賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

どう用意すれば主の再臨を迎えられるか

2019-04-23 08:51:47 | 信仰生活

寄稿家:ダ・ヂャオ

  今日、世界中では様々な災害が勢力を増し、主の再臨をうたう預言の多くが基本的に成就しています。私たちクリスチャンは、主が来臨して私たちを携挙してくださることを早る思いで心待ちにしています。私は主イエス様のこの御言葉を考えることがあります、「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイによる福音 24:44)。主はこう言って、私たちが主の再臨をお迎えできるよう、冷静に準備をしておく必要があることを喚起してくださっているのです。しかし、それは実際どのように行えばいいのでしょうか?

1.霊的耳で聞く準備をして、主の御声を聞くことを学びましょう

  ヨハネの黙示録にはこの預言が何度も出てきます、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 2:7)。 そして、主イエス様はこう仰りました、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)。 聖霊が教会に語られる御言葉を聞けるよう、私たちは注意を集中させる必要があることをこの2節は喚起してくれています。主が「戸を叩かれる」時、私たちは主の御声を聞くことに注意を集中させる必要があり、主の御声とは神の御言葉を意味しています。主イエス様はかつてこう預言されました、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。この御言葉から、主は再臨される時に御言葉を仰せられ、働きをなされ、奥義を全て明らかにされ、私たちが理解していない真理を全て語られ、私たちが真理を全て理解して、その全ての真理に入れるようにしてくださるということが分かります。主イエス様はかつて「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネによる福音書 14:6)、と仰りました。真理は神から出るものであるため、主の再臨は必ず人々に真理をもたらし、人々にいのちを与え、人々に道を示してくださるということが分かります。従い、主の再臨を待つにあたり、私たちは「霊的耳」を使う準備をする必要があり、神の御声を認識できるということが特に重要になります。

どう用意すれば主の再臨を迎えられるか

  聖書には主イエス様が弟子たちに語られたたとえ話も書かれています、天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。」(マタイによる福音書 22:2-3)。そしてヨハネの黙示録にはこう記されています、「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて」(ヨハネの黙示録 14:6)。神は終わりの日に神の僕をつかわして、私たちを宴にお招きくださると、主は私たちに伝えておられます。すなわち、神は神の御使いをつかわして、主の再臨の知らせを告げ、私たちに永遠の福音を説いてくださるのです。私たちは謙虚に探求して調査することができれば、彼らの証言することが神の御言葉であり、主の御声であることを受け入れ、それに従うことができれば、再臨される主をお迎えすることができるでしょう。

2.虚心に真理を求める心を持ちましょう

  主イエス様は仰りました、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイによる福音書 5:3)。「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」(マタイによる福音書 5:6)。「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」(マタイによる福音書 5:8)。「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(ルカによる福音書14:11)。ここでは、神を喜ばせるのは謙虚な人間であり、謙虚に真理を求め、神に従う人であるということが分かります。特に、主の再臨という重大な事柄において、主が再臨されたと誰かが私たちに証言する時、そしてその人が主の御声を聞いたと証言する時、私たちはその人に対して謙虚な姿勢をとる必要があります。私たちは好奇心のある、謙虚な心で調査して、「霊的耳」を使ってそれが主の御言葉であるのかどうかを聞き分ける必要があります。「冷静に準備する」とは正にこういうことです。神は私たちをお導きくださり、私たちが神の御声に気が付き、神の再臨をお迎えできるようにしてくださると、私は信じています。宦官であるエチオピア人は地位が高く、名声もありましたが、謙そんしてピリピに助けを求めることができました。彼はピリピの交流と証言の中で、神の御声に気付くことができ、その結果、主イエス様をお迎えすることができました。ニコデモもまた、主イエス様に関する話しを耳にして、主イエス様から真理を求めることができました。彼は主の御言葉から再生に関する奥義を理解しました。このような例は数多く存在しています。

