ハラボジの履歴書

祖父が日本に渡って来なければならなかった物語を記憶に基づき
在日100年が過ぎようとしているいま書き留めておく。

今後の支援活動の行方は

2011年05月29日 | Weblog
 東日本大震災から3ヶ月を向かえようとするが被災地現地では日々変化が
続く。仮設住宅にあっては、避難所が早いところでは、6月までの解消とか、また
仮設住宅は8月末には解消とか、その逆に、まだ何も進んだことはなく、
6月に入っても、炊き出しの支援に被災地避難所に行くと言う、計画があるとか、
情報の整合性がない。
やはり、メディアの情報が、もっとも信頼され、その情報を元に、支援活動の
方向性を決めている。

 その中で、原発事故の情報が果たしてどのように受けとめればよいのか、
最近の情報が、偽装されていたとか、さまざまな憶測が言われているだけに、
その信憑性が問われている。

福島に神戸・山古志から錦鯉を泳がせたい

2011年05月14日 | Weblog
 東日本大震災から早2ヶ月が過ぎた。
被害の全容が日ごとに、はっきりとしてくるのだが、まだ、行方不明者の
捜索は行なわれている。
地震と津波、そして原発の被害を受けた、福島は、その災害の連鎖の中で
ひたすら、耐え続ける日が続くのだが、
いつ、収束するかも知れない、放射能の問題。
また、いつ、自分の家に戻れるかもしれない、まったく、予測が立たない
なかで、保障問題もまだ、将来、未来がまったくつかめないままに、月日
が過ぎる。

 そういった中で、福島に暮らす人のために、生きる命の力をとの
思いから、山古志の錦鯉を福島で泳がせたい。とのことから、
5月17日にいわき市四倉支所に二回目の訪問に伺う。
山古志の養鯉業者、田中 重雄さんと共に。

 写真 中越地震で被害を受けた、田中 重雄さん宅  2005.5画

福島県いわき市四倉町のこと

2011年05月05日 | Weblog
 四倉町は人口15000人の町、このたびの災害では海岸沿いから500メートルの範囲が8メートルの津波によって被害を受けた。
主な産業は農業で、地場産業になっていて、サンシャインとまと、イチゴ、そして米が県内外では有名で、道の駅にはこの農産物の直売場に年間30万人の人が訪れ、そして太平洋に面する人口の砂浜の町営海岸にはシーズンとなると10万人の海水浴客でにぎわう。

 しかし、そういった施設もこのたびの津波で壊滅してしまった。
地震、津波、そして福島は原発事故。災害の連鎖に苦しむ。そしてまた風評被害にて、まさに3重苦ならず4重苦の災難に今、おかれており、正しい理解の支援が必要とされる。

 我々は5月17日に山古志と連携し、錦鯉を四倉小学校に贈呈しに行くと共に、四倉町の復興への障害となる、瓦礫撤去の支援を行いに行くこととした。

東日本大震災 支援のNGO国境なき災害支援隊 出動

2011年05月04日 | Weblog
 3月11日の起きた大震災、被害は甚大で、どういった支援ができるかと、まずは神戸の人間が
真っ先に被災地現地に赴きかった。
すでに、翌日の12日には、神戸にある被災地NGO協働センター代表 村井 雅清氏の事務所を
訪ねたら、その日に被災地現地に要員を派遣したとのこと。
このたびはあまりにも規模と広域な災害であり、神戸の教訓がいかせるかとなど思ったが、我々も座して見ることは出来ないとの判断で、建築関係の業者が中心となり、復興を阻害する、瓦礫撤去の支援を行なうための
NGO国境なき災害支援隊を結成し、3月30日に南三陸町、石巻市と入った。
 思ったより、被災地の被害状況はひどくて、阪神大震災の規模、内容ではなく今後の復興への道標が示されるには、まだまだ、時間のかかる問題だと思った。
 45日を経た今もなお、遺体の捜索が行なわれており、また原発事故の収束も見えない中、未来に向かい
今、懸命な努力がなされているが、政府の迷走する対応に国民は大きな不満を感じており、強いリーダーシップが要求されている。

 この災害は長期的な周囲の支援が必要で、単に東日本だけの被災にとどまらない、日本全国に影響することにある。


     写真  南三陸町被災状況スケッチ