ハラボジの履歴書

祖父が日本に渡って来なければならなかった物語を記憶に基づき
在日100年が過ぎようとしているいま書き留めておく。

学校を作ろう イラン・アフガン紀行

2009年05月20日 | Weblog
 まずはイランに行くための準備だが、ビザを取るには東京のイラン大使館に
いかなくてはならない、また行く手段は成田発のイラン航空で成田テヘラン間
の直行便で片道10時間である。
われわれの動きを見て、神戸大学にイランから来た留学生、そして在日イラン人
の実業家から渡航の応援をしてくれるという、大阪在住のシャジャリ氏と出会う
こととなり、大阪の彼の事務所を尋ねた。
日本人より性格な日本語を語る、谷町筋に面したビルでペルシャじゅうたんの
卸を行っている。
奥さんは日本人でイランと日本を行ったり来たり、軸足を両国に置く。
「われわれのイランにこのたび関心を持っていただき感謝したい、そしてその支援事業を応援したい」。とのことで連絡があり、イランへ単に観光でいくのではない
ことがこれで現実となってきた。

学校を建てよう  イラン・アフガン紀行

2009年05月19日 | Weblog
 1992年当時からにわかにアフガン支援が世界的の沸きあがり
芸能界でも藤原紀香がアフガンの現地に赴き、子供たちの暮らし
ぶりを撮影し、また復興に向けての支援が必要と
番組の中で訴え、支援を募った番組が多いなか、思えばわれわれは
中年のおっさんが数人集まり、阪神大震災のときのお返しにとの
ことで、はじめた学校支援だったが、やるごとに、それは認められようが
認められましが、どうでもよくなり、いつしか自分自身が現地に
目標を持って赴けるとの自負心のほうが強くなっていく。
その目標達成のためにはどん苦労もあえて受けてみよう、
やるなら、前向きに倒れてみようと、恐れる気持ちは無く、
日々に元気になり、渡航する日が待ちどうしく、
イランとアフガンへどう取り組むかばかりで頭がいっぱいになっていた。

イラン・アフガン紀行 学校を建てよう 7

2009年05月13日 | Weblog
 すでにこの時期はアフガン支援は世界の流れ、
よく思えば、9.11同時多発テロの勃発で
アメリカがアフガン攻撃を開始し、タリバン政権を
倒したということで、世界がこのアメリカのテロとの
戦いを宣言、同盟国からの同意を取り付け
結果アフガン侵攻の足がかりとし
ソ連時代のアフガン侵攻を彷彿とさせるものだったが
ブッシュ政権の強引なまでの中東政策がその後
イラク侵攻となり、その後の世界を混乱に引き入れた
きっかけとなったときでもあってか
私自身思ったのが、こういった大国のエゴのハザマで
いつも、虐げられるのが弱小国であり、
南北問題がこうして絶えず世界を席巻させる影の
存在に迫り、挑んでみたいなどと思った。
ゆえに、それをきっかけに命がけでいいから、イラン
アフガンに向かい、そこでアクシデントにあっても
なんら後悔もないだろうとの思いがさらに募った。

そういう意味で、すでにアフガン支援を以前から支援
されているペシャワール会の中村哲さんのような
活動には及ぶものではないが、その一端でも
担うことができたらとも思ったしだいでもある。

イラン・アフガン紀行 学校を建てよう 6

2009年05月06日 | Weblog
 イランの被災地の視察を決めた時、いつしか
自分自身が被災にあった地域の人たちを支援する
いつしか、当然の思いが日に日につのっていた。
渡航費にせよ、事務所の経営すら大変なのに
他国の震災に支援をなどと、いったい何を考えているんだ
と、友人から、また家族から評価どころか、批判され
マスコミに出たからそれに踊らされているんだ。
そのような批判も聞いた。
在日同胞からは、「足元の暮らしが大変なのに、よくそんな
ことができるもんだ」。
さまざまな批判を受けながらも、イランの視察を決定したのだが
ビザのこと、受け入れ先を探すことと、実際いくには
山積した問題がありながら、新聞記事を見た、在日イラン人
実業家から電話があり、ぜひとも渡航に当たって協力したい
との要請があり、大阪の彼の事務所を訪問することとなった。
結果、この人がいなければ、イランへ行く道筋はなかった
そして、仕事仲間の新宮市の釜本氏、神戸の中飯氏を誘い
イラン行きの準備を始めた。

イラン・アフガン紀行 学校を建てよう 5

2009年05月02日 | Weblog
 事務所に朝行くと、報道各社から電話が入っていた。
「イランの被災地に視察に行かれるのですか」。
新聞報道された内容を確認するのと、なぜ行くのかという
問い合わせが殺到した。
つい答えてしまったのが阪神大震災の当時支援してもらった
 
お返しにわれわれも何ができるかを考えるためにと、優等生
の返答をしたものふだから、次々の取材の要請が来た。
それまで、事務所の存続すら危ういのに、実際は他国の支援
どころではないはずだが、いつしか悠久なシルクロードの
世界、そしてペルシャ文明発祥の地をたずねることが、単に
観光ではなく、こうした地震をとおしてたずねることが
できればとの思いにひたり、一人いつしか被災者の救援
ができれば阪神大震災の被災の経験が生きるとも
思い、現地に視察へ行く決意が日々固まり、結果メディアの
発表することで、自分をその気に追い込んでいった。
しかし、そのイランへ行くために、イラン側の受け入れ先を
探さなければいけないし、また目的をはっきりさせなくては
ならなかった。
結果、その準備にちては、海外支援活動を行っているCODEに
前面的な支援を行ってもらうこととなったのである。

しかい、今からおもえば、無謀かつ大胆な決断であった。

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