元インドネシア代表監督、スリランカ代表監督(野中寿人- 66番の部屋)

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2007 インドネシア代表ナショナルチーム - 地獄の強化練習開始

2007年04月22日 12時30分32秒 | インドネシア代表ナショナルチーム(国際大会など)
インドネシア代表ナショナルチームの「地獄」の強化練習が開始された。

インドネシア野球のリスタートである。



12月のアジアンSEAゲームス(東南アジア競技大会)までの強化期間は7ヶ月間。
しかし、この7ヶ月間の間にインドネシア国体予選大会、ラマダン(1ヶ月間の断食期間)などがあり、実質、投手については5ヶ月強、野球については4ヶ月強の強化練習になる。

強化期間を3段階に分け、ローシーズン、ミドルシーズン、ハイシーズンとし、それぞれに練習メニューを当て込む。

グランドでの練習、ジムトレーニング、コンディショニング、夜間練習、ミーティング・・・ありとあらゆるメニューがインドネシアに登場したのだった。





{練習開始から数週間はボールの使用は無いから、そのつもりで・・・}
この言葉と共に、地獄の強化練習の幕が切って落とされたのでした。

しかし・・・
{日本人の監督なんか招聘してくるから・・・これじゃぁ選手達が死んじゃう!}
{雨が降っても練習を止めないなんて・・・ひどすぎる!気違い監督!}
いやぁ~~ 関係者や父母からの罵声がグランドに充満しっぱなしです“”

でも止めません・・・そんな罵声も頭から無視の自分が居ます。
でも・・・雰囲気悪いです(引きつり笑)

そして、数週間がたったある日のこと
{こんな練習は今までやったことがない、でも、絶対に上手くなる気がする}
{監督の練習メニューに勝てなくて、大会でタイやフィリピンに勝てやしない!}
{だから、監督の練習メニューに絶対に負けない!}
・・・・と、選手達が関係者や父母達を、納得させて行ったのだった。



強化練習は勿論「金メダル用」のメニューを当て込みます、しかし強化練習期間が短いために、その反動が選手達の身体に跳ね返ってしまう・・・だが・・・あえて

2005年のアジアンSEAゲームスで4位のミャンマー代表に満塁押し出しでようやっと勝ったインドネシア代表、タイ代表とフィリピン代表にあわやコールドに近い点差で惨敗したインドネシア・・・

選手達のリベンジに火がついた
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外国人初! インドネシア代表ナショナルチーム監督の誕生!

2007年04月07日 18時39分37秒 | インドネシア代表ナショナルチーム(国際大会など)
「野中総監督」が外国人初のインドネシア代表ナショナルチームの監督に就任
凄いです



2007年4月7日、ジャカルタのスナヤン、インドネシアアマチュア野球連盟事務所にて監督就任の調印式が執り行われました。

今年の12月にタイで開催されるアジアンSEAゲームス(東南アジア競技大会)に出場をするインドネシア代表ナショナルチームを統括します。

野中総監督への就任依頼は、2005年5月のリトルリーグ設立における申請でジャカルタに出向いた時にさかのぼります。

この申請時に、野中総監督はスナヤンの野球場を訪れたのですが、丁度2005年のアジアンSEAゲームスに出場するインドネシア代表ソフトボールの練習が行われていたのです。

マシンを相手に打撃練習をしていたのですが、コーチらしき現地人に話しをして打たせてもらえることに・・・野中総監督がガンガン打ちまくったのです。

この時の現地人コーチがインドネシアアマチュア野球連盟の幹部(当時)だったのです。
無事にリトルリーグ設立の手続きを終え、バリ島に戻った野中総監督でしたが・・・

その後、この連盟の幹部が野中総監督のことを血眼になって探し回り、2006年2月にバリ島に野中総監督を尋ねてジャカルタからやってきたのです。

会談はデンパサールにレノンのブンデガというレストランで行なわれました。

{野中さん、探し回りました・・・唐突ですが、インドネシア代表監督に就任をして欲しいんです}

との、連盟幹部の問いに対して野中総監督は、こう答えたのでした。

{現在、バリ州代表の監督をやらせてもらっています。来年早々のインドネシア高校国体に向けてバリ州代表チームの練習も開始しているところです。ご存知のように自分はバリ島で生活をさせてもらい、バリ島への恩を感じています。
今、バリ州代表チームを見捨ることは出来ません。せっかくのお申し出でえすが、以上の理由からインドネシア代表監督は受けれません}

そして、この年のレッドソックス リトルのジャカルタ遠征時にも、この連盟幹部が会場に居た・・・
{是非とも、インドネシア代表監督就任の件を考えて下さい}
野中総監督の答えは{NO}

またまた、この数ヶ月後にジャカルタで開催されたクラブチームトーナメント(チーターズカップ)時でも・・・・
{野中さん、如何なものでしょうか??}
野中総監督の答えは{NO}

更に、その1ヶ月後のダブルAAアジア選手権大会時にも、臨時コーチを嘆願され、その時にも・・・
{是非とも、お願いしたい}
それでも野中総監督の答えは変わらなかったのです。




2007年1月、バリ島レノン公共頃場で開催されたインドネシア高校国体。
インドネシアアマチュア野球連盟の幹部がズラリと勢ぞろいをしていました。
そして、バリ州代表チームが念願の国体初勝利をあげた夕刻のこと、インドネシアアマチュア野球連盟のググン副会長からの会談が申し込まれたのです。

場所はラジソンサヌールホテルのロビー、コーヒーショップ・・・
{野中さん、バリ州代表チームの初勝利、おめでとう!以前からかわらね選手層なのに、素晴らしい向上を示してくれました。また、昨年のクラブチーム大会(チーターズカップ)でも日本的な緻密な野球を見せてくれ、脳裏に焼きついて離れません。
かねがね、野中さんにお噂は、ウチの幹部から聞いてました。
どうでしょう??野中さんの力でインドネシアの野球を変えてもらえないでしょうか?
インドネシア代表ナショナルチームの監督に就任して頂きたいのです}

バリ州代表チームに勝利を齎し1つの恩を返すことが出来たこと・・・
ググン副会長自らの嘆願・・・

{はい、分かりました!喜んで引き受けさせて頂きます!}

この瞬間、外国人初の・・・インドネシア代表ナショナルチーム監督が誕生したのだった

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