入れ、積極的に本分を尽くしました。神様のために働けば働くほど、将来の祝福が大きくなると信じて。しかし今や生死に関わる病気に罹り、祝福を受けるという希望は打ち砕かれようとしていました。私は、神様を非難し誤解するようになり、神様を説得しようするようになりました。神様のためにすべてを捨て、自分を捧げてきたのだから、神様のために苦しみ代償を払ったのだから、神様は私を祝福するべきで、私をこんな大病に罹らせるべきではないと思ったからです。そのとき初めて自分の神様への信仰と本分を尽くしてきたことは誠実でなく、それどころか神様の愛に報いるという被造物としての本分を尽くしていなかったことがわかりました。むしろ個人的な動機に基づいて行動していたのです。私の目的は神様から祝福を得て、神様の恵みと祝福を享受することでした。自分を捧げてきたのも、神様と交渉し見返りに天国の至福を得るためでした。このような神様への汚れた信仰を持っていては、上っ面がいかに忠実に見えようとも、事実に立ち向かうことはできません。短い間は可憐に美しく咲くけれど何の実もつけない花のように、小さな嵐がやって来るとたやすく折れてしまったのです。私はいかにあらゆるものを神様から与えられてきたかに思いを巡らせ、神様の愛に報いるためどのように本分をしっかり尽くすべきかを考えました。また、これが天の掟であることも思いました。それなのに度を越えた欲望でいっぱいになった私は、自分の本分を利用して神様と交渉したのです。このようなやり方で本分を尽くすことで神様に背き、神様を欺いていたのではなかったでしょうか。私はひとかけらの良心も理知も備えていませんでした。それから私は神様の御心を理解したのです。神様はこの病気を利用して私を試し、私の神様への信仰の裏にある間違った動機をはっきりと見えるようにしてくださっていたのです。神様はこの精錬を利用して私を清め、変え、神様に対して私がしていた理不尽な要求を手放させ、良心と理知を取り戻させ、被造物としてしっかりと立ちつつ創造主を崇拝させようとなさっていたのです。このことを考えていると、すべてが突然理解でき、私は神様の救いに感謝しました。神様の救いがなければ、私は未だに間違った道を進んでいたでしょう。その果てには何の報酬もなく、ただ神様に見捨てられ、ふるい落とされていたことでしょう。この病気を通して私は、もし人が神様の働きを知らず、いかにして神様が人を清め救ってくださるかを知らなければ、人は神を畏れ従うことができないことが理解できるようになりました。また、物事が自分の思い通りにいかなければ意気消沈し、神様を誤解し非難する場合すらあります。私の霊的背丈は哀れなほどに低いものでした。これらについて考えると、私は自責の念にさいなまれ、神様への恩義で心がいっぱいになりました。

   入院してからは、いかなるときも神様の存在を意識していたところ、自分の心と神様がいっそう近づいたように感じました。私は神様の次の御言葉について考えました。「全能神は全能の医者である。病の中に留まれば、病気になる。しかし霊の中に留まれば、健やかになるのだ。あなたに最後の息があるかぎり、神はあなたを死なせはしない。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストのはじめの言葉」の「第六章」より)神様の御言葉に神の権威と愛を見出し、私は心の中で神様に祈りました。「ああ、神様!病気が降りかかり私は少し弱気になっていますが、神様が万物の支配者であり、この病気も神様の手の内にあることを信じています。私は神様にこの身を委ねることを願い、神様は私の柱であると信じています。私に信仰を授け、神様の指揮と采配に従えるようにしてください。」

