賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

就職のために祈り、神の御業を目の当たりにした

2020-07-11 23:15:38 | 信仰生活

   日本は実に良い国だと前から聞いていました。2015年4月に日本に渡り、そこは環境も良く、人々もとても礼儀正しく友好的だとわかると、日本で仕事を見つけて定住できればという思いが募りました。

   しかしそれから、日本で既に働いていた人から、外国人がそこで仕事を見つけるのはとても難しいが、不動産屋の資格が得られればもっと見つけやすくなると聞きました。そのため語学学校を卒業した後、就職と専門資格に重点を置いた経済学を迷わず専攻し、特に不動産屋の資格取得を専攻目標としました。しばらく勉強に励んだ末、ようやく試験に合格しました。

   就職の機会を増やすため、不動産業の免許以外にも様々な資格の試験を受け、私の履歴書の内容は更に充実しました。履歴書を見ながら、「不動産会社どころか、他の会社もこれだけの資格証書を見たら絶対雇ってくれるはずよ」と思いました。そう思うと最高の気分でした。

   自信満々に履歴書を数ヶ所の会社に送って求人に応募しましたが、意外にも手元に届いたのは却下通知の連続でした。愕然とし、「でもこんなに資格があって中国語が話せて、海外の企業で翻訳の協力もできるのよ。不動産会社なら、本物の不動産屋の資格者が必要じゃないの。どうして面接の機会もくれないのかしら」と思いました。ひどく気を落とし、「これだけの資格を取るのにもうこんなにがんばってきたのよ。それでも就職できなかったら、他にどんな方法があるの」と感じました。誰かにバケツ一杯の冷水を掛けられたような気分になり、今までの情熱がかなり冷めていきました。就職できるはずだという自信はやがてすっかりなくなりました。

   私が気づかないうちに、就職の絶好の時期は過ぎ去り、多くの会社では募集が止まり、外国人を必要とする会社はもっと減りました。それでも私は今までの努力を無駄にしたくなかったので、学校の先生たちに外国人を雇っている会社はないか聞きに行きましたが、就職先がなく、結局はとてもがっかりしました。まもなくして、うちのクラスで私ともう一人の留学生以外は全員就職したことを知って一層苛立ち、「このままで就職できるの。日本に居られるかしら」と将来のことを心配せずにはいられませんでした。

それから二週間ひたすら履歴書を送り続けましたが、何も起こりませんでした。この事態にはとても落胆して困惑し、「仕事が全然見つからなかったらどうしよう」と思いました。そのことを考えれば考えるほど不安になりました。その時、神のことを考え、急いで神の御前に出て祈り、私の不安な心を静めてこの逆境を乗り切らせてくださいと願いました。翌日、教会の姉妹の一人に会いに行き、自分の仕事探しのことで相談しました。私の話を聞いてから、彼女は神の御言葉の一節を読んでくれました。「大学で有利な学部を選択し、卒業後は満足できる職に就いて、人生の旅路の第一歩で成功を収める者もいる。様々な技能を学んで身に付けたが、自分に適した職や役職を得られず、ましてや経歴を積むなど問題外で、人生の旅路に就いてすぐに、何をしても挫折感を味わい、様々な問題に悩まされ、先行きが暗く、人生が不確かな者もいる。……自分の夢と直面する現実には常に差があり、物事が自分の思い通りになることは決して無い。そうした現実に直面するので、人間は決して満足することが無い。自分の暮らし向きや将来のために、考えられ得る限りの手を尽くし、大いに努力し、大いに犠牲を払って自らの運命を変えようとする人々もいる。しかし、自らの多大な努力により自分の夢や願望を叶えられたとしても、結局のところ自分の運命は変えられず、いかに根気強く努力したとしても、宿命により決められた物事は超越出来ない。能力や知能指数、意志の力の差異に関係なく、人間は運命において皆平等であり、偉大か取るに足りない人間か、背が高いか低いか、高貴か下賤かによる差別は無い。ある者が従事する職業、ある者の生業、ある者が生涯にわたって蓄える富は、その者の両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められている。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より)