  従って、主の再臨をお迎えするには、虚心に真理を求める心を持ち、神の御声を聞くことを学び、神の御言葉にある神の御声を認識し、子羊の歩みについて行く必要があるのです。私は神を心から信仰し、神の来臨を切望する兄弟姉妹全員が近い将来に主の再臨をお迎えできることを願っています。

 

真のキリストと偽キリストを見分ける3つの方法

2019-04-21 06:39:00 | 信仰生活

寄稿家:クオヂャン(カナダ)

  主イエス様は仰りました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25章6節) 「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3章20節)。 主の御言葉から、私たちは誰かが主の来臨の知らせを伝導するのを耳にする時、賢明な処女となって、それを積極的に探究し、調査するべきだということが分かります。私たちはこうしてのみ主の再臨をお迎えすることができるのです。しかし、牧師たちは、「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24章23-24節)、という聖句を理由に、「主イエス様が再臨されたと宣教する人たちは偽キリストの道を宣教しており、人々を惑わせているので、信じてはならない」、といつも私たちに言います。これ故に、兄弟姉妹の多くがこのように困惑しています。「私たちは主イエス様の再臨を証言する人を耳にする時、前向きにそれを探求して調査するべきなのでしょうか、それとも、それを避けて拒むべきなのでしょうか?主の御心に従うには、何をするべきなのでしょうか?」この疑問について、私は真キリストと偽キリストを見極める方法に関する真理について、皆と交流したいと思います。この側面の真理を理解してさえいれば、私たちは偽キリストと偽預言者たちに惑わされる心配はないですし、消極的な守りの姿勢に入って主の再臨をお迎えする機会を逃すこともないでしょう。

真のキリストと偽キリストを見分ける3つの方法

  先ず初めに、この御言葉を読んでみましょう。「受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」(「序文」より)。 これらの御言葉は、偽キリストたちを見極めるには、彼らの外見ではなく、彼らの本質に注目する必要があると明確に語っています。すなわち、彼らを見極めるには、彼らの働き、言葉、そして性質に注目する必要があるのです。では、主イエス様の御言葉を幾つか読んで、真キリストと偽キリストの実質的な違い、ならびに彼らの見極め方について話しましょう。

第1に、私たちは彼らの働きを見なければなりません

  主イエス様は仰りました。「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24章24節) 主の御言葉は、偽キリストと偽預言者たちは、主として、しるしと奇跡を行って神の選民たちを惑わそうとすると示しています。これが偽キリストが人々を惑わす最も基本的な方法です。次の節を読めば、この問題をより明確に理解できるでしょう。「この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪霊を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。…人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、神は今回決してそのようなことはしない。もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。」(「今日の神の働きを知るということ」より)。

  神は常に新しく、決して古くない、そして同じ働きを繰り返されることがないということをこの節は明確に語っています。これは、主イエス様が働きをしに来られた時、律法の時代に律法を発布する働きを繰り返えさずに、恵みの時代を開始され、人類の罪を贖う働きをされたのと同じです。主は人間に悔い改めの道を備え、病人を癒し、悪霊を追い出し、最終的には人間のために十字架につけられて、人類の罪を贖ってくださりました。なので、主イエス様は終わりの日に再臨なさる時も、新たな時代を開始され、新たな働きをなさり、既になされた働きを繰り返されることはありません。そして、偽キリストはどうかといいますと、彼らは皆、キリストを装う悪霊です。彼らは新たな時代を迎え入れ、古い時代の幕を閉じる働きはできません。彼らは、混乱して識別力のない人たちを惑わすために、単純なしるしと奇跡を行って主イエス様のふりをすることしかできないのです。しかし、彼らは、主イエス様がなされた様に、死者を蘇らせたり、5000人を5つのパンと2匹の魚で食べさせたり、風と海を叱るということはできません。こういったことは、彼らの能力の域を完全に超えています。なぜなら、彼らは神の権威と御力を持っていないからです。従って、新たな時代を開いて、古い時代を完結できる御方が真キリストであり、それができずにただ神のすぐ後について、神が既になされた働きを真似ることしかできない人たちは間違いなく偽キリストなのです。

