国家の禍は、私欲、私意、朋党(派閥)より起る
雲 およそ国家の政をするには、公儀というものをたてなければなりません。公儀とは
私に対する公、部分に対する全体の立場です。国家の禍は、とかく指導者の私欲より
起り。あるいは大臣の私意より起り、下の者が党を組むから起るものであります。昔
も今も人の世の中変わりはありません。
雲 公儀の論いちいちご尤もでございます。しかし公のないものはありませぬが、人物
が小さいとか、問題が大きくなりますと、いつの間にか公が私になるものであります。
人間のことでありますから、機械のように規定はできません。融通変化自在であって、
公だと思っているうちにいちか私になってしまいます。とくに政局などに当って重大
問題に直面すると、下手に発言したり、下手に手をうつと、却ってどうなるかわから
ない。だからしばらく形勢を観望して徐に成り行きを見て善処する、と言いながら結
局何もできないというのは、公が私になってしまっているのであります。つまり失敗
したら大変だ、我が国に大きな累を及ぼす、内閣の致命傷になる、わが党の敗北にな
る、というように公が私になってしまうのは、結局その局に当る人物がずらりと並ん
で我が国はどうならなければならぬかを究明し腹にすえれば、千年に渡る太平の時代
をも貫き通すことができると思います。
ところが、たいていの人間はどこまでが公で、どこまでが私であるかゆかりません。
とんでもない人間が私をはかりながら、看板に公を振り廻しているのは許せません。
公私の別がなくて天下国家を叫んでも、世の人心のためなどというてみても、とても
そういうことは行われません。しかしこの連中に限って、自分のすることはみな公儀
であると考えているのである。