E W.ブルックの作品は、ニューハンプシャー州で発見された。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホについて書くのは、これで3度目になろうか(ヴィンセントを聴きながら;ヴァンゴッホの耳その1;ヴァンゴッホの耳その2)。その他にも彼についてはちょこちょことブログの中に書いている。彼の人生や作品作風は私をもして動かす。今回も再びヴィンセント・ヴァン・ゴッホについて最新の興味深いニュースが6月3日付のニューヨークタイムス紙に掲載された。これについて書くには少々長くなるので、その1とその2に分けて書いていきたい。
ゴッホの最後の日々についての探求は、メイン州での出来事につながる、と2021年6月4日付けのニューヨークタイムス紙は伝えた。
19世紀の画家エドモンド・ウォルポール・ブルックは、美術史の中で小さいながらも耐久性のある場所を占めている。それは彼自身の作品に対してよりも、彼がヴィンセント・ヴァン・ゴッホの悲劇的な最後の日々に興味をそそることを提供するからである。
1890年7月にゴッホが自殺する前の数週間にこの二人が友情に近い何かを共有したことは、パリ北西部の郊外の村オーヴェルシュルオワーズに滞在していたゴッホが孤立を受け入れていたことを考えると、(ブルックとの親交は)注目に値する新史実とも言える。
日本で育ったブルックはオランダの画家を魅了し、インスピレーションを与えたのであった。二人は戸外写生・制作を共にしたかもしれないし、両者の関係はゴッホのいくつかの書簡に記録され、ブルックが彼の胸に弾丸を入れるかのように印象付けるようになった理由を理解するのに、今まで苦労してきたゴッホの研究者にとってはブルックを興味をそそる人物に仕立てた。
「彼は非常に謎めいた人物です」と、大阪にある大学の学芸員兼美術史教授である小寺教授(便宜上コデラを小寺とする)は、自らの研究の焦点となったブルックについて語った。 「彼はゴッホから手紙を受け取ったかもしれませんし、贈り物として絵や絵画を受け取ったかもしれません。彼らは作品を交換したかもしれません。」
小寺教授はこの10年の大部分をこの研究に費やしてきたが、その成功は限られており、ブルックに関する情報をずっと探してきた。日本のブルック由来のいくつかの墓地を訪れもし、また彼の作品がロンドンの王立芸術アカデミーと1891年のパリサロンでの生涯の作品展覧会にも含まれ、日本で少なくとも2回の個展の対象となったことを証明する記録を見つけもした。
しかし、それ以上のブルック作品を見つけることは、少なくとも今まで小寺教授を悩ませてきたのは間違いない。 すると今年の4月、リサイクルショップの愛好家であるキャサリン・マシューズは、メイン州ソーコにある個人所有資産の家具やあれこれすべてを専門とするウェアハウス839店を探し回っているときに、E.W.ブルックの署名が入った水彩画に出会ったのである。
彼女は日本女性と背負った幼児を描いたこの絵に45ドル(ほぼ5千円)を支払った。彼女は帰宅途中、どういう作品を買ったのかが知りたくて、食料品店の駐車場にしばし駐車し、iPadでこのブルックについて調べた。彼女はすぐにヴァンゴッホのつながりをそこに見て、後に夫のジョンの助けを借りてゴッホとブルックについて研究している小寺教授を知り、早速連絡を取ったのだった。
教授は、キャサリン・マシューズがおそらく珍しい、オリジナルのブルック作品を発見したと考えている。
「この作品をE.W.ブルックという名前で、日本女性と彼女に背負われた赤ちゃんとを一緒に描いた画家は他にいるでしょうか?」と教授は電話での会見で言った。 「彼以外の他の画家を想像することはできません。」
問題の絵は13x 19インチと小さく、女性は幼児を背中に背負っており、青々とした葉をつける木々に囲まれた藁葺き屋根の田舎家が背景に描かれている。
メイン州のかのショップを経営するケヴン・ケラガン氏は、ニューハンプシャー州のある家族の遺品整理販売で約15年前にこの絵を購入したと語った。その家族はもともとカリフォルニア州から来ていた。ブルックの兄弟の2人がカリフォルニア州に住んでいたので、小寺教授はそれは研究への良い兆候だと考えた。
10年以上の間、ケラガン氏が売りに出すことを決心するまで、水彩画は彼の家の壁に下げられていた。 「(当初は好んでいたがその後)絵に対する好意が薄れたんですよ。」とケラガンは言った。
キャサリン・マシューズは、ほんの数秒見ただけですぐにこの絵に惹かれ、それはその日に選んだ最後のアイテムだったと言う。 「母親の肩越しに覗く少女の小さな顔がすぐに私の目に飛びこんできたのです。」と彼女は言った。
ゴッホの最後の日々を垣間見ることができる数少ないものの中には、彼の弟テオ、母親、アンナ、妹のウィレミエン、その他数人と交換した手紙に記録されているものがある。ブルックは、ゴッホが典型的な熱狂的ペースで作品を描いた、「カラスのいる麦畑」、「オーヴェルの教会」などの絵画を作成したときからあった書簡などで言及された数少ない人々の1人である。
いくつかの手紙の中で、当時24歳だったブルックに対するヴァン・ゴッホの見方は、ブルックは絵描き仲間としては問題ないが、その才能や作風に関しては中途半端なアーティストだったとしている。
ゴッホは7月2日に弟テオ(画商であった)に宛てた書簡で、「君に彼は生気のない自作の自然画の一部を見せることだろう。」と書いた。続けて「彼はオーヴェル村に何ヶ月かいるが、日本で育ったと言うことは、彼の絵や画風からは見えないかもしれないし、でももしかしたら(君には)見えるかもしれないね。」と書いた。
ゴッホはブルックの作品のファンではなく、悪ふざけや気まぐれで有名だったが、日本について学ぶことは楽しみだった。ゴッホは 1885 年にベルギーで初めて日本美術に触れ、情熱を傾けたのだった。そして自分の工房の壁を集めた日本の版画で覆い尽くし、それらを模作したり、飾り付けたりした。時折、自分の絵の背景に現れさせもした。そして、歌川広重のような日本人画家作品を観賞して学んだことを、繊細かつ独創的な方法で彼自身のテクニックに取り入れた。
ある時点で、ゴッホの(日本や日本画への)執着は非常に深くなり、プロヴァンスの風景やライフスタイルにその(日本画の)影響が見られるようになっていた。 「私の愛する弟、君が知っているように、私は日本にいるようにさえ感じます」とゴッホはアルルに到着した直後の1888年に弟テオに手紙をそう書いた。
The New York Times
ブルックの作品は多くが存在したという証拠があるが、かつてゴッホと描いた「E・W・ ブルック」署名の作品はめったに浮上してこない。ーニューヨーク・タイムスのコーディ・ラフリン談
ゴッホの生涯は、多くの人々の心を惹きますよね。つくづく生まれる時代がもう少し後ろの方へずれていたなら、その成功を自分で見ることができたかもしれないし、違った結果が出ていたかもしれないと思うことがあります。でも、あの時代にあのように駆け抜けていったからこそゴッホなのかもしれません。このE W.ブルックについて私も調べているのですが、とても寂しいものです。いつかそれについて書いてみたいと思っています。