「PSW研究室」、訪問者6万ヒットを超えました。
ここには、1日250人くらいの方が覗きに来てくれています。
1年半前の始めた頃は、ほんの十数人だったんですが。
顔も名前も知らない人が、記事に目を通してくれているということ。
それが、どんなに忙しくても、僕がブログを続ける原動力になっています。
本当に、ありがとうございます。
さて、6万ヒット記念の、想い出写真館です。
母と一緒に撮った、3~4歳頃の写真です。
先日アップした「三輪車の想い出」の続き写真だと思います。
まだ若い、30歳くらいの、母が写っています。
写真を撮った父も、母と同年齢です。
休日、近所の路地で撮ったものでしょうか。
当時、親子3人で、新所沢という街に住んでいました。
今から考えると、本当に小さな家でした。
でも、家族がようやく安住して、新しい一歩を踏み出した土地でした。
それまで、色々あって、僕はよその家に預けられていました。
まだ、保育所も満足に整備されていない時代です。
父も母も、貧しい中で、新しい仕事を軌道に乗せるのに必死に働いていました。
僕を預かってくれていたのは、母の親友の玉田さんというお家でした。
玉田さん夫婦には、子どもがいなかったため、僕を大層可愛がってくれました。
玉田のおじさんはとても穏やかな人で、おばさんはとても明るい人でした。
おばさんは自分のことを、僕に「ママ」と呼ばせようとしていました。
「ママと言ったら、これあげる♪」と、お菓子など、ちらつかせていたようです。
でも、僕が口をへの字にして、言おうとしないので、いじらしかったといいます。
時々、母は、玉田さんの家まで、僕に会いに来ていました。
玄関の戸が開く音がすると、僕は「ママだ!」と叫んで走っていったそうです。
それまで膝の上に僕を乗せてあやしていたおばさんは、とても切なかったと言います。
母が家に帰らなければいけない時間には、僕は母にしがみついていました。
いつも「ママ…」と泣き叫ぶ僕を、おばさんが抱えている間に、母は玄関を出たそうです。
母は涙を浮かべて帰り、泣いている僕を抱えながら、おばさんも泣いていたそうです。
父母にも、玉田さんにも、僕はとても愛されていました。
それでも、親と離ればなれになる心細さは、どうしようもなかったのでしょう。
置いて行かれる、捨てられる、親を失う恐怖を、感じていたのではないでしょうか…。
そんな2年間を経て、親子3人で暮らし始めたのが、この写真の頃です。
貧しくても、親子で一緒に暮らせる幸せを、子ども心に実感していたと思います。
穏やかな笑顔の、古びた一枚の写真に、その時の家族の歴史が刻み込まれています。
ここには、1日250人くらいの方が覗きに来てくれています。
1年半前の始めた頃は、ほんの十数人だったんですが。
顔も名前も知らない人が、記事に目を通してくれているということ。
それが、どんなに忙しくても、僕がブログを続ける原動力になっています。
本当に、ありがとうございます。
さて、6万ヒット記念の、想い出写真館です。
母と一緒に撮った、3~4歳頃の写真です。
先日アップした「三輪車の想い出」の続き写真だと思います。
まだ若い、30歳くらいの、母が写っています。
写真を撮った父も、母と同年齢です。
休日、近所の路地で撮ったものでしょうか。
当時、親子3人で、新所沢という街に住んでいました。
今から考えると、本当に小さな家でした。
でも、家族がようやく安住して、新しい一歩を踏み出した土地でした。
それまで、色々あって、僕はよその家に預けられていました。
まだ、保育所も満足に整備されていない時代です。
父も母も、貧しい中で、新しい仕事を軌道に乗せるのに必死に働いていました。
僕を預かってくれていたのは、母の親友の玉田さんというお家でした。
玉田さん夫婦には、子どもがいなかったため、僕を大層可愛がってくれました。
玉田のおじさんはとても穏やかな人で、おばさんはとても明るい人でした。
おばさんは自分のことを、僕に「ママ」と呼ばせようとしていました。
「ママと言ったら、これあげる♪」と、お菓子など、ちらつかせていたようです。
でも、僕が口をへの字にして、言おうとしないので、いじらしかったといいます。
時々、母は、玉田さんの家まで、僕に会いに来ていました。
玄関の戸が開く音がすると、僕は「ママだ!」と叫んで走っていったそうです。
それまで膝の上に僕を乗せてあやしていたおばさんは、とても切なかったと言います。
母が家に帰らなければいけない時間には、僕は母にしがみついていました。
いつも「ママ…」と泣き叫ぶ僕を、おばさんが抱えている間に、母は玄関を出たそうです。
母は涙を浮かべて帰り、泣いている僕を抱えながら、おばさんも泣いていたそうです。
父母にも、玉田さんにも、僕はとても愛されていました。
それでも、親と離ればなれになる心細さは、どうしようもなかったのでしょう。
置いて行かれる、捨てられる、親を失う恐怖を、感じていたのではないでしょうか…。
そんな2年間を経て、親子3人で暮らし始めたのが、この写真の頃です。
貧しくても、親子で一緒に暮らせる幸せを、子ども心に実感していたと思います。
穏やかな笑顔の、古びた一枚の写真に、その時の家族の歴史が刻み込まれています。
左手を母親の両手のなかにあずけ、二人は何を見ているのでしょう、近所を通りかかった焼き芋屋さんでしょうか、風になびくススキでしょうか、、
当時カメラといったら、子供も興味を引く物体でしたでしょうに、それを気にしている様子はないので、余程興味をひかれるものがそこにあるのでしょうか、、それとも安心感とともに見る風景は何でも素晴らしいのでしょうか、、
過度な想像は禁物ですが、ママと呼ばせたくて、呼んでもらえなくて、泣くおばさん。そして泣きながら抱きかかえるお母さん。複雑な感情のやり取りがそこにはあったのでしょうか、、
過ぎた時間はマジでかえってきません、マジでマジでかえってきません。それがわかったのはつい最近のことです。
そのどうしようもないことを、これでもかと味わせる写真たるものを俺はずっと嫌いでしたが、ちょっと見れるようになってきたのもつい最近のことです。
それではドロン!
こどもって、こどもって
けな気・・・・
愛されてる先生は幸せだね
その分周りを幸せにしてください
おいらもがんばる
すがちゃんも、頑張れ
それは、そう。
どんなに後悔しても、謝罪したくても、やり直したくても、無理なものは無理。
でも、相手がまだ生きているなら、物語を一緒に書き換えることはできるよ。
記憶は上書きすることはできるから。
古い記憶は、新しい記憶で、置き換えられていくから。
新しい物語を綴っていくことは、いつからでも出来ます。
それが、どんなに確執のあった家族同士でもね。
アグレッシブな感情も、いつか優しい気持ちに変わっていく。
他者と和解をする、自分と折り合いをつけるって、難しいようだけど、
時間の経過が自然ともたらしてくれるものって、やはりあります。
僕に、そのことを強く感じさせてくれたのは、亡くなった父でした。
ひとは、死者から、たくさんのギフトをもらえるような気がしています。
この残された写真も、父の贈り物だと思います。
子どもには、やっぱり愛が必要だね。
あ、大人にも、愛は必要だけど。
あ、ネコにも、愛は必要だ。
みんな、愛が必要だ。
いのち短し、恋せよ、乙女~♪
今は、そんなこと、言ってられないか~?
かせちゃんもガンバレ