以前、内田康夫の「箸墓幻想」というサスペンスを読んでから、「箸墓は卑弥呼の墓」という仮説のようなものを根拠もなく抱くようになり、少しでもそれを支持する情報に好感を持つ傾向が生じたのですが、近頃俄かに飽和状態のような感じがしています。
先日、NHKスペシャル「邪馬台国を掘る」について、これで邪馬台国が畿内だったという結論が確定するかのような番組紹介があり、録画したりして視聴しました。
実際は桃の実が沢山出土したことだけが意外な発見で、卑弥呼に扮する女優が舞い、何故か唇を大写しにし、中国の道教寺院の行事を映して、纏向遺跡は卑弥呼の宮殿の跡だった可能性が高くなった、と理由づけたのでした。
出土した銅鏡が何故割られていたかについても解説が行われていましたが、説得力は有りません。
見ていて白け、邪馬台国論争の荒廃が感じられたのでした。
研究費獲得のためにマスコミが利用されたのだろうが、更なる無駄使いだと思いました。
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「親鸞」を「親巒」と書いたものがあることは知っていましたが、変わった書き方があるものだとしか思いませんでした。古田武彦はそれがどの写本にどれだけ用いられているか、分布がどのように変化したかを丹念に調べることで「歎異抄」が書かれた隠された動機を明かそうとし、最も誤字・誤写が多いとされた蓮如本こそ鎌倉時代の原本に最も忠実であることを発見した、と。
彼は邪馬台国についても同じようにして「壹」と「臺」の使い方・分布の変化を調べ、「壹」が正しく、「臺」は誤りだとしています。多くの歴史家は魏志倭人伝の部分しか見ていないが、三国志全体の写本や同時代の金石文についても広く丹念に調べ統計をとっている、ということのようです。
神話にはいろいろなバージョンがあるが、これも丹念に調べ、源流は筑紫にあるという。しかし大和の王権が九州から神話を「盗んだ」というよりは共有しているとするのが適当かも知れない。両者は出自が同じであって、傍流の神武が九州から東征し、大和で王権を得て本流となった、ということのようです。
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読みかけの本が何冊もあるのに図書館から大部な本をまた借りてきた;
古田武彦 2010 失われた九州王朝:天皇家以前の古代史 ミネルヴァ書房
面白いが、一気には読めない。
学校の時間割なら算数、国語、理科、社会、・・・が1時間毎にあって混乱したこともなかったが、丁度時代が重なる本;
足立倫行 2010 激変!日本古代史:卑弥呼から平城京まで 朝日新書
があって、思い出しては拾い読みし、何がどっちに書いてあったか紛らわしくなった。
「激変!」は色々な人を訪ねて主張を聞き集め、足立本人は感想を述べるが主張はしていない。古田武彦の話は出てこない。
「九州王朝」は克明な文献考証によって記紀批判をしようという個性の強い主張である。
多岐にわたる膨大な論証をうっかり読んでいると筋が見えなくなる。
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「望遠鏡で宇宙の遥か遠くを観ることは、遥かな過去を見ることだ」という指摘をはじめて読んだときには、彼方における現在は見られないのかと残念な気がしたものだった。
宇宙のスケールでは正に「距離=時間」であり、時間と空間の次元が直観のレベルで不可分である。
かつて「『時の流れ』という表現は間違っている」と言う人があった。「『川の流れ』と言うが、流れるのは水であって川ではないし、時間も流れたりするものでない」と。
時間や空間を『もの』のように言うのは、われわれの言語の制約のためなのか、あるいはわれわれの思考様式の制約のためだろうか。
そのようなことを心配する必要は、もしかしたらもういらないのではないのだろうか。
最近の宇宙論では、そこに何もないはずの真空の時空にダークマターやダークエネルギーが存在すると言う。
それらは『時空そのもの』であって、『時空』という座標を持った『もの』のひとつとは違うのではないだろうか。
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記憶の後先が不確かなことばかりで、歳のせいかと秘かに当惑。
そんな認知障害には情報端末が頼り。驚くほど役に立っています。
およそ10年で括ればさすがに変化も顕著で、情報媒体も世代交代しているのだと思われます。
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