ハラボジの履歴書

祖父が日本に渡って来なければならなかった物語を記憶に基づき
在日100年が過ぎようとしているいま書き留めておく。

特攻隊の本当の姿とは

2013年03月27日 | Weblog
 今頃になって特攻隊の話をどうこうと
いう戦争の実体験のないわたしが言う資格はないのだが
日本の戦後というのは、特攻と広島の原爆投下が戦争の総決算の
ように語られ、特に特攻隊にあっては改め当時の軍部の常軌を逸脱した
作戦がいつしか、若者の志願によってなされたと
実に事実のすり替えが行われているように
思えてなえらない、なぜ今このような疑問がでてくるのかというと
アリラン特攻として名が知れる光山少尉(卓庚鉉)
彼は慶尚南道の出身で幼いとき家族とともに京都にやってきた。
そのご京都薬科大学にいき、特攻隊に志願し日本のために
命をささげたとされ、靖国に彼の顕彰碑を作る計画までされ、
知覧特攻隊の代表的な人物として語り継がれているのだが
知れば知るほどその背景が朝鮮人が日本国に進んで命を
ささげたような話ではないとさまざまな事実が出てきており
特攻を慰霊よりも顕彰を優先する考え方に大きな疑問を
覚えるのである。
※写真  出撃前の光山少尉と富屋食堂の鳥浜トメ




神風特攻隊知覧平和会館に行く

2013年03月24日 | Weblog
 鹿児島県知覧町を昨日始めて訪問した。
鹿児島市内から車で一時間。お茶と武家屋敷と時の太平洋戦争
のとき、米軍の沖縄攻撃が近づいたとき、軍部が最後の手段として
この特攻隊を組織し過去前例のない、人間爆弾ともいうべき
戦法を実行した。
昭和19年に沖縄に向け、知覧基地から周囲を米軍の軍艦300隻以上
に囲まれた沖縄を奪回するための作戦とはいえ、戦争とはいえあまりにも
残酷であった。
その特攻機に乗るのは下は16歳から上は25歳ぐらいの志願兵が採用され
南の海に散って行った。
敵艦に突っ込む前夜に基地近くの富屋食堂の女将鳥浜トメさん。
出撃する人生最後の日をこの食堂で過ごしたと言われ、多くの
若者の最後を励まし見送っていった。
これまで特攻隊の話はさまざまな形で聞いたが、常軌を逸していた
、また逆に大和魂のの真髄などと本来簡単に一言で表現または
評論できるものでない、究極の言葉がそこにはありすぎるほどあり
言葉だけでは表現できないものがあり、私は戦後8年を経た
生まれで戦争は全く分からない世代であるのだが、
当時の記憶がしkっかりと残る場所に行くと、そこには68年を経た
今にも、その当時の現実が叫びとして聞こえるような力を放っており
人間が戦争を行わなけばならない愚かさをいつまで続けていくのかという
大きなため息すら聞くような思いもした。


写真は隊員が出撃前に待機した三角兵舎
ここで遺品、遺書など生前の整理を行い、そして最後の食事などし飛び立っていった
敵に見つからないようにと半地下構造でいつも湿気ており、わら布団で粗末な食事でともに
出撃する隊員と最後の夜をここで過ごしたという。

気仙沼応援の旗 神戸長田丸五市場から

2013年03月16日 | Weblog
 東日本大震災から3年目を向かえる東北被災地
ここ神戸・長田の丸五市場は阪神大震災での災害から辛うじて火災を
まぬがれた。
神戸長田には東北の被災地から多くの人が視察に来る。
このたび、丸五市場と気仙沼の仮設店舗の紫市場が3年まえから交流をしており
気仙馬の復興を祈って応援のエールを込めた復興未来図の旗を
制作し、現地に贈った。
 2枚製作し1枚は丸五市場に飾られる。

写真は神戸新聞 写真峰大二郎撮

震災から3年目の気仙沼に行く

2013年03月12日 | Weblog
 震災から3年目を向かえる気仙沼市に3月11日の3周年に行った。
今年の1月に阪神大震災の追悼式に参加した気仙沼市中央商店会の小松
恵久夫さんと
条南中学校の生徒5名が神戸長田区の丸五市場に訪問して来たときに
復興をイメージした未来図を贈呈したのが始めで、その後に被災した気仙沼を
応援できないかとのことで、未来絵図を天幕にしあげ、このほど
現地を訪問し生徒たちに渡した。
復興への希望の起点となれば。