死が迫り、神様の御言葉により信仰が強固に

   十日以上が経ちましたが、病気は一向によくなりませんでした。ある日、私は急にショック状態に陥って蘇生が必要になりました。病状が悪化しているのを見た娘婿は私を省立病院に移させました。省立病院の専門医が転院の書類を見て集中治療室を手配し、酸素を投与してくれました。集中治療室に入院した患者は皆すぐに死ぬとある患者が話しているのが聞こえました。これを聞いて私は恐ろしくなり、心の中で「医師は私がすぐに死ぬからここに入院させたのだろうか?」と思いました。こう考えていると、死が迫っているように感じ、心の中で訳のわからない狼狽と不安を感じました。その日の午後、一人の男性が病室に運び込まれ、一時間後に亡くなりました。男性が運び出されるのを見た瞬間、自分が死装束を着せられているような気持ちになり、次の死者は私自身だと思いました。考えれば考えるほど、恐怖が増しました。「私は本当に死ぬのだろうか?でもまだ死にたくない、まだしたいことが…」私まったく無力で恐ろしくなり、ただただ心の中で神様に呼びかけ、私の心をお守りくださいと願うことしかできませんでした。そのとき、神様の次の言葉が思い浮かびました。「ヨブが多くの家畜を失い、膨大な家族の財産を失い、体が腫物で覆われたとき、それは彼の信仰があったであった。彼が、わたしヤーウェの声を聞くことができ、わたしヤーウェの栄光を見ることができたのは、彼の信仰によるものであった。ペテロがイエスキリストに付き従うことができたのは、彼の信仰によるものであった。彼がわたしのために十字架に釘づけにされ、素晴らしい証となったのは、彼の信仰によるものであった。ヨハネが人の子の輝かしい姿を見たのは、彼の信仰によるものであった。彼が終わりの日の幻を見たのは、なおさら彼の信仰によるものであった。いわゆる異邦人の国の人々がわたしの啓示を受け取り、わたしが肉となって帰ってきて人々の間で働きをするのが分かっているのは、また彼らの信仰によるものである。わたしの厳しい言葉によって打ち砕かれ救われた者たちのすべてがそうしたのは、彼らの信仰の故ではないのか。人々は信仰を通して多くのものを受けたのだ。彼らが受けるのはいつも…祝福ばかりであるとは限らない。例えば、ヨブの場合は信仰を通して幸いだけではなく、災いも受けた。あなたが幸いを受けようが、災いを受けようが、どちらも祝福されたことなのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(1)」より)

   神様の言葉は私の希望の灯をともし、信仰を授けてくださいました。ヨブやペテロなど、あらゆる時代の聖徒たちに思いを馳せました。彼らがあらゆる試練を受けていたとき、心の奥底まで悲嘆に暮れ、当時は極度の苦痛に苛まれ、神様の御心が理解できませんでした。それでも彼らは真の神様への信仰を持っていました。神様が何を為されようと彼らは不満を口にすることなく、被造物としてしっかりと立ちつつ創造主に従い、最終的には神様の祝福を得て、神様の偉大な力と支配を目にしました。例えばヨブがサタンの攻撃や試みを受けたとき、財産はすべて奪われ、子供たちは大きな不幸に見舞われました。また全身が腫れ物に覆われ、凄まじい苦痛を味わいました。それでもなお神様がヨブの心にはありました。ヨブは唇をもって罪を犯すよりも、自分の生まれた日を呪うことを選びました。そしてこう言ったのです。「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記2:10)ヨブは神様への真の信仰と畏れを持ち続けました。神様が与えようと奪おうと、ヨブはそれに喜んで従い、ついに神様がヨブの前に現れ、彼の神様への愛と信仰は高まりました。あらゆる時代の聖徒たちと私では比較になりませんが、私が病気に罹ったのは神様がお許しになったからであり、何よりも神様の愛によるのです。神様は私に真の信仰とあわれみを授け、神の権威を体験させ、私の中に神様についての真の認識が生まれることを望まれました。私の生死は神様の手の内にあり、神様が最終的な決定権を持ちます。私の心配事はすべて不要なもので、それは神様の支配を信じなかった結果であり、いつも自分自身の強さに頼って物事を支配し指揮したいと考えていた結果でした。こう考えたところ、心がとても落ち着きました。

神様に生死を委ね、神様のわざを目にする

 数日後、家族が病院の専門医と教授に精密検査を行うようにお願いしました。互いに相談してから専門医と教授は私の病気について説明しました。糖尿病に起因する冠動脈閉塞であり、三本の動脈が閉塞しているため早急に手術を受ける必要があること、さもなければいつ死んでもおかしくないということでした。しかし手術を受けたとしても治ることは保証できない、と言われました。