第2に、私たちは彼らの話す言葉に注目しなければなりません

  主イエス様はかつてこう仰りました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14章6節) キリストの仰せられる御言葉はその全てが真理であり、それは人間にいのちを与え、人間のために歩むべき道を指し示し、人間のいのちを構成し得るということが分かります。それを証明するものとして、主イエス様は働きをなさっておられた時、人類が必要としていたことに応じて悔い改める道をお見せになり、人々に自らを愛する様に他人を愛して他人を幾度となく許すことを教えられ、そして自らの罪を言い表して悔い改めることも教えられ、律法の下で暮らしていた人々に新たな実践の道を指し示してくださりました。

  主イエス様はこうとも仰りました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16章12-13節)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2章7節)「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる。」(ヨハネの黙示録5章5節)これらの節より、主は終わりの日に来臨される時、私たちが理解できない真理をたくさん仰せられ、巻物を開いて7つの封印を解かれるということは明らかです。主イエス様の再臨に関するこれらの預言からすると、真キリストは来臨される時に真理を表すことがおできになるのだと、私たちは確信を持つことができます。これに間違いはありません!他の御言葉の節も読んでみましょう。「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストを騙る者はみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。」(「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より)。

  これらの言葉より、キリストは受肉された神御自身であり、肉として顕現された神の御霊であり、キリストは人間に備え、人間を導くために、いつどこでも、真理を表すことがおできになるということが分かります。一方の偽キリストは、その殆どが悪霊に取り付かれています。本質的に、彼らは真理をほんの僅かも持たない悪霊であり、悪魔であります。これ故に、彼らはどのようにして聖書を誤解したり、意味深い知識や理論について語ったとしても、人々を惑わし、傷つけることしかできないのです。彼らが行うことで、私たちにとって啓発的なことは何1つありません。彼らは永遠と私たちの心に闇をもたらすだけで、私たちに歩む道を残さず、最終的には私たちを滅ぼしてしまいます。キリストのみが真理、道、そしていのちであります。従って、真理を表し、私たちに道を示し、いのちを与えてくださる御方がキリストであり、自らをキリストと名のりながら真理を表すことができない人たちは間違いなく偽キリストなのです。これが偽キリストと偽預言者を識別するための基本原則です。

第3に、私たちは彼らが表す性質に注目しなければなりません

  主イエス様はかつてこう警告されました、「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。」(マタイによる福音書24章5節)。 主イエス様はこの節の中で、私たちに偽キリストのもう1つの特性を教えてくださっておられます。彼らは皆、傲慢でうぬぼれた性質を持っており、人々から神として崇拝されることを狙って人々の前で自己顕示し、自らをキリストであると宣言することを好みます。

  次の御言葉の節を読めばもっと深く理解できるでしょう。「偽りの多い偽キリストであればあるほど自己を誇示し、人を欺くしるしや不思議を多く行うことができる。偽キリストたちは神の性質を持っていない。キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。神は肉の働きを全うするためだけに肉となるのであり、人間が神を見ることができるように肉となるのではない。むしろ、キリストは働きを通して身分を明確にし、自身の現すものによって自身の本質を証明する。キリストの本質は根拠のないものではない。キリストの身分は自身の手によって握られてはいなかった。それはキリストの働きと本質によって決定される。」(「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」より)

  この節より、こういった者たちは偽キリストであるからこそ、人々を惑わすために増々人々の前で自己顕示をするようになる反面、キリストは御自身の働きによってその身分を宣言されるということが分かります。主イエス様が働きをされた時も同じで、主は病人を癒し、悪霊を追い出さし、5000人を5つのパンと2匹の魚で食べさせ、そして死者を蘇らせました。人間は主のことを知りませんでしたが、主の権威と御力が主の身分を受肉された神御自身であると証明したのです。なぜなら、神以外にそのような権威を持つ御方は存在しないからです。従って、キリストは働きをしに来られる時、決して自分が神であり、キリストであることを声に出して言われたり、自己顕示をされることはありません。むしろ、キリストは人間たちにそのいのちが必要とするものを備えるために、謙遜して肉の中に身を潜めながら働きをされ、御言葉を仰せられます。そして、それは神のいのちの最高に尊く、聖なる本質を証明しているのです。しかし、偽キリストたちはいつも自分たちがキリストであると声に出して主張し、彼らの言うことを聞かないと天国に入れないなどと破廉恥なことを言う人たちすらいるのです。彼らは人々を自分たちに会わせるために出来る限りのことを行ったり、人々を騙すためにしるしと奇跡を行います。この実例は本当にたくさん存在しています。これ故に、真キリストと偽キリストを見極めるためのもう1つの重要な原則は、彼らが表す性質に注目するということなのです。

