ハラボジの履歴書

祖父が日本に渡って来なければならなかった物語を記憶に基づき
在日100年が過ぎようとしているいま書き留めておく。

イラン・アフガン紀行 学校を建てよう 4

2009年04月30日 | Weblog
 翌朝、二日酔いの状態で、兵庫区にあるNGOコードの事務所
をたずねた。
ここNGOは阪神大震災のとき被災の救援をきっかけにできた
団体で国内外問わず災害支援の活動を行っており、すでに
 
 
 阪神大震災以降、トルコ地震、台湾地震、またアフガンと
世界のあらゆる地域に災害支援を行っている団体で
その活動ぶりは、ことあるごとにメディアに紹介されており
 
その名は全国的にも名をはせていて、今回のイラン北西部地震
の情報はすでにイラン大使館からこの事務所に入っていた。
私が事務所を訪ねたときには、すでに新聞社が何社か取材に
きており、村井氏がこの地震に対しての対応の取材を受けて
いたが、そんなことはお構いなしに
私は割ってはいり「今回、何か支援することはないか」
と彼に言った。
 
「ちょさん、ちょうどいいとこきてくれた。イラン大使館から
支援してほしい物資のリストが来ている」といって
私にくれたのだが
その内容は、テント、医薬品、工具、タオル、毛布、そして
重機となっていた。
とりあえず、集めるだけ集めてこの事務所に数日中、もって
くるというと、
知り合いの新聞記者もいて、私に質問した。
 
 「今回は支援にかかわるのですか」。
「当然、阪神大震災のとき、われわれも支援を受けた」。
そのお返しを今回すべきであり、できれば現地に行って
でも、具体的に何ができるかを探って見たい」。
と勢いあまって言ったものだから。

 今度は翌朝の新聞に建設グループのリフォームシステム21
イランの被災地を視察かとの記事が出た。

この記事について、事務所は大慌てとなった。

イラン。アフガン紀行 学校を建てよう 3

2009年04月29日 | Weblog
 さてイランになぜ関心をいだいたのか、
時は今から7年前、日韓共催のワールドサッカーが開催され
日本が16位に入り、韓国がイタリヤ戦で奇跡的な逆転劇
を行いベスト4に入ったときだった。
しかし、当時私は事務所の支払いでそれどころではなく
このままだと、倒産だとの日々重苦しい日々をすごしていたとき
この韓国イタリア戦を見て、それまでの重たい空気が晴れ
「やればできる」との命のそこから湧き上がる力を感じた。
その夜、試合を観戦し一人興奮し韓国の勝利に一人で
 
隣のスーパーでビールを買って祝杯を挙げたのだが、結果
飲みすぎて、そのまま、事務所のいすで眠り朝を向かえたのだが
酔いgふぁさめたらまた現実の悩みからは開放されてはいなかった。
そんな、朦朧とした状況で新聞を見たら、
 
イラン北西部で地震という記事を目にしたのである。
それは、阪神大震災で受けた被災をもう一度自分の中でよみがえり
人事ではないように思い、その朝、阪神大震災から国内および世界の
 
被災地に支援を行っているNGOの活動を行っている、村井雅清氏の
事務所をたずねる事とした。

イラン・アフガン紀行 学校を建てよう

2009年04月28日 | Weblog
 さて何ゆえに見知らぬ国、イラン、アフガンに学校を
などと、大それた考えをもったのか。
私はNPOでもNGOのメンバーでもないし、特段裕福な
篤志家でもない。
その当時、阪神大震災から6年目を向かえた時、
事務所が全焼し、すべてをなくして閉まったが
思いきって借金もできたので、一日も早い事務所の
復興をめざし、がむしゃらにつき進んだ。
元は建築設計事務所が本来の仕事だが、いつしか
震災後は工事にも手を染めて、建築業者になっていた。
業界のジンクスで設計事務所が請負をすれば必ずつぶれる
との先輩たちの忠告が日に日に身にしみる状況になって
もうすでに、自転車操業そのものになり、支払いと
収入の見合いがつかなく、仕事は一生懸命にやるのだが
経営としてはまったくなっていなかった。
従業員が帰ったあと、事務所に残り、いつ事務所をたたもうか
などと、悶々とした日が続いており、このまま消えてしまいたい
など、鬱的な状況にもなっていたのである。
そういった人間が突如、イラン、アフガンに学校を建てようと
現地にいくきっかけとなったのは、新聞の記事を見たことが
きっかけとなった。  次号