   その後家族は心臓病専門の病院に私を移させました。検査を終えると、医師は今すぐ手術を受けなければならないが、リスクが大きいと告げました。医師によると、糖尿病に起因する心臓障害の手術を行う場合は切開部がきれいに治らないし、開口部が治らない場合、手術を受けなかった場合よりも悪い結果になるであろうということでした。この手術は太ももの血管を移植して心臓周辺の冠動脈の閉塞部位をバイパスさせるもので、手術が失敗すれば一生麻痺が残ることもあります。手術中は常に問題が起きるかもしれず、手術台の上で死ぬ可能性もありました。医師は術後に私が再び目を覚ますかどうかを予想することは難しいと話し、本当に手術を受けさせたいのかを慎重に検討するように家族に求めました。医師の話を最後まで聞いて、娘と娘婿はためらいました。多額の医療費をかけても私が良くなる保証はなく、そうなれば手元に一銭も残らないばかりか、治ることもないのではないかと不安に思いました。夫も神様を信じていたので、私たちの生死は神様の手の内にあることや、最終的な決定権を持つのは人ではないことを理解していました。ですから夫は何のためらいもなく、医師に「手術を行うことだけに集中してください。妻が生き延びるかどうかは病院とは無関係です。私は何が起きても耐えられます」と話しました。そして夫は同意書に署名し、医師は手術の準備を始めました。

   すべての準備が整い、私は手術室に運び込まれました。手術台に横になりながら医師の話を思い、再び心が悲しみと不安でいっぱいになり、こう思いました。「本当に麻痺が残ったとしたら、生ける屍のようになるのではないのか。夫がこれほど年老いた今、私は彼の重荷になるのではないのか。何人か娘がいるけれど、今ではそれぞれの生活があり家庭もある。誰が一年中私の面倒を見れるというの?本当に麻痺したら、自殺の方法を考えなきゃならない!」けれども手術台の上で孤独に死ぬかもしれないとも考え、ますます苦しくなりました。ちょうどそのとき、私は自分の心の状態が間違っていることに気づき、私の心を守り神様の指揮と采配に従えるようにしてくださいと急いで神様に呼び求めました。その瞬間に神様の言葉の一節が思い浮かんだのです。「すべての人間の中で、誰が全能者の目に見守られていないのか。誰が全能者の定めの中で生きていないのか。誰の生と死が自分の選択で訪れているのか。人間は自分の運命を左右できるのか。多くの人は死を求める。しかし、それは彼らからは遠い。多くの人は人生において強くありたいと願い、死を恐れる。しかし、彼らの知らないところで死の時は近づいてきて、彼らを死の淵に陥れる。多くの人は空を見て、深い溜め息をつく。多くの人は激しく叫び、泣いて嘆きの声を上げる。多くの人は試練の中に倒れ、多くの人は誘惑に囚われる。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十一章」より)そうです!私が信じる神様は万物を支配し、人間一人ひとりの運命は神様の手の内にあるのです。各人が生まれる時や死ぬ時は神様によって予め定められているのだから、私の運命も神様によって采配されたのではないでしょうか?私は神様の証しをすると決心していたのに、現実の試練に直面すると自分の生死や未来を心配するようになったことを考えました。死ぬことを恐れ、麻痺が残り他の人の重荷になることを心配し、自ら命を絶つことを考えました。こうすることで、自分の運命を采配しようと願っていたのではなかったでしょうか?これのどこが神様の支配と采配に従うことだったのでしょうか?これは私が神様への信仰を持っていなかったことを示していなかったでしょうか?神様は私に命を授けてくださり、私が生きるか死ぬかは神様の手の内にありました。私は気弱になったり、恐れたり、サタンの欺きの真っただ中で生きるべきではなく、神様への信仰を持ち、神様の方を向き、己の生や死、未来を神様に委ねるべきであることを知りました。これについて考え、心の中で神様に祈りました。「ああ、神様!私はもうじき手術を受けます。まだ不安はありますが、この手術の成功あるいは失敗は神様の手の内にあると信じます。私が生きようが死のうが神様の指揮と采配に従うことを望みます」祈ってからはかなり心が落ち着きました。医師が麻酔をかけ、私はまもなく意識を失いました。