  兄弟姉妹たちの皆さん、上述した内容が真キリストと偽キリストを見分けるための3つの原則です。私たちはこの3つの原則を理解してのみ、偽キリストに惑わされるのを妨げ、賢明な処女になって主の再臨をお迎えすることができるのです。

  脚注:a. 原文では「~かどうかに関しては」と書かれている。


神の導き-誘惑に打ち勝つための2つの秘訣を教える

2019-04-20 15:16:35 | 信仰生活

  【編集者メモ】この社会には、邪悪な風潮がはびこり、私たちはいつも誘惑に負けて、罪を犯さずには生きることができません。その結果、私たちは神から忌み嫌われ、霊が暗くなっています。ならば、私たちはどうすれば誘惑に打ち勝って、神の導きと加護を受け続けることができるのでしょうか。

第1に、いつも神に祈りを捧げ、神の御前で生きることで、積極的に誘惑から距離を置く

  この物質主義で、お金中心の世の中、特に高級ホテルや高級レストラン、カラオケ、その他の娯楽の場はサタンの誘惑で満ち溢れています。罪に打ち勝つ力を持たない私たちは、富と権力を持つ人々をとても羨ましがり、彼らがそういった場所で裕福な生活を満喫している様子を見ると、大金を稼いで彼らの仲間入りをしたいという欲望が沸いてきます。その結果、お金とそれがもたらす物質的快楽が私たちの心を完全につかみ、私たちの心は神からどんどん離れて行ってしまいます。これ故に、私たちクリスチャンは、神の御前で暮らせるように、そして私たちを誘惑する人々、出来事、物事から前向きに距離を置いていられるように、常に神に祈りを捧げて、私たちをお守りくださるようにとお願いするべきなのです。これは霊的背丈の低い人々は特に行う必要があることです。これについて聖書にはこう書かれています。「賢い者は災を見て自ら避け、思慮のない者は進んでいって、罰をうける。」(箴言22:3)そして神もこう仰いました。「あなたの心を外に引き付けるものに触れてはならない。また、神からあなたの心を引き離す可能性のある人々と接してはならない。あなたの心が神に近付くのを邪魔する可能性のある物事は何であれ、全て捨てるか、近付かないようにしなさい。その方があなたのいのちにとってより有益である。」この御言葉より、誘惑から積極的に距離を置くことは賢明な選択であることが分かります。

 

神の導き,誘惑に打ち勝つための2つの秘訣を教える

  ヨブを例に挙げてみましょう。誰もが知ってのとおり、彼は神を恐れ、悪を避けました。彼は莫大な富に加え、山一面を覆うほどの羊と牛を持っていましたが、常に神の御前で生きていけるようにと身勝手なことはしませんでした。敬虔な心を持っていた彼は、神を怒らせることを不安に思い、頻繁に捧げ物をしました。それに、彼は肉の快楽を楽しもうと自分の富を利用することもなく、息子や娘たちと酒宴を供にすることもありませんでした。彼は神を恐れ悪を避ける道を歩むことだけを貫いたのです。このようにして、ヨブは私たちが従うべき良い模範を示してくれました。