イラン・アフガン紀行 学校を建てよう

2009年04月27日 | Weblog
 2003年の4月。首都テヘランから1300キロ離れたイランと
国境を接するトルバテジャムに夕方到着した。
随行の新聞記者と、通訳の在日アフガン人のラジさんそれと神戸から
このアフガンに学校を作ろうとの呼びかけに参加した中西さん。
総勢5名である。
国境まではテヘランから車で約24時間のドライブである。
ひたすら土漠の道を走りに走った。
昼と夜の寒暖の差が激しく、太陽が沈めば寒くなり、あがれば
灼熱の状態になる。
なぜ今6年前の出来事を改めて思い起こすのか。
今世界は同時不況に見舞われて、先の不安と現実の生活の
厳しさに見舞われている。
そんな中当時、なぜアフガンまで行って学校を建てようなどと
無謀かつ、大胆な気持ちを思ったとき、人の底力という
ものは押しはかれるものでなく、また無限の力を持っている
ことをじぶん自身確認するために、もう一度まとめて見たい。

時代を受け止め

2009年04月26日 | Weblog
 さて震災後の神戸はさらに産業の復興が深刻だ。
これまであった、大手企業は神戸から撤退し、仕事
の先がない。
中小零細企業の地場産業であるケミカルシューズ業界は
中国からの輸入でもって、いまや最盛期の7割滅。
特に副都心と言われた、長田区は高齢化が進み、人口が
減っていく。
往年の活気は年を追うごとになくなっていくような
気配だ。
震災で被災を受けた地域は区画整理で新しい町並みに
なったが、この町のあったコミュニティーが
なくなってしまい。
真の街づくりはこれからといったところだが、経済が
これほど落ち込むと、街づくりというより
人が自分の暮らしを支えることすら危ない状況に
なってきた。
明日が見えない、本当に癒鬱な時代になってしまった。
仕事がなくなり、稼ぎがなくなり、借金すらできない
これまで経験しなかった、時代に今生きている。
無論、ここ神戸だけでない全国的、全世界的とも
いえる、世界同時不況の中、ここ神戸に生きる者とし
どう向かい合うのか。

生存をかけて

2009年04月22日 | Weblog
 若年者であっても、高齢者であっても今のこの時代は
本当に両者にあっても生きていくことが困難になってきた。
唯一、一部官僚たちがこの期を様々な制度を設けて、
自分たちの生きる枠作りに懸命であり、いつの時代に
あっても、役人根性というのは変わるものではない。
さて、景気浮上対策が打ち出されているが、1万2千円の
定額給付金への期待が大きいのは、この不況を反映して
おり、消費拡大、浮揚へのきっかけとなるか。
つい最近ではこのような状況に至れば、どこかで戦争が起きた
しかし、ブッシュ以降はそういった政策はとれない今の世界
になった。
益々厳しくなる今後の時代、さてどういった生き方をしていくべき
なのか。日々悩む次第でありおおきな不安を持って生きている。

この時代をどう生きる

2009年04月21日 | Weblog
 先日私の二男の就職先を知人を頼り、様々な業種の人に
声をかけ、何か仕事は無いものかと思っていたところ、
ぜひとも来てくれないかと、神戸近隣の三菱重工の下請け
で溶接の仕事があり、当面は給与は安いが仕事を教えて
くれ、そのあと、資格も取らせてくれるとの朗報が飛び込んで
来た。
 
そして面接の日取りを決めているところ
再び電話「実は、韓国籍では具合が悪く、出来れば日本名をつけて
面接に応じてくれないか」との返事。
 一瞬何のことやらと思ったが、いわゆる民族的偏見が今のこの時代
にあっても日本に根強くあるのかと思ったら、ぞっとする一面
を見たのである。
 
今から40年前あたり、私が青年のころよく味わった経験だが、
今の日本社会にまだ残るこの民族差別は根深いものを感じるが
我々在日はその中で生きていくのが現実の一面が今もって
味わうのも不思議なことだ。

自然災害から経済災害の時代に入って

2009年04月18日 | Weblog
 ようやく地震の被災から復興に向け神戸、また中越の山古志
そして能登輪島、それぞれ被害の大きさは違うにせよ個人の
生活復興の道はそれぞれ厳しいものがある中、ここの来て世界
同時不況の波が今大きくのしかかってきた。
政府の景気対策の成果が期待されるのだが、とにかくやる仕事がなくて、
若年の就職先がなくて、我が家の二人の息子、上は29歳、下は25歳
先日、長男の方は契約社員だったNECから解雇の通知をもらった。
二男はいま求職しているものの、みつからない。
先日、やっと仕事が見つかったが、労働条件がでたらめで、給与も
少なく、何ら保証もなく、むしろ勤めるために他に稼ぎをもとめなくては
ならないという有様の状況で、しかしその会社はたたみと建具の生産では
屈指の大手だが、大変に世の中が分からなくなってきた。

これまでの雇用制度は消え、またモラルも変わり安定したのは国民の
監視、管理といった官僚政治の締め付けだけが強くなり、個々の国民
生活にはあまり目を向けていないように思える。
まさに自然災害から経済災害の中に生きていかねばならないようだ。