   手術後は観察のため集中治療室に移されました。目覚めたときには既に二日が経過しており、手術は成功で、今やすることは回復だけだと家族は嬉しそうに言いました。これを聞いたとき、私は深く感動し神様の愛にひたすら感謝しました。私が手術を耐え抜き、手術が成功したことは、すべて神様の素晴らしいご加護のおかげであったことは分かっていました!人の生死は神様によって支配されていること、そしてこれは神様の権威の現れであることを心の底から確信しました。

   病気から回復する間、同じ病室の患者が痛みのために大きな叫び声をあげたり、絶えずうめいているのを聞きましたが、私は何の痛みも感じませんでした。切開部の痛みがないのは、完全に神様の奇しいわざのおかげであると心の中で明確に理解しました。私は神様の愛を感じ、心から神様への感謝と讃美が心から溢れ出ました。午後には担当医が私の元に来て、「奥さん、切開部は痛みませんか?不快感はありませんか?」と尋ねました。私は「お気遣いありがとうございます。不快感はまったくありません」と答えました。三日後、順調に回復していることを確認した医師は、私を一般病室に移しました。糖尿病を罹っていない患者が術後に回復して集中治療室から移されるのに四、五日を必要とするのを見ました。それにもかかわらず、高齢で糖尿病を患っていた私が、つまり私の切開部の方がずっと治りにくいのに、手術からわずか三日後には固形食を食べることができたのです。私は他の人たちよりも早く回復しましたが、これはまさに神様の偉大な力であり神様の私への偉大な愛でした。

   その後数日間にわたって、夫はよく神様の御言葉を読み聞かせてくれました。私はその御言葉についてじっくり考え、神様が私に為された救いの御働きについて熟考し、神様の愛がいかに本物であるかを心から感じました。病気に苦しみ生死のはざまをさまよっていたにもかかわらず、神様は常に私と共におられ、私のそばをお離れになることはありませんでした。消極的で気弱になり信仰を失うたびに、神様の御言葉が私を導いてくださり、私に信仰と力を授けてくださいました。堅強な後ろ盾として神様が共におられれば、もはや弱気になったり恐れたりすることはありません。私が心から神様にすがり、完全に神様に身を委ね神様の指揮と采配に従う覚悟をしたとき、神様は私を生かすだけでなく、肉体的苦痛までも軽くしてくださいました。こうして私は神様の奇しいわざを目の当たりにし、神様の愛を感じることができたのです。この経験を通して初めて、今回の神様の受肉はその働きにおいてしるしや不思議を示されないけれど、神様の御言葉の力はしるしや不思議を示す力をはるかにしのぐことに気づきました。神様の言葉はまさに真理であり、人の命になることができ、私たちの行動の原則であり方向なのです。

   しばらくして、切開部は順調に治りました。私と同じ手術を受けた他の患者は未だに動けない一方で、私は夫に支えられながら外を歩くことができました。医師や患者仲間はこれを見て一様に驚きました。私の身体がこれほど早く回復できたのは神様のわざであり、神様の祝福であり、神様の愛であることを私は心の中ではっきり知っていました。神様だけがこのような奇跡を起こせるからです。

   二週間後に退院するとき、医師に言われました。「この病院には同じ病気の患者さんが他に七人いますが、糖尿病に起因するケースはあなただけでした。症状も他の患者さんより深刻でしたが、あなたが誰よりも早く回復しました。本当に驚きましたよ!ただし、心膜にはまだ腫瘤が残っているので、まだ危険はあります。一カ月以内にまた来院して検査を受けてください。腫瘤がまだ大きくなっている場合は、もう一度手術を受けてもらう必要があります」医師の話を聞いても、私はもはや恐れたり不安になることはなく、心の中でこう思いました。「私は重病に罹ったけれど、神様は私を死なせはなさらなかった。私は神様の権威を目の当たりにし、今では神様にすがる信仰心がさらに強くなっている。病気は神様の手に委ね、神様に支配していただこう」その後、医師から薬を処方され、帰宅しました。帰宅後は毎日神様の御言葉を読み、兄弟姉妹と共に神様への讃美を歌い、神様の愛を享受して過ごしました。とても解放されて自由な気分になり、病気のことは頭からすっかり消え去っていました。