第2に、サタンの策略を見抜いて誘惑を振り払うことができるように、神の御言葉に従って物事をとらえ、神の御心を求めるようにする

  サタンはいつどこにいても私たちを誘惑して私たちの生活を妨害することを楽しみます。ならば、誘惑される時、私たちは何をしてそれに打ち勝てばよいのでしょうか。『いのちの供給ための説教集』にはこのように書かれています。「これらの誘惑や魅惑を拒むには何を備えていなければならないか?真理を備えていれば、あなたはこれらのものが極めて明確に見えるでしょう。この問題の本質がはっきり見えてからは、自分の行動が他人にどのような害を及ぼすのかが分かり、他の人がどのように心が傷つくかが分かり、自分がどれほどその人の人格を破壊したかが分かります。そして、これらの事柄を自覚すれば、あなたはそれらを引き起こすような行動を取らなくなるでしょう。こうした思考や考えが頭をよぎっても常に拒むことができます。それらに心を動かされることはないため、関心を持つことも気に留めることもないでしょう。」この言葉から、神の御言葉に従って物事をとらえることは非常に大切であることが分かります。神の御言葉を読むことに集中し、それによって真理を理解する場合に限って、私たちは従うべき道を手にするのです。主イエス様はこう仰いました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14:6)真理は神から出るものです。神の御言葉は私たちの生活の原則として私たちの生活を導いて下さいます。なので、私たちはもっと神の御言葉と御心を理解する努力をするべきなのです。そうすれば、私たちはサタンの策略を見抜くことができるようになります。例えば、私たちが主のために誠心誠意、努力をしている時に、親戚や友人が突然大金を稼げる仕事の話を持ち出してきて、一緒に行こうと私たちを誘ってくるとします。しかし、それに乗ってしまうと、教会の集会に参加したり、教会の任務を果たす時間がなくなってしまい、神との正常な関係が損なわれてしまいます。そのような時は、神の御言葉を読み、そして神の御心を求めて、何を追い求めることに最も意味があるのか、そしてそれをどのように選択すれば良いのかを理解する必要があるのです。お金の誘惑に関する見識を持つことができれば、それを振り払うことができるでしょう。主イエス様はこう仰いました。「神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。…富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。」(マルコによる福音書10:24~25)「人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。」(ルカによる福音書9:25)

  神の御言葉から、お金は世俗的な物であることが分かります。私たちはその仕事からより多くのお金を稼ぎ、肉の快楽をさらに楽しむことができるかも知れません。しかし、それが真理の追求を遅らせて、私たちが創造物としての本分を尽くすことに影響を及ぼすとしたら、私たちが最終的に神に認めていただいて、祝福を受けるということはないでしょう。また、お金を追い求めていたら、私たちは神から離れてします。更にひどい場合は、一日中お金稼ぎに没頭して、自らの健康を損なってしまう人もいるでしょう。人によっては主を信仰し続ける熱意を失ってしまい、お金を益々稼ぐにつれて肉の快楽に夢中になり、自らを破滅させてしまうこともあるでしょう。私たちは、こういった有害な行動を目にしたら、その誘惑を自然と振り払うようでなければいけません。さらに、私たちがお金を欲しがることやお金を追い求めるようにと親戚や友人たちに誘惑されると私たちはそれついて行ってしまうということをサタンは知っており、私たちはそれを明確に認識しておく必要があります。サタンは常に私たちの弱点を突いてきます。私たちはこの内外からの攻撃を受ける中で、気を付けていなければいとも簡単にサタンに捕らえられてしまうのです。これについて、聖書にはこう書かれています。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。」ペテロの第一の手紙5:8)この物質主義の世の中で、サタンは様々な誘惑を使って私たちをおびき寄せようとしてきます。私たちは落ち着いて真理を求め、神の御言葉に従って物事をとらえなければ、サタンの誘惑に打ち勝つことはできないのです。

  上述したこの2つの秘訣が、誘惑から離れ、それに打ち勝ち、そして主の道を歩む上で、あなたのお役に立つことを願っています。


バプテスマを受けて新たに生まれ変わりを表していますか

2019-04-18 08:07:15 | 神に帰す証

  【編集者メモ】多くのキリスト教徒は、洗礼とは主イエスによって罪が赦され、生まれ変わることであると信じています。しかし私たちの多くが困惑していることに、なぜ洗礼を受けた後でも罪という足かせを取り払うことができず、罪を犯す状態で生きることが多いのか、ということです。洗礼は生まれ変わりを意味するのでしょうか。

