「黒い五月」の活動日誌

ティーカップから引っ越してきました。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(9)

2017-02-21 21:18:00 | NPB
 相変わらず、基本的に敬称略で書きなぐっております。
 ついでに記憶違いとかも、カンベンしてください(苦笑)。

 そうそう、1994年といえば、すっかり忘れておりましたよ、この人の存在を!

 さて、前回より少しさかのぼって4月、BWは2人の選手の登録名を変更します。
 一人は、入団4年目のパンチ(佐藤和弘。後のパンチ佐藤)。
 そしてもう一人は――、はい、もう、お分かりですね。

 まー、すごかったですよ。
 鈴木一朗改めイチローは、入団3年目にして、大ブレイク。
 いや、ブレイクという言葉すら生ぬるいというか。
 もう、ね、目の前で起きていることが信じられないというか。
 足を振り子のように動かす打法からヒットを打ちまくるのは勿論、ちょっとでも対応が遅れれば、たちまち内野安打にしてしまう走力、その走力から長打コースと思われた当たりを涼しい顔で処理してしまう守備力、とんでもない強肩、数は出ないもののいざとなれば広いグリーンスタジアム神戸でもスタンドに叩き込んでしまうパワー――
 
 仰木監督&新井ヘッドの就任があと1年遅れていたらどうなっていたことか。

 イチローは、変人かつ気難しい一方で、人間は出来ているので、前任者をフォローしてますけど、干されていたという表現は正確ではない(少なくとも素質は買われていた)にしても、完全に人間関係が修復不可能なレベルになっていた(自ら一軍に上がるのを拒否していた)みたいですし、少なくとも上田さんと仰木さんの間で何かやってた人が、田口をイップスに追い込むわ、プライベートな部分(しかもゆうてはならん部分まで)にも口を挟むタイプの上司だったようで、考え様によっては阪急時代より待遇が悪化していた選手達に「V9さん」と陰でアダ名され、ほぼ総スカン状態だった事実を鑑みれば、監督としてはアレだったんではなかろうか、と。
 黄泉瓜のコーチで終わっていれば、外国人に「口うるさいのが玉に瑕だけど、ナイスガイ」と評され、某ジュニアに「使えねえ」と思いっきり批判されても「しょうがねえな(子供の頃からの付き合いで性格を熟知していた)」と笑い飛ばしたそこそこに有能なコーチとして名前が残っていたんだろうけどねえ……。
 そもそもあのオーナーの現在に至るまでの発想として「ぼくの巨人軍」を作りたいというのが根底にあるわけで、そこでV9さんに白羽の矢を立てたのでしょうけど、よくまあ、仰木さんたちは、そこから数年で立て直すどころか日本一まで獲ったよな(汗)。
 
 まさにすい星のごとく現れたスターに、日本中の野球ファンが釘付けになります――といいたいところなのですが、まだまだ当時の世間は結構厳しかった(苦笑)。
 この年、特に打たれまくった園川をはじめ、パ・リーグの主だったピッチャー陣は、ボロカスに批判されることに。イチロー自身も賞賛される一方で、批判の対象になっておりました(いわゆる「野球少年の教育によろしくない」ということで)。
 ええ、普段なら、話を盛るところなんでしょうけど、このあたり、かなり表現がマイルドになってます。

 なお、パンチさん、この年限りで仰木さんに引導を渡され、現役引退しております。
 数字的に見れば、同期のドラ1入団11人の中で最低レベルの大外れということになってしまいました(苦笑)。
 当人たちはそれで良かったにしても、編成担当者としては頭を抱えたというか、結構、勇気のある決断だったんじゃないでしょうか?
 イチローがブレイクしたとはいえ、あの時代のパ・リーグで、単独でお客とマスコミを呼べる数少ない存在だったのは事実ですし。
 ついでに、少なくともドラ1(2年連続で社会人ベストナイン、都市対抗でサイクルヒット=今のことろ4人しか達成していないの実績はあった)で獲得、レギュラーは無理で伸びしろは期待できないにしても1軍で年に1度2度はお立ち台に立てるレベルの選手で、一歩間違えていたら社会人野球のお偉いさんから睨まれる事態に発展した可能性もあったわけでして……。
 
 ただ、この人、持ってないように見せかけて、ヘンに持ってるんですよね。
 辞めた翌年、仰木さんの策謀によって芸能界送りにされたタイミングで、オリックスは一瞬とはいえ黄金時代を迎えるのですが――
 
 ○何せテレビやラジオの世界で数少ないオリックス(それもブレーブスではなくブルーウェーブの)OB
 ○引退時点で20代。成績下降していた微妙なポジションとはいえ、前年まで一軍の選手だった。
 ○つまり、限りなくリアルタイムのブルーウェーブ、球界一のスーパースターとなったイチローやアマチュア時代の野茂を知る人物だった。
  ○これにプラスして国際結婚しており、おそらくカタコト程度だったにせよ中国語が話せた(今はどうか知らん)

 ――といった要素が複雑に絡み合って、タレントとして非常に重宝され、現在に至る――と。
 ほんとに色々と批判(業界でもヨミウリ出身の老人を中心に嫌われてそう)されてますけど、プロ選手としての実績はともかくとしても、当時不人気の極みのパ・リーグ出身で、ちょいちょいテレビに出てる時点で奇跡みたいなもんでしたからね。
 それはともかくとして、本人は納得していたみたいな言動をとっておられますが、本心としては、たとえ2軍暮らしでも現役の選手として優勝、日本一の現場に居たかったのではなかろうか、と。

 余談ですが、この年のドラフトでは、阪神が2位で、のちに一夜にして伝説になる男を指名しております(こちらもすっかり忘れ去っておりました)。