里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

書写山

2009年02月19日 | 
昨日は、里山講座で“書写山”へ行って来た。


場所は姫路駅の北々西。 標高の低い山だが、山頂には西の比叡山とも呼ばれる
円教寺という天台宗の有名なお寺がある。

何でも、その昔、この地に桜の木があり天人が舞い降りて礼拝していたのを見て、
性空上人がその生木に如意輪観世音を刻んで本尊とし、その上に本堂を築いたのが
始まり、という言い伝えがあるというので楽しみにしていた山だ。 
(バス下車)

日吉神社の石碑のそばで下車。
(いざ、出発)

石碑の脇の路地を北に進む。

前方に鳥居が見えるが、
その背後の山の更に後方に書写山があるらしい。
幸いお天気も良く、一同ご機嫌だ!
(日吉神社)

小さな神社があったが、歩くだけの講座なので例によって通過するのみ。

もっと周囲の色々なものを楽しむ事があっても良いと思うのだが、せっかちな講座だ!
>(書写山への道標→参道)

直ぐに書写山への登山口に到着。

「円教寺まで18丁」の道標が立っている。 約2kmだ。
ここから既に円教寺の寺域らしいが、やや急な参道をひたすら登る。
(十妙院)

参道をほぼ登りきった所へ十妙院があった。

円教寺第106世實祐(中興第1世)の住坊であったが、正親町帝より十妙院の勅号を賜ったそうだ。
この東側には同じつくりの壽量院もあるらしい。
>(摩尼殿の側面→正面)
暫く進むと、摩尼殿という立派な建物が石垣の上に建てられていた。
石段を上がって正面にまわってみると、一部が石垣からせり出していて、清水寺とまではいかないものの荘厳なつくりだった。
創建は天禄元年(970年)だそうで、その後、大正末期に失火で全焼したが昭和8年に再建されたという。
(山頂へ)

摩尼殿から更に山頂を目指す。
(白山権現)

登りきった所は平坦で小さな祠があった。
>(山頂→登頂万歳?)

祠のそばの立ち木に、山頂を示す標札が掲げられているが、実にあっけない。

周りは立ち木が多く下界を見下ろす事も出来ない。 早々に下山だ。
(山 門)

書写山ロープウェイ山上駅の脇を下って行くと仁王門があった。
通過して見上げると、
「康保3年、性空上人の創建にして花山天皇の勅願所なり、元弘3年後醍醐天皇船上山より還幸の途中本寺に行幸駐輩あらせられる處なり」
と書かれていた。 
(眼下の眺望)

黄砂の為か少し霞んでいるが、眼下には姫路の平野が一望できる。
>(下山路の岩盤→振り返っても)

下りは、岩また岩のかなり急勾配だ。
角礫凝灰岩といい、火山の爆発で吹き飛ばされた流紋岩などの破片が火山灰に閉じ込められて岩になったものだそうだ。
>(書写山→ロープウェイ拡大)

ようやく麓に到着。
山陽道の高架の先に書写山ロープウェイの山上駅が見える。

杵屋でお土産に“柿姿”を購入し、恒例の温泉に向かう。
(ウェルサンピア姫路ゆめさき)
今回は、夢前(ゆめさき)川沿いに北上した所にある、厚生年金事業団が経営する宿だ。
相変わらず広大な敷地に大きな建屋が建てられているが、未だ売られてはいなくて事業団が経営しているそうだ。
「大安売り」される事のないように念じながら汗を流した。
何はともあれ「極楽、極楽」の一日だった!

天台宗
6世紀末、中国浙江省の天台山において開かれた仏教の宗派で、平安時代に最澄が
比叡山に伝えた。

書寫山圓教寺の由来(円教寺のHPから引用)
・康保3年(966)性空上人によって開かれた。
・元徳3年(1331)雷火の為三之堂と周辺の諸堂焼失。
・天正6年(1578)秀吉乱入し本陣とする。帰途仏像その他多数持ち去る。
        この頃まで27000余石の寺領を有していたが、秀吉によりすべて
        没収。500石だけを施入される。
        後1000石になるが、江戸に入り833石となる。
・明治元年(1868)明治維新、833石と境内を含む山全体が国に没収される。
・昭和16年(1941~1945)太平洋戦争により荒廃。
・昭和25年(1950)年「文化財保護法」制定により、昭和26年より、大講堂解体
        修理、同31年完成。続いて金剛堂・食堂・常行堂・壽量院・護法
        堂修理。防災工事。その他県指定8棟、未指定塔頭寺院等5棟修理。
        近年ようやく、仏像の調査と一部の修理が始められるようになった。
・現在、史跡地に指定された境内は約18㌶と言われ、東西に1kmの細長い形で、
 山間を利用して建物が点在している。      



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