寄稿家:セドリック(カナダ)

  幼少期に父が洗礼について説明してくれました。父はこう言いました。「洗礼を受ける時は、全身を水に浸すのさ。これは主イエスと共に『死んだ』ことを意味するんだ。水から引き上げられると、その人は生まれ変わっており、過去の罪から完全に脱して新しい人生を始める。その人は死を迎えるまで主イエスのために生きるんだ。主イエスは、『信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。』(マルコによる福音16:16)と言われた。主イエスは罪のためのいけにえとして、人類のために十字架につけられた。人は洗礼を受けて初めて、主イエスによって罪が赦され、主イエスの御名の下に新たないのちを得ることになる。だから、キリスト教徒は洗礼を受けないといけないんだよ。」その時から、洗礼を通してキリスト教徒は完全に変わり、生まれ変わり、救われ、キリストと融和できると信じるようになりました。

バプテスマを受けて新たに生まれ変わりを表していますか

  しかし、私の周りの人たちは幼少期に洗礼を受けていますが、私が不思議に感じたことに、彼らは古いいのちを捨てずに未だに非信者のように生きていることに気づきました。たとえば、私の父はまだ赤ん坊だった頃にカトリック教会で受洗し、プロテスタントのキリスト教に転会したときに再び洗礼を受けたにもかかわらず、未だに罪の束縛を取り払うことができませんでした。たとえば、私の弟が決まった場所に物を置くのを忘れると、父は弟を叱ったものでした。家族が父の好まない行動を取れば、激怒しました。父は家庭の調和のためによく断食し夜更けまで祈っていましたが、怒りを抑えることができませんでした。新生した人のようには行動しませんでした。受洗後も罪の中に生きている人々を見て、「ほとんど罪を犯さない段階に達したら、その時こそ私は洗礼を受けよう」と思ったものです。

  何年もの歳月が流れましたが、私はまだよく罪を犯しました。実生活では、主の御言葉を忠実に守ることができませんでした。他人に小言を言うだけで、自らの行動を省みることなく、最大の問題は自分自身の中にあることが分かりませんでした。父が私に対して激しい怒りをあらわにしたとき、忍耐や寛容さを欠片も示すことなく、父に憎しみを覚え、口論を始めたものです。一番になりたかったために、他人と競うこともよくありました。自分より劣っている人々を見下し、自分より優れている人々を見れば嫉妬しました。さらに私は見栄っ張りで、自分を高く評価してもらいたがり、他人から褒められれば非常に高慢になったものです。集会中にキリスト教の映画を観たことを思い出しました。映画の中の牧師は、『だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。』(マタイによる福音書23:12)という聖句をよく引用していました。主の御言葉に従って実践し、謙虚であることを学び、自分をひけらかしたり、高慢になったりしたくなかったので、この聖句を強く肝に銘じました。しかし実生活では未だにスケートボードで一番上手になりたいと思う気持ちが捨てられず、毎日8時間のトレーニングを積み、できるだけ早く一番になり、他人から尊敬されるようになろうとしました。教会のキャンプ中は神を称えるためではなく、名声のために舞台でパフォーマンスをしました。私の振る舞いは神の御心と相容れないことは知っていましたし、断食や祈りも試してみましたが、抑えきれずに罪を犯しました。

