あれはいつだったのかはっきりとは覚えてはいないが、小学生の頃、母が、Dr. Seuss(ドクタースース)のThe Cat In The Hat(邦題:「ぼうしをかぶったへんなねこ」、あるいは「ハットしてキャット」)とGreen Eggs and Ham(邦題:「緑の卵とハム」)という二冊の英語の絵本をくれた。この本は日本語にはないアナペスト韻脚*が多く使われているから、将来英詩の韻を踏むことに親しみをおぼえるだろう、などと母は思ったのかもしれない。Dr. Seussの絵本は、私の子供たちや孫たちには、役立っているとは思う。
*アナペスト韻脚とは:(anapaest or anapest, antidactylus、弱弱強格)は、詩に使われる韻脚のひとつ。英語詩などアクセントのある詩では、2つのアクセントの弱い音節の後に1つのアクセントの強い音節が続く。
ところが、この絵本を貰った時、私はすぐに、それを放り出した。「大嫌いだ」と思ったのだ。それは奇妙奇天烈な生き物ばかりだったし、色使いも不思議で、むしろかつて母自身が絵筆で描いた「かぐや姫」のほうがずっと好きだった。母は姉たちや弟と私、5人の子供たちに紙芝居に仕立てて遊んでくれたのだ。その紙芝居は今でも日本の姉が大事に保存している。
Dr. Seussは、日本でもおなじみかもしれない。クリスマスのグリンチは、もうずいぶん前にアニメィションになり、その後ずっと経ってから、ジム・キャリー主演で映画にもなった。アメリカでは今でも子供たちには好かれているし、大人もこの絵本を見て育ったから、郷愁を感ずるようである。夫もそんな一人だが、私は、どうしても未だに好きではない。それは、当初は絵が嫌いだったのもあったが、もう少し年かさになってから、知ったことが原因でもあった。
3月2日は、この漫画家作家、本名Theodor Seuss Geisel、つまりDr. Seuss(ドクタースース)の116回目の誕生日だった。これが例えば、「アウル・クリーク橋の一事件」の作者、Ambrose Gwinnett Bierce(アンブローズ・グゥインネット・ビアーズ)の6月24日の178歳の誕生日ならば、その名にちなんでAmbrosia Salad(アムブロージア・サラダ=アメリカ風のフルーツサラダで、ミカン、パイナップル、ミニチュアマシュマロを、クリームなどであえたもの。)を誕生祝いに作りたい、と私は思ったかもしれない。(ところがビアーズは1913年12月26日以来、消息不明が噂され続けて久しいので、せめて安らかにあるように、と祈りたいところだ。)閑話休題、このドクタースースはドイツ系の両親が、将来獣医になるようにと期待したが、そうはならず、その代わりペンネームにDr. を使ったと言う。彼は名門ダートマス大学へ進み、さらにオクスフォード大学へ留学した。高校生の頃からサッカーをしながら、美術にも興味を示し、やがてイラストレイター・漫画家としてリベラルな新聞社に働いた。その後アメリカ有数の絵本作家として名を挙げていった。
過去23年間、ドクタースースの誕生日は、ドクタースース事業団と共同で全米教育協会が主催するイベントである「Read Across America Day」(アメリカ全土読書の日)が毎年開かれる日である。何百万人もの生徒が参加している。
65歳未満で、スースの作品にあまり精通しておらず、子供時代(および育児期)に彼の作品に影響されていないひとはほとんどアメリカではいないことだろう。それでも、クリスマスを盗んだグリンチの作者として「聖別」されているとしても、実は暗い過去があったことを知る由もないかもしれない。例えば。。。
Green Eggs&Ham(緑色の卵とハム)には過去にいくつかの汚点ともいうべきことがある。テッド・クルーズ上院議員が2013年9月のオバマケアに反対する長丁場のスピーチで、Green Eggs&Hamの本を読んだことを覚えていらっしゃるかもしれない。アメリカのニュースミディアのひとつポリティコは、多くのアメリカ人にとってほとんど崇拝さえされている「聖なる」詩をクルーズが「濫用した」ことに反対するために、良識専門家を呼び、その意見を聞いた。とある教授は、「スースはリベラルな民主党員であり、存命ならば、クルーズ議員のような人々(つまり共和党員)に忍耐を持たないことだろう」と答えたのだった。
Green Eggs and Ham
テッド・クルーズ議員はおそらくここを何度も読んだことだろう。
しかし、スースが第二次世界大戦中に特に苛酷な方法で日系アメリカ人を侮蔑し、その誇張したステレオタイプの日系人像を描き、悪用したことも覚えておく価値はある。彼は優れた「リベラルな民主党員」であり、少年時から、FDR(フランクリン・デレノア・ルーズベルト大統領)に傾倒していた大ファンであった。それ故、スースは日本に祖先を持つ、日系人を強制抑留することに声高に大きく支持をしたのである。侮辱するためにスースは、人種的偏見に満ちた漫画を喜んで描き、出っ歯で、常に丸い眼鏡をかけた大げさなステレオタイプの日系人を好んで描いたのだった。
少しでもス―スの「名誉」のために付け加えると、日系人に対する人種差別的なヒステリアに関与したことについては戦争直後に彼は数々の試みをもって日本人や日系人への謝罪をしようとしたが、最初の機会に軍用のフィルムで日本への考え方をあらためる作品を作ったところ、マッカーサー元帥に、そこまで譲歩することはないと却下されている。その後彼はDesign for Deathという映画を製作、これを使用して、敵対する政府と抑圧された民間人との区別について非常に強力なメッセージをアメリカに送った。 この映画は、1947年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞したが、彼自身の改心をアメリカ国民に伝えようとするドクタースースの試みの始まりのひとつだった。
1954年に出版されたHorton Hears a Who(邦題:ホートン/ふしぎな世界のダレダーレ)の絵本は、反日感情に対する彼の(下衆な)役割に対する謝罪として受け止められ、未だ広く読まれている。この絵本のホートンは、非常に小さな町であるフービルでただ一人聞くことができ、「どんなに小さくても人は人だ」と宣言して、どんな小さな者でも保護することを誓う。 このように、ドクタースースの人気の子供向けの本は人は皆平等であるというレッスンを促進しようとした。そしてそれはドクタースースは、自身が学ばなければならなかったものだとよく知っていた。
そして、彼が書いた別の本「ス二ーチス」では、スニーチスたちはあからさまな差別のシンボルである。 スニーチスビルでは、彼らは他との違いが些少に表わされ、ヒューマンビルでは、彼らが差別の対象として表されている。 人間(およびおそらくスニーチスたちも)が、その見た目のために人々を差別してきたすべての時代を思い起すように、と書かれた。この物語は南部貧困法センターの「寛容教育(誰もを受け取めようという)」カリキュラムで使われ、「違い」に寛容であることを教えている。
戦前戦中の、つまり私の知らない時代のドクタースースの過ちとその謝罪を私は認めるが、自ら手に取って今晩は、彼のいくつかの絵本の一冊を孫に読もうとは思わない。夫や子供たちに任せよう。それは幼少の頃と変わらない理由、絵が好きではないからである。過ちが過去にあり、それを後悔し、謝罪することに関しては、水に落とした釘であると、私は受け止める。水に傷はないが、釘は拾われるまで水底に残る。そしてその釘をお拾いになられるのは、神以外には誰も存在しない。