PSW研究室

専門職大学院の教員をしてる精神保健福祉士のブログ

病院・地域精神医学誌のこと

2012年04月30日 01時00分41秒 | PSWのお仕事

僕が日本病院・地域精神医学会に積極的に関わり始めたのは、1984年からです。
大学を卒業し、国立武蔵療養所(当時)に勤務し始めたのが、1982年ですから、
僕の病院PSWとしての足跡とともに、常に身近にある学会でした。

1984年、三重県立高茶屋病院(当時)から、国立武蔵療養所に学会事務局が移りました。
事務局担当理事に樋田精一さんが就任し、僕も学会誌の編集実務を担うようになりました。
事務局実務は、僕の大学の後輩の韮澤明さん(現・成城墨岡クリニック)が担いました。

1984年、昭和59年と言えば、ご存じの通り「報徳会宇都宮病院事件」があった年です。
当時の学会理事長の広田伊蘇夫さんは、国内外で八面六臂の活動を展開していました。
海外の外圧もあり、50年続いた精神衛生法が精神保健法に代わる契機となりました。

学会誌の編集に関わり始めたのは、まさにそのような動きの渦中でした。
第27回郡山総会から、学会名称が「病院・地域精神医学会」に変わりました。
それまでの「病院精神医学会」から、地域での生活支援へと踏み出した時期でした。

学会誌通巻第76集、郡山総会報告集作製が、僕の最初の仕事でした。
第78集では「季刊病院精神医学」の既刊総目次を作成しました。
今のようなパソコンデータもない時代、創刊号からの目次を手書きで原稿化しました。

第100集刊行時には、創刊以来の通巻1~100集の総目次を作成しました。
PSWの小田敏雄さん(現・田園調布学園大学)に手伝ってもらいました。
一般演題の共同演者一人ひとりの名前まで、手書きですべて原稿化しました。

1992年5月発行の通巻103号から、巻号制とし、判型をA5版からA4版にしました。
当時まだA4版の雑誌は珍しく、「本棚に入らないよ」と文句を言われたりしました。
「いずれ、これが標準サイズになる」と、判型変更への理解を求めました(通巻104号)。

以来、PSWの中村正利さん(昨年末死去)、保健学の大島巌さん(現・日本社会事業大学)
医師の白石弘巳さん(現・東洋大学)と編集委員長は引き継がれてきました。
多くのPSWたちも、編集委員や編集事務局員としてかかわってきました。

僕自身は、1984年~2000年、通巻76集~139号まで、編集実務を担っていました。
その後、2001年~2003年は編集委員として、2004年~は査読委員として関わっています。
1984年以来、いつのまにか足掛け30年、この雑誌の編集に関与してきたことになります。

総会のテープ起こしを、子どもが寝静まってから夜中の2時くらいまでしていたり、
昼間の仕事が終わってから、夜印刷屋さんに出かけて地道な校正作業をしていたり、
限られた期間内で書いてくれる人がいないので、仕方なく原稿執筆をしたり…。

年4回の雑誌を、ボランティアの素人だけで編集し、刊行し続けるって、大変なことです。
それでも、この雑誌に関わることで、ずいぶんたくさんのことを学ばせて頂きました。
少なくとも、約20年間、全ページに目を通していたのは、全国で僕だけかも知れません。

そんな関わりもあって、いつの間にか「生き字引」のように思われてしまったようで。
通巻150号記念号や学会創立50周年記念号には、年表を書かされたり(150号、173号)、
全体状況の変化と学会の課題というテーマで書かされたりしています(通巻154号)。

最近この学会も、高齢化傾向が著しく、総会議事に出ると白髪頭ばかり目立ちます。
発表は若い人も多く、いい取り組み実践が、たくさん報告されているにも関わらず。
精神保健医療福祉の意識変化とともに、組織の新陳代謝が必要なんでしょうね。

大学で若い学生たちに昭和の歴史を語っていると、今ひとつピンとこないようです。
「Y問題」も「宇都宮病院」も既に歴史的事項で、教えてない学校すらあるようです。
若い多職種スタッフに歴史を伝えていくことは、学会にとっても今後大きな課題ですね。