リーメンシュナイダーを歩く 

ドイツ後期ゴシックの彫刻家リーメンシュナイダーたちの作品を訪ねて歩いた記録をドイツの友人との交流を交えて書いていく。

75. カルカー

2017年05月09日 | 旅行

2016年・ドイツ14回目の旅 No.31


        

     カルカーの原発跡が遊園地「ヴンダーランド」になっています           [Willkommen im Wunderland Kalkar]     


◆11月8日(火) 圧巻の祭壇彫刻   8086歩

 今日は、三津夫がずっと楽しみにしていたカルカーに祭壇を見に行く日。このところずっと寒い日が続いているのでとうとうブーツも引っ張り出しました。
  駅でノルトライン・ヴェストファーレン州の一日チケットを買い、クレーヴェ行きの列車に乗りました。途中の単線で行き交う列車が遅れたため、待ち合わせに時間がかかって予定したバスに乗り遅れてしまいました。「朝からちょっとついてないぞ」と思いながら、仕方がないからどこかで食事とトイレを済ませようと町に入りました。インフォメーションで聞くと近くのホテルThe Rilano Hotel Cleve Cityで食事ができるとのこと。大きいホテルなので高いのではないかと恐る恐る入ってみたのですが、三津夫の頼んだスパゲティにはしっかりとサラダがついて、私が頼んだオムレツもすごいボリューム、お腹いっぱいになりました。これに珈琲も頼んで二人で16ユーロほど。安すぎてびっくりしました。
  予定より遅れて12時8分のバスに乗り、20分ほどでカルカーマルクトです。このマルクト広場に建っている聖ニコライ教会に大きな祭壇があり、入ろうとしたら何とお昼休み。午後2時からしか見られないことがわかりました。この広場にはレストランもなく、パン屋さんがあるだけ。朝、バスに乗り遅れたおかげで長時間待たずに済んで、却って良かったのでしょう。三津夫と私の頭の中には、この近くに原発が現在遊園地になっている場所があるので、もしできたら見に行ってみたいという思いがありました。これもチャンスかもしれないと思ってパン屋さんに入って聞いてみると、バス便はなく、タクシーで10分ぐらいとのこと。そこでタクシー会社の電話番号を教えてもらって電話をかけました。
  10分ほどで着いたタクシーの運転手さんは少々難しい顔をしたおじさま。カルカーの遊園地まで往復でいくらぐらいかかりますかと聞くと30ユーロとのこと。10分ぐらいの場所にしては高めのような気もしましたがそれ以外方法もないので了承してタクシーに乗りました。細い道でしたが、町を抜けると広々した畑が続いています。少しずつ話を交わした運転手さんは、私たちが日本からやってきて、原発が稼働しないで遊園地になったことに感銘を受けていると伝えると、気持ちがほぐれたようでいろいろと話してくれました。彼もこの近くのデューイスブルクに住んでいるけれど、日本の原発事故には驚いたこと、もしここにできた原発が動いていたらどんなに心配だったかということ、地域の人たちが一生懸命反対運動をしてくれたおかげで原発が稼働せずに終わったことに心から感謝していることなど…。
  遊園地ヴンダーランド・カルカー(英語ではワンダーランド)は季節がらでしょうか閉館していましたが、外から写真(頁トップ)を写し、ホテルになっているので受付でお願いしてトイレを貸してもらいました。
 帰国してからこの建物は全く使われていなかったのか、それとも少しは使われたのか知りたくて調べたところ、ウィキペディアのコピーで申し訳ないのですが、以下の経過を辿ったことがわかりました。

 ワンダーランド・カルカー
 高速増殖炉SNR-300(またはカルカー増殖炉)は、日本のもんじゅと同時期にドイツで初めて運転される予定だった高速増殖炉である。1985年に試運転を開始したものの、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故をきっかけにそれまで継続していた反対運動がさらに勢いを増したことで、本格運転に至らないまま、ノルトライン=ヴェストファーレン州政府から運転許可の取り消しを受けた。さらに、建設コストが当初予定の18億マルクから80億マルク以上になり、原発推進の立場だった連邦与党のドイツキリスト教民主同盟は、1991年にコスト面の問題を理由に計画中止を発表した。ヘンニー・ファン・デル・モストが所有者である電気事業者から原子炉施設を買い取った後は、まず遊園地の整備が始まり、冷却塔の外壁がクライミングウォール、中央制御室がレストラン、タービン室がトイレ、消防隊室がボウリング場、そして原子炉建屋がホテルに改装された。プルトニウム燃料が入ることのなかった原子炉自体も、「原子炉内探検ツアー」が体験できるよう、底部に電飾を施して見学者を受け入れた。こうした経緯から、SNR-300をドイツの「脱原発」の原点とみなす意見もある。 ※出典は削除


  カルカー・マルクト広場に戻り、午後2時ちょうどに聖ニコライ教会に入ると、何と大きな祭壇がいくつもあることか。その中でも圧巻なのが中央にある主祭壇です。何人の兵士や馬が彫られているのか数えきれないほど。また、その一つ一つの彫刻の奥行きに感嘆するのです。(下の写真)


               

   1時間あまり撮影を続け、バスの時間だからとあわてて3時10分に教会を出ました。しかし、バスはたくさん来るのになかなかクレーヴェ行きのバス44番が来ません。よくよく時刻表を見ると学校のある日とない日とではバスの時間が違うのです。今日は火曜日で学校はあるでしょうから3時23分ではなくて39分だったのでしょう。それよりも遅れて42分頃になってようやくバスが来たので、これで帰れるとホッとしました。一日曇り空で風も冷たくて体が冷え切っていたので、もう1時間待つのは嫌でしたから。クレーヴェ駅から乗った列車は暖房が効いていて暖かく、二人ともぐっすり眠りこんでしまいました。
  夜は一眼レフで写した祭壇の写真を見てはああでもない、こうでもないと話題が尽きませんでした。作者は最初の彫刻家がデッサンをしたぐらいで急死し、後を継いだ二人目は少し彫ったところで注文主に気に入られず、3人目のルートヴィッヒ・ユパンが最後まで仕上げたといいます。1488年から作り始め、1506年に完成したというのですから大事業でした。教会パンフレットによると10の祭壇があるそうです。全部撮影できたのかどうかもわからない状態でした。近くまで行く機会のある方は是非ご覧になってみてください。

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

コメント
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