   一カ月後に検査のために再び来院すると、あらゆる身体上の指標が正常で、心膜の腫瘤は消えていたのです。またもや私は神様の奇しいわざと私への愛を目の当たりにさせていただきました。

この洗礼の後、以前より力強く未来と向き合う

 帰宅途中の車内で、道の両側に立つ背の高いポプラの木が遠ざかってゆくのを見て、思いました。「これらはすべて神様の支配下にある。一年中風、霜、雪、雨の洗礼を受けて、内包する生命はさらに強く不屈のものになる。私が罹った重病は命の洗礼を受けているようだった。私の神様への愛を清めただけでなく、神様への信仰心も高めた」そして私は神様の次の言葉を思いました。「神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。」(『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より)感動のあまりため息を禁じえませんでした。神様の言葉の権威と力は本当に偉大です!初めに神様が言葉によって天と地と万物を創造されました。神様の言葉によって万物が生き、神様が予め定められた規則の中で一つの世代から次の世代へと増殖します。終わりの日には、神様が人を清め救う全ての真理を表されます。神様の真理は私たちの生存の根源であり、従わなければならない方向です。私が生死の境をさまよっていたとき、神様の御言葉は私に信仰と勇気を与えてくださいました。神様の御言葉により私は病気のあいだにどのように神様にすがり、神様に目を向けるべきかを学び、死の恐怖を乗り越え死という制約を克服するように導いてくださいました。この経験を通して非常に多くのものを得ました。

   私は残りの人生においては神様を信じ、真剣に本分を尽くし、神様の愛と救いに報いることだけを望みます。神に感謝します!


娘の結婚、私はそれに口出しするのを止めます

2020-06-02 00:05:22 | 勝利者の証し

   私は娘の結婚の管理人、彼女が釣り合いのとれた相手を選ぶことをしつこく要求しました

   ある日、私の娘が突然電話をしてきてこう言いました、「お母さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。将来の義理の息子に求める必要条件って何?」

   彼女の言葉を聞いて私の心臓はビックリしました。私はこう思いました、「彼女は今お相手を選んでいるってことかしら?そうならちゃんと検討して自分に合った人を選んでいることを確認しておかなきゃいけないわ。私の夫のことを考えると、彼は大した学歴もないし、私たちが育った家庭環境も違うから、私たちはいつも意見が食い違って、それで喧嘩をしていたわ。人生の半分を喧嘩の多い家庭で暮らしてきたから、私はもうくたくたでがっかり。そんな結婚生活で幸せになれるわけがないわ。だから、娘に私が生きた道を歩ませるわけにはいかないわ。彼女は大学を卒業して、安定した仕事にも就いているから、最低でも学歴と家庭環境が同等で、素養と教養があって、彼女と同じ目標を持っている男性と結婚するべきだわ。そうすれば、彼女は幸せな結婚生活を送れるわ。」

   私はこう考えながら、真面目な口調で娘にこう言いました、「最低でも、彼の学歴はあなたと同レベル、またはそれ以上であるべきよ。彼の家族はそんなに裕福でなくてもいいけど、最低私たちと同じくらいであるべきね。それと、ひとり親家庭で育った人は駄目よ⋯」

   私は自分の考えを一息ですばりと言いました。しかし、娘は私の言葉を聞いた後、「そう、」としか言いませんでした。そして、彼女は話題を変えてしまいました。

 

 

   電話を切った後、私は落ち着くことができませんでした。夜になると、私はベッドの上で寝返りを打ちながらこう考えました、「明らかに、彼女はお相手を見つけているわ、それに電話で私の反応を探っていたわ。彼はどんな人なのかしら?彼が私の条件に合わなかったらどうしようかしら?」私は繰り返し考えました。ついに、私はこれに厳しい注意を払って、彼女の見つけたお相手が彼女と同等の人でなかったら認めない決意をしました。

