ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

長崎の灰の上で

2019-09-09 | 人間考察

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この記事は、74年目の「その日」に書きたかったが、初めて読んだのが1970年代後半で、その後長い年月に埋もれてしまい、一体どこで読んだのやら思い出せずにいたのだった。ところが先週蔵書の中にきれいな藤色の表紙の懐かしさが妙に込み上げる本を偶然見つけただったこれは私の行った大学が出版したA distinguished anthology of thought, poetry and prose と言うタイトルの第五巻にあったのだった。長崎の灰の上でーある海兵隊員の日記から と題された短いエッセイである。作者は不詳だが、実際にあったことである。


長崎の灰の上で

(ある海兵隊員の日記から)


すり切れたみすぼらしい服を着た、そしてもし襤褸をまとっていたとしても、尊敬に値する尊厳を放つ日本人男性が従軍牧師のオフィスに来た。 お辞儀をして、彼は流暢な英語で話した。


「私はクリスチャンです」と彼は言った。 「あなたが私の家にいらして、私の妻のためにお祈りをささげていただければ幸いに思います。牧師は今不在でいらっしゃる、と言われましたが、あなたは彼の補佐でいらっしゃいますね。いらっしゃられますか?」


戦後の長崎で助けは得難いように私には思えた。 爆弾から四ヶ月が経ち、多くの人々が、単純に「爆弾病」と呼ぶ奇妙な病気で死にかけていた。 私はその紳士に、ジープが駐車されている所で私を待つように言った。 私は海兵隊員が効きそうな新薬について話していたのを聞いていたので、医療供給センターでそれの小さな瓶を手に入れ、それを彼の手中に押し入れた。


原子爆弾炸裂によってできたすり鉢状の窪んだ地面にそってある瓦礫の山を私達は雨の中車で走り抜けた。 それから壊れた通りの瓦礫の上をしばらく昇ってから、人々が住んでいた場所に続く屋根の開口部へはしごを使って行った。 降りたところの一部屋は寒く、ほとんど何もなく、そこに子供たちが避難していた。 別室には、笑顔を浮かべつつ、苦しみ、死にかけている女性が横たわっていた。


「まずあなたがお祈りください」と彼は言った。 私はひざまずき、慰めとなるようにと希望しつつ祈りを捧げた。 それから彼が祈った。 彼の祈りは、誠実なキリスト教信仰者の名作だった。 私は彼が多くのことを要求すると思っていた。 実際彼は多くのことを必要としていたから、祈りのすべてはー病気、袋の半分でも入っている米、冬に備えて粉々の壁の修理、温かい服などへの歎願であろうと私は思ったのだ。しかし、それは嘆願の祈りではなかった。 代わりに、感謝の意と感謝を捧げる言葉を言った。 彼は飲むことのできる豊富な水、呼吸できる空気があることを主に感謝した。 彼は自分の家族、受け継いでいる文化、そして自身の祖先に感謝を表明した。 まるで彼が世界のすべてを所有しているかのように、彼が持てる物に感謝していた。 ほとんど、彼は癒しの必要性に感謝していた。 そのような言葉が無意味だと思ったのは、すでにイエス・キリストが誕生し、復活したからである。 マタイ伝第六章八節にあるように:「。。。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」


その後しばらくして、彼は再び従軍牧師のオフィスに来た。 彼の笑顔は口を開く前にすでに嬉しいメッセージを伝えていた。 「彼女は生きています」と彼は言った。 「すべては順調です。」


「神にあの薬を感謝しよう」と私は思った。


すると「私はこれをお返したいのです。」と、私が彼に与えた小さな薬瓶をポケットから取り出しながら言った。


「おや? どうやってそれを補充したのですか?」 私は訝って尋ねた。


「彼女は回復したので、それを必要としなかったのです。私たちは祈りました、覚えていらっしゃるでしょう?」


 

 

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コメント (6)
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