二十歳の頃、日曜日には教会の託児兼幼い子供たち向けの日曜学校を教えていた私は、ある日麻疹を次々に三人姉妹の子供がかかっているのを知った。二人は回復し、妹一人は回復に向かいつつあった。そのような状態の子供を日曜学校へ連れてきた両親も、今思うと何故自宅で療養させていなかったのかと思うが、もう皆治りかけだし、という点で教会へ来たようだった。私自身はすでに小学校へ上がる前に麻疹は済ませていたし、真冬のことで風邪で休む子供も多く、結局教えたのはその三姉妹だけで、他の子供達への感染の懸念はなかった。
ところが、罹患するはずのない私が感染したと気づいたのは、7日ほど経っての週日だった。出先の東京で突然耳が聞こえなくなり、発熱し、急いでハイヤーで横浜の自宅へ帰り、床についたのだ。当初ひどい風邪だと思ったが、熱が高く、聴力を失い、両眼はひどく充血し、視力も薄れていき、そのうちに発疹が現れ、母は私をかかりつけの内科へ連れて行った。医師は、私の年齢から、その頃に麻疹の抗体が弱まることが多いので、麻疹の2度目と診断したが、やがて発疹部分の皮膚が剥け落ちるようになり、その時は、おそらくA群溶血性レンサ球菌咽頭炎になっていたようだった。つまり猩紅熱である。1998年の法改正前には、この病気は法定伝染病で保健所へ届け出なければならなかった。
その医師は発疹の皮膚が剥けること以外麻疹と全く症状が似ていて、はっきり猩紅熱と診断せずに、(法定伝染病として届けることをせず、)あくまでも麻疹の重症化として穏便に済ませたかったと今は思える。もちろん猩紅熱治療の一環として抗生物質を使用したが、医師は両親に、決して人を家に招かず、患者の私を自宅に隔離することを命じたのだった。
結局高熱は発症から三、四週間経っても続き、聴力と視力はかなり低下し、ほとんど昏睡状態であった。一日に一度摂食するかしないかで、強烈な眠気が勝っていた毎日で、たまにふと目を開けると、ぼんやりと見えるのは、心配顔の両親だった。後日母は、その頃私を失うのではないかと恐れ、父はそんなことがあってたまるか、と答えていたと聞いた。昼も夜もなく眠っていた私は、自分が今どのような状態にいるのかも定かではなく、高熱にうなされていた。ひと月はその状態でいたが、やっと抗生物質が効果を表し始めたのは五週目で、その頃には視力や聴力も大分戻っていた。両親の必死の看護で生かされてもいた。
六週目にはふらつきながらも床を離れ、少し歩くことができた。ところが人は一月も歩かないとかなり足の筋力を失い、家の周りを歩きたくなって、ブーツを履くと、足が極端に細くなっているのに気がついた。久しぶりに胸いっぱいにまだ寒い初春の大気を吸ったことがとても気持ちよく嬉しかったのを覚えている。世の中の流れに一人止まっていた時間が過ぎ去った私は、やっと医師から回復していると言われた。高熱や発疹から開放されて、顔に触れる大気の寒さがとても心地よかった。
しばらくして、罹患中の様々なことを思い起こすようになった。昏睡状態で見た夢は、どれもがはっきりとくっきりと総天然色という言葉が相応しく、また高熱にうなされて見たと思える幻視も覚えていた。二十歳で得た思いがけない流行病は、その後の生き方を多少変えるようなものでもあった。面白いことに、罹患していた間肉体的に苦痛だった覚えはなく、むしろ学びの期間であったような気も少なくはなかった。両親には大変な思いをさせてしまって、申し訳なく、また感謝に絶えなかった。
そして私が書きたいのは、その間に見た夢についてである。勿体ぶるわけでは決してないが、それは3月13日のブログに続いて書くことにする。
二十歳ほどの頃は、若くて、無敵で何者にも私は征服されない、などと言う無知なところがあったり、自分は自分で生きているなどと思いがちですが、それを諌めるかのような病気でした。罹らない方が罹るよりもずっと良いことですが、今思えば、人生にはそう言うこともあり、生きることは3Dなのだ、とわかったようなわからないようなことを教えてもらった気がします。
ご両親も本当に生きた心地しなかったと思います。
でも、ままちゃん、生き返ったようにお元気で、5人のお子様に恵まれて
そんな体験をされたようには見えませんでした。