里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

世田谷の鷺草伝説

2011年11月07日 | 歴 史
世田谷区の道路の排水桝には、サギソウが描かれているが、世田谷に残る
鷺草伝説”から区の花に指定されているらしい。
そこで、予てから気にかかっていた東急世田谷線沿いの“鷺草伝説”にまつわる地を訪ねてみた。


先ず訪れたのは、世田谷城址周辺だ。

嘗ての世田谷城は、武蔵野台地の一角の南東に張り出した舌状台地先端に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る地形で、現在の豪徳寺付近に本丸を置き世田谷城址公園付近まで城域が拡がっていたものと考えられているらしい。

豊臣氏勢に接収されて廃城となった後に、多くの石材は江戸城改修に利用されたらしいが、
今は嘗ての世田谷城南東端の郭を中心とした一画のみが城址公園として整備され、南北方向に延びる細長い土塁とその間を隔てる堀や一段高くそびえる郭が残されている。

(公園の平面図は左下の通り)

吉良氏は、成高の代に世田谷城を構えて同地に土着し、子の頼康は北条氏綱の娘と結婚して北条氏の傘下に入ったが、天正18年(1590年)に豊臣氏の小田原攻略により世田谷城も廃城となった。
“サギソウ伝説”に登場するのがこの頼康だが、親の苦労を知らずわがままで、戦国時代を生き抜く器量がなかったらしい?
次に世田谷八幡宮を訪れた。

源義家が奥州の内乱を取り鎮めた頃に記念に建てたと伝えられる神社で、
吉良頼康が天文15年(1546年)に社殿を再興し吉良家の祈願所としたが、世田谷城西方の守りを固める為の出城としての機能を合わせ持っていたとも言われている。

社殿は文化10年(1813年)の建築で、現在の社殿の中に収めてあり、
 ・応神天皇
 ・仲哀天皇
 ・神宮皇后
が祀られている。
源義家の時代から行われている奉納相撲が有名だそうだ。
最後に豪徳寺を訪れた。

豪徳寺は、一族の吉良政忠が世田谷城内に叔母を弔うため創建した弘徳院が前身であり、
隣接する吉良家の菩提寺である勝光院内には、吉良一族の墓があるそうだ。

今回は時間がなかったので、東急大井町線の九品仏駅周辺の、一方の主役が住んだ奥沢城(吉良頼康により築かれ家臣の大平氏が守った城)やサギソウ園がある九品仏浄真寺を訪れる事が出来なかったが、次回に改めて訪れる事にした。

鷺草伝説
 戦国時代の世田谷城主吉良頼康は色好みで12人もの側室を置いていたが、
 九品仏城主大平出羽守の娘常盤姫を見染めた。
 姫はいやおう無く差し出される事になり、可愛がっていた白鷺と一緒に城にのぼ
 る事になった。
 所が、寵愛を受ける姫を妬んだ側室達が
 「出羽守殿(姫の父親)が謀反をたくらんでおり、常盤殿は城の秘密を白鷺を使
  って知らせている」
 と、あらぬ噂を流した。
 この噂を信じた城主は直ちに常盤姫と白鷺を追放したが 常盤姫はこの時身重で
 実家へ帰るに帰れず、白鷺に遺書を託し自害してしまい、
 白鷺は九品仏を目指したが、途中で鷹狩りに出会い殺されて多摩川の川原に落ち
 て死んでしまった。
 いつの頃からか、その川原一帯に白鷺に似た花が咲き乱れるようになり、人々は
 “鷺草”と呼ぶようになった。