私は幼い頃から母に倣って主を信仰してきました。私は成長する過程で、主は私たち人類の罪を贖うために十字架に磔にされたことを知り、私は深く感動しました。それに、私は主を信仰するようになって以来、主の豊富な恵みを授かり、主をさらに深く信頼することができました。これ故に、私は生涯を通して主に従い、主の愛に報えるよう主の証言をする決心をしていました。
2002年、私はアメリカに移住した後、集会に参加できる教会を見つけ、そこで説教業務に携わっていた兄弟と知り合いました。説教師は誰もが敬虔で、主を愛しているように見えたので、私は自分の抱える問題に関して彼の意見を頻繁に求めました。しかし、驚いたことに、ある夜、彼は私に教会に行って彼への愛を宣言するように言ってから、私を淫らに触ってきたのです。幸運にも、私は素早く逃げ出すことができました。この後、私は、彼は中国で結婚していたにもかかわらず、アメリカでも結婚していたことを知りました。そしてそれにもかかわらず、彼はそのまま同じように私と接してきました。これにより、私は彼の偽善的な本性をはっきりと知りました。私はこう思いました:「彼は説教師なのに、本当にこんなことを犯すなんて、人前と人のいない所では振る舞いが全く違うわ。何て偽善的なんでしょう。これでどうやって主の御名前を讃えるっていうのかしら。」私はこの事態に大きなショックを受け、教会に行くのが嫌になりました。しかし、私は主イエス様に救っていただいたことを考えると主に対する恩義を感じました。この結果、私は時々ながら教会に足を運ぶことができました。
その後、教会の状態はさらに悪化していきました。牧師の説教は同じことの繰り返しばかりで、私たちに何の喜びをもたらすこともなく、教会への寄付に関することが頻繁にその具体的な内容となっていました。信者たちは集会の最中に居眠りをしているか、携帯電話で遊び、快楽に満ちた人生について話すばかりで未信者のような生活していました。この状態を見ていると、私は増々消極的に、そして弱気になってしまいました。結果的に、私は、毎年、寄付をするために1回か2回教会に行く以外は、大抵自宅で祈りを捧げ、聖書を読むことを続けました。時間が経つにつれ、私は魂の中でどんどん暗さを感じるようになり、祈りを捧げても主を側で感じられなくなり、聖書を読んでも啓蒙が全く得られなくなってしまいました。日常生活において、私は主の教えを実践できなくなり、自分の子供に対していつも腹を立て、夫と子供について口論し続けました。私は腹を立ててしまう度に主の前でそれを悔い改め、告白しましたが、その後も繰り返し同じ罪を犯し、回避不能な罪の落とし穴にはまってしまったのです。それは私を本当に悲しませ、落胆させ、そしてそれは私にこのような疑いまでも持たせ始めたのです:「私の主への信仰はどうしてこんなに弱くなってしまったのでしょう?主はどうして私の祈りを聞いてくださらないのでしょう?私はどうして罪から抜け出して変わることができないのでしょう?私はこのような状態で天国に入ることができるのでしょうか?」
私がちょうど憂鬱な気分で途方に暮れていた時でした、私は私の母と義理の姉が世の終わりの全能神の働きを受け入れたことを知り、母の神への信仰は更に強まったため、母が私の父と口論になった時、母は騒ぎ立てずに許すこと、そして我慢することを実践できるようになったと知りました。私は彼女の成し遂げた変化にこう考えさせられました:「全能神の働きは本当に神の働きなのかしら?そうでなかったら、母はこんな変化を遂げることはできなかったはずだわ。」これにより、私は世の終わりの全能神の働きを調べる決意をしました。これを受けて、私の義理の姉は私との交流のために全能神教会の兄弟姉妹を招待してくれました。
集会の最中、全能神教会の張兄弟が教会が荒んだ状態にある理由について交流してくれました:「律法の時代後半において、神殿が荒んだ状態に陥った理由は、一方でユダヤ人の指導者がユダヤ人を神の戒律に従うように導かず、それぞれの勝手な道を歩んだために、神の憎しみと怒りをかってしまったこと。その一方で、主イエス様が新しい働きをされましたが、彼らはそれについて行かず、むしろ彼らは主に反対し、主を非難したことで聖霊の働きの流れから排除されてしまったことがあります。これが、神殿が最終的に家畜を販売し、お金を両替する場へと化してしまった理由です。今日の宗教界が荒んだ状態にある理由もこれと同じです。考慮すべき点の1つとして、牧師と長老たちは、信者たちが真理を理解し、主を知るために主の御言葉を実践して経験するよう導いておらず、むしろ信者を自分たちの前に導こうとして聖書の知識と神学理論を解釈することにしか注目していないということがあります。この結果、信者たちは主を信じていても、主を知らず、主に抵抗してしまう信者となっています。もう1つの点は、神が新しい働きをするために受肉され、聖霊の働きが移行しているということです。子羊の足跡をたどり、神の御言葉の裁きと清めを受ける人のみが聖霊の働きを受けられるのです。世の終わりの神の働きを受け入れない人々は聖霊の働きの流れから排除されてしまうのです。」この言葉を聞いた私は突然光が見えて教会が荒んだ状態にある原因を理解しました。その後、張兄弟は主が再臨される方法についても交流し、主の再臨の預言は既に成就しており、人間を裁き、清める働きをするために700万の御言葉を表された主イエス様の再臨、すなわち肉となられた他でもない全能神を目撃したと言ったのです。これらの交流はとても素晴らしく聞こえ、私は大いに霊的な備えを得ました。私は長年主を信仰してきた中で、ここまで素晴らしい説教は聞いたことはありませんでした。この説教は教会の牧師の説教を遥かに上回っていたのです。次回私はこれを慎重に聞く必要があります。