   しばらくして、娘が電話してきた時、彼女は私にこう聞いてきました、「お母さん、学歴って結婚相手を見つけるのに本当にそんなに大事なの?」「もちろんよ!」と私は何も考えずに答えました。「それは人の文明的な質と資格、それとその人の地位を表すものなのよ⋯」

   私が喋り終える前に娘が割り込んでこう言いました、「お母さん、人の学歴がその人の質と等しいわけじゃないし、高学歴は必ずしも高い質や教養を表しているわけでもないわ。才能はあっても美徳が無いような人はどこにでもいるでしょ?成績が良くても能力が低い人だってあちこちにいるわ。お母さんは私よりも沢山の人に会ってきてるんだから、私よりも良く知ってるはずよ⋯」

   その時、私はもう全くそれ以上彼女の言うことを聞く気分にはなりませんでした。私は彼女の彼氏が私の要求からは遥かに遠いことに薄々気付きました。私は彼の学歴が私の基本要件に及んでいないことが分かりました。そうでなければ、娘が人の学歴はその人の質と資格に等しいわけではないなどと言うはずがないのです。

   私は私の要件通りに夫を選ばなかった娘に激怒してしまいました

   その後、私はこれについて何度も繰り返し考えていると娘のことが心配になりました。そうして、私は娘に電話をかけました。私はこう言いました、「もう私があなたの彼氏のことをどう思っているかなんて聞かなくていいから。彼のことを私に話してちょうだい。」一息おいた後、彼女は彼のことを全て話してくれました。その内容はあまりにもひどく、恐れていたことが現実となってしまいました。この男の子は娘の3歳年下で、中学校の教育しか受けていなかったのです。彼の母親は彼が11歳の時に白血病で亡くなり、それから彼の父親が再婚したので彼は祖父母と一緒に暮らしていたのです。そして彼は娘の務める会社の工業で作業員となっていたのです⋯私は娘の言葉に猛烈な打撃を受けました。私は突然頭痛がして、気を失いそうになりました。私は一瞬どうしたらよいか分からなくなって泣きそうになり、手は怒りで震えていました。私の娘がこのような相手を選ぶなんてことは全くの予想外で、私は彼女に何を言ってよいのか分かりませんでした。

   それまで娘には一度も怒ったことがありませんでしたが、私はわれに返った時、彼女に声を上げて説教をするように言いました、「あなたは私に逆らおうとしているわ!どうして私の言うことを聞かないの?あなたは私があなたの父親と一緒に生活して辛い思いをしているのを見ているでしょう?長年の間、私には不満を聞いてくれる人が1人もいなかったの。だから、あなたには同じ思いをして欲しくないのよ!」私は娘の気持ちを完全に無視して自分の怒りをぶちまけてしまいました。私がとても怒っていたことを分かっていた娘は心配そうな口調で私にこう説明しました、「お母さん、お母さんってば、ちょっと聞いてよ。お母さんが私のために言ってくれていることは十分に分かってるわ、でも信じてよ、彼は本当にいい人なの。お母さん、心配しないで。私は大卒で、洞察力があるのよ。私にとって大事なのは彼の性格なの。彼は私と違って高学歴じゃないし、一人親家庭で育っているけど、彼は大人で安定感があって、正直で誠実、落ち着いてるし思いやりもあるの⋯いつか彼を家に招待するわ。お母さんも彼に会ったら間違いなく気に入ってくれるわ。」

   娘は一生懸命になって私と話をしようとしましたが、私はどうしても聞いていられませんでした。私はもう感情が抑えられなくなり、涙があふれ出てきました。そして、私は心を鬼にして彼女に言いました、「やめて、彼には会いたくないわ。私の言うことを聞かないなら、もう二度とお母さんに電話してこないで!」私はこう言ってすぐに電話を切りました。