   姉妹はそれから次のように交流てくれました。「私たち人間の運命と将来は神が司り、采配しておられ、私たちがいつ就職できるかもすべてずっと前から神が予定されています。単に私たちがどれだけ働くかといった外界の要因で決まるのではありません。たとえば周りの人たちを見てください。勉強に励んでさまざまな修了証書を手にする人もいれば、留学する人もいますが、それでも卒業してからは無職のまま実家で暮らし、適職が見つからないことがあります。一方、学業の成績は平凡で教養は高くなくても、何らかの特別な能力があるため良い仕事が見つかる人もいれば、自営業者になる人さえいます。このことから、私たちの運命と将来は神が司り、采配しておられ、私たち次第ではないことがわかります。しかし、私たちは神の主権を認識しないため、たとえ神を信じていても、心から神に祈って頼ることも、仕事探しを神に任せることも、神の主権と采配に従うこともありません。むしろ自分には多くの資格と証書があり、中国語が話せて外国語を翻訳できるのだから、自分の知性と素質だけで良い仕事が見つかると思っています。それは神に反抗していないでしょうか。仕事探しの際に、壁にぶつかったり、挫折に遭ったりすると、私たちは神の御心を求めず、それどころか消極的になって失望し、苦悩に生き、その道を長くたどるほど心が迷います。実際には、このような状況が私たちに降りかかるのをお許しになるのも神であり、そこには神の厚意が一層強く存在します。神はこれらの挫折と失敗を用いて、私たちが自分を省みて知り、そのような状況で神の主権を経験して認識し、万事において神に頼ることを学び、神の支配と采配に従うように促しておられます。ですから仕事を探すときはより頻繁に神に祈って頼り、神の導きを求め、神が自分に采配されることは常に自分に丁度良いことであり、ただ落ち着いて受け入れればいいのだと信じなくてはなりません」

   私は姉妹の交わりを聞いた後、私たちがどのような職業にありつくかは神が予定しておられるのだと理解しました。それまでの私は神の主権を認識せず、むしろ自分は中国語が話せて日本語も少し話せるのだから、こんなに資格と証書があるのだから、仕事を見つけるのは楽勝だと常に信じていました。しかし結局のところ、長いこと努力しても面接の機会さえ与えられませんでした。壁にぶつかって挫折したときは意気消沈し、この苦痛の原因は、私が神の主権を認識しなかったこと以外にありませんでした。このことを悟ると解放感が大いに増しました。

   後で神の御言葉をもう一節読みました。「人は大半の時間を無意識の状態の中で過ごしています。神に頼るのが正しいのか、それとも自分に頼るのが正しいのかを知らないのです。そうして大半の時間、自分に頼ることを選び、また自分の周りの有利な環境や条件、自分にとって有利な周りの人や出来事や物事に頼ることを選びます。これが、人が最も得意とすることです。人が最も苦手とするのは、神に頼って神を仰ぐことです。なぜなら、神を仰ぐのはあまりに面倒だと感じているからです。そのような人は神を見ることも感じることもできず、そうするのは漠然としていて現実的でないと思います。ゆえに、人はこの課程において最低の成績を残し、そこへの入りもこの上なく浅いものになります。どのように神を仰ぐべきか、どのように神に頼るべきかを学ばなければ、神があなたに行なう働きも、神があなたに与える導きと啓きも見ることはありません。これらのことが見えなければ、『神は存在し、人の生活の一切を導く』という言葉に心の奥底で疑問符をつけ、句読点や感嘆符で終わらせることはありません。『神は人の生活の一切を導きますか』『神は人の心の奥底を観察しますか』などと質問するのはなぜですか。それは心から神に頼ることも、神を仰ぐこともしないからであって、ゆえに神への真の信仰を生み出すことができないのです。神への真の信仰を生み出せなければ、神が行なうあらゆることにいつまでも疑問符が残り、句読点で終わることはありません」(『キリストの言葉の記録』の「信者はまず世界の悪しき風潮を見通さなければならない」より)

 神の御言葉のことをじっくり考えたとき、私は自分が神を信じていながら、万事において神に頼って神を仰ぐことにも、神の働きを実際に体験することにも関心がなかったと悟りました。むしろ自分の知性と素質に頼って行動したため、神の主権の真の理解と認識がなく、自分の神への信仰がうわべのものに過ぎず、本物ではなかったのです。このことの理解に至ったとき、この状況が私に降りかかるのを神がお許しになったのには正に神の厚意がこめられていると悟りました。神はこの逆境を用いて、私が御前に戻り、自分を省みて知るようになさり、私が神に頼って神を仰ぐことを学び、この現状の中で神の働きを体験して神の主権を認識することで、神への真の信仰を得るようになさったのです。神の御心を理解すると、神への感謝に満たされました。仕事探しを神に任せて神に頼ろうという気持ちになり、仕事が見つかっても見つからなくても神の支配と采配に従おうと思いました。

