ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

国際結婚事情

2017-08-16 | 国際恋愛・結婚


アメリカの洗濯洗剤のCMで、妻が日本人、夫が白人が夫婦という設定のコマーシャルが, おそらく十年ほど前のことか、あった。これを見た時、そういう時代になったんだ、と少々感慨を覚えた。私が1976年に学生で来米した時だって、そういうカップルはいらしたし、第一、姉二人は1967年と1968年にそれぞれアメリカ人と結婚している。 1970年代になっても、日本の方からは、よくご両親がお許しになりましたね、とか、アメリカの方からは、言葉も文化も違うから、たいへんなことでしょう、などと言われるのが、よくあったことだったと思う。

最初に結婚した姉の場合、まず両親は反対したが、そのうちに母は、父に「それでは、この子が今以上に幸せと感じる相手との縁談をお世話できるの?」と聞くと、父はしばらく考えていたが、結局折れた。次の結婚の時は、もはや両親は、娘の意志が固く、相手が誠実であると見えたので、結婚式の計画に進んで加わった。太平洋は、ひとっ飛びなんだと思いつつ。私の時は、夫が日本語で両親あての手紙を最初にしたためた。父は「まず学業を終えることだ。」と言い、夫はそれからすぐ卒業したので、二人は結婚したのだ。

実は私の叔母も、フレンチカナダ(つまりケベック)生まれで、後にアメリカ市民となった人と結婚していた。戦後処理で滞日していた彼は、津田塾の学生だった叔母を見初め、結婚し、しばらく東京都練馬区にあったグラントハイツで子供が三人生まれるまで住んでいた。1960年代中頃に一家はアメリカ東部へ移住した。 そういう環境にあったから、かはわからないが、アメリカ人やアメリカの生活は、さほど珍しくはなく、ただ日本人じゃないだけだ程度の感覚で育った。ちなみにこの叔母と叔父は叔父の職業柄アーリントン国立墓地にそろって眠っている。

私が留学したのは、外国や外国人に対する憧れからではなくて、強いて言えば、勉強し終えて帰国後、考古学の研究をしたい(実にオタクな人であった。。。)もんだ、というゴールがあったからである。高校卒業時に「滅多やたらに結婚すべきではない」などと、級友の卒業アルバムに書きまくって得意気でさえあった愚か~な私。アメリカ人と恋愛・結婚するなどとは、夢にも思わなかった。

話は変って。夫と時々TV番組の話をするが、Dancing With The StarsやBachelorやAmerica's Got Talentではない。早寝早起き(早起きすれば、夜ぐっすり眠れるだろうと)の私は、Jimmy Kimmel Showも見ないし、ましてThe Late Show with Stephen Colbertが始まる頃には、深い睡眠中である。ではなんのTV番組か、と言うと、子供時代見たアメリカの番組である。

昔は日本では殆どのドラマやコメディや、バラエティショウはアメリカからのだった。私はアンディ・ウィリアムスショウに育てられたようなものだし、姉たちはエド・サリバンショウだった。Surfside Sixや77 Sunset StripやらHawaiian Eye、New Breedなど、毎日そうした番組があったのだ。 Sugarfootは小学校に上がるか上がらないかの頃から大好きだった。主演のウィル・ハッチンス(Will Hutchins)は1930年生まれというから、その頃21,22で、素敵なお兄ちゃんに思えたのだ。

せんだって「それでSugarfootはねえ、。。。」と話し始めると、同い年のくせに、夫はそんな番組見たことないと言う。あの時代アメリカだって今のように、たくさんテレビ局があったわけではなく、三大ネットワークと公共放送局のPBS以外なかったはず。でも知らない、と言う。貴方は一体どこの国で生まれたの? 私は特にテレビっ子ではなかったが、ちょっと、Sugarfoot知らないなんて。思い出した。邦題は、あまちゃん野郎。う~ん、これは。。。Sugarfootは元来sweetheartで、”優しい人”のほうが、ドラマに似合うと思う。あまちゃん野郎、なんて言うと、にやけている人しか想像できない。

とにかく、文化はなにもテレビ番組に限らず、様々なエリアについてであるから、日本人らしい考え方、物の言い方、振る舞いの仕方も文化の一つであろう結婚して36年、お互いに異なりに異なったバックグラウンドと感じたことはあまりない。意見の相違はあっても大抵話すことでお互いを理解できてきた。話す、と言っても私達の場合は英語と日本語である。そうである、夫は日本語の読み書きはともかく勉強したので話せる。両方が両方の言葉を使って喋ると、お互いの理解は進む。これは便利なことである。そして日本語を知らない子供達の前で、クリスマスの頃はおおいに役立った。現在は息子二人は日本に二年間行ったので、日本語をぺらぺら喋るし、一人は納豆まで好きになっている。これは困る。クリスマスの話は、こそこそする以外できなくなった。

以前小規模な海軍基地のある町に住んだことがあり、そこに勤務する海軍人と結婚している3,4人の日本人妻たちにお会いしたことがある。まだまだお若い綺麗な方々だったが、英語は得意じゃないし、面倒なのよね、とおっしゃった。どうやって意思疎通を図るのか疑問だったが、なんとなく通じる、と皆さんおっしゃる。ふーん、愛があれば、っていうことかな。すると、そのうちの一人は少し暗いお顔だった方が、もうすぐ夫と別れるのだと言った。「今朝なんて、お手洗い掃除に夫の歯ブラシを使ってやった」と言う。そ、そんな!あっちがなに言っているのかわからないし、あっちだってこっちが何を言ってるのかぜんぜんわかってないのよ、と言う。まだ乳飲み子と言える男の子を抱える若い若いお母さん。離婚したら日本に帰るとおっしゃっていたが、その後どうなされたことか。たいへんな思いをされていなければよいが。

敗戦後連合軍がやってきて、当時日本女性は多くはアメリカの兵隊さんと知り合った。結婚できずに生まれた子供をどうしていいかわからなかった女性も少なくない、というよりも、結婚して渡米した日本女性のほうが数少なかった時代と聞く。私の母はしばらく大磯の澤田美喜さんのエリザベスサンダースホームを援助していたことがあり、その時代のホームは行き所のない多くの混血児を引き取って育って、時には米人夫婦の養子縁組もあったと母に聞いた。お正月には立派な筆跡の年賀状が澤田さんから届いたりしていたが、もう今は昔の話。

それにしても、今こうして、いわゆる国際結婚と称する結婚をしている人々がたくさんいるが、また離婚もつきものであろう。文化や言葉が異なっても、気性があい、お互いを思いやっていけることは可能であるが、どこかでネジの回転が狂ってしまうことも人間だから、ある。同じ文化や言語を分かっていても、ネジの回転は狂う。どこの国の人が伴侶になっても、意思疎通を計る(たとえ言葉がハンデでも)努力、二人で協力していくこと、そして、相手を変えようとしないことが、共白髪の秘訣かもしれない。同一言葉は意外にそう重要でないのかもしれない。それにしても、Sugarfootを見ていなかったなんて。。。



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