  その後、あるキリスト教の映画で次のような聖句を見かけました。「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブライ人への手紙12:14)「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。」(ヘブライ人への手紙10:26)「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。』」(ヨハネによる福音書8:34-35)これらの聖句についてじっくりと考え、神は聖なる存在であり、罪に生きている人々は天の御国に入ることができないことが分かるようになりました。私は自分の行動を反省し、他の人々と良い関係を築けていないことに気づきました。たとえば、些細なことで肉親とよく口論をしました。他の人々に傷つけられれば彼らに憎しみを覚え、主イエスに祈った後に表向きは彼らを赦しましたが、心の中では憎悪を募らせていました。また、二度の洗礼を受け、長年にわたって神を信じ、多くの集会を主催し、福音を説いたにもかかわらず、些細なことに怒りを示す父についても思いを巡らせました。父も自分は腹を立てるべきではないと分かっているし、心を入れ替えたいが、短気を抑えられないと真摯に私たちに話してくれたこともあります。実際に、父も私も主の要求を知っていましたが、どうしても罪を犯さずにはいられなかったのです。このことについて考え、私は途方に暮れていました。「神は聖なる存在であり、卑劣で堕落した人間は神を見るのに相応しくない。受洗しながら、それでもなお罪を犯し、神の御言葉を実践できない私たちが、主にお目にかかることができるのか。それにもかかわらず、聖書には『信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。』(マルコによる福音書16:16)と書いてある。それならどうして、洗礼を受け、新たないのちを得てもなお罪を犯すのか」と考えました。これらの問いかけへの答えを見つけることはできませんでした。

  ひょんなことから、私はインターネット上で主を信じる数人の兄弟姉妹と知り合いになりました。彼らは聖書に対して独自の識見をもち、私の混乱を解決する手助けもしてくれました。いくつかの福音のウェブサイトも勧めてくれました。あるとき、福音の映画で、次のような言葉を見ました。「あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、正確にはどのように降臨するのだろうか。あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望むとは、――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。」

  この言葉を読んだ後、私は啓発されたように感じました。洗礼による新生は、贖われたことのみを意味することに気が付いたのです。告白や悔い改めるために主に祈る限り、主から恵みと祝福を享受し、私たちの罪は主によって赦され、それ以上律法で裁かれることはありません。これは、救われるだけです。しかし、それでもなお私たちは汚れていて堕落しています。表向きは自分を抑え、断食し、祈り、振る舞いを通して重大な罪を犯さなくても、罪深い本性は私たちに深く根ざしています。ですから私たちは罪を犯しては告白する状態で生きているのです。私たちは皆、このような存在ではありませんか。自分自身について言えば、誰かが私の利益を損なうことを口にしたら、私は腹を立て、ときには表面上は怒りを見せなくともに心の中ではその人を憎んでいたこともありました。家族やクラスメートと共に過ごしていたとき、いつも全員に話を聞いてもらい、高く評価してもらいたいと考えていました。自我を捨てて謙虚であろうと努めながらも、心の中ではやはり自分の方が優れていると思い、自分より劣っている人たちを見下すことさえありました。私は自分が罪を犯していると知りながら、また祈りや悔い改めのために主の御前に立ちながらも、その後は結局私は変わりませんでした。父や他の兄弟姉妹も皆似たようなものでした。私たちは昼に罪を犯し、夜には告白するという悪循環の中に生きていました。このような生活は私が本当の意味で新生し、救われたわけでも、新たないのちを手に入れたわけでもないことを示しました。私はかつて、洗礼によって新生し救われると思っていました。そのとき初めて、神への反抗と抵抗を排除して初めて、本当の意味で新たないのちを得て、新生することができると理解したのです。

  その後、聖書の勉強会で学んだいくつかの聖句を思い出しました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:29)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:47-48)これらの聖句についてじっくりと考え、主は御言葉を話し、私たちが耳にしたことがない真理を伝え、私たちを裁き、清めるために終わりの日に再臨されると感じました。ペテロの第一の手紙の第四章十七節にはこのように記されています。「さばきが神の家から始められる時がきた。」これは、主が裁きと清めの働きを行なうために再臨されることを示しています。この働きを通して、私たちは堕落した性質を捨て去り、新たないのちを得て、本当の意味で新生することができるのです。

  このことについて考え、私は大喜びしました。主の啓発に感謝いたします。新たないのちを得て、本当の意味で新生することを望むなら、主に裁きの働きを遂行していただく必要があることが分かりました。そうして初めて、私たちは罪深い本性を手放し、新たに創られた人類となり、神の国に入ることができるのです。