   翌日、私はいつものようにネットで仕事を探し始め、留学生を雇っている不動産会社をたまたま見つけました。更に、場所が東京の都心で、決められた休暇があり、残業が基本的にない会社でした。この仕事なら教会の集会への参加と両立できます。私にとって丁度良い仕事でした。「神がこの仕事を用意してくださったのかしら。とにかく応募してみよう」と思いました。それでこの会社に履歴書を送り、思いがけないことに、数分後にその会社から面接への電話がありました。電話が終わった後、私はただ神に感謝するばかりで、神に仕事探しを任せ、神に頼ってその主権と采配に従う気持ちになったとき、神は本当に道を開いてくださったのだと悟りました。

   しかし、興奮しつつも再び不安になりました。私は子供の頃から内向的な性格だったので、人と話すのが苦手で、会話ではいつも苦労していました。以前面接があったときは、質問される可能性のある事柄のリストをいつも作って覚え、完全に準備ができたときだけ冷静に面接に臨むことができました。それでも自信のなさと神経質のせいで、いざ面接になると覚えたことをすぐに全部忘れてしまいました。今回の面接は急に入って来たので、私は何の準備もしていませんでした。その時、自分が心配と不安の状態にあることに気づいたため、急いで神の御前に出て祈り、神の導きを求めました。そしてこれらの御言葉が思い浮かんだのです。「この世における生活では、孤独ではない。人間には、神の配慮があり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく……」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より)「そうだわ」と思いました。「神がすべてのものを支配し、管理され、毎日私たちの生活を導かれる。私たちの信実な後ろ盾と支えでいてくださる。私はこの面接に一人で行くけど、神が私とともにおられ、導いてくださるのだから、何を心配しているの。心から神に頼る限り、神は私を先の道へと手を引いて導いてくださる」その時、モーセがイスラエル人(びと)をエジプトから連れ出した聖書の話を思い出しました。神がモーセに呼びかけられたとき、モーセは言葉が出るのが遅く、話すのが苦手だと名言しましたが、そのことで心配したり、恐れたりはしませんでした。なぜなら、すべてが神の御手の中にあり、 神が自分の手を引いて導いてくださるとわかっていたからです。そのため自信を持って神からの使命を受け、神に頼ってイスラエル人(びと)を無事にエジプトから連れ出しました。このことを考えると、私の心の中に強さと自信が急に湧いて来ました。「神は私の後ろ盾と私の支えなのだから、神に頼って信仰に頼り、神の主権を経験して認識し、従わないといけない」と思いました。

   面接の前に、私は絶えず神に祈り、手を引いて先へ導いてくださいと願いました。神のおかげで、面接が始まったとき、私はあまり緊張しすぎず、面接官とうまく話せました。その日に早速面接官から合格の連絡があったので、二次面接のアポイントを取りました。

   帰り道で、私は神への賛歌を歌い、とても意気軒昂でした。心から神に頼り、神に目を向けるとき、神が御言葉を用いて手を引き、導いてくださり、すぐそばにおられることを実感させてくださることをこの体験から知りました。神に拠り頼んだとき、神について何の疑念もなく、信仰が高まりました。

   面接にはいくつか段階があり、二次面接に合格してからすぐに三次面接に案内されました。三次目の面接官は二人の部長であり、面接官の役職が毎回上がっているのに気づくと再び不安になりました。「今度の面接官は二人の部長で、きっとすごく条件が厳しいわ。うまくやらなかったら、この二人の一存で落とされて振り出しに戻ることになる。神に頼ることはできるけど、結局のところ、私は日本語があまり流暢じゃない。そんな私をわざわざ雇ってくれるかしら」そう思えば思うほど自信がなくなり、間違いなく落ちるだろうと感じました。

   面接の日が来ると、私はますます不安になり、まったく落ち着けませんでした。自分の状態がよくないことに気づいたので、急いで教会の姉妹にメッセージを送って悩みを伝えました。彼女はそこで神の御言葉の次の一節を送ってくれました。

