昨夜は同志社大学の英語。
その場で当てていく諮問形式でやってみたが、語彙不足。
まだまだである。
授業が終わり中学生の部屋に戻ると亮太(10期生・光近代塗装専務)がいる。
森下(8期生・環境学研究者)と里恵(7期生・国語講師)と盛り上っている。
ついつい・・・冷蔵庫のビールに手をかける。
あ~あ、ずっと飲んでなかったのにね。
こりゃ、往復10kmで歩く算段しなくっちゃな・・・そう、独りごちる。
里恵は家からのメール・・・日付けが変わる前に帰っていく。
森下は26日と27日の両日は研究会。
場所は伊勢の神宮会館。
日本科学史学会・・・だっけ。
翌日が早いこともあり午前2時頃に退散。
残ったのは亮太と俺の二人、いろんなことを話す。
こんな時間は久しぶりだ。
亮太が岡山理科大学に進学、岡山での生活が始まった頃。
様子見かたがた、下宿に泊めてもらったことがある。
そう、あれは10年前の秋。
今ではもう退職されたが、津西に樋口先生という熱い熱い先生がいらっしゃった。
その樋口先生のもと、亮太は甲子園を目指す。
亮太の最後の夏は順々決勝で優勝本命の海星にぶつかる。
亮太は足の怪我をおしての出場。
鈴鹿の高木病院で痛み止めの注射を打って球場入り、終了後は再び高木病院へと直行。
試合は逆転につぐ逆転で、あの年の地区予選のベストバウトだった。
プレスには「全ての試合が苦戦でした」とコメントした海星の監督だったが、身内には「津西戦が一番やっかいだった」とつぶやいたそうな。
その後、海星は三重県大会を制して甲子園に出場。
あの頃から津西野球というイメージが定着し始める。
そして3年後に佑臣(13期生・競艇選手A2級)の時代に結実。
以後、津西野球部は県下有数の部員数を誇ることになる。
今年度もまた、三重高に次いで県下2位。
しかし勝てない。
今年も年間150試合をこなしながらも2回戦で敗退。
どうすれば勝てる・・・そんな話をしながら夜が更けていく。
「今日はさすがに往復10kmは無理だな」・・・心の中でつぶやく。
ちなみに亮太は俺の津高での同級生の息子だ。
同級生の子どもと歳の差を感じることなく、何がしかのテーマで話し込み、あげく夜が開けるなんて展開、最高である。
クリックのう、何卒何卒。