   神の御言葉は私の誤った観念を好転してくださりました

   それから何日も経ちましたが、娘は電話をしてこないので私はどんどん悲しくなりました。私は良識があって親思いな娘が私にいろいろ言われたからといって私と縁を切ることはないとよく分かってはいましたが、彼女は自分で決めたことを簡単に諦めないことも分かっていました。これ故に、私は心が痛み、次に何をしてよいのか分かりませんでした。すると、私の言った言葉が頭の中で響き渡りました:「私の言うことを聞かないなら、もう二度とお母さんに電話してこないで!」私はこう思いました:「彼女は自分の決めたことは諦めないわ、でもそれは私が譲歩しなきゃいけないってこと?」私は増々途方に暮れました⋯

   弱くて無力な私は神の前で跪き、涙しながら祈りを捧げました、「ああ、神様!私の娘はあのような相手を見つけてしまいました、私はこれを容認できません。私は娘の結婚生活が私のと同じように不幸にならないかと心配です。ああ、神様!私は今とても辛いです、私があなたの御旨を理解できるよう、どうかお助けください。」

   ある日、私は霊的献身を実践していた時、次の神の御言葉を読みました:「ひどく汚れた国に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、『高等教育機関』で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。」「この邪悪な時世においては、結婚に関して、歪んだ情報に常にさらされ、それにより必要条件がさらに増加し、人間に様々な負担が課せられ、人間の態度が異常になっている。しかし、結婚経験者は、その者が結婚をどう理解しているか、結婚に対してどのような姿勢であるかを問わず、結婚とは個人的選択の問題では無いことを知っている。」

   この御言葉を読んだ後、私は次のことに気が付きました:「サタンに堕落させられて以降、私たちは神からどんどん離れていき、その結果として、今私たちは人生や価値に対して正しい見解を持てておらず、全面的にサタンの哲学を指針として生活しています。‘男は間違った業種に就くことを恐れる反面、女は間違った男と結婚することを恐れる’や ‘同じ社会的階級の家族間における結婚が最適である’ 等、サタンの誤った思考や観念の影響により、私は無意識のうちにこれらを肯定的なものと見なし、幸せな結婚生活の基準としていたのです。」これらに方向付けられながら、私は自分の娘が高学歴で、資格を持った良い家系生まれの相手を見つけることを要求し、私はまたそのような男性のみが素養と教養を持ち、そのような男性と結婚してのみ娘は幸せな結婚生活を送れるとも思っていました。私の娘が私の要求に合わない相手を選んだ時、私は彼女の気持ちを無視し、私の言うことを聞かないと縁を切るとまで言ってしまいました。この私の行動が原因で私たちは2人とも苦しい思いをしました。これは全て私がサタンの観念に束縛され操られていたことが原因で起こったのではないでしょうか?私は神を信仰していながら、神の主権を完全に信じておらず、神の御計画と御采配に従ってもいませんでした。私はサタンの持つ生き方のルールによって深刻なまでに堕落させていたにもかかわらず、それを認識していませんでした。私は極めて盲目で無知だったのです。

   その時、私はこの神の御言葉も目にしました:「結婚は人生における重要な節目である。結婚は人間の運命の産物であり、人間の運命における重要な繋がりである。結婚は人間の個人的な意志や嗜好に基づくものでも、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、当事者双方の運命、双方の運命に関する創造主の采配と定めにより決定される。」「結婚は、当事者双方の家族や、成育環境、容姿、年齢、資質、才能その他あらゆる要素の産物ではなく、むしろ共通の使命と関連する運命から発生する。これが、創造主により指揮され、用意された、人間の運命の産物である結婚の起源である。」

   この神の御言葉を読み終えて、私はやっとこう理解しました:「私は自分の結婚の判断もできないのに、娘の結婚を判断してあげれるはずがないわ。私は本当に傲慢だったわ。結婚は2人の運命に従って神が取り決めるになるものであって、それぞれが役割を持つものよ。各結婚はカップルが共通の目標を持って生じるものであって、外部からの影響が決めるものでなければ、人間の意思や努力で変えられるものでもないわ。これは神の権威で決定するものなのよ。でも、‘同じ社会的階級の家族間における結婚が最適である’といった観念に従って生きていた私は、カップルは学歴と家庭環境が釣り合う場合に限って共通の話題を分かち合って、その場合に限って幸せな生活が送れるものだと信じていたわ。私の考えは神が全てを支配されておられるという事実に背いていないからしら?私は神の主権と采配に抵抗していないかしら?」