   「神は人間の唯一の主であり、神は人間の運命の唯一の主である。したがって、人間にとって自分の運命を決定し、支配することは不可能である。その者の能力が如何に優れていても、その者は他人の運命に影響を与えられず、ましてや指揮したり、予定したり、制御したり変更することは出来ない。人間のすべてを支配するのは、唯一無二の神自身のみである。なぜなら、人間の運命に対する統治を担う唯一の権威があるのは神のみであり、したがって創造主は人間の唯一の主だからである」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より)

 姉妹は次のように交わってくれました。「神は創造主であり、神だけが人間の運命の主(あるじ)です。神の権威は唯一ですから、どれだけ有能な者でも、どれだけ力強く、どれだけ地位が高い者でも神の主権を絶対に超えることはできません。実際のところ、面接に合格できるかどうかは、面接官にかかっているのではなく、神にかかっています。それでも私たちは権力と地位を持つ人に制約され、束縛されており、そのような人の決定を最高の権威とみなしています。このことから、私たちは心の中に神の居場所がなく、神の権威を認識しておらず、それだけが私たちの心配と恐れの原因だということがわかります。洁(ジエ)净(ジン)さん、神は創造主であり、万物は神の手の中にあると信じなければなりません。今日、私たちは実際に神の権威と御業を体験して感謝し、こうして体験すればするほど、神の御業を目の当たりにし、神への信仰が伸び続けます。そうして初めて神への真の信仰が私たちの中に生まれるのです」

   神の御言葉を読み、姉妹の交わりを聞くことで、私は心配も恐れもしなくなり、自分が自信をなくしたのは、心に神の居場所がなかったからに過ぎないと悟りました。また、神が私の運命を支配される者であり、私がその役職に選ばれるかどうかは神次第であり、どんな人にも決められるものではないことがわかりました。神を信頼し、支配と采配に従わなければならないことがわかったのです。そう思うと、すぐにこの上ない安心と安らぎを感じ、肩の上にのしかかっていた緊張が急に解けていきました。

   再び心の状態が正されてから、落ち着いて面接に行くことができました。面接では質問の意味が理解できないことも、日本語がすらすら出て来ないこともありましたが、合格するかどうかは神の御手にかかっており、自分はただ最善を尽くせばいいのだと心に留めておきました。その時、自分にはたどるべき道があるように感じ、もはや戸惑いも緊張もありませんでした。数日後、会社からメールで、三次面接も合格で、次は社長との面接があるという通知がありました。私は有頂天になりました。この体験により、神の御言葉の権威を実感しました。そして、神の御言葉に従って実践する限り、神の不思議な御業を目の当たりにできると知りました。

   次に、社長との面接がありました。私はまだ少し緊張していましたが、それまでの面接の経験を通して、神の不思議な御業を目の当たりにしており、神が私のそばにおられ、私を前進へと導いてくださっていることをすでに理解していました。そのため神に祈りを捧げました。「神よ。ご承知のように、私はあまり口がうまくなく、洞察力と勇気に欠けています。ありとあらゆる人、出来事、物事、状況の中で御働きと御言葉を体験できるように、信仰と力をくださるようにお願いします。すべてを御手の中にお任せします」そう祈ると徐々に落ち着きました。面接中もずっと心地よい気分で、身も心もかつてない解放感を味わいました。驚いたことに、面接が終わってたった数分後、人事部長から採用の内定と、給料は優遇するという連絡を受けました。この結果を見て、私はとても興奮し、目が涙であふれ、これはすべて神の不思議な御業だと悟りました。

   仕事を探し始めたときから今までのことを振り返り、神が信実であってすぐそばにおられ、施しと導きをくださっていることを実感しました。私たちは心から神に頼って仰ぎ、どんな人や出来事、物事や状況に出会っても神の働きと御言葉を体験する限り、神の不思議な御業を目の当たりにすることができます。神に感謝あれ。この仕事探しの経験において、私は良い仕事を得ただけではありません。更に大いなる収穫は、神の主権についての真の認識を得て、神への信仰が高まったことです。これからの人生の経験では、神がそばにおられ、御言葉の導きがあるのだから、どんなことにももっと勇気と自信を持って向き合えるだろうと信じています。


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