ハラボジの履歴書

祖父が日本に渡って来なければならなかった物語を記憶に基づき
在日100年が過ぎようとしているいま書き留めておく。

ハラボジの履歴書

2014年08月28日 | Weblog
 祖父は72歳まで生きた。亡くなる前の半年前まで安定所の関係での土方仕事を
やっていた。年齢に似合わず筋骨隆々で、その日の仕事を終えるとs、焼酎を買って
その酒の肴に豚の耳を塩とチョジャンを付け満足そうに食べていた姿を今も思い出す。
 特に、ご飯粒の一粒も残すと我々をおおきな声で叱った。
その他は、勉強しろとかなんだとかお叱ることはなかったが、こと食べ物に対しての
しつけは厳しいものがあった。
日本語はあまりうまくなかったし、また文字も読めなかったのだが、自分は若い頃
福岡でおおきな魚の商売をやっていたと聞かされたが、後に自転車のかごを積んでの
行商をやっていたらしく、おおきな魚商売というのは、孫たちへのホラであったが
叔母から聞く聞く話では、八ちゃんと愛称で呼ばれ、ひょうきん者の性格は人気者だったと
いう。
故郷の南原をなぜ離れ日本に来たことはこどもたちにも、孫たちにも死ぬまで言わなかった
、深酔いしたときに、いつも故郷の方向に向かい、涙を流しながらパンソリを歌うことを
何度かみたことがあるが、その訳をしるすべはなかったが、本籍地に訪ねその親族と
会うことによってわかったのが、
私が、戸籍を取るために35年前に南原郡の朱川面の役場に行ったのが全てをわかるきっかけと
なった。

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2014年08月26日 | Weblog
ハラボジ(祖父)の履歴書

 私の祖父は1920年(大正9年)ごろに韓国の全羅北道の南原から21歳の時福岡の飯塚に渡ってきたという。
名前は秉元といい、その後日本では中山八郎と名乗った。
故郷の南原では数少ない地主の息子で、別段、食べることにそんない不自由をしていたわけでもなかったと知ったのは
孫の私が、今から35年前に戸籍を作るために本籍地を訪問し、祖父の兄にあたる孫たちがいまだに当時住んでいた場所に
いて、21歳の時に日本に渡ったまま、音信が70年以上なく、やっとその孫が訪問してきたことに涙したものである。

 祖父は日本に来てから、一年後にプサンから来た祖母と結婚し父を長男として男2人、女5人を設けた。
父は1921年に生まれた。
父また叔母たちのはなしでは、祖父は故郷もなく天外孤独の身の上でに日本にわたってきたということを聞き続けていただけに
35年前に祖父に兄弟がいたこと、その孫たちも健在であること、日本に渡ったとする祖父をその兄がずっと待ち続けており、
死ぬ間際まで、弟に会いたいといいながら息を引き取ったという話を聞いた。

 その70年間の空白をこれからお話します。

保険制度とは一体なんなのか?

2014年08月21日 | Weblog
 阪神大震災では多くの家屋が消失した。
当然火災保険に加入していた被災家屋はたくさんあったのだが、その火災の原因は
地震であったということで、保険会社は全て保障の対象外とした。
当時の噂として、ある保険会社は保険の対象としようとしたが大蔵省が動き
保険会社の破綻を防ぐために取ったなどの風評が出回ったこともある。
 つい最近、生命保険などで保険各社が出し渋りを行った時期があり社会問題
になったことがあるが、一番に国家的詐欺ともいえる年金である。
今尚、曖昧な対応で解決にいたらず、支給時期を次々に繰り上げ
すでに年金は破綻している中で、どうその中身を補おうとしているのか
社会福祉ではなく、国民からあづかった金であり、税金ではなかったはず。
問い詰めれば。「無いものは、仕方ない」と開き直りの態度すら見せる。
 この年金に関して、天下りの外郭団体が多く存在し、結果官僚たちの再就職先のために
今も存在させているようなものかもしれない。