   この時、私は今までずっとサタンの結婚における観念を指針に生きながら神に背き、抵抗していたことに気が付きました。これは私を苦しめただけでなく、娘を縛られて抑制された気分にしていたのです。そして、私は後悔の念と罪悪感に圧倒され、こう静かに神に祈りを捧げました、「ああ、神様!私はとても愚かで何も考えていませんでした。私はあなたを信じていながらも、あなたの主権を全く知らず、サタンの毒を指針にして暮らし、学歴が低くひとり親家庭で育った男の子は大卒で立派な私の娘にはふさわしくないと常に思っていました。私はサタンに欺かれ、苦しみの中を生きていました。神様!私は今、自分の結婚であれ、娘の結婚であれ、それは全てあなたが支配し、定めておられ、他の誰かが決められることではないと理解しました。神様!私はあなたの御采配に従います!」

   娘の結婚を神に託す

   私が神の御旨を知った時、心の中に溜まっていたもやがやっと晴れていきました。私は娘の結婚を神に託し、その心配をせずに、神の御計画と御采配に従うことにしました。その後、私は娘の望みを受け入れて、自ら彼氏に会いに行きました。実際に会ってみると、彼女が言っていた通り、彼は良い性格をしていて、大人で落ち着きがあり、特に思慮のある人で、「低学歴でひとり親家庭で育った男の子は力量と教養に欠ける」という私の想像とは違いました。この事実は私の誤った観念に対するはっきりとた切り返しでした。その時、私は自分がこの結婚を邪魔をすることを神の御言葉が時にかなった形で妨げてくださったことをとても幸福に感じました。

   私の娘が結婚した後、私の義理の息子は彼女をとても大切にし、そして愛し、彼らの生活は幸せで恵まれていました。さらに、以前娘が言っていた通り、私はこの立派な男の子がとても気に入りました。特に、意外にも仕事熱心で現実的に働く義理の息子は会社のリーダーと同僚たちから認められ、一般作業員から会社にとって重要な技術員へと昇格し、技術指導を担う正社員となったのです。平凡な男であった義理の息子がこんなに立派になり、娘に対してもとても優しくしている様子を見ていると、私はとても驚かされました。

   これらの事実は、自分の観念がどれだけ不合理で無知であったか、そして自分の想像が真理とは違い、神の御采配と御計画とは正反対であったことを知らせてくれました。これは私の誤った観念に対する強力な切り返しとなりました。サタンが私に植え付けた「同じ社会的階級の家族間における結婚が最適である」といった生存のルールが私を苦しめていたのです。それでもなお、自分の観念を新たに見直し、神を求め、神に従った後、私は神が娘のために用意してくださった結婚は完璧であったことを知り、それと同時に私の誤まった観念も改心されました。私は神の愛と御救いを実際に体験し、神への感謝の気持ちでいっぱいになりました。

   神の御言葉が私の内で成し遂げたことの結果として、私は義理の息子に対する偏見を捨てることができました。さらに、私は神の御采配と御計画に従ってのみ、私たちは心の中で落ち着きと平安を感じることができるのだと心から感じました。これについて、神のこの御言葉があります:「⋯神が人間の運命を統治していることをあなたが真に知り、それを真に認め、自分のために神が計画し、決定した物事の全てが大きな利益であり、大いなる保護であるということを真に理解した場合、その痛みが次第に緩和され、心身共にくつろいだ気持ちになり、自由になり、解放される。」 私は個人的な体験より、サタンが私に吹き込んだ虚偽の観念は真理のみが解決できるものであり、私に光をもたらし、私の心を解放し、自由にしてくれたのも真理であったことを知りました。

   全ての栄光、神様にあれ!