そして、張兄弟は私とこのように交流してくれました:「私たちは皆、主を信仰してはいますが、それでも罪を頻繁に犯さずにはいられなくて、罪の中を生きることから抜け出せないということを経験しています。これは何故かと言うと、私たちはサタンによって深刻に堕落させられていて、誰もが傲慢、偽り、身勝手、貪欲等といったサタンのような本性を持っているからです。これらサタンのような本質は既に私たちのいのちと化しているのです。こういったものに指示を受ける私たちはお互いに対して真の辛抱強さや寛容を持っておらず、自分の意図に合わないものがある度に腹を立てる傾向にあり、頻繁に嫉妬と憎しみに悩まされています。自分たちの利益を守るため、私たちは頻繁にお互いに嘘をつき合い、騙し合い、自分たちの信仰の中で神と取引を行うこと等もできてしまうのです。私たちがこのように罪を犯す根源は私たちが持つサタンのような本質にあり、これは、解決しなければ、私たちは罪をお許しいただいているにも関わらず、私たちが罪を犯し、神に抵抗し続けるようにするのです。こんなことをしていて、私たちは天国に行ける何の資格を持っているというのでしょう?これ故に、主イエス様はお戻りになると仰ったのです。実に、主の来臨は人類を完全に清め、救う働きをするためなのです。
次に、張兄弟は神の御言葉からこの2節を読んでくれました:「当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じている限り、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということであった。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。」「人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神を退ける性質が既に存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。あまりにも汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清められることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、聖くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。」
張兄弟はこう交流してくれました:「神の御言葉は、主イエス様は当時贖いの働きをされたこと、そして主は十字架への磔によって人間の罪を背負ってくださったため、私たちは又罪を犯すことがあっても、主イエス様の前でそれを告白し、悔い改めてさえいれば、許していただくことができ、律法によって有罪とされ死刑になることはないと示しています。主は私たちの罪をお許しくだりましたが、それは私たちが罪深くなく、汚れていないという意味ではありません。
私たちは依然としてサタンの堕落した性質をもっており、それはいつでも、何処でも、私たちが罪を犯し、神に抵抗して逆らうようにすることができるのです。聖書にはこう記されています:「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブル人への手紙 12:14). お分かりの通り、私たちは罪の中を生きて、清められていない場合は、主を目で見るに値しないのです。それは主が聖なるお方だからです。これ故に、私たちは罪深い本性を捨て、清めを受けた場合に限って神の御国に入ることができます。罪深い本性を捨てるためには、世の終わりの神の裁きの働き、および神の御言葉による刑罰を受ける必要があります。こうしてのみ、私たちは自分の堕落した性質を知り、それを神の御指導の下で捨て去り、そして真の人間らしさを貫いて、神に従い、神を畏れる人になることができます。こうしてのみ、私たちは神の御国に救い入れていただけるのです。」
私はうなずいて賛成し、張兄弟にこう言いました:「兄弟、あなたの仰っていることは真実です。私は長年に渡って主を信仰しているのに、自分が罪を犯すのを止められません。主は私たちに寛容で我慢強くなることを教えてくださりましたが、私は主の御言葉を実践できませんでしたし、いつも怒りを露わにし、その後主に祈り、自分の罪を悔い改めましたが効果はありません。今、私はこれがはっきりと解りました。主イエス様は贖いの働きをされ、私たちは主を信仰すれば罪の赦しを得ることはできますが、私たちの罪深い本性は残ったままなのです。従って、私たちは罪を犯し、神に反対せずにはいられないのです。」「その通りです。」張兄弟は続けてこう言いました:「これで私たちは主を信仰しても、罪を許していただけるだけであるということが分かりました。罪深い本性を捨て去りたいのであれば、私たちは世の終わりに、神に裁きと清めの段階の働きを実行していただく必要があり、その場合に限って私たちは罪から完全に救われることができるのです。」
続く…
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